第8話
実験当日。会場は盛況だった。
サウナスーツを着た学生が何人も、指示に従って体操をしている。作業の手間が掛かるのは主に提携先の研究室の方だが、こちらもこちらでなかなかに忙しい。私は回収したタオルをぽいぽいとランドリーボックスに入れた。
場所は大学の体育館。タオルを回収する様子を見られても困るので、パーテーションで視界を切ったバックヤードで作業を行っている。
見慣れぬ男子学生が作業場の内側に入ってきて、軽く会釈をした。
「引き取りにきました。どれでしょうか」
「すまないね。あれを頼む」
私は古海君が綺麗にタオルを詰めたプラボックスを指した。こちらのタオルは一つ一つ、番号の振られた保存袋に入っている。助教の研究室のメンバーはそれを台車に載せて運んでいった。
「あちらの協力態勢も万全だな」
満足そうに獅子角が言った。
「ああ。外資系は動きが速いな。おかげですぐにカタがついた」
「そうか」
うんうんと頷いてから私にそっと聞く。
「後学に聞いておく。どうやった?」
私は預かった名刺を獅子角に返した。
「これの本社はアメリカだ。当然、母国の学者とは繋がりがある」
「ふむ」
「だからその線を使って助教の招待主達に協力を求めた。具体的には、寄付に彼等からのメッセージを添えて貰ったんだ」
「どんなメッセージだ?」
「彼の一番弟子が会合に出席することへの期待を。もちろん、高名な日本の教授へのご挨拶という形で」
招待主側にはアメリカの学会においても一流と目される人物が揃っている。受け取った教授は、所属の大学名だけで圧倒されただろう。
獅子角が人の悪い笑みを浮かべた。
「成程。教授からすれば、突然自分より格上の人物から釘を刺されたことになるのか。まさかその状態で駄々をこね続ける訳には行くまい」
「ああいう人物は自分達のヒエラルキーに敏感だからな。そこを突けばさしたる苦労も無い」
文面には注意を払った。脅しを背後に含みながら、巧みに老教授のプライドをくすぐるように。それを読んだ教授は、『助教への理解ある指導者』という立場に甘んじた方が今後の自分にとってプラスであることを悟るだろう。
関係者全てに損の出ない着地点だ。
愉快そうに笑った後で、獅子角は一つの疑問を口にした。
「だがこの程度で事が済むなら、助教が自分で助けを求めれば良かったのではないか?」
私は首を横に振った。
「いや、それでは駄目なんだ。助教が目上の人間を自分のトラブルに巻き込んだことになるし、大学側とのしこりも残る。外部の存在である企業が自分達の都合で強引に話に割り込んだ。そういうストーリーの方が話は丸く収まる」
話し合いを動かすには、力を入れる方向を間違えてはいけない。効果の無い側からではびくともしない物事も、正しく押せば指先一本で動きだす。
「そうだ」
私は獅子角にメモを渡した。
「ここまでの経費だ。それなりにはかかったが、予算内に納めている」
獅子角がちらりと数字を確認する。
「研究施設を丸ごと一つ、人員付きで半年レンタル。給与は不要」
ふんと息を吐く。
「倍額でも安いぐらいだぞ。お前はもう少し自分の才能を自覚した方が良い」
「ああ、だからタダでは動いていない」
私の返答に獅子角は微妙な表情を見せたが、それ以上は何も言わなかった。
「えど先生、手が止まってます」
バックヤードに戻った古海君が口を尖らせて言った。
回収したタオルに霧吹きで水をかけ、十分湿らせてから手早く保存袋に入れる。番号の確認、毎回の手袋の交換もきっちり行っていた。ミスの無い、なかなかに優秀な動きだ。
「ああ、すまない」
そうは言いながら、しかし私の作業量は大したことがない。男性陣のタオルは日帰り温泉よろしく回収用のボックスに入れるだけだ。後でまとめて洗濯し、校内の清掃業者に使用してもらう予定になっている。一部は学生会の清掃用具にも回されるだろう。
「なんだか、作業量が不公平じゃ無いですか?」
「女性が使ったタオルを扱うなと言ったのは古海君だろう」
だからこんな風になってしまっているのだ。極めて論理的な私の反論に納得する様子を見せず、古海君は不満そうなままに質問をぶつけてくる。
「この間も疑問だったんですけど、どうしてそこまで女性に拘るんです?」
不審の目も露わに私を睨む。
いや、そんなことを言われても。きちんと理由のあることなのだ。
「商品としてのターゲットは女性だ。同性の肌に棲んでいる細菌の方が相性は良いだろう。それに、商品価値も高くなる」
何度も繰り返した説明だったが、しかし彼女はむくれた表情のままに言った。
「えど先生、なんか性差別的なコト言っていません?」
「差別的なのは私じゃ無くて消費者だよ」
今後のことを冷静に考察した結果なのだ。古海君はあらぬ誤解をしているようだが、断じて邪な気持ちでこんなことをやっているのでは無い。
そうこうしていると、タオルを回収した狩尾君が作業スペースに入ってきた。
「はい、瑠佳ちゃん」
古海君にタオルを渡す。ついで私に近寄り、笑顔で記録用紙を差し出した。
「よさそうです~」
私は簡単な感想が記された用紙を確認した。タオルを渡すとき、狩尾君に肌の質感や体臭の感じなどをチェックして貰っているのだ。肌の状態・体臭共に問題なし。香水で誤魔化しているようでもない。有望そうなサンプルだ。
「そんなものを嬉しそうに見て……」
古海君が心底嫌そうな顔をした。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。私のどこが嬉しそうなんだ」
研究のために必要な資料だとあれほど言ったのに。被験者の状態が分からなければ、保有する細菌との比較が出来ないではないか。
「えど先生って、そういう人だったんですね。知りませんでした」
古海君はどうにも私に対する思い込みがある。そう言いたかったが、狩尾君までが無邪気な口調で言い添えてきた。
「でも、えどせんせー なんだか授業の時より楽しそうです~」
私は心の中で、その言葉を必死に否定する。
違う、違うのだ。確かに獅子角からの頼みであるゆえ、少々熱が入りすぎているかも知れない。しかし、別に楽しんでこんなことをやっているのではないのだと。
悶々と悩む私を尻目に、獅子角がバックヤードを好き勝手にうろつく。
「ふむ。汗の臭いというのは個人によってどの程度違うのだろうか。これまで真剣に調べたことは無かったが」
真剣な顔で積まれた袋の一つを開け、臭いを嗅いだ。手つきから、サンプルを汚染しないよう気を遣っているのが見て取れる。
「むう。臭いな」
「うわぁ。本物の変態さんっぽいです、あの人」
「いや、獅子角のは純粋に科学的な好奇心だ」
別の袋を開けた後、獅子角はゲホゲホとむせ込んだ。
「これは強烈だ」
「女子の汗は匂わないって信じている男性、結構いますよね」
なぜか古海君がどや顔で私に囁く。
「臭いですよ。普通に」
私は首を傾げて疑問を呈した。
「だが匂いがしても、やはり女性の方がマシな気がするな。慣れればなんとかなる。あれはどういった作用なんだろう? 男の臭いなんてひたすら気持ち悪いだけなのに」
何気ない発言だったが、それを聞いた古海君の機嫌がみるみる悪くなった。
「えど先生まで変態みたいな事っ!」
背を向けた古海君の代わりに、狩尾君が私をたしなめる。
「えどせんせい、そういうコト言っちゃダメです~」
ここまで話に加わっていなかった獅子角が、落ち着いた様子で袋のチャックを閉めてから考察を述べ始めた。
「確かに匂いに関する快・不快は個人的な要素が大きい。嗅覚とは要するに微少物質をキャッチしてそれをスキャンする機能だ。自分にとって有害な物質が含まれている可能性が高いと判断したとき、脳はそれを不快な匂いとして認識する」
そう言いながら別の袋に手を伸ばす。
古海君にはああ言ったが、一般的な人間の想像外という意味において、獅子角は十分変態的である。真面目な表情を変えぬまま臭いを嗅ぎ、そして言った。
「だが問題は、有害という概念が意外に幅広い点だ」
「有害な物質は、誰にとっても有害に決まってます」
古海君の言葉を獅子角が否定した。
「そうとばかりは言えん。例えば年頃の女性は父親の匂いを嫌がるようになる。近親相姦を防ぐためのシステムだ。長期的に見て遺伝情報を傷つけるような行為は生命体にとって『有害』だが、それは組み合わせによって発生するものでしかない。万人に共通している要素ではないのだ」
思考を進めた獅子角は、大真面目な顔で話を続けた。
「むしろ一番分かりやすいのは排泄物だな」
古海君がぎょっとした顔をした。狩尾君がそそくさとバックヤードを出ていく。
パーテーションの向こうから「タオルをおわたししま~す」という舌足らずな声が聞こえてきた。
「人間、自分の出した排泄物の匂いを嗅ぐのはあまり抵抗がない。もともと体内にあった物質や細菌が原料であることを考えれば、多少吸い込んだぐらいで危険は無いという判断を脳が下すのは合理的だ。一方、他人のそれにはほとんど毒物に等しい反応を示す。これもまた、極めて合理的かつ適切な判断だと言える」
またそういう話を。
実感として理解しやすく、おそらく真実なのだろうがコメントに困る。
「逆に言えば不快な臭いなどというのはあくまでも個人の感性だ。他人の匂いが気に入らないと拒絶するのは、ある意味では人権侵害の一種でもある」
「今、スメハラってすっごく問題なんですよ。不快な臭いが近くにあると気分が悪くなるし、健康にだって良くないんですから」
古海君が誠に健全かつ現代社会における標準的な感性によって獅子角に反論した。しかし駄目なのだよ。私は古海君に同情する。残念ながら、獅子角にそんなものは通用しないのだ。
「人間の匂いは主に皮膚からの分泌物とそれを分解する細菌によって生じる。ある意味それは個人の資質、個性の一種だ。自分が気に入らないからという理由で、他人の身体にある細菌を入れ替えろなどどと主張するのは立派な人権侵害ではないか」
「べつに細菌を入れ替えろなんて言ってませんっ!」
「だがそれは実質的に同じ事なのだが。いや、待て」
獅子角が暫し考え込む。
俯いた顔が上げられ、私に視線が向けられた。
「江戸里、仮にだ」
「ん? なんだ」
「人の体質はそれぞれ異なる。そして、保有する細菌も互いに異なる」
「ああ、当然だろう」
「一歩考えを進めよう。中には相性の悪い組み合わせがあってもおかしくない。握手をして皮膚の菌を交換すると手が荒れる、同じ鍋を突いて体内の菌を交換すると腹を壊す、そんな関係だ」
そんな話は聞いたことがない。そう思ったが、一応記憶を探ってみる。確か、病原菌のキャリアと呼ばれる存在があったはずだ。
「有害な細菌を保有しても大丈夫な人がいる、という話は効いたことがあるが」
保有はしているが発症しないタイプの人々。彼等には自分が感染症に罹っているという自覚が無く、そのために却って病気を広めてしまうという。
「いや、例外的な存在を語っているのでは無い。むしろ万人それぞれにとって有害な菌と無害な菌は違い、誰もが互いにそれを保有しているという仮定だ」
例えば、と私は考える。ほとんどの人にとって無害な細菌が、あるタイプの人にとっては致命的であるという事例はある。一般的にそれは特別な人だけの症例と考えられているが、もしもそれが誰しもにある持つ特性だとしたら。
「妙な例えだが、ゲームなんかでは火に弱いとか水に弱いとかの属性がセットされていることがあるな。言ってしまえば、あんな感じか」
「面白い表現だ。そうだな。水に弱いタイプの人間が、水タイプの細菌を保有している人間と接触すると体調が悪化する。そう言った組み合わせの話だ」
なるほど。そういった関係性が無いとは言い切れない。確かに、隣に居るだけでどこか落ち着かなくなるタイプの人間というものは存在する。
「今まで誰も真面目に調査しようとはしなかったが、細菌に関する知見が増えていけば、そういったものが見つかる可能性がある。職場で隣に座る人の保有する細菌と相性が悪いため、理由が不明のまま体調不良を訴えているような症例が」
私は考慮の結果、その考えを肯定した。
「空想のレベルではあるが。個人による体質の差異が存在する以上、意外と世の中のどこかでは起きているんじゃないか」
獅子角が満足げに頷いた。
「さらに考えを進めよう。先ほど述べた通り、悪臭とは嗅覚センサーが身体に対する危険を感じとっている状況に他ならない。だとすれば、悪臭を発している人間とは、それを感じる人にとっては危害を加える予備軍なのかも知れん。異臭を我慢していることによる苦痛に加え、実際に接触すると保有する細菌フローラを破壊されるという、言わば二重の脅威に晒されている訳だ」
「ま、まあ。それも可能性が無いとは言わないが」
「だとすれば先ほどルカ君が述べたように、悪臭を発する人物は検査にかけるべきで、その保有する細菌が多くの人に有害と判明した場合、公共の場での活動を禁止して隔離病棟に閉じ込めるべきだという意見が科学的な根拠を得るかも知れんな」
「わたし、そんなこと言っていませんっ!」
「むう? 論理的にはそういう結論になる筈だが」
単なる理論のドミノ倒しのような、あるいは意外に正鵠を射ているような話を獅子角は続けた。
「伝染病の原因となる菌を保有している人間の活動に制約を課すのは法的に認められている。だとすれば保有する常在菌が他者に悪影響を及ぼすことが科学的に立証された場合、社会の倫理はどのように変質するか。なかなかに興味深い」
私はもしもの仮定を続けてみる。今までそういった細菌の存在は知られていない。しかしそれが、誰もそれを調べようとしなかったがために見過ごされていただけだったとしたらどうなるだろう。もし、科学の発達によりそういった事実が見つかったとしたら。
「あなたと接触すると菌の影響で肌が荒れる」「体調が悪化する」「だから私に近付かないでください」そんな会話が当たり前になっていくのかも知れない。
まるで小学生のイジメのような言動だ。しかし、もしそれに科学的な根拠が付随することになってしまったら。
私は首を横に振った。
「分からないな。個人と権利と公共の福祉のバランスに対する評価は、言ってしまえば好みでしかない。新たな科学的知見によって、社会の道徳が変質した事実は過去にもある」
「実に面白い。考え方の枠組みを変化させるだけで、全く違う倫理が構築されていく。やはりこの分野には将来の社会を変える可能性がある」
そいつは過大評価というものじゃないのか。
そう思いながらも、何か私の脳裏に引っかかるものがあった。だとすれば。
「えど先生、また手が止まってます」
思考が形になる前に、古海君の声で現実に引き戻される。
「すまん」
「もういいです。お望み通り女子のタオルを触らせてあげますから、こっちも手伝ってください」
まったく、なぜ古海君はこうも私を女性の汗フェチだと断定したがるのだろうか。私は言われるがままに、袋詰めの作業を手伝い始めた。
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