第5話

 翌日。私は大学の事務局へと向かった。

 大学という組織から見ればまだまだ新参者である私は、生き残りのために様々な雑用をこなさなければならない。教授や助教、事務職員、そして学生。あちこちから点数を稼いで自分の有用性を証明しなければ、あっという間にこの環境から放り出される立場だ。

 よって誰もが下らないと感じる会議の出席依頼が引きも切らない。代理の代理。下手をすればそのまた代理などという立場で椅子を暖めるという単純なお仕事だ。せめて時給換算してくれればまだ許せるのだが、なぜか私の報酬について講義のコマ数以外の要素が考慮されることは決してない。


 事務局の会議室には、既に五人ほどの先客がいた。顔見知りに軽く会釈などしつつ、私は指定の席につく。本来は教授からの意見を聞くための会議。事務局側の本音としては、私ごときが来ても意味は無いと感じているだろうが、その点は曲げてご了承願うしかない。


 普段ならば苦痛しか感じない類いのセレモニーであったが、今日に限っては事情が異なる。私は諸々の準備を整えた上で会議に臨んでいた。これからの筋書きについても、十分な検討済み。

 この手の真似事をやるのも久々だった。意外なことに、気分はそう悪くない。

 目的意識を持った行動というものは、どんなものであれ気分を高揚させてくれるものである。


 ぽつぽつと人が集まり、直前の不参加連絡が幾つか告げられる。

 学生には色々小言を述べるくせに、センセイ方というのは時間にルーズな人物が多い。本来の時刻を十五分ほど経過したところで、ようやく開催が宣言された。

 私は配られたプリントを眺める。まだまだペーパレス化は進んでいない。表題は『八号棟周辺の掲示物に関する対策について』と書かれていた。

 お決まりの挨拶の後でだらだらと事務局が内容の説明を始める。議題そのものは単純だ。サークル棟付近でのポスターの貼り方が余りにも無秩序であるため、一度撤去して清掃し、今後は貼り方に規則を設けたいというだけの話。

 本来ならばただの雑務でしかなく、事務局が勝手に進めれば良いような案件である。にも関わらず、わざわざ会議が開かれているのには理由がある。


 伝統ある我が校には、やや旧弊に属する思想に基づいた政治的主張を表現するポスター類が所々に残っている。時代的には安田講堂とかそういった思想の流れをくむ、私が生まれる遥か前に貼られたであろう化石としか思えない過去の遺物。

 そして問題なのが、長命を誇る日本の教授陣の中にはそれらにノスタルジアを抱く奇特な方が生存しているという事実である。事務局としては、彼等に何の断りも無いまま撤去を行って後々不快の念を示されても困る。そのため是非とも事前に方針のご了承を頂きたい。というのがつまりこの会議の趣旨である。

 ところがほとんどの教授にとってそのような事はどうでも良く、過去に対するこだわりを抱いている少数派の教授も正式の会議でポスター撤去に反対するような発言を残したくはない。さりとて言われるままに承諾するのも癪という次第。

 そのため参加を要請された各教授は軒並み格下の代理を派遣する。そして決定権を持たない代理の参加者達は誰一人明確な意見を述べようとはせず、余計なことをして上役に睨まれまいと逃げ回るのだ。

「その件は持ち帰りまして」

「教授の考えを伺わないと」

 ぐだぐだとした話し合い。いや、それ以前に話し合いの体を為していない、単なる言葉の応酬が続く。。

 私はその間、ずっと沈黙を保った。自分から動いて目立ちたくはない。


 進まない議題に、やがて発言が途切れ始めた。沈黙する会議室。最悪の時間の無駄としか言いようがない。

 このままあと三十分ほど粘れば時間切れで解放される。そんな空気が無言のまま広がる中、状況に耐えきれなくなった事務課長が私に視線を向けた。

「江戸里先生の考えはどうでしょうか。これまで発言が無いようですが」

 とりあえずの場繋ぎ。事務課長にそれ以上の考えなど無かったに違いない。弛緩した空気の中、私はゆっくりと椅子から立ち上がった。

「では個人的な意見を述べさせて頂きます」

 これは自分の考えであって、本来ここに来るべき教授のそれではないことを明確にしておく。

 誰もが早く帰りたいと思っている会議室を見回した後、簡潔に意見を述べた。

「私としては、ここでポスター撤去を決定することに反対です」


 講師の立場を弁えないような明瞭すぎる発言に、事務課長が慌てる。

「いやいや、一帯の惨状は放置できないんですよ。ポスターの上にポスターが貼り重ねられて、下は腐っているようなところもある。衛生的にもよろしくないし、そうそう、万が一火災でも起きたら大変だ」

 事務課長は学校の上層部からの指示を受けている。彼にとってポスターの撤去は至上命題であり、事実上の決定事項だ。自分達の提案が潰されてはかなわないと思ったか、慌てて私の発言を打ち消しにかかる。


 私はその誤解を解くために、タイミングを計って発言を再開した。

「いえ、撤去すべきでないという意見ではありません」

「は? しかし今、先生は」

 混乱する事務課長。私は真面目くさって御題目を唱えた。

「私が述べているのは、大学は自治の場であるという原則です」

 古典的な建前。現代日本において大学の自治などという理念と、それを支える気概がどれほど残っているかははなはだ怪しい。しかしながら大学内部の会話ルールにおいて、大真面目に言われたそれを否定することは許されない。


「まあ、確かにおっしゃることはわかりますが」

 いきなりの原則論に事務課長はますます困惑する。

 私は友好的な雰囲気を醸しつつ言った。課長の不安を解くために。

「あれらのポスターを貼ったのは学生達です。だとすれば彼等を無視して大学側が決定するような話ではない。むしろ学生自身が決定すべき内容ではありませんか?」

 ポスターを貼ったのは確かに学生だ。

 問題のそれを貼ったのが『過去の学生』であり、現実の彼等は既に老人であろうとも、概念としては私の言っていることが正しい。

「つまりは、学生会に一任するべき案件ではないかと思います」

 私の発言に、事務課長は気乗りのしない顔をした。課長としてはなんとしても撤去の方向で話をまとめなければいけない。学生会に話を投げて現状維持の結論を出されてはたまらない。そう考えているだろう。


 そこで私はさりげない一言を追加した。

「ゼミの学生を通じて接触してみましたが、学生会においても清掃の必要性は認識されているようでした」

「は、はあ」

「むしろ定期的に清掃を行い、各サークルにポスター掲示のルールを徹底させた方が良いという意見が主流だとのことです」

 当たり前と言えば当たり前の話である。現役の学生達にとってあんなものは何の価値も無い。毎年のサークル募集や学祭の度に、ポスター掲示スペースの割り当てが必要となっているのだ。大学側の合意を得て、おおっぴらに撤去できるならばその方が良いに決まっている。

「どうでしょう。清掃用具やボランティア募集の予算を渡して、彼等に処理してもらうというのは。業者に委託するよりも安価に収まると思いますが」

 撤去の方針が確定的であることを示唆したところ、事務課長の態度が目に見えて軟化した。

「なるほど、なるほど。確かにそれは」


 会議室のあちこちから賛同の声が聞こえてくる。

「確かに自治の原則は大事ですね」

「ええ。我々が強引に決定するのは筋が違うような気がします」

 この会議で実際に求められているのは、『自分の責任にはならずに』ポスターの撤去という方針が決定されることだ。その点、学生会の決定に従うという提案は理想的だろう。

 ざわめきが収まりかけたタイミングで、私は再度の発言を行った。

「いかがでしょうか、教授」

 視線の先には、本日この場で唯一人教授の肩書きを持つ人物がいた。たしか、文学部哲学科に所属していたはずだ。

 私の意図を察した教授が鷹揚に立ち上がる。

「大学は自治の場であるという原則。それに立ち戻ることは重要ですね。学生達が自ら決定した内容ならば、我々が口を差し挟む必要はないでしょう」

 私は感謝の念を示してから着席した。


 これで会議は事実上終了だ。事務課長が必要としていた『教授側』の言質を得ることができ、全ての形式は整った。「事務課長と教授の間で話し合いが行われ、そこで結論が出た」議事録にはそう書かれるだろう。

 集団の意志決定とは得てしてこんなものである。

 ゼミでの講義で語ったことはあくまでも初歩的な内容に過ぎない。現実に存在する団体の意志決定に影響力を及ぼしたいのならば、表面的な主題に拘るよりむしろそれぞれの参加者の前に置かれたカードの中身を推測する方が効果的だ。参加者が内心望んでいる方向に少し誘導しただけで、後は話が勝手に流れていく。

 学んだ知識の応用とそれを利用した実践、といったところだ。


 会議の残る時間、私は再び口をつぐんだ。講師風情が必要以上に出しゃばったというイメージを残したくは無い。

 今後の無駄な会合は無くなり、懸案だったポスターは撤去される。参加者全員が幸せになる素晴らしい結末。手間ばかりかかる案件がすんなり終わり、事務課長はほっとしたはずだ。私は計画通り、次の一手を進めることにした。

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