第3話
私の名前は江戸里 友行。
関東の端にある、理化学系ではそこそこ有名な大学の講師をしている。
姓は「えこり」という珍しい読み方をする。大抵の人には読めず、そのためか一部の学生は私のことを「えど先生」と呼ぶ。親愛の情の表れ、と考えたいところだが、実際のところ少々舐められているというか、軽く見られているだけのような気もする。
とは言え、嫌われるよりはずっとマシなのだろう。講師というのは不安定な立場だ。授業の評価が低ければあっという間にクビが飛ぶ。なんだかんだで私は雇用三年目を迎えることが出来たが、この業界ではかなりの幸運に属する事例である。
新たな環境に溶け込み、自らの地歩を築いて生き残る。
それはいつだって難しい事なのだ。
私はゼミの記録をまとめる作業もそこそこに学食へと向かった。
「すまん、待たせた」
そう言って私が席に着くと、獅子角はぱたんと手持ちのPCを閉じた。
「気にするな。突然押しかけたのはこちらだ」
学食の隅に位置する四人掛けテーブルの上には、ミネラルウォーターのペットボトルだけが置かれていた。
私が自分の前に置いたコーヒーカップを見て、獅子角は顔を顰める。
「よくそんなものが飲めるな。試してみたが、煮詰まり過ぎだぞ」
学食のコーヒーなんてそんなものだ。おそらく淹れてから数時間が経過していると思われる茶色の液体を私は啜る。一種の薬だと思えば支障は無い。
「それで、話というのはなんなんだ?」
私は周囲を見渡しつつ聞いてみた。
時間帯が遅いとは言え、学食の中はそれなりに賑わっている。学生同士の遠慮無い話し声。この中ならば、多少変なことを話していても目立ちはしないだろう。
「うむ。どこまで話をしたかな」
「細菌と触れあうとかなんとかだ」
「ああそうだ。繰り返しになるが、人間が生きていく上で細菌は必要不可欠な存在だ。先ほど江戸里が言ったとおり、腸内フローラの重要性は徐々に認知されつつある。しかしそれでも過小評価がいいところである上に、取り扱いは非科学的そのものだ」
そこで獅子角は一度話を転じた。
「因みに、人間の体内にどれだけの細菌があるか知っているか?」
私は首を横に振る。そんなことについて考えたこともない。
「諸説在るが、人体を構成する細胞は数にして四十兆から七十兆。それに対し、細菌は百兆から千兆あると言われている」
さすがにその話には驚いた。
「人間自体の細胞より多いのか」
「ああ。もっとも細菌は真核細胞よりもずっと小さい。重量で見れば、二キロ程度といったところだがな」
私は自分の体重と比較してみた。それぐらいなら感覚的にも納得出来る。
「それにしても結構な量だな」
「ああ。人体最大の臓器である肝臓ですら体重の二パーセント程度。それに対し細菌の総重量は体重の三パーセントに迫る。総体として見れば、一つの臓器よりも身体に及ぼす影響は大きいと考えるべきだ」
なるほど。そう言われるとちょっと説得力を感じてきた。
「にもかかわらず細菌に対する人々の関心は薄い。だとすればここに巨大なビジネスの可能性が潜んでいる。人々がその重要性を認識すれば、巨大な市場が出来上がるに違いない」
参考までに記しておくが、獅子角は半端でない金持ちだ。
投資に関する才能は余人の追随を許さないレベルにあり、学生の頃から金に糸目をつけない生活をしていた。資産の総額を聞いたことは無いが、私などには想像を絶する額に達しているはずだ。
よって、本来はビジネスなどというものを行う理由が無い。
金は既に持っている。仮にそれをもっと増やしたいというなら、今まで通り株式チャートでも眺めていれば良いのだ。実業などという手間がかかる上にリスクも大きい領域に資金を投じる必要性は皆無なのである。
しかしこの男は、そういう行為が好きでたまらないのだ。
本人も常々「株式などというものは詰まらない」と公言し、稼いだ資金を考案した企画に突っ込んで散財するという行為を繰り返している。
高尚な趣味と解すべきか、それとも金持ちの無駄遣いと評すべきかは難しいが、獅子角自身の金である。私としては好きにしてくれとしかコメントのしようがない。そもそも経済理論によれば溜め込んだ金を吐き出す行為は社会にとってプラスとなるはずであるし、使いもしない金をただ積み上げるのは病的な行為でしかない。その意味で、この散財は獅子角の感覚がまだ正気を保っていることの証明だとも言える。
「しかしなあ」
今回持ってきたビジネス案なるものに対し、私は疑わしげな評価を下した。
「腸内細菌に関する研究ならば、既に大手が幾つもやっているんじゃないのか?」
各種の健康食品、健康飲料。思いつく会社は幾らでもある。獅子角の資金力ならばある程度の会社ぐらいは購入できるのかも知れないが、流石に最大手と個人で張り合えるレベルまでは行かないはずだ。多分。
「今から参入して、勝ち目があるのか?」
私の疑問に獅子角はにやりと笑って答えた。
「江戸里の言う通り、腸内細菌については競合相手が多い。だが一つ盲点がある」
「盲点?」
「体表の細菌だ。これらも肌の健康や体臭に影響する可能性は高い。研究に値する分野なのだが、こちらについては事実上の手つかずだ」
身体の表面。
「つまり、皮膚の常在菌か。まあ、確かにあまり商品を見たことはないな」
私は携帯を取り出して検索をしてみた。
「化粧品なんかでは、幾つか常在菌の保護を謳ったものがあるな」
「そうだ。まだまだそのレベルでしかない。百花繚乱と言うべき腸内細菌の分野とは雲泥の差だ」
私は首を傾げる。
「しかし、既に着目している企業はあるだろう。それを出し抜くとなると普通の方法では駄目なんじゃないか? それこそ革新的なアイディアでもなければ」
獅子角が笑みを広げる。
「江戸里、二十四時間風呂というものを知っているか? 風呂の湯を循環させるやつだ」
話ぐらいには聞いたことがある。確か、湯船にポンプとヒーターを入れて湯を使いまわすものだったと思う。私からすれば、あまり衛生的に思えないのだが。
「あれは面白いものでな。使うと湯があっという間にドブのような臭いになる時と、意外にも長期間気にならない時がある。上手く行った場合は、一ヶ月近く水を交換しなくてもさして気にならん」
はあ、という感想しか出てこない。
獅子角のことだ。わざわざ購入して試してみたのだろう。
「循環風呂はある意味、細菌の繁殖容器に近い。嫌な臭いになった時はおそらく人体にとって有害な菌が多く繁殖している状態だ。だが臭いが気にならないということは、バランス良く、健康に悪影響を及ぼさない細菌が生育した環境を構築出来た可能性が高い」
臭いだけでそう判断するのは早計のような気もしたが、一応、言っていることは分からないでも無い。
「毎日全身に塗る分量の化粧品を買うとなれば大変だ。しかし、毎日風呂に入るのを面倒がる日本人は少ない」
なんとなく、私にも話の筋が見えてきた。
「やり方としては、こんな感じか。まず肌の健康に良いとか、体臭を抑えるような効果を持った細菌を見つける。その上で、それを風呂に入れる」
「入浴剤のようにな。そうしたらヒーターで湯の温度を保って細菌の繁殖に適した環境を維持すればいい。ついでに循環用のポンプを使って不要物を濾過する。そうすれば風呂に入るだけで体に有益な細菌を付着し続けることが出来る」
確かに、理屈上ではそういうことになる。
「お手軽かつ効率的に全身ケアが可能だ。風呂桶サイズの美容器具を新規に設置するとなれば一部の金持ちぐらいしか出来んが、この手法ならばほぼ全ての家屋で使用可能、という点もポイントだ」
なるほど。今時、風呂の無い家など滅多にないだろう。人の身体全体を収められるサイズの入れ物と、それに対する湯の供給・排水システム。本来ならば装置として一番大がかりな部分が既に設置済みなのだ。
「しかし単純と言えば単純なやり方だな。なぜ誰もやっていなかったんだろう」
「二十四時間風呂などというものが商品として成り立つのはこの国だけだ。だからこんな簡単な手法なのに、誰も思いつかなかったのではないか」
なるほど、だから盲点か。まあ、そういうこともあり得る。
溜めた湯に身体を沈めるという文化が無ければ、そんなやり方は想像の外だろう。こんなことを考え出せるのは日本人だけなのかも知れない。だとすると、世界展開をするには問題があるかも、などと私はつい真面目に考えてしまった。
「概略は分かった。しかしだ」
私は先ほど自分が感じたことを口に出してみた。
「率直に言って細菌まみれの風呂というのは、あまり気持ちよく思えないんだが」
獅子角は、分かってない、とでも言いたげに首を横に振った。
「それは旧来的な思考と言うものだ。そもそも、そのあたりのプールには塩素でも浄化しきれない量の細菌が溢れている。首都圏近郊の海水浴場ならばもっと多い。だが、その中に喜んで飛び込む人間が幾らでも居る」
「……それはそうだが」
「言っただろう。発酵と腐敗は同じ作用だ。人々が生きた菌が入っていると宣伝されるヨーグルトを喜んで喰うのを見ていれば、実のところ『細菌がそこに在るか無いか』などということは問題でないと容易に理解できる。気にしているのは単なる印象だけだ。一度プラスのイメージさえ作ってしまえば、非論理的な綺麗・汚いなどという感情はあっさり逆転させることが出来る」
う、うーむ。一応、獅子角の論理には隙が無い。最低限度の筋は通っている。
「皮膚は共生菌が存在しているおかげで守られている。下手に除菌しまくると却って正体不明の黴やら病原菌が繁殖する切っ掛けにもなりかねん。温泉の効能は酸やアルカリなどの成分よりも、むしろ他人と共通の湯に入ることで多彩な体表菌を交換する点にあるという研究結果もあってな、繰り返すが細菌との接触を忌避するのはむしろ非科学的な行為で―――」
私は降参のしるしに手を挙げた。
「分かった、分かった。それで、今回の希望は一体何だ?」
事業とやらの方向性は概ね分かった。
それはそれとして、獅子角はわざわざ私のところに相談に来ている。事業とやらが全てが順調に進んでいるのならば、こんなことろに足を運ぶ必要は無い。ということはつまり、どこかでトラブルが起きたのだ。
私は冷めかけたコーヒーを啜る。
「有望な細菌を見つけるには分析手段が必要だ。そのため先日、細菌の培養器やPCR検査測定器などを買い込んでみた」
PCR検査測定器というのは何かと聞いてみたら、要するに遺伝子を分析するための装置らしい。一体幾らするのだろうか。そもそも簡単に素人が扱えるものでもないだろうに、とりあえず買ってしまうところが獅子角らしい。
「そうしたら、妙な男達が訊ねて来た」
「妙な男?」
「ああ。いきなり家宅捜索だ」
思わず含んだコーヒーを噴き出しかけ、私は盛大に咽せる。
「どうもあの手の機械を強引に買うと警察にマークされるらしい。まったく、秘密厳守の約束を守らんとは。あの業者はもう使わん」
あー、なるほど。
当然と言えば当然ながら、細菌を培養して遺伝子分析するような機械を集めたら警察にチェックされるに決まっている。テロ対策だから、下手をすれば公安だ。
一般市民の私としては、真面目に購入履歴を報告した業者と怪しげな動きをちゃんと調べて対応してくれた公務員の方々に「ご苦労様です」と感謝を述べたいところである。
「そこで協力を頼みたい。さしあたりはこの程度だ」
そう言って獅子角は私にリストを差し出した。機器と薬剤。スペースと人手。
「これが全部必要だと?」
「最低限だ」
要するにまだスタートラインにも立てていないということではないか。手元にあるのはアイディアだけで、実際にそれを動かすためのリソースが全く揃っていないのだ。
「いくら何でも多過ぎだろう。こんなにか」
「別に問題はあるまい」
獅子角は表情を変えないままに言った。
「お前ならなんとか出来る筈だ。だからここに来ている」
ここで私と獅子角の関係について述べておきたい。
前述のように、獅子角はやたらと変な思いつきをしてはそれを実行したがる。
本気で商売にするなら、それこそどこかの企業に売り込んだ方が早いと思うのだが、この男はそういった選択をしない。
言ってみればこれは獅子角にとっての生き甲斐、趣味のようなものであり、情熱と時間と金を掛けて自分自身がそれを行うことに意味があるのだ。
だがしかし、獅子角は世事に疎いという欠点がある。
金を払えばそれでおしまいになるような話はともかく、細かい交渉や根回し、準備といった作業は苦手だ。今回のように微妙に法律に抵触するような領域は鬼門と言えるだろう。
その一方、私は大学の関係者である。
大学という肩書きは凄いもので、普通では入手できない資材などでも割と簡単に手配できる。もちろんそれらを部外者に横流しをしたら犯罪だが、犯罪にならない程度に話をまとめる方法など幾らでもあるものだ。
付け加えて言えば現在の私はしがない大学講師であり、懐には常に寒い風が吹いている。獅子角には腐るほどの金があるが、私が持つ大学内のパイプは無い。これらが化学作用を起こした結果、獅子角が何やら奇妙な頼み事を持ってきて、私がその解決に奔走するという事態が生じてしまうのである。
私は暫しリストを眺めて思案した。
「機器を個人的に所有する必要は無いだろう。レンタルでもいいか? とりあえず半年ぐらいを目安にして」
「ああ、構わん」
「だとしたら学内でやった方が早いな。助教を買収……説得する。それなら研究室の設備をまるごと使える。バイオ系で一人心当たりがあるから、接触してみよう」
「それで頼む」
「助教の上に座っている教授も黙らせる必要があるな。結構かかるかも知れんぞ」
「うむ。見積もりを出してくれ」
余談ではあるが、私の見積もりを獅子角が拒否したことは一度も無い。適切な措置には適切な費用の支払いを惜しまないという点については、満点に近いクライアントでもある。
そういえば、と私は思い出した。
「さっき言ってた培養器やPCR測定器は、まだ手元にあるんだよな?」
テロリストの疑いをかけられたとしても、金を払って購入した物品を公安に没収されたわけではあるまい。
「ああ」
「この状況で機材だけ抱えても意味は無いだろう。どうせなら根回しのため、大学への寄付にするというのはどうかな。金よりも効果的で、話がすんなり進む」
「好きに使え」
「不自然にならない出所が欲しい。使える名刺はあるか? 出来ればバイオ系に関連しているところがいいんだが」
獅子角は自身を無職などと自称することが多いが、世間的な評価であれば紛れもなくファンドマネージャーの名が冠されるだろう。業界では知る人ぞ知るという存在で、あちこちの会社と付き合いがあるらしい。
仕事の内容上、他には言えない秘密を知ることも多く、ストレートに表現してしまえば多数の会社の弱みを握っているのだ。
「幾つか候補がある」
獅子角は外資系製薬会社の名を挙げた。懐から名刺の束を出すとひょいひょいと五枚ほどを抜き取り、カードゲームのように机に並べて見せる。
「いいな。理想的だ」
私は並べられた名刺を眺め、うち三枚を自分の手札にした。三枚目の会社名と記された役職名を確認していると、獅子角から補足が告げられる。
「先月、そこの連中に多少の世話をした。若干の無理なら頼めるぞ」
獅子角の言う世話とは、億を超える単位の資金運用についてなにがしかの貸しを作ったという意味である。そして若干の無理を頼めるという表現は、傍若無人の限りを尽くしても相手は泣き寝入りするしかない状況、という意味だ。もちろん心優しき平和主義の私としては、彼等に必要以上の損失を与える気はない。
「なに、そんなに難しい話じゃない。寄付主として名前を借りるだけだ」
よしよし、なんとかなりそうだ。
私は脳内で計画をまとめる。丁度良い。まずは事務課長を丸め込んで―――
「えど先生。何の話しているんですか?」
背後から突然声をかけられ、私は飛び上がりそうになる。
振り返ると、日替わりランチをトレイに載せた古海君が私を見下ろしていた。
「えどせんせい、どうもですー」
パンの袋を持った狩尾君が、私に向けて片手を振った。
「や、やあ。どうしたんだい?」
無理矢理に強ばった笑顔を作る。どうやって誤魔化すかを考え出す前に、古海君がどこか厳しい顔で質問をぶつけてきた。
「えど先生こそ、どうかしたんですか?」
口調こそ穏やかだが、いい加減な逃げを許して貰えそうにない目つきだった。
「なんだか変なこと言っていましたけど」
迂闊だった。
なんだかんだ言ってもここは学内だ。もう少し慎重になるべきだったのだ。
獅子角の悪だくみに付き合っていると、どうしてもこう、なんと言うか後ろ暗い陰謀に手を染めているような感じになってしまう。
「い、いや。その、だね」
しどろもどろになった私を、古海君は静かに見つめる。
「失礼します」
彼女はそう言ってトレイを私たちの隣のテーブルに置いた。
「えど先生、ちょっといいですか」
強引に呼ばれ、私はすごすごとそれについていく。私の更に後ろから、てくてくと狩尾君がついてきた。
別に謝罪すべき事など何もないし、学生に呼び出されるような理由も無い。しかし彼女の雰囲気には、有無を言わせぬ何かがあったのだ。
「誰ですか? あの人」
獅子角に話し声が聞こえない距離を保ってから、古海君はそう言った。どこか詰問の響きがある。
「噂で聞いたことありますよ。時々、先生が怪しげな人物と会ってるって」
私は精神的に三歩ほどよろめく。
「瑠佳ちゃん、人を見た目で判断するのは良くないよ~」
至極真っ当な狩尾君の批判には耳を貸さず、彼女は私を睨んだ。
しかしこの場合、外見で決めつけた古海君の方が正鵠を得ているという点が、世の中の難しい所である。キツい口調を崩さないまま、古海君が私に尋ねた。
「あの人がそうなんですか?」
獅子角が私に妙な話を持ちかけて来たのは初めてでは無い。この大学に来てから二回目、いや三回目だったか。そんなときは構内を連れ立って歩いていたこともあったと思う。
とは言え、まさか学生の間で噂になっていたというのは予想外だった。私としては出来るだけ目立たぬよう、穏便に進めていたつもりだったのだが。
「買収するとか名義を貸すとか。あんまり穏やかじゃない内容に聞こえるんですけど。どういうコトでしょうか」
そこまで聞いていたのか。
「大丈夫、彼は学生時代の友人でね。投資関連の仕事をしているんだ」
事業の相談を受けているだけだ。美容と健康に関する研究をしたいため、大学側と接触したいと望んでいると手短に話をする。
その内容は決して嘘では無かった。いやもちろん、正確な説明でも無いのだが。
ふーん、と応じた彼女は疑わしげな表情を崩さなかった。
「分かりました。悠里、ごはんにしよ」
「はーい」
そう言って二人は私達の隣のテーブルに向かった。
「ふ、古海君?」
「学食の席は自由のはずですよね」
獅子角の視線がちらりと二人に向けられる。
古海君は獅子角に礼儀正しくお辞儀する。
「初めまして。えど先生……江戸里先生のゼミ生をしている古海 瑠佳と申します」
「どうも。俺は獅子角という。江戸里の友人だ」
「後で先生にレポートを見て頂きたいので、こちらで待たせていただいてもよろしいでしょうか?」
何を言い出すんだ、何を。
しかし私の心の叫びが声になる前に、獅子角が鷹揚に頷いてしまっていた。
「ああ、構わない。こちらの話は気にしないでくれ」
二人は平然と私達の隣に座り、古海君はチキンカツを行儀良く食べ始めた。
どうしたものかと私は悩む。不法行為をしている訳ではないが、学生の前ではどうにもやりづらい。しかし獅子角は私の困惑などお構いなしに、話の続きを促した。
「分析と培養についてはその線で頼む。次に肝心の菌だ。有望そうな細菌を入手しなくては始まらない」
こうなっては仕方が無い。私は開き直って獅子角との話に集中しようとする。
「目処はあるのか?」
「いや、さすがに手探りだ。まずは適当な被験者を集めて細菌を採取し、手当たり次第に調べてみるところからスタートする」
随分と遠い道のりに思えるが、仕方の無いところだろう。
「商品のターゲットは女性だ。となれば、菌も女性の身体から採取するべきだろう。肌が綺麗で、体臭を感じない女性を集める手段が欲しい」
ぴくり。
聞き耳を立てていた古海君の箸が止まる。視線はランチの皿を向いたままだが、内面の怒りは明らかに私に向けられていた。
いや、確かに獅子角の台詞はなにやらセクハラと女性蔑視めいて聞こえるかも知れないが、商品開発としては当然の考え方なのだ。イデオロギーを捨てて謙虚に考えればそれが分かる。
いやそれよりも、なぜ私が怒られなければいけないのだろうか。なんとか話を科学的なイメージの中に引き戻そうと、空しい努力を試みる。
「細菌を採取する手法はどうするんだ?」
「肌が湿った状態で、脇の下、首筋、脚の付け根、この辺りを拭いて採るのが適切だ。可能ならなんらかの手段で汗をかかせたい」
ご丁寧に獅子角はゼスチャーを含めてその説明をした。
「若い女性からとなると、他から見えないスペースなども確保せねばならん。そういった場所に連れ込むのも意外と簡単ではなさそうだ。細工が必要だが、江戸里、何かいい考えはないか?」
ぴきり。
どこからか音が聞こえた気がした。
「えどせんせい」
古海君がゆっくりと顔を私に向ける。貼り付けたような微笑み。
「学生会で問題にされたくなかったら、詳しくお話を聞かせていただけませんでしょうか?」
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