サタンの調べ

千本松由季/YouTuber

サタンの調べ

 博樹(ひろき)が大学から帰って来た音がする。彼は俺の部屋に来ると、コンピューターを覗き込む。

「青司(せいじ)、なにこれ、鬼?」

「これはな、サタン。角は生えてるけど鬼じゃないよ。悪魔に近い」

「鬼ってなに? 悪魔ってなに? なにがどう違うの?」


 それは困難な仕事だった。俺はグラフィック・デザイナーとイラストレーターの中間みたいな仕事をしてるんだが、何度描き直しても、クライアントがなかなかオーケーを出さない。

「これは青山に新しくできる、サタンっていうクラシック・バーのロゴ」

「クラシック・バーなんて今時、誰が行くの?」

「クラシック・ファンだろ? ドイツ製の凄いスピーカーが入るそうだ」

「そんなの誰がわざわざ聴きに行くの?」

「スピーカー・マニアだろ?」

博樹は体育大の三年生で、芸術関係にはやや疎い。


 俺はサタンについては相当時間をかけて調べたつもりだ。先方の気持ちが分からない。

 この仕事を持って来てくれた、広告代理店の担当者から電話が掛ってくる。

「あちらが一度、青司さんに会って話したいそうで」

俺もその方が話が早いと思って承諾した。さっそく明日、まだ造りかけの店で会うことになった。


 ベッドの中で、俺はずっとサタンのことを考えていた。もともとは天使で、神のお使いだった。しかし、神に背いて堕天使となり、色々トラブルを起こす存在になったんだ。エデンの園で、イヴを騙したのもサタンだと言われている。

 半分、眠りかけの時に、博樹がベッドに入って来る。いつものように、長いネグリジェを着ている。俺は男が女装するのが好きなんだ。特に博樹みたいな体格のいいヤツが女装してるのがそそるんだ。なぜかは知らない。

 彼は、今夜はなぜか俺から離れて寝ている。いつもなら抱き付いて眠るのに。

「なんでお前、そんなに離れてんの? 俺、なにかした?」

「今日、バスケットボールやってて、突き指して痛いから」

「だから?」

「今夜はセックスできない」

「なんで?」

「だって、触れないし、握れないし……」

「他にできることもあるだろう?」

「ダメダメ!」


 足でヤツのネグリジェを蹴ってみた。すると意外な質問が帰って来た。

「さっきのサタンっていう人はさ、世の中に一人しかいないの? それともピカチュウみたいにたくさんいるの?」

俺はその質問が可笑しくて、しばらく笑っていた。

「……サタンは一人しかしない。でも人じゃないぞ。羽が生えてるだろう? もともとは天使だったんだ」

「なんでお店にそんな名前を付けたいんだろう?」

「明日会うから聞いてみるよ……それよりほんとにやらせてくれないのか?」

「うん」

「鬼のようなヤツだな、お前……どの指?」

「人差し指」

 博樹からなにやら香水のいい匂いがする。俺のやりたい気持ちに火を注ぐ。彼はさっさと眠ってしまった。人の気も知らないで。


 マフラーを忘れてきたのを後悔するような冬の日だ。クライアントと初めて会った。意外と小柄で地味な印象の男だった。海外のバーテンダー・コンクールに入賞したりだの、華やかな経歴ばかりを聞かされていた。彼の背は俺より十センチは低い。俺は博樹ほどではないが、ガタイはいい。

 夜だったから、造りかけの店は薄暗く、誰もいなかった。

「外に置くライトの点く看板と、店の中の一番目立つ所に大きなロゴを入れたいんです。」

 カウンターはもうできていて、それは深いグリーンのマーブルだった。大分イメージが湧いてきた。


 店の中はまだ暖房していないので、俺達は近くのカフェに入った。

「どうして店の名がサタンなんですか?」

俺は一番最初に聞いてみた。

「私の苗字なんですよ」

「まさか!」

彼はノートに、「佐譚」という字を書いた。

「学校で色々いじめに会いましたよ、この名前のせいで」


 俺は佐譚氏に、ロゴを見せた。コンピューターの画面で。

「翼はこれでいいです。角も大分イメージに近くなってきたんですが……なにかが違う」

彼は首を傾げた。サタンの姿は古今東西、様々な時代の絵画にあらわれている。普通は、ヤギみたいなヒツジみたいな角が生えている。全く角のないものもある。

 俺は少し言い訳をした。

「歴史上、色んな絵が残っているから。決め手がないんですよね」

ウェイターがコーヒーを運んで来た。俺は持っていたノートにサタンの絵を描いてみた。


「あー、それですよ!」

佐譚氏は大きな声を出した。

「CGより手描きの方がずっとイメージに近い」

 それから俺は、いくつもの手描きのサタンを描いて、彼と相談して一番いいものに決めた。俺がそれを明日中に仕上げて渡すことになった。店がオープンするのは、もう来週だ。


 家に帰っても、さっきのコーヒーで眠れない。描いている間、うっかり三杯も飲んでしまった。

 博樹はもうベッドの中にいる。もう眠っているのだろうか? と思ったら、そうではなかった。

「ねえ、なんでサタンていう店なの?」

「オーナーの苗字が佐譚ていうんだ」

「マジで? どんな字?」

俺は佐譚氏にもらった名刺を見せてやった。

「この人、ほんとに鬼みたいな角が生えてるの?」

「そんなわけないだろ?」

 博樹の突き指は治ったのだろうか? だが俺の目は冴えていて、あんまり気分が乗らない。


 どうせ眠れないし、佐譚氏の言った言葉を忘れないうちに、サタンを描いてみた。手書きだと線の細い印象になる。確かにこの方がビンテージ風の味が出る。クラシックの流れるバーには丁度いい。

 博樹が起きて来る。俺のアトリエに入って絵を覗く。いつものと違うネグリジェを着ている。いつもは白いんだけど、今夜のは薄いラズベリー色をしている。香りもすっぱいフルーティーなものに変わっている。

「これは外の看板と店の中の装飾になるんだそうだ。看板はクルクル回って、ライトの色が変わるんだって」

「へー、凄いね!」

 俺はますます目が覚めて、熱心に絵を描いている。サタンの顔、角、身体、翼。博樹は横に座ってそれを見ている。

「お前、突き指は治ったのか?」

「まあまあ」


 佐譚氏にどんな曲が好きなのか聞いてみた。単純に社交辞令のつもりだった。そしたら、彼はクラシックを熱く語り出し、一番好きな作曲家はショスタコーヴィチだと教えてくれた。名前は聞いたことがある。でもちゃんと聴いたことはない。作曲家のことを調べた。千九百六年、ロシア生まれ。


 俺はYouTubeで聴き始めた。小難しい、暗い調子の曲だった。佐譚氏の枯れたような雰囲気にはよく合っている。

 天使だったのに、神に背いて堕天使になり、色んな悪さをしたサタン。でも俺の絵は悪魔っぽくない。怖くもない。左右対称で、静かになにかを考えている風だ。翼を半分広げて。これがクライアントの注文だった。


 サタンは神から追放されて、幸せだったのだろうか? ふと、俺は考えた。

「博樹、お前、幸せか?」

「なんで今、そんなこと聞くの?」

「いや、いいんだけど、ちょっと思って」

「幸せだよ、俺は。青司と一緒にいられて」

「……店ができたら一緒に行こうな。そのスピーカー、聴いてみたい」


 博樹の指も治ったみたいだし、俺もやっと眠くなってきたし。時計を見たら、もう一時を過ぎていた。歯を磨いてもう寝よう。ショスタコーヴィチは、どんどん深刻になっていく。俺は音楽を止めた。

 眠い頭でサタンの絵を見たら、なんだかほんとに翼を広げて、空に飛んで行ってしまいそうな気がした。



                            (了)

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