逃げる軍師
土曜の午後、学内はひっそりしている。土曜は十七時には退出しなければならない。しかしあと二時間のところで作業を中断して、教授はお茶をいれてくれた。
そのとき、寝不足気味だった
「君は妹さんを、大切に思っているのだろう」
この教授は怜悧という言葉がぴったりの外見をした、長身の男性だ。定年まで十年を切っているはずだが、見た目は悪くない。しかし女子学生の評判はよろしくない。男女の性差で特別扱いをしないからかもしれない。そのため、偏屈という評判が立ちがちだったが、旭は教授を尊敬しており、ゼミも取っている。
「大切に思いすぎるがゆえに、そんな夢も見るのではないかね」
教授の指摘は間違っていなかったが、さすがに、本当に家に大きい白蛇がいるんです、と旭は言えなかった。そんなことを言えば頭がおかしいと思われるに違いない。
「先生も、そういう夢を見ますか? たいせつなものをなくしてしまいそうな……」
教授は、ふむ、と顎を撫でた。
教官室の大きな作業机の角を挟んで、ふたりは顔を合わせている。しかし教授は、ふいと視線を動かした。自席を見ている。旭もつられてそちらを見た。
教授の机には、ラピスラズリの塊がある。海外で手に入れたものだそうだ。両手で持つのがやっとの大きなもので、磨かれていないのでざらついている。
「夢とは、睡眠中に記憶を整理するさいに見る幻覚だ」と、教授はラピスラズリから旭に視線を戻した。「だから、私がたびたび見る夢も、そういうものだ、……と、思っているが……生まれてこのかた、まったく心当たりのない内容ではある」
「まったく心当たりのない?」
旭は首をかしげた。
教授は、わずかに微笑んだ。いつも無表情な顔がそのようにほころぶと、暖房の入っていない室内でも、ふしぎとあたたかくなるようだった。
「ああ。……まるで、何かの物語のようだ……夢の中の私は……」
……夢の中の自分はまだ少年で、自分の住んでいた家が燃えるのを、町を、国を、見ている。両手首に縄を掛けられて引きずられるようにしてその場から離れながら、何度も繰り返し振り返って、燃えさかる炎を眺めている。
生き残った者たちと一緒に引きずられるようにして数日歩いたのち、荒野に張られた陣で、大きな男の前に引き出された。男は軍を統帥し、自分の国を焼き払って滅ぼした張本人だった。彼は自分に、不老不死の霊薬について尋ねた。
以前から、母国には不老不死の霊薬があると噂されていたようだ。それは、実際にあった屍生術が、人の口にのぼるにつれ、形を変えて伝わっていたらしい。
知らない、と答えると、打ち据えられた。やがて齟齬に気づき、屍生術について語ったのでひどい拷問は受けなかったが、男はそれを聞いて残念そうな顔をした。それでは意味がない、と。死んだあとに蘇るのではなく、死なせないことを求めているのだと。
そんな方法はないとはっきり答えた自分に、彼は興味を持ったようだった。殺されると覚悟をしたのに、彼の天幕へ連れていかれた。
それからしばらくのことは、あまり憶えていない。なぐさみものにでもされたのかもしれなかった。行軍のときは首に縄目をかけられ、男の馬に曳かれた。馬が足早に駆けると死ぬ思いをしたが、すぐに気づいて男が馬上に抱え上げた。そんなふうにして、男の国に連れていかれた。打ち据えられた体のつらさが消えたころに到着した。
王である男は自分を奴隷として扱った。しかし自分が、亡国の重臣、施政者に用いられた学者の息子で、ひととおりの学問を修めていると知ると、考え込んだ。
男の国に着いた日、奴隷扱いの自分を相手に、彼は取引をした。おまえの国の生き残りも同行させている。その者たちを殺されたくなかったら、おまえの持つ知識をすべて我が国の者に伝えよと。
実際に、生かされていた者たちに引き合わされた。男も女も、あわせて十何人か、暴行の跡が残る身を隠す衣類も満足に与えられず、家族も国も失いさんざんに打ちのめされた暗い顔をしていた。自分を見ると、ハッとしたような顔をした。その顔にはさまざまな表情が浮かんでいた。助けてほしい。あるいは、自分たちが苦しんでいるのに、充分な衣類や食事を与えられているのは何故か。裏切ったのか。そんな顔だ。
かれらと違って傷は癒えて衣服も与えられている自分にできることなど、少ししかなかった。王に、かれらを奴隷ではなく、王の民に準じる扱いをしてくれるなら要求はのむと伝えた。王は寛容で、傷つけられた同胞は衣類や権利や仕事や賃金や自由を与えられた。
それでも自分は奴隷として扱われ、王の求めに応じて知識を伝えた。自分の知識が王にはめずらしかったようだ。基礎的な学問はすべて修め終えていたので、自分は文字の読み書きも数字を用いる計算も容易だった。屍生術を知っていたのはその延長である。王は遠国でも通用する文字や数字の扱いを知りたがっていた。隊商とやりとりをするには、どうしても知識が要る。だが、知識が豊富な者が乏しいのだと、彼はぼやいた。
自身ができずとも、学者扱いの者にできるようになればよいと考えていたようだ。引き合わせられた学者らしき者たちは、若年の自分とさして知識の度合いに差がなかった。王の前で、お互いに知っていることを教え合った。それは、とても楽しかった。
しかし、しばらくすると王は、飽きた、と言った。
力ある者に倦厭されれば、奴隷として扱われる自分の命は尽きたも同然だ。そう思った。同胞が市民として暮らしていけるならそれでいいとだけ考えた。
終わりだろうと覚悟したが、王は自分を殺さなかった。手をくだす価値もないと思ったのかもしれない。
あるとき、王に宮殿の別棟に連れていかれた。そこにいたのは赤毛の幼児で、濃い青い瞳をしていた。ラピスラズリのようだ、と思った。
王はその子を、正妃とのあいだにもうけた二番めの息子だと紹介した。そろそろものを話せるはずなのにまともな言葉を発せず唸るばかりで困っている、もう少し使いものになるようにしてくれ、と言われた。驚くばかりだった。
乳母や世話係がすることではないのかと思ったが、乳母は病でとっくに亡くなり、特定の世話係もおらず、日替わりで下女がめんどうを見ていると告げられた。母である正妃は長子の兄を可愛がり、父親である自分に会わせないようにしている。だから王としてはこちらの息子に跡を継がせるしかないとぼやいた。王と正妃の仲はかなり冷え切っているようだったが、自分と同じ赤毛の息子ならば血筋も安心だと王は考えているようだった。特定の世話係を置かなかったのは、正妃の息がかかっているならば殺されるかもしれないと考えたからだという。実の母がそんなことをするのだろうかと、子どもが愛らしい見目のためもあって悲しい気持ちになった。
しかし、滅ぼした国の民を跡継ぎの世話係に置くのもどうかしている。自分が殺すとは考えないのかと王に訊くと、そんなことをすればおまえもおまえの同胞もみな殺されるだけだと王は豪快に笑った。ということは、自分はその子どもの命を、何があっても守らなければならなくなったのだ。
王は我が子に向かって、これはおまえの先生だ、と告げた。言われたほうは不思議そうに首をかしげていた。
赤毛の幼児は歳のわりに体が大きく力も強かった。最初から不思議そうな目で自分を見上げてきた。三つ四つは過ぎているようだったが、声は出ても言葉がまったくなかった。話しかけると、子どもは驚いたように自分を見つめた。その目には強い光が宿っていて、決して痴鈍などではないと、自分は確信した。
子どもを押しつけられたわけだが、どこまで何をしていいかなどは聞かなかった。だが、話しかけるだけで子どもは自分に興味を持ち、ついて歩いた。だから、何かしてはいけないことをしたとき、きちんと叱りつけた。子どもは泣いたり喚いたりしたが、根気よく言い聞かせ、ときにはお尻を叩いた。
お尻を叩かれたこともないようで、初めてのとき子どもは声も出さずぼろぼろと泣いていた。それを見て、この子は誰にも叱られたこともなければ、このように咎められることもなく、それがこの先の自分のためだとわからないのだなと不憫になってしまった。不憫になるほどには、情が湧いていた。
お尻を叩いたあとは怖がられたりもしたが、距離を置いてつきまとってきた。嫌われたと感じて悲しんでいるように見えた。親にも周りの人間にもまともな情をかけてもらえていなかったわりには、ひねくれることもなく、素直な子どもだった。
きらってはいないと言い聞かせてもわからないと思い、その夜は添い寝をしてやった。寝るときに誰かがそばにいることは、子どもにとってはまったく初めてのようだった。いつまでもそわそわしているのでそっと抱き寄せて背を撫で、自分の母がむかし唄ってくれた子守歌をそっと囁きかけるようにして唄うと、あっという間にぐっすり眠ってしまった。寝言で言葉のようなことを何か呻いているのが、助けを求めているように聞こえた。
それを聞きながら、もう何もかもなくした自分にできることなど少ないのだと考えた。これからはゆるされるあいだだけ、この子の世話をすればいいのだと、思うようになった。
寄り添うと子どもの体温は熱く、涙が出た。自分も子どものときに親に、――母にも、父にも添い寝をしてもらった。
その親も殺された、この子の父に。国は滅ぼされた、この子の国に。
何もかも、この子につらなるものが奪っていった。だがそう思うのに、……傍らで眠る子どもはひどく可愛らしく思えた。
そのようにして過ごすうちに、子どもは話せるようになった。そこからは早かった。文字も数字も扱えるようになり、知識をみるみる吸い込んでいった。新しいことを憶えるより狩りや早駆けをしたいと言って、体を動かすことを好んだが、それでも王になる身だと言い聞かせた。素直な性質で、いうことをよく聞いてくれた。どんなときもいつも自分についてまわり、先生、先生、と呼びかけた。
出会って十年ほどで幼児だった少年は初陣に出た。王は我が子の成長に満足していた。自分は功績を褒め称えられ、奴隷から自由市民の身分に上げられた。故国の同胞は豊かになった者もいれば、出奔して行方の知れなくなった者もいた。
王は近くの土地を支配するだけでなく世界を手にしたいと考えていた。不老不死を望んだのは、それが自分の人生の時間だけではなしえないと感じていたからだった。王の考えを、王の息子は理解していなかったが、ほかにすることもないからと、受け継ぐことに異論はなかったようだ。
しかし、……しかし、自分の奉じた王子は、謀殺された。
自分はその謀殺に加担した。
教授の述懐を聞いていた旭は、最後の言葉に目を瞠った。
「謀殺に加担って……その、夢の中の先生が、ですか?」
旭が尋ねると、教授は、ふっ、とわらった。さきほどとは違う、どことなく冷たい笑みだった。
「ああ。王妃が、兄に跡を継がせるために、夢の中の私を唆したんだ。私は手引きをして……私は王子に、軍師として信頼されていたのに、……」
「王妃はなんといって唆したんですか?」
旭としては腑に落ちない。何かの物語をなぞっているとしても、だ。
「今は領土の一部となっている故国を、取り戻してやると言った」
まるで、自分が言われたかのように、教授は溜息をついた。
「それはそれで、……いろいろと、不思議ですね」
「君の言いたいこともわかる。私も、夢の中で自分がどうしてそんな選択をしたか、まったくわからないからな。王のように、生き残った同胞を人質に取られているほうが納得はいく」
「まあ、夢なら、納得いかなくてもしかたがないかもしれないですね」
そう言いながら、旭はふと気づいた。「それにしても、先生の夢は、……なんだか、ほんとうにあったことみたいに感じます。生まれる前とかに……」
「生まれる前、ね」と、教授は肩をすくめた。「もしそうだとして、……夢の中の王子がこの世界のどこかにいるなら……彼は私を憎んでいるだろうな。自分を陥れて命を奪った相手だから……」
「そうとも限らないのでは?」
旭が言うと、教授は軽く目を瞠った。片眉を上げる。
「
「はい?」
「君はときどき、怖ろしいことを言うな」
「何故ですか?」と、旭は本気で疑問に思って、尋ねた。「子どものころから育ててくれた相手が自分を陥れて殺したなら、憎むとかでなく、どうしてそうしたか、理由を訊きたいですよ、僕だったら」
「……なるほど」
教授は微妙な顔をして、旭を見た。「そういえば、あの王子はどことなく君を思い出させるな……だから、この話をしたのだが」
「僕を、ですか……」
そういえぱ、とふと旭は思い出す。昔の僕に似てる、と言ったのは、家にいる、居候だ。彼は、ずっと昔に殺された、と言っていた。
……まさかね。
*
夢の話と言ったが、正確には夢ではないことに気づいてはいる。
生まれる前に、ほんとうにあったこと。
前世の記憶、というと、どうにもうさんくさい。だが、実際にそうなのだろう、と、なんとなく、確信している。
教え子には語らなかったが、王子を謀殺したあとで、母国に伝わっていた屍生術を使って生き返らせた。王妃は殺せとは言ったが、生き返らせてはいけないとは言わなかったのだ。
あのあと自分は結局、王妃の手の者に殺されて、打ち棄てられた。裏切り者に相応しい末路だ。
とはいえ、このように生まれ変わるとは思ってもみなかった。
もしかして、屍生術を施したせいで、あの王子は今でもこの地上のどこかにいるかもしれない。だから、こうして自分も生まれ変わってきたのだろうか。そう考えたこともあった。
自分の王になるはずだったあの少年。赤い髪とラピスラズリの瞳。
今でもさがしている。どこかにいないか。明らかに日本ではない国だったのに外国に捜しに行かないのは、近くにいるような気がしてたまらないからだった。
気のせいかもしれないし、前世の記憶という確信もただの妄想かもしれない。それでも、いつか、……
彼がまだこの世に存在しているなら会いたいとは思う。
――だが、逃げてしまいたくもある。
可能ならば、一目、顔を見たい。
夢の記憶では今でも彼は少年だ。屍生術は、大地の気脈と通じ合わせたので、彼の体は永久機関となり、死ぬことも老いることもないはずだ。
理屈で言えば彼は永遠に生きる、――存在するだろう。
しかし、彼に会ったところで、なんになるというのか。顔を合わせて、自分が誰か悟ったら、王子は、……彼に憎悪の目を向けられるのが怖ろしいのだ。
だが。
「理由が知りたい、か」
思わず呟いた。
意外に、あの王子も、そうかもしれない、と思った。
何千年もかかっても 椎名蓮月 @Seana_Renget
★で称える
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