何千年もかかっても
椎名蓮月
執拗な王
(これでもうあなたは死にません、我が王よ)
彼の声が、遠くに聞こえる。
ひどく重い瞼を苦心してあけると、青空が見えた。雲ひとつない青空の下で、長い黒髪を垂らした青年が自分を覗き込んでいる。その頬には乾いた血がついている。
彼は、泣きそうに顔を歪めていた。
なぜそんな顔をするのかな、と思った。
(……、……)
名を呼ぼうとしたが、声が出ない。口から出たのは、虚ろな風だった。
(おやめください。まだ、話すことはできません。首を、……ほかのところもですが、繋いだばかりです……)
彼の長い髪は、いつも顔の左側を隠すようにして流れている。火傷の跡を隠しているのだ。それにふれたくて手をのばそうとしたが、体はぴくりともしなかった。
(王よ、……我が、王……)
――何故、自分を王と呼ぶのか?
問いかけようとしても、やはり声は出ない。
(あなたは一度、死んだ。ですが、もう二度と死にません)
目を瞠って彼を見上げていると、目の中が乾いていく気がした。痛みは感じないが、このままではまずいだろう。ぼんやりとそう考えながら、ゆっくりと瞼を下げ、そして上げる。すると、生きていたときと同じように、目の中が潤う。
生きていたときと、同じように。
――そうだ。自分は死んだ。
死んだはずなのに。
(以前にお話ししました。私の国の、失われた術があれば、屍人も蘇生できると。あのときのお約束を果たしたのです)
自分の気持ちを察したのか、彼は説明した。
そんなこともあったかな、とぼんやり考える。彼とはずっと一緒にいて、いろいろな話をしたものだ。だから、何を話したか、……これからもたくさんの話をするのだと思っていたのに。
……父王が、一山いくらで売られていく奴隷の隊商からすべての奴隷を買い上げたのは、奴隷とされたひとびとが失った国に、不老不死の霊薬の調合法が言い伝えられているとの噂を耳にしていたからだ。
生き残っていた中で彼の身分がもっとも高く、また滅びた国のことや学問にも詳しかった。父王は彼に、自らの奴隷になり、そうした知識を受け渡すなら、一緒に買い取った同胞には下級市民としての身分を与えようと取り引きをしたらしい。そして彼は同胞を惜しみ、自らを父王に売り渡したのだ。同胞たちは彼に感謝をしたが、都に移り住んで、滅びた国のことと同じように、彼のことも忘れただろう。
彼は亡国の重臣の息子だったとのちにわかった。しばらく父王のもとにいたが、そのあいだに何があったか自分は知らない。
やがて彼の故国には不老不死の霊薬などなかったとわかった。父王は美しいものが好きだったが、彼には、国が滅んだ折に負った火傷が顔に残っていた。それがどうも、気になったようだ。亡国の知識などを学者に伝えさせたあとは、用が済んだとばかりに、まだ幼かった自分の学問係として下賜した。
父王は、公人としては賢明だったが、私人としてはどうにも情に欠けていた。兄とは同じ両親の子だったが、可愛がられた記憶がどちらにもない。兄は、赤子の自分が、父に足で転がされているのを見た、と言ったし、父は兄の顔も名前も朧だった。それは母が兄を溺愛して、滅多に外へ出さなかったからかもしれないが……ゆえに父は、自分を跡継ぎとしてしまったのだが。
そんな父は彼に、気ままに暴力をふるったり、自分の望む答えを得ようと乱暴に扱ったりはしなかったようだ。それでも彼は自分の前に連れてこられたときはすっかり怯えきって、見る影もなかったことを今でも憶えている。
学問より駆け回ったり、まだ小さかったので従者と馬に相乗りしたり、つぶてを投げて獲物を獲ったりするほうが楽しかったころだ。まだ少年で、やつれてほっそりとした彼が、自分の世話をするとわかったのは、それから数日経ってからだった。
彼は辛抱強かった。ものもわからぬ、獣の唸り声しか出せなかった自分に、言葉を教え、我慢することを教え、規則正しい生活をするよう世話した。してはいけないことも教えてくれた。自分の思い通りにならないからと言って泣いたり喚いたりしてはいけない。私的な場で、自分よりちいさなものに、乱暴なことをしてはいけない。老いた犬がよろよろと歩くので、早く歩けるようにと蹴ったときは、同じように蹴り飛ばされたあげく、おしりをさんざんにぶたれた。
自分より弱いものはいたぶるのではなく助けるのです、と彼は告げた。なぜ、と問うと、助ければ、恩を感じて、何かの役に立ってくれるかもしれません、と彼は説いた。そうかな、と思ったけれど、そうかもしれない、とも思った。彼は父に命を助けられたから、自分のそばにいるのだ、と考えた。そういうことなのかもしれない。
彼が、寝しなにしずかに語る遠い国の話をきくうちに、文字が読めたほうがいいとわかり、教えてもらった。やる気になったらすぐに憶えられ、それからは読めるものはなんでも読んだ。計算も憶え、隊商とのやりとりも直接できるようになった。
彼のおかげで、自分の世界は広がったのだ。
さまざまなことを教えてくれる彼を、先生、と尊敬を込めて呼ぶようになったのは、いつからだったか。
父王の跡継ぎと定められながらも、母に疎まれ、父王にもさして好かれず、それでもいつかは王になるのだと、それだけを支えにしていた幼い日々の中で、彼だけが自分に、正しさや、そうではないことや、よろこびや、悲しみを教えてくれたのだ。
彼を先生と呼ぶ暮らしがあたりまえになったころ、彼は、故国に不老不死の霊薬はなかったが、死者を蘇生させ、生きているものと同じように当人の魂をつなぎ止める屍生術ならばあったと教えてくれた。
おぞましい術だが、不老不死と変わらない、と彼は告げた。亡骸が傷まないように薬草や鉱物で処置を施し、そこへ自然の気をめぐらせる気脈を通じさせ、死して肉体から離れた魂を亡骸に留めるのだと。
説明を聞くうちに、それは正しくないことのように思えた。だが、と彼はつづけた。もし、どこかの国の偉大な王が、跡継ぎも決めずに倒れたら、国は乱れるだろうと。それで戦いが起きれば、民が弱る。それは国そのものが弱まることであり、ひいては他国に狙われるだろうと。無駄な戦いを避けるための策として、屍生術は編み出されたのだと彼は説いた。ならばわかる、と自分は答えた。そして冗談で、もし自分が王としてまだ惜しいと思ったら、その術を使ってくれと、笑って頼んだ。……彼は、必ずそうしましょう、と約束した。
そして今、それを果たしたのだ。
(あなたが志半ばで倒れたときは、必ず、私があなたを蘇らせると。身が欠けても、繋ぎ合わせて、代わりのもので埋めて、元通りにすると。……申し上げました)
彼は、そこで深く息をついた。それから、片手をあげ、そっと頬にふれてくる。かさついた指が、おそるおそる、撫でた。
(私のすべての力を練り、術を仕掛けました。この体の中には、すでに気脈が通って、あなたはこの世のすべてのものから力を得ている。やがてつないだ傷口が塞がって動けるようになります。それからは、食べることも、眠ることも必要がなくなる)
自分を殺したのは、母の溺愛する兄だった。父王は兄を微妙に疎んでいた。母の言うことだけをきく息子は、父に対して反抗的だったからだ。ただそれだけではあったが、だからこそ、弟である自分に王位を譲ると決めたのだ。
だが自分が死ねば、考えを変えるだろう。いや、もう考えることもできないかもしれない。戦いの中で倒れ傷を負った父は、もう口もきけない。生きながらえているのは、彼が伝えた医術のおかげだ。しかし長くはもつまい。
その父の代わりとして、自分は王位についた。戦のさなかゆえに戴冠は済んでおらず、王と扱われてはいるが、自分がいなくなれば、ほかに継げる者はいないのだから、兄が王になるだろう。早く妻を持て、子をつくれと彼に口を酸っぱくして言われたが、こうなることを危ぶんでいたのかもしれない。
だから、彼は自分を蘇らせたのだろうか。……そうではない、気がした。
(ですが、……もう、この国は、滅びます。だから、あなたは、逃げてください)
彼は、絞り出すように告げた。
そうだろうな、と思った。
王妃である母が、他国の王弟と内通しているのは知っていた。父王に何かあれば、自分が王位につく。母がそのときどう出るか、警戒はしていたのに、ここまでするとは思っていなかった。実の母である。産んでおきながら、このざまか。なんとなく、おかしくなってしまった。誰も自分に、情をかけてはくれなかった。
――彼以外は。
(この術は、あなたがどこへ行っても、……私の命が潰えても、ほどけることはありません。この世の理に組み込まれて、あなたをいつまでも生かします)
なのに、どうしてそんなひどいことを言うんだろう。
覗き込んでくる彼から、何かが落ちてきた。涙だ。
彼と出会って、せいぜい十年かそこらだ。そのあいだに、いろいろなことを教えてもらった。
泣くことも、笑うことも、彼が教えてくれた。親でもないのに、深い心の奥底まで降りてきて、化けもののような赤ん坊だった自分をあやしてくれた。
ああ。悲しいな。これが悲しいということなんだ。
悲しみを、知っていたと思っていたけど、そうじゃなかった。
……先生はこの国が滅ぶと知っていたのに、僕を失いたくなかったのかい? こんな化けもののような僕を、どうしてそんなに惜しんでくれるのかな。
(さようなら、我が王)
先生は僕を我が王と呼んで、死なせて塵にしたくなかったのに、さようならを言うんだね。
僕の国は、僕の祖父の祖父が興した国は、滅ぶだろう。僕が最後の王だろうか。
でも僕は、生きていないのに生きているような、おかしな存在になってしまった。
――先生は僕をどうしたかったの?
頬を撫でている手が、そっと目もとを押さえた。
(いま少し、眠ってください、我が王よ)
囁きが聞こえ、手が瞼を下げるようにした。目が閉じられて、もうひらくことができない。これも術のようだ。
ばさり、と音がして、自分の上に何かが覆いかけられた。獣皮のようだ。体の下には木の皮が敷かれている。頭のほうが持ち上げられたと思うと、ずるずると引っ張られた。
やがて、獣皮の端から出ていた手足に当たっていた陽を感じなくなる。どこか、暗い場所に運ばれたようだ。岩場の陰というよりは、岩に囲まれている、――洞窟の中のようだった。砂嵐のときに隠れるような場所だ。もし獣が入ってきたら自分など食べられてしまうのではないだろうかと思っていると、火打ち石の音がして、やがて何かの香りが漂い始めた。
(これでしばらく、眠れます。誰もここに近づくことはできません)
獣皮越しに、頭を撫でられた。
……最初に会ったとき、彼は今の自分より幼い少年だった。身内を殺されて国を焼かれて、異郷に奴隷として連れてこられて、いま思えば怖かっただろうなと思う。
そんな彼だったからこそ、押しつけられた自分の世話をしてくれたのだろう。自分より弱いものをいたぶってはいけないと教えたのは、自らが受けた仕打ちのせいだったのかもしれない。
(目がさめたら、きっと何もかも終わっています……おやすみなさい、我が王よ)
待って、と言いたかったが、殺されて蘇生されたばかりの体はぴくりともしない。もちろん声も出せないから、引き留めることもできなかった。それでも自分は、胸のうちで叫んでいた。先生、と呼びかけていた。
先生、先生、……先生、僕を連れて行ってよ。どこまでも一緒に行くと約束したよね。死んだあとに蘇らせる約束より、そっちを守ってほしかったな!
やがて香のせいで眠くなってくる。ぼんやりする頭で必死で考えた。目をさましたら彼のあとを追わなければ。ずっと一緒にいると約束したのだから、それを守ってもらうために。どんなに時間がかかってもいいから、捕まえなければ。
泣いたり笑ったりできないけだもののように子どもだった僕を、泣いたり笑ったりできるようにしたんだから、……僕は悲しみを知ってしまったから、教えてくれた先生が責任をとるべきだと思うんだ。どうだろう?
ねえ、先生、……僕はもう一度、必ず、会うよ。先生。もう一度会えたら、二度と離れないんだ。きっとそのときは僕はもう王でもなんでもない。そうしたら僕たちは、対等な、……友だちに、なれるよね。
*
「
少女の声とともに、ばたん、と音を立てて部屋の扉があいた。
「おはよう、アリサ」
寝台の上で寝返りを打ってから、伊吹はがばっと起き上がった。
「おはよう! ねえ、お天気になったよ!」
そう言いながら、この屋敷の主である少女は、窓にかかった分厚いカーテンをひいた。とたんに陽光が部屋に射し込む。
「だからおにいが、大学祭に来てもいいって言ってた!」
少女は目をきらきらさせる。
今年の四月から一緒に暮らし始めたときは、兄に対してけんもほろろだったが、今では「おにい」と呼んですっかりなついている。
それが伊吹にはややありがたく思えた。有沙は可愛いし、基本的に賢く聞きわけがいいので、めんどうを見るのは苦ではない。
だが、自分がいつまでこうしていられるかわからないので、自分に懐きすぎるのはあまりよくないかもしれないとは以前から考えていたのだ。
「一緒に行くの?」
「ううん、おにいはもう行ったよ、準備しないといけないからって。あとでみんなと一緒においでって言ってた」
「みんなって、誰と誰」
伊吹は寝台から出て、衣装棚をあけると服を着替えた。パジャマは適当でもいいが、さすがに外へ出るときに首の傷が見えてはまずいので、外出するとき、伊吹は衿の高い服を着る。有沙の母、水琴が見立ててくれた服は、ほとんどが中国服のようなデザインだった。
先生、蘇生はいいけど、せめて傷跡が薄くなるとかはできなかったの? と、着替えで首の傷を見るたび、思い出す。
そうして、外に出るなら気をつけてひとを見なくちゃな、と思う。
伊吹は今でも彼を捜しているのだ。
「たまちゃんと
「それね! じゃんけんしたら千束が負けたから、千束が行くよ!」
「はっちゃんも?」
「うん!」
土蜘蛛の千束はこの屋敷の家令のような役割を果たしており、メイドのたまちゃんとは仕事がかぶるので、どちらかが留守番をすることにはなっている。とはいえ……
「はっちゃんと千束かぁ。僕は仲裁役だね」
白蛇の
「仲裁って、まだ喧嘩もしてないのに」
有沙が笑った。
「あのふたりじゃ一触即発じゃないか。まぁがんばるよ」
伊吹はそう言うと、有沙に手を差し出した。有沙がそれをためらわず握る。
死んだ身なので、この体は冷たい。なのにこの子は、自分にふれることをためらわない。
有沙のことは二歳ほどのころから知っている。もしかして、彼にとって自分もこんなふうだったのだろうかと考えて、伊吹は微笑んだ。
「じゃ、行こうか」
「うん!」
――僕も、先生にはこんなふうに可愛く見えていたのかな。だったら、いいな。
この王さまはしつこくて、大好きな先生を諦める気などまったくなかった。
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