火
「おかえりなさい!」
そんな聞きなれた声が私の耳の中を通り過ぎていった。
「ただいま、夕海。いい子にしてた?」
「うん。夕海はいい子だからね。ちゃんとしてたよ」
麦茶の匂いと、蚊取り線香の独特な匂いが鼻腔をくすぐる。
机の上には夕海の宿題なのか、プリントが数枚広げられている。
「勉強してたの? 夕海」
「うん。勉強っていうより宿題だけど。」
夕海は可愛らしいまゆを寄せて困ったような顔をして、また机の方に戻っていった。
私の名前は有野崎日向。一児の母だ。娘の名は夕海といって、素直ないい子に育っている。
私は今現在配管工として働いている。配管工といっても、特殊なものだ。
おもに仕事の日は月曜、水曜、金曜日でそれ以外は休み。(もちろん、今日も休みだった)だが、給料は親子二人で暮らすには多過ぎるほどもらっている。これも私にしかできない配管工という仕事のためだろう。
私は金魚になれてしまうのだ。
唐突な話かもしれないが、あの金魚だ。赤い体の尾のあるあの魚。金色ではないのに金と言われる不思議なあの魚、金魚に。
*~~~*
その事実に気がついたのは、旦那が亡くなってからしばらくしてだ。
私はその頃ひどく荒んでいて、言うなれば、死を望んでいた。(今では恥ずかしい話である。夕海を残してこの世を去るなんて考えることもできない)
何を思ったのか、私は水の中で死ぬことを決めたのだ。
吸い込まれるような透明に、ポッカリと口を開けた大きな魚が見えた気がして、気がついたときには私は水の中にいた。
空気の抜ける音と同時に、肺の中に水が入ってくる恐怖は言い知れないものだったが、あの時は何故かそれに安堵していた。きっと本能は私が金魚になれることを知っていたのだろう。
水に沈んで、何分たっただろうか? 十分、二十分、三十分……いつまでたっても苦しくならない。それどころか、水中で息ができるようになっていた。そこで私は気がついてしまった。
金魚になってしまったのだと。
赤く、繊細でいて、どこか力強い三尾のヒレが、私の目の前をちらつく。
私は叫びだしそうになり、それから直ぐに声が出ないことに気がつく。
そう、水の中だ。ここは水の中なのだ。
私は水から飛び出して、泣き出した夕海の方へと走り出した。
*~~~*
数年前の、嫌なことを思い出しそうになり、私は一生懸命に頭を振った。
私は、すでにあの頃にはいないのだ。言い聞かせても言い聞かせても帰ってくる、あの頃の思い出に私は半ば怒りを覚え始めるほどになっていた。
だが、自分の記憶に怒りを覚えるということは、自分自身に怒りを覚えているのと同じようなことだ。それはおそらく、いや、絶対にくだらないし、つまらない。
私が金魚になれることを知っているのは会社の同僚くらいだ。夕海は知らない。
幼い彼女にこんなことを教えて何になるというのだろうと、私が思ったからだ。
『あなたの母親が金魚になれる。』
そんなことを言われたら彼女はどんな顔をするのだろうか? いつものように、眉根を寄せて困ったように笑うのだろうか? それとも、取り乱して泣いてしまうのだろうか?
来やしないいつかを想像すると笑いがこみ上げてきて、私はそこで思考を打ち切った。
夕海が私のことを見ている。
「ねえ、お母さん。早くここ座ってよ。夕海のおはなし聞いて?」
「うん、いいよ」
私の返事に夕海は楽しそうに笑う。
存外、こんな顔をするのかもしれない。
「今日、学校でね」
彼女の小さな世界の、大きな出来事を楽しく聞いて、今日も一日が終わるのだ。
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