月水金魚

八重土竜

 私の名は藤原透という。

 日頃はうだつの上がらないサラリーマンをやっている。

 だが、私はサラリーマンとして働きながら、もうひとつの姿と仕事を持っている。


 私のもう一つの仕事とは金魚として下水の平和を守るという仕事だ。副業というよりは、こっちのほうが私の本業だろう。

 月曜、水曜、金曜と、赤い体のあの魚となって、あの地面の下の水の世界へと戻っていくのだ。(もちろん、地上でのくだらない仕事を終えたあとである)

 水の世界に行くのは非常に簡単だ。

 風呂に水を張り、体を沈める。そして、その小さめな水槽から水を抜くのだ。すると不思議なことに私の体はあの鮮やかな赤に染まり、手足はレースのように繊細なヒレに変わる。

 私は流れに逆らわずに小さな出入口を抜けて、下の世界へと行くのだ。

 下の世界に空気はない。空間的にはきっと宇宙に近いのだ。

 体の中を満たしてくれる水は少し汚れているかもしれないが、上の世界の空気だってガスや小さな塵で満たされている。だから、この水で体を満たしてもさほど変わらない。

 下の世界に行くと沢山のものに出会う。

 人形の右腕、カラスの羽、軽い小石、魚の骨(もちろんこれは金魚の骨ではない。金魚の骨が流れてきた日には、私は体から全ての水が流れ出てしまうほどに涙を流すだろう。そして、私の涙は下の世界を大きくするのだろう)

 今日は久しぶりにおもちゃの犬の首と出会った。

 彼の片方の耳は欠けていて、目の塗料も剥がれて今では凹凸があるだけだ。

 私が繊細に見えて力強い尾ひれを動かし、彼に追いつく。


「おや、お久しぶりですね、金魚さん」

「ええ、お久しぶりです。犬の首さん。ところでそのお耳はどうされたんですか?」


 私の質問に犬の凹凸が揺らいだように歪む。笑ったようだった。


「実はですね……フフフッ、あぁ! 面白い」

「犬の首さん、何があったんですか? 独り占めしないで私にも教えてくださいよ」

「フフフッ……いいですよ。実はですね」


 犬の首は非常に楽しそうに水に遊ばれながら笑って私の前を飛び回る。

 私は彼が笑う理由を知りたかった。

 犬の首が踊るように語りだした。


「実はですね、先日金魚さんに会ったんですよ」

「金魚に!?」

「そう、金魚に。驚くでしょう? もちろん僕も驚きましたよ。ここに居る金魚はあなただけと思っていたんですから」

「どんな……! どんな金魚だったんですか!?」


 犬の首は私の剣幕に少し押され気味だったが、困ったように笑って丁寧に教えてくれた。


「あなたのような小赤ではなくて、三尾の和金だったんですよ。あぁ、もちろんあなたも綺麗な赤をしてますよ。僕のように色が剥がれたりしないから羨ましいですよハハハ……」


 今日の彼はよく笑った。まるで別人を相手にしているみたいだった。


「そう、話がそれましたね。私の片耳の話でした。実はですね、その三尾の和金に取られてしまったんですよ」

「耳を?」


 私はそれこそ耳を疑った。そんな馬鹿なことがあるのだろうか? なぜ、どうしてそんな三尾の和金がプラスチックの犬の耳をとっていくのだろうか?

 もちろん、食べるなんてことはないだろう。犬の首には失礼だが、お腹を壊してしまうし、美味しくないだろう。

 私はそんな不思議な体験をした彼にかける言葉が見つからなくて、


「それは大変でしたね」


 と当たり障りのない言葉をかけた。


*~~~*


 激しい水の流れに体を洗われながら、私は犬の首に聞いた三尾の和金のことを考えていた。

 その三尾の和金は一体何者なのだろうか? いや、きっと、私と一緒で金魚にはかわりないのだろう。その金魚は金魚なのだ。

 だが、その金魚が下の世界に来る意味はなんだろうか? 私のように、下水の平和を守るためだろうか? いや、それは違うだろう。

 私は自分の中の疑問にそう決着をつけた。

 なぜなら、その三尾の和金は理由もなしに犬の首の耳をもぎ取ったのだから。

 三尾の和金の正体がなんであれ、下水の平和を乱すものは淘汰されなければならなかった。

 私は尾ひれを動かし、胸びれで水をかき強い水の流れを抜けた。


*~~~*


 強い水の流れを抜けてしばらく行ったところだった。その場所は水の行き止まりになっていて、いつも澱んだ水が漂っている。

 私の目の前をプルタブが通っていった。

 私はこの場所を気に入っている。

 流れている水の中でここの水だけは残っているのだ。

 私が金魚になったとき、初めて訪れた場所がここだった。

 全ての不安や怒り、恨み、恐怖がとどまり渦巻くその澱んだ場所の白い匂いのするところに身を沈めて、私は金魚としての時間を過ごしてゆく。

 動くことのない白いよどみの中、目に見たこともないような鮮やかな赤がちらついた。

 私は藤原透という。

 彼女の名はなんというのだろう。

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