齟齬

 陵駕の手のひらが、桃の背中をとんと叩いた。

 瞬間、鋭い痛みが桃の全身を襲う。

「きゃアァァァ————」

 上がった声は桃のものだったのか、魔のものだったのか。

 両腕が陵駕の首から離れ、胸を押さえる。痛い!

 桃の中を埋め尽くすように聞こえていた呪詛の声が、苦しむように声ならぬ声を上げた。

「桃姫から、離れろ‼︎」

 桃の背に手を添えたまま、抱き抱えるようにして陵駕が上体を跳ね上げた。

 ぞろりと桃の中で苦しみに満ちた魔が動く気配。

 痛い、胸が苦しい。

 息が吸えない。

「出ろ、化け物!」

 それは恐怖ではない、正の感情。

 その声に魔が一瞬委縮したのが桃にははっきりと感じられた。桃が与えた恐怖という名の力が削がれている⁉︎

「——アア……アァァ……」

 焼けるような苦しさ。痛み。

 違う、これは自分のものではない。魔の、貴子の苦しみだ!

 そう自覚すると同時に、一気に魔が身体から抜けたのが感じられた。陵駕の視線の先を追うと、魔がその形を崩しながら、部屋の中に逃げ込んで行くのがかろうじて見えた。

 それを見届ける間もなく、陵駕が桃の身体の下から抜け出し立ち上がる。そして、桃の背から何かを剥がした。

 それは、蔀から剥がれ落ちた退魔の呪符。

 陵駕は無言でそれを元の位置に貼り付け、その状態から動かなくなる。呪符に手をかけたまま、蔀に寄りかかって肩で荒い息を繰り返した。

 その背が桃を拒絶しているかのように遠くに感じられる。

 魔はひとまず呪符で封じられただろう。けれど、桃一人の負の感情であんなにもあっけなく呪符が破られてしまうとなっては問題だ。

 早く、神殿に知らせなければ。そう思っても身体が言うことを聞かない。身体中が痛い。

 それに、陵駕が————。

「りょ、陵駕……」

「無事ですか。手荒なことをしてすみません……」

 そう言う陵駕はまだ振り返らない。その姿に、新たな涙がこぼれる。

 陵駕は、退魔の呪符で桃の中から魔を追い出してくれた。呪符を拾うために、自ら桃の手を離した。

 そうする必要があったのだと言われれば、そうだと肯首こうしゅするしかない。でも。

(陵駕は、本当に————……)

 生きて苦しめ。そうだ、桃が陵駕に生きていてと言ったのは、そういうことだ。だが、それをこんな形で見せつけられるなんて。

 呪符で助けてくれるために手を離したのなら、あんなことなど言わなくても良かったはずではないか。

 楽にしてくれ、そんな事など。

 あれは、本気だったのだろうか。本当に桃に殺されるつもりで?

(そんなの、あんまりだわ————……)

 もしそうなっていたら、桃は魔に抗えなかった自分が許せない。陵駕を恨むし、魔を外に出してしまった自分を憎むだろう。

 貴子も、貴子を殺めた人物も、この桜の宮という場所も。

 どうせ、助けてくれるものがいなければ次は自分の番だったのだ。

 桃は魔と化すだろう。陵駕を手にかけた絶望によって。

 それを、彼は望んでいたとでも?

「なんで、泣いてるんですか……」

 やや落ち着いた息で振り返った陵駕が、桃の元へひざまずく。その首に残った赤紫の痛々しい指の痕。

 震える手でその痕をなぞると、微かに陵駕の顔が歪んだ。

 まだ首を絞めた時の感触が残っている。あの、肉を押し潰すおぞましい感触が。

「りょ……が、ごめん……でもいや、嫌なの……」

 言葉が出てこない。それでも、陵駕はなんのことかわかったようだった。どこか糸が切れたかのように、力なくすみませんと謝る。

「ひどい……」

「お互い様ですよ。我儘だなんて言われるとは思わなかったな……」

 陵駕の手が桃の頭を撫でる。優しく。

 今度こそ、その手を掴んだ。

 生きている。温かい。それなのになぜ。

 悔しい。陵駕の心を救ってやれないどころか、何一つ出来ていない自分に腹が立つ。

 討たれて死ぬ方がいい。そう言ってからどれだけの時間があった? その間、何をしていたのだろう。

「死ぬ、つもりだったの……?」

「まさか。あなたの手を汚させるには忍びない」

 そう言った陵駕は、すぐにかぶりを振った。

 少し困ったような、それでいて何か強い想いを秘めているような奇妙な表情を浮かべて口を開く。

「いや、そうなったらいいと思った。でもあなたを助けるためには、そうなってはならない。だから結局、私は桃姫に助けられたようなものだ」

「なに……言って……」

 喉がひりりと痛み、熱いものが込み上げてくる。押さえようとした嗚咽はそれでも細く漏れ出て止まらない。

 怖かった、自分の手の中で命が失われていく様を見せつけられるのは。首に食い込む自らの手を、解くことも出来ないのは。

 抵抗すらしないという絶望は。

 陵駕の顔を見ることすら出来ず、両手で彼の手を握り締めたままうつむく。床に落ちていく涙を止めることができない。

「陵駕を……呼ぶ、んじゃ……かった」

 そうしたら、あんな怖い思いもせずに済んだのに。

 あんな悲痛な告白など聞かなくても良かったのに。

 自分の命が失われることと、自分の手が大切な人の命を奪うことは、どちらがより辛いのか。そんなことすらわかってもらえないなど。

「お互い助かったでしょう」

「そんな話、してないわ……」

 違う。なぜわからない⁉︎

 どうして、なぜ、そうも希死念慮に囚われているのか。

「桃姫、この話はまた。今は、神殿へ行かねば」

 陵駕の手が桃から離れ、側に放り出されたままの衣を引き寄せ、そっと肩からかけてくれる。

 それに桃も頷くしかなかった。

 ここの呪符は強化しなければならない。それを、神子ではない桃も陵駕もすることはできないのだ。

 であれば、急いで神官にことの顛末を伝える必要がある。

 そう、とにかく二人とも助かったことは事実なのだから。

「立てますか」

 先に立ち上がった陵駕の手が差し伸べられる。その手を掴み立ち上がろうとして、激しい眩暈に襲われ床に膝をつく。

 目の前が暗転し、身体が痺れたように動かなくなる。

「桃姫⁉︎」

 大丈夫と答えようとしたが、口が上手く動かない。

 身体が痛む。

 ぐらりと傾いだ肩を陵駕が抱きとめたのが感じられた。しかし、なにも見えない。桃を呼ぶ陵駕の声も遠い。

 頭の中にもやがかかったようになにも考えられなくなる。

 なにも————。


   ◆ ◇ ◆


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