番外編
光差す空に消ゆ
清涼な風を感じて目を開くと、妻の顔が一番に見えた。春らしい淡紅の
それは
「おはよう、殿。今日はお加減はいかが?」
まだ幼さを残した齢十五の妻とは、先日婚姻の儀を挙げたばかり。年若いが聡明で、そして明るい人柄の姫だ。
ゆっくりと
「今日は楽ですよ。桃姫が祈祷を頼んで下さったおかげでしょう」
「まあ。良かったわ」
ほっとしたように笑うと、桃はさっと立ち上がり東雲の足元の方へと移動した。
そして、その明るい声で東雲に外を見るように促す。
すでに
ここ桜の宮はその名の通り、桜の木がいたるところに植えられている。そのため、春の桜の宮が一番美しい。
「今日はとってもいいお天気よ、殿。桜もあんなに満開で。どうしても見てもらいたくて御簾を上げてもらったの」
一面が桜色に染められ、陽の光すら色づいて見えるようだ。
はらはらと花弁が散る様すらも美しい。
こんな風に生きられたなら。
「桃姫。こちらへ来てくださいませんか」
生まれながらに身体が弱い自分は、おそらくはもう長くはない。
妻を娶らずとも良かったのだ。長くないとわかっていたのだから。
それでも、それだからこそ、最期の我儘だった。桃を妻に娶ったのは。
桃は明るくて、強く聡明で、でも少し貴族には似つかわしくない振る舞いが目立つ。箏も琵琶もちっとも練習しないし、立ち振る舞いも洗練されているとは言い難い。
それでも、自分がそうなれないからこそ、桃はまぶしかった。
「どうしたの?」
首を傾げながらも、桃は側に寄って腰を下ろした。
身体に触るといけないから、御簾を降ろしましょうかと言う桃を、首を振って止める。その手を、そっと取った。
あたたかなぬくもり。
「少し、こうして桃姫と桜を見ていたいのです。本当に、美しい……」
桃が嬉しそうに笑う。その目が可笑しそうに細くなり、東雲をのぞき込む。
「夫婦なのですし、名で呼ばれたらよろしいのに」
「ああ……なんだかまだ癖が抜けなくて」
それはだたの言い訳だったが、彼女は信じたようだ。
桃を敬称抜きで呼ぶことはきっとない。形だけの、短い夫婦だった。そう思ってくれた方がいいのだ。短命の夫になど心を寄せなくていい。彼女の人生は、これから先も長いのだから。
おそらく、彼女に子を残してやることはできないだろう。何度か試みてはみたが、駄目だった。その度に、彼女は殿の身体の方が大事ですよと笑ってくれていた。
子も授けられず、桃だけを残す。一度嫁いだ桃は、一生を後家として生きることとなる。
自分が桃を娶るという我儘を通さなかったら、彼女には違う人生があったはずだった。
だからどうか、この夫のことを愛さずにいて欲しい。その為になら、他人行儀でこの人生を終えてもかまわない。
「このような美しい桜の花を、あなたと見られることはこの先ないかもしれませんから」
ただ、この時だけ、一緒に桜を眺めたい。まぶしく、憧れの全てである人の手をにぎって。
これもまた、自分の勝手な我儘だけれど。
「殿は、時々大げさなことをおっしゃるのね」
この桜は毎年美しく咲くわ。きっと来年は殿の調子も今より良くなるでしょうから、庭を散歩しましょう。その次の年辺りには、子供が生まれているかもしれないわね。
楽しそうにそう先を語る妻の声は、まっすぐだ。
東雲の手をにぎり返し、桃はやわらかくほほ笑む。
「きっと、来年も。その次も。こうして桜を見ましょう。二人で」
「ええ」
叶わない約束。叶えたかった風景。
叶わない願い。
風が吹き、桜の花弁が一斉に空へ向かって舞い上がる。
あの花弁の向かう先へ、もうすぐ行くのだ。
でも怖くはない。もう、自分の望みは全て、叶ったのだから。
ただ愛する姫と最期の日常を生きたいという願いが。
光差す空に消ゆ <完>
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます