噂の種

(陵駕のことを恋うている、の?)

 きゅっと胸が締まった。そっと手を当ててもなにもなく、いつも通り。それなのに、なぜだか息を吸いにくい。

 やわらかく、やわらかくほほ笑む桜。その表情は、今までに見たことのない喜びの表情。強いて言えば、大好きな桜の木を愛でる時に似ているだろうか。

 無条件に、好きだと思えるものを愛でる喜びに。

「陵駕殿こそ、美丈夫でいらっしゃって羨ましい限りです」

 くすくす笑いながらそう告げる桜に、確信する。少し引っ込み思案な桜が、殿方に向かってそんなことを言うなど考えにくかった。

(そうだったの……)

 それでは、桜にとって陵駕が桃の養子になることは辛いに違いない。

 立場上、二人は叔母と甥になる。この閉じた桜の宮で、近親婚は少なくはない。桃と東雲も父親同士は異母兄弟であり、血としては近いのだ。

 とはいえ、叔母と甥というのは、貴族の身分剥奪の禁忌となっている。前例はまだない。近親婚が多いからこそ、あまりにも血が濃くなることを禁じているのだ。

 たとえそれが、立場上のものであっても。

 今鈴鳴家には、陵駕に釣り合う歳の姫は桜しかいない。おそらく、このまま行けば陵駕の妻は他の家の姫になりそうだ。

 陵駕が養子に選ばれなければ、おそらく桜が妻になっていただろうに。

 いつも淡くほほ笑んでいる桜。けれど、その心中は……。

(辛かったに違いないわ。悔しかったに違いないわ)

 それなのに桜は強い。桜は笑っている。

 彼女が辛い思いをしていることなど、気づきもしなかった。歳上の養子は嫌だとか、会ってみたら会ってみたで気安くて楽しいとか、自分のことばっかりを考えていて。

 桜は自分の魂の半分なのに。

「ははは。お褒めいただいて光栄ですよ、桜姫」

 陵駕は実に楽しそうだ。桜の思いも知らずに笑っている。

 その爽やかすぎる笑顔が恨めしい。ほおをつねって顔をしかめさせたい。

「本当ですよ」

 桜も、一見楽しげに笑みを浮かべている。でも、本当は……?

「まあ、お二人とも」

 蘭がくすくすと笑っている。褒め合う二人が可笑しかったのだろう。

 桃付きの女官である蘭は、特に用事がなければ常に桃と一緒だ。陵駕が訪ねてきた時にも、たいていは几帳越しに控えている。桃を相手にするとからかってばかりになることを知っているからこそ、その違いに笑ってしまったようだった。

「桜姫の可愛らしさには遠く及びませんよ」

 本気か否か。桜の気持ちを知らないとはいえ、よく回る舌だ。

 この陵駕の口車に乗せられれば、桜でなくとも恋煩う姫は多いかもしれない。なんて迷惑な。

 桜……もう叶えられないと知って、これからどうするのだろう。やっぱり笑っているのだろうか。誰にも悟られないように。

 そんな気もした。

「? どうかしたの、お姉様?」

「え? いいえ、どうもしないわ」

 無意識ではあったが、桃はずっと桜を眺めていたらしい。桜に小さく首を傾げられ、慌てて瞳をそらす。

 気になるけれど、まだ気づいてないふりをしよう。桜自身が桃に打ち明けず隠していることなのだから、桃が気がついていることは悟られない方がいい。

 それに、これは自分の思い違いかもしれないのだし。

「そういえば、桜。今度、都で祓えをするのよね?」

 桜の気をそらせたくて、そう口に出す。

 正確には御祓おはらい神事。魔が怪異を起こすと行われる退魔の儀式だ。

 近頃都で怪異が続いたため、それを祓う。今回は、桜が神楽巫女を務めるという。

 貴族は、魔を祓う力のある神子みこを生む一族。

 神子は神色を備えて生まれる。それは黒ではない、薄い色の髪や瞳に現れる。それが神に愛され、民を守るよう力を分け与えられた証。

 その神の子は、臣民のために身に宿る力を使い魔を祓う。

 その血を受け継ぎ臣民を守る、それこそが貴族が貴族でいられる理由だ。

「ええ、そうなの。お姉様もいらっしゃる?」

「そうね、桜が舞うのだし、楽隊の様子も見たいわ。蘭?」

「はい、ご準備しておきます」

 蘭も心得たもので、にこやかに頷いてみせる。

「そう言えば、母上が楽隊のご準備をしてくださったのですよね」

「ええ、柑子こうし殿がお忙しそうだったから」

 元々は、東雲がやっていた仕事だった。身体が弱くなかなか出仕できない代わりに、こういう神事での楽隊の楽器の手配や、学術書の編纂などを任されていた。

 実働は使いの者がやれば事足りるので、東雲でも可能だったのだ。

「陵駕は篳篥ひちりきよね?」

「ええ」

 楽隊の名簿に、篳篥として陵駕の名を見つけたとき、意外に思った。

 陵駕なら、きっと天と地の間を翔る龍を象徴する龍笛りゅうてきの方が、外見的に似合いそうだと思っていたのだ。

 でも、地に生きる人の声を表すという篳篥は、それはそれで陵駕の性格に似合っている気もした。

「怪異が多いのね」

「そうなの。その都度退魔に出てはいるけれど、そろそろ祓えを執り行った方が良いのですって」

 それが貴族の務め。

 まして神子として神色を持って生まれた桜なら尚更だ。

「心配ね」

「まあ、私たちは桜姫たちのような神子様方にお任せするしかないですね」

 それもそうだ。桃や陵駕は退魔の力を持たずに生まれてきた。

 だから、こうして支援するしかない。

「ねえ、蘭。最近なにか噂話とか聞くかしら?」

 なんとなく重たい空気が漂う。それを払うように、蘭を見た。

 女官達の間では、色々な噂話が飛び交っている。その話を聞くのも楽しい。

「そうですね……今は、桃姫と陵駕殿のことが」

 蘭にしては珍しく歯切れの悪い返答。

 少し考え込むようなしぐさを見せ、先を続けにくいと言外に匂わす。

 しかしやはりと言うべきか、陵駕が興味津々と言った様子で身を蘭の方へ乗り出した。どう言われているんです? と楽しそうに訊く。

「……桃姫?」

 桃に向けられた瞳が、言っても良いのかと問うている。

 桃はその噂の内容は知らない。しかし、蘭の様子から察するに、あまり良い噂ではないのだろう。

 とは言え、俗っぽいがなんと言われているかは気になる。特に、良からぬことなら。

「いいわよ」

「あの、これは本当に根も葉もない噂なのですけれど」

 一度言葉を切った蘭は、ゆるゆると息を吐いた。そして、意を決したように桃の顔を見る。

「桃姫と陵駕殿は、実は愛し合っていらっしゃるのではないかと」

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