少年
「おい、起きろ、朝だぞ」
恭ちゃんの低い声が聞こえて、ハッと飛び起きる。時計を見ると家を出るまで10分もないことに焦る。い、急がないと!いつものようにバタバタと学校の準備を始める。本当に毎日毎日、ギリギリの自分が嫌になる。
毎日、恭ちゃんに起こしてもらうのが申し訳ない。迷惑をかけないように目覚ましを2つセットして、5分ごとに鳴らしているのに…何故か全く起きれないんだよね。
「早く用意しなさいよ」
『お姉ちゃん、おはよ。急ぐね!』
いつものように、もう準備が完璧に終わっているお姉ちゃん。薄く施したメイクに、今日は髪の毛をアップにアレンジしている。
…妹の私から見ても綺麗だ
顔を洗い、歯を磨き、自分の部屋に戻る。そして、いつものように恭ちゃんに髪を結んでもらった。
「ん、眼鏡」
『ありがとう!』
そして、いつも通り家を出た。いつも通りお姉ちゃんの荷物を持ち、2人の邪魔をしないように気配を消して後ろを歩く。周りの人は2人を羨ましそうに見ていて、そんな私も2人に魅入っている。目を奪われる2人だけの空間があり、そこに入れる隙間はない。そんな2人のそばにいれるだけで私は恵まれていると思い知らされた。
感傷的な感情に浸っていると、遠くから子どもの泣き声が聞こえてきた。
「うわぁーん、ママァ!」
横道を見ると保育園の制服を着た男の子が1人で泣いていて周りには誰もいない。迷子なのかと思うと考えるよりも先に体が先に動いていた。
『どうしたの?ママは?』
「ママがいない!ママァー!」
男の子は更に目から涙を溢れ出して、泣き叫んでいる。
確か…この制服の保育園はここから近い場所にあったはず。母親は周りにいそうにないから保育園に行った方がいいかもしれない。
『お姉ちゃんがママに会わせてあげる!』
「ほ、ほんと?」
『本当だよ。さぁ、泣き止んでね』
「うん!」
私は男の子を抱っこして歩き出した。男の子は大泣きしていたのが落ち着いてきていて、そのことに安心して笑みが溢れる。
話していて分かったのは、男の子の名前はカイトくん。カイトくんには歳の離れたお兄さんがいること、双子の弟がいること、ママのことが大好きということ、キラキラした目で楽しそうに話してくれた。
保育園が見えるところまで来ると、門の前に落ち着きなく切羽詰まった様子の女性がいた。
…もしかしてカイトくんのママかな?
『カイトくん、あれママにじゃないかな?』
「ママだぁ!ママー!!」
カイトくんは大きく手を振った。すると、女の人は安心した表情になり、ほつれる足を動かして駆け寄ってきた。抱っこしていたカイトくんを下ろすと、カイトくんもママの元に走って行った。カイトくんを力強く抱きしめるママの手は震えていて、かなり心配していたのが分かった。
…ふふっ、会えて良かった。
「連れてきて下さり、ありがとうございます」
カイトくんママは私に深く頭を下げた。こんなに感謝されると思っていなかった私は、あたふたとしてしまう。
『だ、大丈夫です!無事に会えて安心しました!』
「本当にありがとうございます。双子の弟にばかり気を取られて、カイトがついてきてないのに気づかなくて…母親失格です」
そう言い、目から涙が溢れた。
…とても綺麗な涙だなと思う。
『カイトくん、ママの好きなところたくさん教えてくれたんです。それだけでも、素敵なママなんだろうなと思っていました。実際にお会いして更に思いました、カイトくんのママはとても素敵なお母さんです、間違いないです!』
…途中から自分で何を言っているのか分からなくなった。だけど、どうしても素敵なお母さんだということを伝えたかった。私にできることはそれくらいしかないから。
「ふふっ、ありがとう。高校生の息子がいるんだけど、貴方みたいな人が彼女だと幸せね」
『と、とんでもないです。私なんて…』
お世辞を言われ慣れていない私は、顔が赤くなってしまう。そんな私を見て、カイトくんママは微笑んでいた。
「姉ちゃん!」
『ん?どうしたの?』
すっかり元気になったカイトくんが、制服のスカートの裾を引っ張った。私は屈んで、カイトくんと視線を合わせた。
「姉ちゃんとまた会える?」
『また会えるよ』
「いつ会える?」
『カイトくんがいい子にしてたらまた会いに来るね』
私がそう言うと、カイトくんは不貞腐れたように頬を膨らました。
「俺、いつもいい子だし」
『そっか、じゃあ、またすぐに会いに来るよ〜!』
よしよしと頭を撫でてみたけど、カイトくんはムスッしたままだ。
…えっと、どうしよう。
拗ねた様子のカイトくんに戸惑っていると、カイトくんが小指を出してきた。
「指切りげんまん、また会う約束」
『うん、約束だね』
小指をカイトくんの小指に絡めて、指切りげんまんをした。約束をするとカイトくんは嬉しそうに笑った。その姿を見てしまうと、また会いに来ようかなと思い胸が熱くなった。
「若葉!」
ほのぼのとした空気の中、響き渡った怒鳴り声に肩が震えた。恐る恐る振り返ると、鬼の形相をした恭ちゃんが仁王立ちしていた。
「…葉月の鞄」
『あっ!ご、ごめんなさい。ってもう授業始まってる!?』
恭ちゃんに言われてお姉ちゃんの鞄を持っていることに気づき、腕時計で時間を確認して気が引いた。私が鞄を持っているということは、お姉ちゃんは教科書も筆箱も何も持っていない。
…とんでもないことをしてしまった。
後先も考えずにカイトくんを助けた。そのせいでお姉ちゃんに迷惑をかけてしまった、自分の馬鹿さ加減が嫌になる。
『早く持って行かないと…』
「恥ずかしいから教室に来るなって言われてんだろ。俺が持っていく。」
『…ごめんなさい』
お姉ちゃんの鞄を渡すと、恭ちゃんは呆れたように大きく溜息を吐いた。それに肩が震えて、恭ちゃんを直視できず地面しか見ることができない。
こんな迷惑な幼馴染で申し訳なく思う。
「ごめんなさいね、息子が迷子のところ助けてくれたの。あまり怒ってあげないで欲しい。」
『カイトくんママ…』
カイトくんママは心配そうにして、私を庇ってくれた。会ったばかりの私のことを心配するなんて…優しさに感動して目に涙が溜まる。
「…そうですか、でも学校があるのでこれで失礼します」
恭ちゃんは頭を下げると、私の腕を無理やり引っ張りその場を離れた。私は腕を引かれながらも振り返り、カイトくんとママに会釈して手を振った。2人とも笑って手を振り返してくれたので、安心して前を向き足を動かした。
恭ちゃんはスタスタと大股で歩くので、腕を掴まれている私は自然と小走りになってしまう。きつく掴まれた腕が痛いけど、こんなに怒っている恭ちゃんを久しぶりに見た。
『きょ、恭ちゃん…』
「なに」
『迷惑かけてごめんなさい』
「ハァ、迷惑じゃなくてさ…」
怯える気持ちを押さえ込んで勇気を振り絞り話しかけると、恭ちゃんは足を止めた。それに反応できなかった私は背中に激突してしまった。
申し訳なくて急いで離れようとするが、更に手を強く掴まれたことで身動きが取れなくなった。
「いつも世話をされてるくせに人助けするなんて…人の事より自分を何とかしろよ。」
恭ちゃんの言葉が1つ1つが胸に突き刺さる。まるで釘を心臓に打ちつけられように痛いけど、何も言い返せない。だって恭ちゃんは正論を言っているから。何もできないくせに、一丁前に人助けなんて笑っちゃうよね…
だけど、カイトくんを助けたことに後悔はしていない。
馬鹿なことをしたと言われても、あのカイトくんとママの笑った姿を見たから。こんな私でも役に立てて良かったなと心から思っている。
『…ごめんなさい。だけど、放っておけなくて…』
「助けるなとは言っていない。行動する前に俺に言えって、何のために一緒に登校してんだ。」
『2人の邪魔…したくないなって…』
「こっちの方が迷惑。急にいなくなって、どんだけ探したと思ってんだよ」
…ごめんなさい。
恭ちゃんはお姉ちゃんのことが好きだから、私のせいで困っているのが許せないはず。鞄を持ったままいなくなったから、私を探すしかないもんね…私は俯き視線を地面に落とす。
「…悪い、強く言いすぎた」
『…私が悪いから、本当にごめんなさい』
申し訳なくて謝ると、恭ちゃんは握っていた私の腕を無言で離した。ずっと掴まれていたところが少し痛んだ。
それから恭ちゃんと一切の会話なく学校に向かった。お姉ちゃんの鞄を届けるために、恭ちゃんとは途中で別れた。その際にもう一度、謝ろうと思ったけど恭ちゃんは振り返ることなく行ってしまった。
教室の後ろのドアから恐る恐る入ると、先生と目が合った。もう既に1時間目の授業が30分は過ぎている。
「百井が遅刻は珍しいな。どうした?」
『ま、迷子の男の子を保育園に送って行ってました』
「そうか、良いことをしたな」
先生はそう笑い、遅刻したことを咎めなかった。驚くことに寧ろ褒めてくれた。
まさかの反応に呆気に取られつつ自分の席に座ると、前を向いていた千枝ちゃんが振り返って頭を撫でてくれた。先生や千枝ちゃんに褒められた私は、張り詰めていた気が緩んだ。自然と目に涙が溜まった。
…でも、ここで被害者面して泣くのは違う。
歯を食いしばり、溢れそうな涙をどうにか堪えた。
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