それならクジラに聞いてみろ
──バンクーバー島沖2km カナダ 北太平洋
空は夏色。海は凪。目に映る世界はどこまでも青い。大空の底と海の上澄みが混ざり合う場所にて、空間の境界は青々と溶けて。
「ソナーに感あり」
周囲1km、周辺海域に船舶の影なし。海面は穏やか、潮流も乱れなく、絶好のホエールウォッチング日和。
マリーアンは操舵室からの声を聞き、いそいそと薄手のパーカーを脱ぎ去った。さあ、クジラが呼んでいる。
カナダ生まれカナダ育ち、起伏の激しい肢体がワンピース水着に包まれている。いかにもアングロサクソンっぽく、太陽の光さえも弾むように白くて眩しい。
「機関停止。あとは波任せ」
杏樹は操舵室の丸い小窓からマリーアンの水着姿を恨めしそうに睨め付けた。
まったく、カナダ女め。見せつけるように脱ぎおって。心の中でつぶやいて、潮っけを吸って重く胸にのしかかる綿Tシャツの胸元を覗く。マリーアンのような大陸の肥沃な大地とはほど遠く、島国の痩せた平野がウェットスーツにすっぽり収まっている。
「アンジュ。ほら、早くー」
夏の太陽が真上に眩しく浮かぶ頃、この洋上で歌い合おうとクジラと約束していたのだ。約束の時間ぴったり。太陽は船の真上。船の真下百メートルに大きな影。約束の歌を贈ろう。合図の声を送らないと、違う船だとクジラに思われてしまう。
「先に飛び込んでていいよ」
言うが早いか、海面が爆ぜる音と水飛沫。早速マリーアンは海の人となっていた。青々と凪いだ海面はまるで広大な一枚の絨毯のようで、マリーアンは絨毯に落ちた小さなパン屑のようにぷかぷかと浮かんだ。
まったくせっかちが過ぎる。こっちは準備に時間がかかると言うのに。杏樹は電気コントラバスのケースを引きずりながら悪態の一つや二つも吐きたくなった。
マリーアンが落とした波紋も静かに呑まれ、すっかり凪いだ海面は夏空を映したかのように青々しく澄んでいる。どこまでも深く透き通り、小魚一匹も漂っていないアクリルの塊のようだ。
マリーアンは浮き輪の中に膨らんだ胸とくびれた腰を強引にねじ込み、ぷかり、海面に浮かびながら船上をせかせか歩き回る逆光の人影を目で追った。
アニメ絵が描かれた子どもっぽいTシャツを脱ぐ杏樹。ハーフ袖のウェットスーツから伸びる両脚はすらりと細く、胸も薄くて何なら向こう側が透けるほどだ。日本女め。細く引き締まった身体を見せつけるか。
「アンジュもおいでよ。ぬるくて気持ちいいよ」
「海中じゃバスが弾けないでしょ。あたしはデッキで日光浴よ」
水飛沫がぎりぎり届かないぐらいに水中スピーカーのブイを投げ込んでくる杏樹。小柄な彼女の身体と同じくらい大きな電気コントラバスをケースから起こす。
「ハイハイ。チューニングよろー」
「スピーカーセッティングよろー」
結局は仲がいい二人である。
クジラは語る。
ヒトの可聴域にわずかにかかる極めて低い音色を響かせて、はるか離れた海を泳ぐ仲間ともコミュニケーションを重ねる。その音は数百km届くほど力強く、誰にも届かず海に溶けるほど儚い。
「元気してたー?」
マリーアンの声が水中スピーカーで海中に拡散される。
デッキ上で杏樹は、彼女の声に対応させた音階を電気コントラバスで弾いた。重々しい低音が電気的な意味を持たされて海に放たれる。
その声は空気中にいる時にはほとんど聞こえない。震える海の水に心を浸している時だけ感じられる声。
ヒトは歌う。楽器という数多の道具で色とりどりの音色を奏で、同時に大勢の仲間と密接なコミュニケーションを図る。その音は派手で賑やかな会話となる。
海のはるか深み。52ヘルツの歌声が鳴り響いた。
水中マイクに繋いだタブレットPCが海からの歌声を音階へ分解して、言語解析に特化させたAIが練り込まれた概念を抽出してクジラ独特の感情をあてがう。
「返信あり。『また会えた』って意味かしら?」
歌のリアクションが早い。
「すぐ近くまで泳いできてるみたい。機嫌がいいのかな」
通常のクジラはおよそ20ヘルツの低域の声を持つ。しかしこの海でただ一頭、52ヘルツの声で歌うクジラが確認されている。
その特異な声を持つクジラは他のクジラに聞こえない声で語り、歌えない音域で歌う。マリーアンと杏樹はその地球上ただ一頭の孤独に歌う個体と何とかコミュニケーションを取れないものか、と研究していた。
「直接顔見て話したいからさー、海面まで上がっておいでよー」
浮き輪にはまって浮かぶマリーアンが水中スピーカーの球体を足の裏でペチペチ叩く。
透明度の高い夏の海には小魚の姿一匹も見えない。そんな透き通った塊の向こう側、話し相手は海中百メートル下にいるはず。
しかしまあ気安く言ってくれる。杏樹はマリーアンの浮き輪をイモガイのような吹き矢で狙い撃ちしたくなった。
人間の複雑な言葉をクジラ語に変換して、52ヘルツの周波数に落とし込まなければならない。思考は決して同じ形をしておらず、音もまた同じ波形を描き出すのは困難だ。人の言葉をクジラの歌へ変換するのは宇宙人との会話レベルに無茶な翻訳なのだ。
弦楽器の中で最も低音を奏でられる電気コントラバス。杏樹はゆっくりと弦を撫で、低く波打つ言葉を奏でる。杏樹の歌はアンプを通して電気の波へと増幅され、ゆったりたゆたう水の塊に溶けていく。
「なんて言ったのー?」
浮き輪のマリーアンが弾き終えた杏樹に訊ねた。もっと単語音階が連なって聞こえると思ったのに、どこか、本能で汲み取るには音楽が短いと感じた。
「『海面』、『ジャンプ』、『見たい』って歌」
「私吹っ飛ばされんじゃーん」
マリーアンは杏樹目掛けて海面を蹴っ飛ばした。看板の杏樹はそんなのお構いなしにもう一度『海面』『ジャンプ』『見たい』の歌を奏でた。
「目の前で見たくない? クジラのジャンプ」
「う、見たい」
海は静か。耳を澄ませば、この海でたったひとりの歌い手の声が胸を震わせる音さえ聞こえそう。
クジラの返事の歌はすぐに届いた。
水中マイクがキャッチした歌は言語解析AIが翻訳してくれる。杏樹はタブレット端末に表示された単語を読み上げる。
「『やらない』ってさ」
魚。逃げる。食べる。できない。
重低音は波のように連なって語る。太陽の光も届かない海底から、太陽に晒されて焦げ立つちっぽけな存在へ。
杏樹はさらにタブレット端末を突っついてクジラ語に翻訳させ、コントラバスでその音階を再現した。水中スピーカーがかすかな漣を呼ぶ。
ごはん食べられてる? お腹減ってない?
海鳴りのノイズのような腹に響く低音の対話。クジラの歌はマリーアンの心臓を直に震わせて、杏樹の音楽はマリーアンの声とともに海の奥底へしんしんと降っていった。ヒトとクジラの歌はなおも繋がる。まるで混声合唱曲のように。
たくさん。仲間。たくさん。ごはん。食べる。好き。追う。食べられる。嫌。逃げる。
どうやら52ヘルツのクジラはやたら饒舌なクジラのようだ。
仲間のクジラがたくさんいるの? ごはん足りてる? ここらの海は狭くない?
杏樹の音楽も手慣れてくる。雄弁に語ってみようか。
仲間。たくさん。魚。少ない。仲間。食べられる。あいつ。増える。逃げる。
ふと、杏樹は気になる単語を拾い上げて繰り返してみた。食べられる? 逃げる? クジラが? あいつって何者?
心なしか、低音の歌に緊張感が含まれた気がする。海底からのうねりか。浮き輪で浮かぶマリーアンがゆらり揺れた。
あいつ。大きな口。食べる。できない。逃げる。浅い海。安心。
「マリーアン、下に何か大きいのいる?」
浅い海。そういえば、クジラが浅瀬に座礁する事件を度々耳にする。杏樹は思った。コントラバスの演奏を切り上げる。
クジラの問題なら、直接クジラに聞いてみればいい。
マリーアンも浮き輪から海に潜る。海は静かに透き通ってはいるが、目に見える範囲に影はない。海の底の方は真っ暗で見えないけど。
「あいつって何? クジラを襲う大きな口って何よ?」
杏樹はコントラバスで緊張した音楽を奏でたが、返事はすぐに返ってこない。
海面のマリーアンと船上の杏樹はじっと見つめ合い、二人ほぼ同時に大声を上げた。海の底まで届けとばかりに。
「メガロドン!」とマリーアン。
「モササウルス!」と杏樹。
一瞬の間を置いて、二人は笑い声を重ね合わせる。
「ちょっとでかい軟骨魚類のくせに!」
「恐竜もどきの海トカゲの分際で!」
そこへクジラの声が飛び込んできた。意外と近い。スピーカーを通さず、直接マリーアンと杏樹へ歌う。
あいつ。来る。狙ってる。君たちを。
「マリーアン、上がって!」
「アンジュ、エンジンスタート!」
逃げよう。一緒に。クジラも歌う。少し楽しげに。
結局は仲がいい三人である。
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