圧縮荷重のパウンドケーキ


『ケーキ作りはね』


 バター、150g。無塩のものを用意すること。


『小さなルーチンが集合した連続ワークなの』


 卵、3個。冷蔵庫から出して室温に戻しておくこと。


『レシピの手続きを疑わず、自分の好みを押し付けず、決して途中で手を止めず』


 上白糖、150g。グラニュー糖ではしっとりと仕上がらないので上白糖を使用すること。


『冠動脈バイパス手術のように、丁寧に手順通りに正確な仕事をすればおのずと美味しいケーキができあがるのよ』


 薄力粉、150g。ふるいにかけて空気をよく含ませておくこと。


『大丈夫、フルールならできる。きっと素敵なケーキを焼ける』


 ディスプレイの中の婆さまは手術着のような淡いグリーンのエプロンを身に纏い、泡立て器でアルミニウムのボウルを軽く打ち鳴らして私をフルールと呼んだ。


『それとも、ハナコ、と呼んだ方がいいかしらね』


 ちらり、ディスプレイの向こうからこちらの顔を覗き込むようにして、婆さまは控えめに付け加えた。


「フルールもハナコも、どっちも私の名前だよ。婆さま」


 ベテラン心臓外科医にしてケーキ作り名人であった婆さまが死んで、もう一年が過ぎた。いや、まだ一年しか経っていないと言うべきか。


 どちらにしろ、それだけの時間があったのにも関わらず、私は未だに婆さまのパウンドケーキを再現できないでいた。子どもの頃、婆さまの故郷フランスで食べたパウンドケーキは、私にケーキ作りの楽しさと奥深さを教えてくれた。


「アレクサ、始めるよ」


「はい。準備はすでに完了しています」


 私は幸運にも婆さまの外科手術の技能は譲り受けたが、残念ながらケーキ作りの才能は遺伝し損ねたようだ。婆さまが亡くなる前に送ってくれたビデオメールを参考に幾度となく挑戦しても、あの素敵なカトル・カールは私の前に現れてはくれなかった。


「婆さまの動きを正確にトレースしてね」


「はい。動画は完璧研究済みです」


 アレクサは私よりも頭一つ大きな身体のくせにその手捌きは正確無比で、細長い指先はまさしく精密機械のよう。どんな無茶な指示でも私の意図を汲み取って実行する優秀なオペ・アシスタントだ。冠動脈バイパス手術の技術は人間以上のスキルを持っているが、さて、ケーキ作りのセンスはあるか。




 カトル・カール。バター、卵、砂糖、小麦粉。それらケーキの四大元素を同量ずつ使用することから「4×1=4」でフランスではカトルカールと呼ばれる。それぞれの材料を1ポンドずつ使うことからイギリスではパウンドケーキと呼ばれ、焼き菓子の基本中の基本のケーキだ。その作り方はシンプルゆえにスキルの差、センスの有無が如実に現れてしまうケーキとなる。


 まずは室温に戻って緩くなった無塩バターに上白糖を躊躇なく混ぜる。砂糖もケーキのしっとり感を形成する要素の一つだ。カロリーなんて気にせずレシピ通りに投入すべし。


「ハナコ先生、一つ聞いてもよろしいですか?」


 アルミニウムボウルに泡立て器を軽く当てこすりながら、アレクサは私の方に顔を向けずに言った。真っ直ぐにボウルの中へ視線を落としている。


 出だしは順調のようだ。ビデオメールの婆さまもアレクサと同じ音を立てている。砂糖の粒子が細かくほぐされてバターと混じり合う金属光沢のある甘い音色だ。


「動画のお祖母様は、何故、あなたをフルールとハナコと、異なる二つの名前で呼んだのですか?」


 私はアレクサのしゅっと背筋を伸ばした機械的な立ち姿に答える。腰が痛くなりそうな微妙な角度で少しだけ前屈みになり、脇を締め、長い腕を揺らさずに器用に手首を回転させている。婆さまと同じモーションだ。


「私はフランスと日本のミックスだ。日本人の母からは日本名のハナコと呼ばれていた。そしてフランス人の婆さまからは、フランス名のフルールと。実は私は二つの名前を持っているんだ」


「それは知りませんでした。すみません。フルール先生とお呼びした方がいいですか?」


「いや、フルールと呼んでいたのは婆さまだけだ。ハナコでいい」


 柔らかなバターはざらりとした砂糖を溶かしつつ包み込み、やがて白くふっくらとバター色から艶を失っていく。じゃりじゃりと砂糖がボウルに擦れる音もなくなりつつあった。


「……母と婆さまはあまり仲が良くなかった。私を父と同じく研究医にさせるか、それとも自由に道を選ばせるか。二人の未来への考えはそれぞれ違っていた」


 そんな些細な理由で、私と婆さまとの距離は物理的に開いてしまった。教育熱心だった母は私に最先端の医学を学ばさせるために婆さまの家を、祖国フランスを離れてしまった。


「母と家を出たのは、私がまだ16の時だ」


「それ以来お祖母様とは会っていなかったんですか?」


「学生の私にはとにかくフランスは遠過ぎた。何年に一度、会えるか会えないかだ。でも母に内緒で、こっそりメールのやりとりはしていた。また婆さまのパウンドケーキが食べたいよって」


「それで今、思い出のケーキを再現したいんですか」


 アレクサは完璧な相槌を打ちながら、完全な動作でケーキ作りのルーチンをこなしていた。連続ワークは次のステップへと続く。バターと砂糖とがよく混ざったら、卵の出番だ。冷たくも温かくもない卵の黄身と白身とをよく撹拌して、バターの油分と卵の水分とが分離しないように少しずつ、とろとろと少しずつ、バターの海に卵を垂らして渦を巻いて飲み込ませる。


「婆さまのレシピ通りに作っているんだけど、どうも口当たりがふわふわ過ぎるんだ。ベーキングパウダーも使っていないのに、婆さまのケーキの重みというか、しっかりとした食感が得られないんだ」


 婆さまのパウンドケーキはしっとりと中身が詰まって、それでいて口溶けの良さが際立っていた。思い出補正だけでなく、決定的な何かが足りないんだと思う。その何かが、まったくの謎だ。


「今のところ、動画を完璧にコピーできています」


 アルミニウムボウルが奏でる軽くかすれた金属音も、アレクサが振るう手首の回転速度も、見事に婆さまのモーションとシンクロしている。


「オーブンの予熱はいかがですか?」


「180度。いつでもオーケイだ」


 このケーキ作りのために、わざわざネットオークションで旧式のスチームオーブンを探した。道具一つ一つに至るまで婆さまのケーキ作り環境とほぼ同じに設定した。材料、動作、環境。これらが揃い、まったく同じケーキが焼けるはずだ。理論的に。


 さあ、お次はふるいにかけた薄力粉の登場だ。ケーキ作りもいよいよ佳境に差し掛かる。大胆に、臆することなく、手を止めず。婆さま曰く、集合した連続ワークだ。


 薄力粉をアルミニウムボウルへ招き入れる。粉に圧を加えないように、柔らかめの樹脂べらで切るようにしてバターと砂糖と卵と小麦粉の集合体をざっくりとかき混ぜていく。


 ここからはスピード勝負だ。粉感がなくなるまで混ぜ切った生地を、濡れた絹の布地を丁寧に折り畳むように型に流し込む。生地が途切れないように、一枚の塊が折り重なるように。すべての生地を一気に流し終えたら空気を抜くためにケーキ型を持ち上げて軽く落とす。とんとんと、空気はまだいますか? とノックするみたいに型を揺らしてやる。


 ケーキ型に生地が収まったら、樹脂べらで表面を慣らすようにして生地の中央部をへこませてやる。そうすればきれいな盛り上がりを演出できる。そして速攻でオーブンへ。


「どうだ?」


「パーフェクトです」


 アレクサが親指を立てていいねサインを作った。動画の中の婆さまも親指を誇らしげに掲げている。


『簡単でしょ?』


 婆さまはオーブンを覗き込み懐かしく笑っていた。動画を一時停止。ディスプレイの婆さまの笑顔を眺める。もう婆さまはいない。動画の中のケーキを焼ける人は、地球上にはもう誰一人いない。


「とんでもない。苦労の連続だ」


 私は婆さまに親指を立てて見せた。




 そして45分後。私は現実に打ちのめされる。オーブンから焼き出されたパウンドケーキはこんもりと膨らんでいた。


「これは膨らみ過ぎですね。動画のケーキよりも体積が約16%も大きい」


 アレクサが焼き上がったケーキを様々な角度から観察して、結果を冷静に分析した。


「またこれだ。私が作ると、どうしても婆さまの動画より膨らんでしまうんだ」


「オーブン温度と焼き時間、室温や湿度は関係ありますか?」


「間違いはないはずだ」


「見た目は確かに違いますが、味はどうでしょうか。私は味見できませんが、ハナコ先生、一切れ試してみますか?」


 ケーキナイフをかざしてアレクサは言った。そりゃあアレクサに味見は無理だろう。アレクサはオペ・アシスタントに特化したAIを搭載したアンドロイドだ。ケーキを作る動作を正確無比にトレース出来ても、食べ物の味を理解できっこない。


「味見したいけど、まだ粗熱がとれるまでケーキは落ち着かないよ」


 私はアレクサからケーキナイフを取り上げた。精密動作を得意するオペ・アシスタント・アンドロイドにケーキを作らせるミッションは、どうやら失敗に終わったようだ。まだ、婆さまのパウンドケーキは手の届かない遠くにある。


「粗熱をとる、となると、このまま放置しておくのですか?」


 アレクサがわざとらしく首をかしげてみせた。


「そうだ。焼き上がったケーキを落ち着かせてやる必要がある」


「だとすると、重力がケーキの完成度に影響を及ぼしますね」


「……重力?」


「圧縮荷重の影響でケーキは食感を変える可能性があります」


 私の頭の中でパチンと火花が散った。脳細胞を弾けさせるスパークがそのまま目玉から飛び出しそうだった。


「それだ。どうしてそんな単純なことに気付かなかったんだ」


 私は研究室の窓から、月面の灰色の地より望める青い地球を睨みつけた。ここはルナベースシティ、静かの都市だ。地球のフランス、婆さまの故郷ブルゴーニュ地方とは重力差が6倍もある土地だ。


「地球の重力が荷重して、婆さまのケーキをしっとりと密にするんだ。ここ月面では、婆さまのケーキはどうやっても再現不可能だったんだ」


 私はディスプレイの婆さまに向き直った。再生停止状態の婆さまは穏やかな笑顔を見せていた。私を呼び慣れたフルールとではなく、口にしたこともないハナコと呼んでくれた婆さま。


「このケーキを食べたければ、地球こっちに帰っておいでってこと?」


 婆さまは笑顔で応えてくれていた。


 月の低重力下ではパウンドケーキはうまく焼けそうにない。地球の重力下で圧縮荷重を試してみるか。ついでに、婆さまのお墓にパウンドケーキをあげようか。


 私は速攻で地球行きのチケットを予約した。

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