瀬戸内少女妄想ゴハン ② 幻のちくわパン
空はずどんと突き抜けて青い。
朝。まだ青くなったばかりの空に薄っぺらい雲が連なっているが、登りたての太陽の真っ黄色い光にトロトロと溶かされて、今日は一日中濃ゆい青空が見渡せそうだ。
鈴鹿は瀬戸内海を一望できる坂の上の自宅ガレージから愛車のスーパーカブを引っ張り出し、ひょいと一歩後ろに下がり、空の青と瀬戸内海の碧と、先週塗装したカブの黄色とのコントラストを、両手の指で形作ったファインダーから覗き込んだ。
「うん。悪くない」
前髪を留める二本のヘアピンの色は派手な黄色。鈴鹿のトレードマークだ。その黄色に合わせてカブのフェンダーの色を決めた。空の色と海の色によく映えるカラーだ。
そうだ、まだ写真撮ってなかったっけ。鈴鹿はふと思い付き、通学バッグからスマートフォンを取り出す。カメラアプリを起動し、スマートフォンを縦に構え、いや違うな、一歩引いて横に構え直し、この角度しかないというベストポジションを見つけ、青と碧と黄色を写真の中に閉じ込めた。
「いいじゃーん」
画像の中のカブと現実のカブとを見比べていると、視界の端っこを小さなバスが走り抜けようとした。
「うわ、もうそんな時間!」
坂の下、くっきり水色と淡い乳白色のストライプのバスが通り過ぎて行った。あの市営バスは毎朝鈴鹿が追いかけるバスだ。あのバスの通過時間が遅刻しないちょうどいい出発時間となる。
それに何より古都子が乗っているはずのバスだ。ひょっとすると電波時計よりも時間に正確な古都子は必ずあのバスに乗り、必ず左後方車輪の上のシートに座る。
「あーん、待って待って」
鈴鹿はヴィンテージスタイルのヘルメットをかぶり、ゴーグルを下ろし、レザーグローブを着けた。ちらりとミラーを覗いて前髪を整えて、よし、きれいに斜めに決まってる。エンジンスタートだ。
膝丈上の紺色のプリーツスカートを翻してキックスターターを一気に蹴り下ろせば、スーパーカブはまるでヘビーメタルのベースラインのようなエンジンが吹き上がる軽快なリズムで応えてくれた。
「よし、調子いいね」
右手人差し指と中指をブレーキレバーに引っ掛けてダブルクリックするように二回コンコンと握り込む。両腕を肩幅に広げてハンドルを上からギュッと押し込む。フロントサスがキュポッと鳴った。ブレーキ、サス、ともに異常なし。
「さあ、古都子先輩を追うよ」
おっと、忘れるところだ。鈴鹿はスマートフォンをハンドルに自作したホルダーにセットし、音声入力モードへシフトする。
「ナビ起動。コンマゼロゼロ単位までタイム計測」
スマートフォンがマップを呼び出した。GPSで現在座標をマップ上にドットで表す。
鈴鹿はスーパーカブのスロットルをオンにした。人差し指と中指でブレーキレバーをグイッと握り締めて、左足を軸にするようにカブの後輪を右方向へスライドさせる。勢い良く回転を始めた後輪が砂埃を巻き上げて大きく横に滑っていった。
進行方向、よし。カブがちょうど45度角度を変えたところでアクセルを少し緩め、フロントブレーキをリリースさせる。後輪はトルクを回復させて地面を噛み、わずかに前輪を浮かせて飛ぶように駆け出した。
「行ってきまーっす!」
自宅兼水産加工工場の敷地内を突っ切り、早出の従業員に見送られて、鈴鹿は瀬戸内海を臨む坂を一気に駆け下りた。
市営バスは随分と先へ行ってしまったようだ。もうその四角い車体の影すら視界にない。鈴鹿はアクセルを緩めることなくハンドルにセットされたスマートフォンをチェック、頭の中で数式を展開させて理論上のバスの推定位置を計算した。この先信号が一つ、その間にバス停留所は二つ。十分に追いつける。
「約120秒先。よし、やるか!」
ミラーを確認。後方に継続車はなし。前方もクリア。中学生らしき数人が仲良く歩道を歩いているだけだ。
海沿いの市道は緩やかに右へカーブし、視界は良好。路面もよく乾いていて状態はいい。
鈴鹿は風を真正面に受けながら、ぺろり、唇を舐めた。
「スーパーカブ『ヴィングスコルニル号』、変形ッ!」
鈴鹿の声に反応してスマートフォンが一回明滅した。
バキッとスーパーカブのフロントフェンダーが割れた。フロントフォークの片方は前輪を咥えたまま大きく開いて後方へ下がり、もう片方は地面から離れ、ハンドルを握る鈴鹿の上半身もそれに合わせて起き上がった。カブは疾走しながらシートが迫り上がり、鈴鹿の華奢な身体はさらに浮き上がる。
後輪を支えていたスイングアームも二本に分かれて、一つは走行中の車輪を支えたままやや前方にせり出し、片方のスイングアームは車体を半分に割るようにして鈴鹿の側に立ち上がった。
ハンドルも左右に分割された。鈴鹿の両手に握られたまま肩幅より少し広い位置で縦方向に据え付けられる。フェンダーとエンジンカバーが幾つかのパーツに分かれて、鈴鹿の身体を守るアーマーのように固定された。
マフラーがちょうどサムライがカタナを持つように腰の位置に収まり、ヘッドライトが鈴鹿の胸元まで持ち上がり、ギラリと一際まばゆい光を放つ。
「行っくよー!」
二輪モードから人型へ変形したスーパーカブはエンジン音をまるで高速回転するモーター音のように甲高く張り上げて、両足に位置する二つのタイヤで地面を蹴った。
氷上を滑走するスピードスケーターのように前傾姿勢で両足のタイヤを交互に繰り出し、一歩一歩足を踏み出すごとに加速していく。
緩やかなカーブが終わり、視界の開けた直線道路に出た。左手には住宅地が並び、海風除けのブロック塀やフェンス、垣根や庭木、生垣がすごいスピードで後方へ吹っ飛んで行く。
右手側は海だ。一段低くなったところに海岸線が走り、防波堤と消波ブロックが延々と波に洗われている。青い空に散り散りになった細かい雲が風に流され、碧い海は遠くに島々を浮かべて、青色に満たされた光景はあまりに広くてどんな速度でもそこにあり続けた。
鈴鹿はこのスピードが作り出すコントラストが特に好きだった。左側の人々が生活するエリアはやたら細々として落ち着きがなく後方へ走り去り、右側の海と空は雄大にどっしりと構えていて、いつ見ても不変の青い境界線がどこまでも伸びている。
少し右、身体を開くようにしてスーパーカブを走らせる。カブの両脚は前を向いたままで、鈴鹿は全身に走行風を受け海に向き合った。
スマートフォンが喋る。
『前方、バスを射程に収めました』
「おっと、早く追い付かないと」
今朝の海は格別にきれいだが、いつまでも見つめているほど時間はない。海よりももっときれいな古都子に朝の挨拶をしなければ。
視界ギリギリの前方に、左へ曲がる水色ストライプのバスを確認。あの左カーブが海沿いの道の終わりだ。住宅地に入り、バスは自然とスピードを落とす。追い付くならそこだ。
右手のスロットルを開く。全開だ。風が一段と強く頬をはたく。イエローのヘアピンでせっかくきっちり揃えた前髪が風と手を取り合って暴れた。
ぐんっと左カーブが一気に近付く。鈴鹿は海を眺めるため身体は右側に開いている。タイミングを見計らい、カーブに突入するよりも早く後方に倒れ込むように上体を反らしてやる。
カブは両脚をラインに並ばせて、バランスを取るように鈴鹿の肩の高さまで両腕を上げてボディを一気に左へ傾けた。鈴鹿がアクセルを緩めてさらにその角度を鋭くする。カブの左腕がアスファルトに触れそうになるまでボディをギリギリ倒し込む。
左へ傾くカブに仰向けに身体を預けているため、鈴鹿の頭の上を家々の残像が猛スピードで通り過ぎていく。さっきまで見えていたストライプのバスの姿はもうない。左折後、すぐに右折だ。
「ヒュウッ」
鈴鹿は強く息を吐き捨ててアクセルを開き腹筋を使って身体を起こし、その勢いのままに今度は前に身体を倒した。カブがエンジン音を高めて跳ねるように起き上がり、すぐさま右へボディを傾けた。
「曲がれーっ!」
鈴鹿の顔面ギリギリをアスファルトが溶けるような速さで流れていく。紺のプリーツスカートが、赤いリボンタイが、黄色いヘアピンで留めた前髪が、アスファルトに持って行かれそうになるまで限界を越えてカブのボディを右へ倒す。タイヤが上げる悲鳴にも似たノイズがボディを通して聞こえてくる。カブの右腕が地面に触れて火花が吹き飛んだ。
斜めに傾く視界を塞いでいたブロック塀が流れ去り、右カーブを抜け切ったことを潮風の香りが教えてくれた。
「よっと!」
しかし、右カーブを抜けると、そこにいたのは一匹の仔猫だった。
「ウソッ!」
この体勢では速度は落とせない。行くしかない。鈴鹿は身体を起こさず、フルスロットルでさらなる加速の世界へとカブを突っ込んだ。
猛スピードでカブは仔猫のすぐ側を走り抜け、ドリフトするようにボディの角度とは少しずれた方向へスライドを始めて、歩道を一気に乗り越えてブロック塀に突進した。
鈴鹿は左脚を振り上げる。膝丈上のプリーツスカートが翻る。一応スパッツを履いてはいるが、ええい、サービスだ。
大きく脚を振り上げ、カブも鈴鹿と同じ片脚立ちの姿勢で一本のタイヤを高く、ブロック塀を蹴り倒すような勢いで押し付けた。そしてスロットルを全開にして加速を保ったまま地面に残っていた右脚を後ろ側へ蹴るように放り出す。
視界が大きく傾いた。頭上にあるはずの青い空がぐるりと回転して左手側に落ちていく。足の下にあるべきアスファルトは右側にせり上がり、鈴鹿の観る世界は完全に横になった。
鈴鹿とカブはブロック塀を足場に壁走りをやってのけた。
行け、カブ! このまま横たわった世界を駆け抜けて、一気に古都子先輩の元へ!
と、鈴鹿がハンドルにセットしていたスマートフォンがリンッと鈴の音を鳴らした。メールだ。送信元は古都子。鈴鹿は顔を上げてようやく追い付いたバスの中の古都子を探した。
歩道にいた仔猫がトコトコと走り抜ける黄色いスーパーカブを見送った。
スカートを翻してゆっくりと走っていた鈴鹿がスマホへ音声入力。
「メールを開いて」
『古川古都子さんからメールです』
スマートフォンが電子的なウィスパーボイスで答える。
水色ストライプのバスを見やれば、左側後方、指定席に座る古都子がこちらを見ながらスマートフォンを指差していた。
「メール読んで」
『余所見運転注意。そもそもバイク通学は校則違反だ。コトコ』
「ハーイ」
鈴鹿はアクセルを緩めてゆっくりとブレーキレバーを引いた。バスはもはや停留所に到着する。
「おはようございます! 古都子先輩! 今日もまたいつもの席でしたね!」
鈴鹿は停留所からはカブを押して歩いた。隣の古都子の凛とした背筋の伸びた歩き姿が今日も美しい。
「おはよう、鈴鹿。いつかは校則違反のバイク通学も見つかるだろう。その時が必ず来ると思っておけ」
「大丈夫です。あたしはカブで学校に通ってる訳じゃなく、たまたま学校と同じ方向にある伯父の店に配達してるだけです。いわば家業の手伝いをしてるだけなのです」
「人はそれを屁理屈と呼ぶ」
学校最寄りの停留所から歩いてすぐ、鈴鹿の伯父が経営する美里蒲鉾店がある。鈴鹿の自宅兼水産加工工場で仕上げた製品を販売する他、自家製パンも扱っていて鈴鹿も含めて腹を空かせた女子高生がよく利用する店だ。
「さて、ちくわパンはまだあるかなー?」
鈴鹿は店の駐車場の隅っこにカブを停め、バックパックから配達物のかまぼこ製品を取り出した。
店内には鈴鹿と古都子と同じ制服を纏った女子高生が数人レジ待ちをしていて、鈴鹿はその列を横目に目的のちくわパンのあるコーナーへ急いだ。
「あー!」
そこにあるべきものはなかった。幾つも並ぶ惣菜パンのコーナーに、不自然にぽっかりと空いた空っぽのカゴがあった。
「あたしのちくわパンがー!」
「相変わらずの人気ね。諦めなさい」
「次の焼き上がりは?」
レジに立つ叔母に目線を送る。あるよね? あたしのちくわパンあるよね? と願いを込めて。
「無理だ。焼き上がりを待っていては遅刻する。あと5分早く家を出れば買えるだろう」
鈴鹿の悲しげな視線に気付いた叔母はゆっくりと首を横に振った。ちくわパンの謎は解けぬままだ。
「それじゃあ古都子先輩に会えない!」
「知るか」
ちくわパン。それは女子高生の儚い夢。
ちくわパン。そのちくわの穴からこぼれ落ちる叶わぬ願い、脆い希望。
ああ、ちくわパン。
ちくわパン。
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