2-3

 二ヶ月がたった。


 リンゴや胡桃を食べ続けたお陰か、私の滑舌は大いに改善を示したのだった。

 どうやら硬いものを食べて、顔の筋肉が鍛えられたのが良かったらしい。


 おもえば侯爵家での食事は良い素材を使っていたらしく、提供される料理はほとんどが柔らかいものばかりだったのだ。


 たしかにそれじゃあ、あまり咀嚼しないですぐに飲み込んでしまうだろうから、顔の筋肉が発達していなかったのもうなずける。


 これからは滑舌の良い普通の言葉でしゃべれるし、何より舌ったらずな発音が治ったのがとってもありがたい。


 記憶を思い出してすぐの頃は、子供らしさを意識して喋っていたけれど、この滑舌の悪さのせいで、喋る度に地味に気が抜けしまい、余計に子供っぽい喋り方になっていたのだ。

 なので決して子供がえりをしていた訳ではないのだ! と強く私は言いたい。


 ふつーにしゃべれるって素晴らしい! これからは、心機一転、頑張っていけそうだ。


 さて本日は、季節外れの嵐が近づいているらしく、天気がとてもよろしくない。


 家の中にいるのにザーザーと激しい雨音が聞こえてくるし、窓を通して外を見てみると、雨が強かに窓ガラスに打ち付けているせいで見通しは悪い。風も出ているのか木が激しく揺れているようだった。


「雨、すごいね〜!」

「そうですね〜、今日は嵐になるそうですから、きちんと準備しておかないと……あ、お嬢様! そっち、雨漏りしてますよ」

「はーい」


 家が廃墟すぎるせいで雨漏りが酷い為、私たちは、これ以上室内が水浸しにならないように、天井から滴り落ちる雨漏りを防ぐべく、入れ物を手に持ちながら奮闘しているところだ。


 ポタポタ……ではなく、ドバドバという効果音が似合うぐらい、尋常じゃない量の水滴が天井から降ってくる為、正直これ、意味ないんでは……? と半ば思ってきているけれど。いやいや! やらないよりはマシだと気を取り直して、バケツやら木の器やらを水滴が落ちる場所に設置して回っている。


 外の景色が暗くなり、そろそろ夜になるだろうという頃、玄関の方からコンコンと扉をノックをする音が聞こえた。


 珍しい。一体誰だろう?

 この廃墟に人が訪れたのは初めてだ。


『ごめんくださいませー』


 声を聞くに若いお姉さんのようだ。雨の音と、扉越しの為に声がくぐもって聞こえるけれど、なんとなく、どこかで聞いた事がある声のような気がする。


「はあ〜い」

『あのう、夜分にすみません。大変申し訳ないのですが、こちらで雨宿りをさせて頂けないでしょうか?』


 こんな若いお姉さんを、嵐の中、一人にさせたままだなんて可哀想だ。そう思った私は即座に答えた。


「い〜ですよお〜」

「ちょ! ちょっとちょっと!? お嬢様、何言ってんですか? あやしい人かもしれないでしょうっ!?」


 ロブ青年は、お姉さんに聞こえないように、慌てた様子で私に耳打ちをしてきた。


「声を聞く限り、若いおねーさんだ。こんな嵐の日に、家に入れてあげないなんて……ロブ。あんた鬼かい?」

「お、お嬢様には言われたくない……」

『あのう……?』


 扉越しにボソボソ話している私達に不安を感じたのか、お姉さんは再び声をかけてくる。


「あ、めんごめんごー! 今開けまーす」

「あ、ちょっと!」


 取っ手を握りしめ、ガチャ、と扉を開けると、そこには懐かしい姿の若い女性が立っていた。彼女は雨で、びしょ濡れになってしまっている。


「お、お嬢様……?」

「な、ナナ!?」


 私の専属侍女だったナナが、確かに今、目の前にいる。

 ナナは驚いた顔をして固まっていたけれど、ハッと息を飲み込みながら、震える指先で、そっと私の頬に触れた。


「ナナ……?」

「お……お嬢様ぁ……!!」


 ナナは駆け寄りながら膝をつき、私を力強く抱きしめる。ぎゅうぎゅうに抱かれて少し苦しいけれど、ふと耳元で消え入りそうなほど微かな声で、彼女が嗚咽をあげているのに気づく。


 伏せられた長い睫毛の隙間から涙の粒が零れ、雨の雫と混ざり合いながら、スルリと彼女の頬を滑り落ちていくのが見えた。


 私は初めて見た彼女の泣き顔を目の当たりにして、今まで考えもしなかった事に気がついた。


 ……ああ。私、自分の事しか考えていなかったんだな……


 気の強い彼女をこんなにも泣かせてしまうだなんて、思わなかったのだ。


 その時になって初めて、私が自した事は、本当は一番やってはいけない事だったのではないか? 信じてもらえなくても良いから、行動する前に誰かに相談すれば良かったのではないか……と思ったのだ。


 泣き崩れる細い身体にそっと手を回しながら、小さな手で、彼女の背中をぎこちなく摩る。


 ナナは嗚咽を漏らしていたけれど、しばらくして落ち着いたのか、私を包み込むようにぎゅっと抱きしめていた力が弱まり、私の顔を覗きこむ。


「……お嬢様……ご無事でよかったですわ……! どこか、お怪我等されてませんか?」

「ううん。だいじょーぶ。 ……ナナ……ごめんね……」

「いいえ! お嬢様が謝る事はありませんわ! 誘拐されて、今までさぞお辛かったでしょう? ……さあ、急いでここから逃げましょう?」


 ………………………あっ。


 そういえば、誘拐された事になってたんだっけ。

 隣国に来てからここ数ヶ月、だらけにだらけきった生活を続けていたせいで、完全に忘れていた。


「ナナ、あのね……?」

「あ、あのう……」


 感動の再会から二人の世界になっていた私達の後ろで、気まずそうにしながらロブ青年が話しかけてきた。

 しばらく蚊帳の外にしてしまい、さぞ居た堪れなかったに違いない。


 そうだ! 彼の事も、ナナに紹介しなければ!


「は、はじめまして。俺、ロブって言うんで……」

「…………お前か」

「え……?」


 まるで地の底から這い出てきたのではないかというような、ドスの効いた低い声が聞こえてくる。

 ……私を抱きしめる、目の前の人物から。


「お前が…………お嬢様を攫ったのか……?」


 背中に回された腕はゆっくりと解かれ、ナナはユラリ、と立ち上がる。

 表情は影になっていて窺う事がが出来ない。が、これだけはわかる。 ……怖いぃぃ!


「え、いやあのっ! 違いま……!」

「黙れ!!」

「うわっ!」


 ナナは振り上げた拳を物凄い速さで振り降ろすと、先程までロブ青年が立っていた場所にドッカーンという音と共に大穴が開く。


 ギリギリで躱したロブ青年は真っ青な顔になり怯えきっていた。

 わ、わ、私の癒しの女神であるナナたそが、バトル漫画のような動きを……!


 目の前で起こる非現実的な光景を呆然と見つめる事しかできず、も、もしかしてこれ、夢なんじゃ……? と現実逃避に走る私を置き去りにし、怒り狂ったナナは恐怖で逃げ惑うロブ青年を追い駆けて、腰の入った右ストレートを次々に繰り出していく。


 ロブ青年が避ける度に床が大ダメージを被り、振動でミシミシと揺れる天井から細かな木片と雨粒が大量に落ちてくる。

 ただでさえ廃墟の我が家は加速的に悪化していった。


 ……はっ! ぼーっとしてないで止めないと家が! じゃなくって! ロブ青年が殺られてしまう。


 そうこうしているうちに、ロブ青年は足を縺れさせれて床に転んでしまった。


「死ね!!」

「ひ、ひいぃ!!」

「ま、まってぇー! 殺さないでー!」


 私はナナの腰に身体ごとしがみつき、必死で止めにかかると、ナナは拳を振り上げた状態でピタっと止まった。彼女は腰に引っ付く私に向けて、ゆっくりと視線を落とす。


「お、お嬢様……? どうしてですの……? コイツは、お嬢様を攫った誘拐犯ですわよ……?」

「ち、ちがうのー! 説明するから! こ、殺しちゃだめー!」

「……わかりましたわ。お嬢様がそう仰るなら」


 眉間にシワを寄せながら、ナナは、振り上げていた拳を納めてくれた。


「……もっと早く止めて下さい……」


 無実の彼に恐ろしい思いをさせてしまったようだった。ロブ青年の顔は、青を通り越して紙のように真っ白になってしまっている。 ……ロブ青年、本当にごめん。



 ※



 私はロブ青年に話したように、ナナにも全てを打ち明けた。


 彼女は黙ったまま、まるで私の話す言葉を一言も聞き逃さないかのように、神妙な顔をしながら聞いてくれていた。


「……話はわかりましたわ。お嬢様の見た夢ですが、あながち間違いではないかもしれません」

「え! ……この話、信じるんですか……?」


 すかさず突っ込むロブ青年を、ナナは鋭い視線でキッ! と睨みつける。


「当たり前です! 私はお嬢様の専属侍女ですのよ! ……それに、お嬢様の話には、根拠があるのです」


 ナナは一度言葉を区切り、肺に溜まった空気を出し切るよう細く息を吐くと、真剣な顔で話を続ける。


「……実は、前侯爵様が捕縛されましたの。違法な聖灰を所持していた罪で」

「……え?」

「それだけでなく、新たにカルト教団を立ち上げる為に、近く、領民達に聖灰を摂取させようとしていたそうなのです。彼等を信者として引き入れようとしていたのでしょう」


 ……やっぱり。お爺様は、罪を犯してしていた。

 これで、この世界が乙女ゲームの筋書きをなぞっているのが確定してしまったのだ。


 あのまま家を飛び出さずに、何もしないまま日々を過ごしていたら、今頃は多くの領民達が犠牲となり続けていたのだろう。お爺様の手で、生きたまま地獄の底に突き落とされる所だったのだ。


「ですので、お嬢様の言っていた夢とやらは正しいのです」

「……ナナ、信じてくれるの……?

 」

「勿論ですわ! ……お嬢様は、私に嘘だけはついた事がないでしょう? それに報いる事こそ、専属侍女たる私の務めですもの!」

「ナナぁ……!」


 彼女のその言葉で、私は心の奥底で鈍っていた感情に初めて気がついた。同時に、衝動のまま彼女に抱きついていたのだ。


 初めて誰かに信じてもらえたのだ。この、荒唐無稽なお話を。


 ……嬉しかった。それまでは、誰にも信じてもらえなくても良いと思っていた筈だったのに。


 自分が信じたものを、変わらず信じ続けていくのはとても難しい事だ。

 何度も間違っているのでは、と答えの見えない悩みに苛まれ続け、それでも一歩進んでしまったのなら。もしそれが間違った道だとしても、ゲームのように都合よくリセットなんてできはしないのだから。

 信念だけで突き進んでいくのは、苦しくて、そして少し、寂しかったのだ。


「まあ、お嬢様ったら。泣き虫ですのね?」

「え……?」


 ナナはその細い指先で、私の目尻に優しく触れる。いつのまにか私の頬に涙の筋が伝い、まるで、それに気づいたのが合図かのように、次々と目から涙の粒が溢れ、ポタリ、と床に零れ落ちていった。


 それを止めようとドレスの袖で涙を拭うのに、なかなか治まる気配が見えない。

 ナナは、私の背中にそっと手で触れ、優しく撫で続けてくれていた。


 ロブ青年は、二人分のタオルを持ってきてくれて、私とナナに渡してくれた。

 私の話を信じる事が出来なかった彼は、ナナの話を聞き、少し罪悪感を滲ませた顔している。けれど、私の事を心配してくれてもいるようで、どう声をかけていいか迷っているようでもあった。


 しばらくして落ち着いた私は、両親達はどうしているのか? 隣国に来て仕事は大丈夫なのかをナナに聞くと、彼女は困ったように眉尻を下げながら「事件の後、すぐに仕事を辞して来ましたので、ご当主様方の事は詳しく存じ上げないのです」と言っていた。


 彼女なりの優しさだろう。私が涙を零しているこの状況で、余計に気に病むような事をしないようにと気を使ってくれたのだ。


「私は……本当はもう、お嬢様の専属侍女ではないのです。ですが、どうか一緒にいさせてくださいね?」という彼女の言葉に、私は更に泣きそうになる。


 ……恩返ししなければならない人物がもう一人出来た。私の自分勝手な行動で人生を変えさせてしまった、優しい彼らに報いたい。

 そして願わくば、彼らがその生涯を幸せだったと思ってくれたのなら、その時初めて私自身も救われる気がするのだ。


 ゲームの筋書き通りに進むのなら、おそらく強制力も生きているに違いない。お話の中に飛び込んでしまえば、いくら抵抗しようとも私が断罪される絶望の未来は確実にやってくるだろう。

 ……私はもう、ウェル様のいるあの国には帰れないのだ。


 とにかくもう遅い時間なので、一度ゆっくりと身体を休めてから、また明日、改めて話し合おうという事になった。


 ベットは、私とロブ青年の分しかない為、私と同じベットでナナと一緒に眠る事になった。誰かとくっついて寝るのはいつぶりだろう。

 今世では物心ついた時には既に一人で寝ていたので、前世での子供の時以来かもしれない。


 ナナの体温を近くに感じて擦り寄ると、彼女は穏やかな笑みを浮かべながら私を引き寄せてくれる。雨音に混じる彼女の吐息と、柔らかな温もりに抱かれながら、私は静かに目を瞑ったのだ。

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