第17話 最終話 散りゆく桜

スパゲティを食べる事をやめた僕の右手は再び動き出すことはなかった。


リビングの椅子に腰掛けて黙ったまま微動だにしない僕は、まるで何かの抜け殻のようで、見るに見かねてか彼女の方から、


「ごめんね。大丈夫?」


と声をかけてきた。


僕は震えた声で、


「大丈夫。」


と答えるのが精一杯で後が続かない。


とにかく彼女に聞きたいことが山ほどある。


まず、相手は誰なのか?


どんなやつなのか?


いつ知り合ったのか?


何歳なのか?


どこに住んでいるのか?


何でこんなことになったのか?


そいつのことが好きなのか?


これからどうするのか?


どうしたいのか?


頭の中でまとまらないほどの質問があるのに、何一つとして口に出して聞けない。


それどころではないのだ。


彼女に突きつけられた事実があまりにもキツ過ぎて、辛くて、悔しくて、どうしたらいいのかわからなくて、涙がこぼれてきそうだ。


それを我慢するのに必死で、他の事は考えられない。


いっそこのまま泣き崩れてしまおうかとも思ったけれど、僕は男だ。


亡くなったバアちゃんの遺言で、


「男はいかなる時も涙を見せてはならない。顔で笑って、心で泣け。」


という言葉が僕の涙腺の崩壊をギリギリの所で押しとどめていた。


「ごめん。今日はちょっと俺帰るわ。」


その一言を発して、この場から逃げ去るのが精一杯だった。


「私、ごめんね。」


彼女も何て言っていいのかわからないみたいで、そのまま僕を自宅から送り出した。


帰りの車内で、混乱した頭の中を彼女との日々が次々と蘇る。


それはなぜか幸せな思い出ばかりだ。


実際は彼女にとっていい思い出など少ないはずなのに、そんな日ばかりしか浮かんでこない。


こらえていたものが一気に込み上げてくる。


どうにもならなくなった僕は、車を路肩に停めて泣き崩れた。


何で泣いたのかはわからない。


悲しいのか、悔しいのか、自分の行動に後悔しているのか?


たぶん理由は全部当てはまるのだろう。


こんなに涙があふれ出た事は今までにない。


心の底から彼女を愛していたのだ。


そんなことにも気づいていなかったのか。


だったらなぜもっと彼女を大切にしなかったのか。


彼女の気持ちに気づいてやれなかったのか。


彼女の心の中のSOSに気づいていて、なぜ目をそらしたのか。


なぜ?


なぜだ!


僕はそんな自問自答を繰り返し、今更そんな後悔をしたところで時は巻き戻せない事に気づき、ある結論に達した。


彼女のお腹の中には赤ちゃんがいる。


僕の子供ではない。


これは変えようのない事実だ。


彼女がその子を産むというならそれでもいい。


彼女ともう一度やり直せるなら、僕は何でも受け入れる。


その子を自分の子供として育てていく覚悟もある。


その気持ちを彼女に伝えよう。




後日、僕は何を血迷ったのかそれをそのまま彼女に伝えた。


そんな浅はかな考えで、何とか彼女の気持ちをつなぎとめようとした。


また、同じ過ちを繰り返そうとしていたのだ。


彼女の気持ちが一番ではなく、自分の気持ちやエゴを押し付けようとしていた。


彼女はそんな僕の事をあわれに思ったのか、その場では何も答えようとはしなかった。


自分の気持ちを押し付けることに必死で、何も見えなくなっている僕に何を言っても無駄だということがわかっていたのだろう。


それからひと月あまり僕はもがき、空回りして、彼女のある一言がキッカケで目が覚め、自分の間違いにやっと気づく。


「私、Kの事は好き、今までで一番好き、でもその人と一緒になる。」


彼女は自分の気持ちよりも、お腹の子供とお互いの幸せを優先したのだ。


現実から目をそむけている者からすれば聞きたくない言葉だけど、その一言が心に突き刺さった。




彼女が言うその人とは、E美からの紹介で知り合ったらしい。


僕と彼女が上手くいってない事やその事で彼女が悩んでいる事を理解していたE美が、何かの気晴らしになればと思い2人を会わせた。


そして、彼女がその人に色々相談しているうちに、そうなってしまったらしい。


僕は正直言ってE美とその人の事を恨んだ。


さらに自分の不甲斐なさをもっと恨んだ。


こんな大事ないきさつも、つい最近知ったのだ。


子供の父親の事も知らずに、その子を自分の子供として育てるなどとよく言ったものだ。


いくら彼女への気持ちでまともな判断が出来なくなっているといっても、あまりにも冷静さを失っている。


そんな僕に彼女が2人分の人生を任せられるわけがない。




僕はエゴという悪夢から目が覚めてからは、彼女とお腹の子供の事だけを考えるようにした。


とはいっても僕には出来る事が少なく、母親になった彼女は以前とは違い凛としていて、もはや僕の出来る事はひとつしかなかった。


それは、彼女と子供の幸せを願い、こころよくその人のもとへ送り出す事だけだ。


そのために、ある日僕は梅田にある大きな本屋へ行くことにした。


その中で子育てのコーナーを探す。


もちろん何がいいのかさっぱり見当もつかない。


片っ端から10冊ぐらいを抱えてレジへ持って行く。


会計の時、店員さんに好意の目で見られたけど、


「ちゃいます!」


「大切な人を幸せに出来へんかった情けない男の最後の悪あがきです!」


「どうか、笑ってやってください!」


と声に出して叫びそうなった。




数日後、僕はその本の入った紙袋を抱えて彼女の自宅へ向かった。


その日は家の中へ入る気はなかった。


車の中で別れを済ませようする僕の気持ちを察したのか、彼女も快くよそ行きの格好で出てきてくれて、助手席に乗り込んだ。


正直、彼女との思い出が詰まった自宅で話すのは辛かった。


彼女の駐車場で話すことにした。


とは言っても話す事はもうほとんどない。


「あっ、これぇ、こないだ本屋行ったら育児の本いっぱい置いてあって…。はじめてやから色々不安やろうと思って…。」


「えっ!」


「役に立つかどうかわからんけど。」


「私、Kの事裏切ったのに…。こんなんまでしてもらって…。ごめん。」


「いや、もうごめん言わんといて。悪いの全部俺やから。」


本当に辛いから謝らんといてほしかった。


その後はお互い会話が続かない。


少なくとも僕は、何か悪い夢を見ているみたいで、今日この場で別れ話をしているという実感がない。


なのに、体だけは正直に反応して小刻みに震えている。


もうこれで本当に彼女と終わりだと思うと、なおさら震えが止まらず、心が張り裂けそうになる。


この場にいることすら辛い。


彼女はごめんと言った後、涙を流している。


子供ができたと告げてから、一度も流した事のない涙を。


「今までありがとうな。」


「それに、H子の事幸せにできへんでごめん。」


「体に気をつけてな。」


そして、僕は思わず彼女を抱きしめてしまう。


彼女のあの懐かしいぬくもりが全身に伝わる。


彼女は泣きながら震えている。


そんな彼女をさらにキツく抱きしめる。


僕も涙がこぼれる。


涙は見せないつもりだったのに…。




そして彼女を自宅の玄関まで送り、


「ほんじゃ元気でな。」


「うん。Kもね。」


と手を振り、いつものマタネみたいにあっけなく別れる。


どんなに別れを惜しんでも、男女の最後はこんなものなのだろう。


と涙をぬぐいながら自分に言い聞かせる。


ただ、別れ際の彼女の顔がちゃんと母親の顔に戻っていたので安心した。




彼女と別れてからはいつもと変わらない、淡々とした日々を過ごしている。


けど、何かが足りない。


まるで、ピースを無くしてしまったパズルのようだ。


友人達には強がって何ともないフリをしているが、1人になった時彼女と別れた寂しさをひしひしと感じている。


週末には友人と馬鹿騒ぎをしてはまぎらわしているが、そんなものはひと時のなぐさめにしかならない。


やはり男はダメだ、引きずってしまう。




まだ肌寒さの残っている春の夕刻。


今日は新しい仕事が決まり、その初出勤だった。


駅からの帰り道、数日前まで満開だった桜が儚くも少しずつ散りゆこうとしている。


「今年ももうすぐ終わりやなぁ。」


「短いよなぁ。」


そういえば彼女と知り合ったのもこんな季節だった。


懐かしい…。


足元に散りゆく花びらが舞い降りてくる。


あのかけがえのない日々の記憶も、彼女への思いも、この花びらとともに散ってくれたらと何度願ったことか。


桜の咲く頃にはいつも思いだす…。


もうすぐ別れが来ることを。







あとがき


実はこの物語にはまだ続きがあります。


彼女はお腹の子の父親と結婚して、その2年後には2人目を出産しますが、その後、旦那を異性として意識できなくなったとかで離婚してしまいます。


Kはその間、良き友人として、彼女の相談相手になっていました。


もちろん、男女の関係は無かったとのことです。


彼女が離婚してからも2人の関係は10年ほど続いていきますが、そこから先は倫理的な問題もありますので、ここで物語を終えることをお許しください。


読者の皆様には、お見苦しい表現や筆者の力不足による駄文などがあったにもかかわらず、長らく読んで頂きありがとうございました。


そして筆者にはどうしてもこの物語を伝えたかった理由があります。


それを今から綴って、この物語を終わりにしたいと思います。




人を好きになり、そして好きになってもらい、最高にhappyな時もあれば、喧嘩してお互いを傷つけあう時もある。


出会いと別れ、そして同じ過ちを繰り返して、人は成長する。


そんな当たり前だけど、とても大切な事を、身をもって筆者に教えてくれた友人Kには、感謝しています。


この場を借りてその思いをKに伝えます。




「K! あの頃は楽しかったなぁ。」


「なんも考えんと、アホな事ばっかしてたよな。」


「クラブやカラオケ行ったなぁ。」


「キャンプにも行ったし、バーベキューしながら釣りもした。」


「合コンにもいっぱい行ったなぁ。」


「18で免許とって、すぐに車買って、とにかく乗りたくて仕方なくて、夜中の弾丸ドライブ、北は日本海、南は太平洋まで行ったなぁ。」


「こんなんじゃなくて、もっと大切な事言いたいのに、何か心がいっぱいいっぱいで…。」


「大切な事、出てけえへんわ。」


「もう、あの頃へは二度と戻られへんけど、絶対に忘れへんで。」


「照れくさいけど、かけがえのない青春の思い出をたくさんありがとうな。」


「ほんとはオッサンになってからも、一緒にツルんでアホな事したかった。」


「続きはあの世でな。」




「そして、ごめん。」


「あんなに身近にいたのに、お前の心の闇に気づいてやられへんで。」


「ツレとして失格や。」


「どうか安らかに眠ってください。」


Sより




*尚、この物語は実話をもとにしたフィクションです。


*文中に登場する僕は筆者の友人Kでその彼女はHです。その他の登場人物はイニシャルか三人称で表記しています。

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『桜の咲く頃にはいつも思いだす…』 scene @scene

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