第9話 十年愛

僕はまだC子の存在を彼女に話していない。


もう薄々感づいているかもしれない。


明らかに彼女と会う回数は減ってきているし、以前のように笑顔でいっしょに過ごせない。


それなのに相変わらず彼女の右手には、アクアマリンのブルーが罪深き僕の心を見透かすように光り輝いてる。


僕はその裁きの聖光と彼女のひたむきさにどうにかなってしまいそうだ。


そんな時、脆弱な心根は必ず目の前の障壁から逃れようとする。


心から楽しめない彼女とは会う回数が減り、C子と会う回数の方が次第に増していく。


彼女からの誘いは仕事や家庭の用事にかこつけて断わるようになる。


もう、C子の存在を隠している事、そして彼女と一緒に過ごすことにも限界が来ようとしていた。


そんな時にある出来事が起こる。


僕は最近仕事の都合で外出する事が多くなり、出先でも連絡が取れるようにする為、携帯電話を持つようになった。


彼女とC子には急用などの時の為、その番号を伝えてある。


それが仇となる。


C子と会っている時に着信音が鳴る。


普段プライベートな時間は電源を切っているのだが、今日はどうしても仕事の電話がかかってくるということで電源を入れたままにしていた。


当然仕事の電話だと思い、着信番号も見ないでよそ行きの声で出る。


「はい、もしもしー。」


「あっ、もしもし、私、H子。」


思わず焦って携帯を落としそうになる。


「はい、うっ、うん。どうした?」


「今大丈夫?」


「はい、まあ大丈夫。」


「仕事中?」


「うーん、そうやなぁ。」


「あんなぁ、今日ちょっと会いたいねんけど、ダメかなぁ?何時でもいいねんけど…。」


「うーん。今日ちょっとー、遅くなりそうやからなぁ。キツイなぁ。」


「また今度にしてくれへん。」


「そっかー。わかった。忙しいとこごめんね。」


「いや、こっちこそワリィなあ。」


「じゃあ仕事がんばってね。バイバイ。」


「はいはい、ほんじゃね。」


電話を切った僕はC子の方を見て苦笑いする。


C子は笑っていない。


適当にごまかすのが無理だと悟った僕は、正直に彼女がいる事を話す。


能面のような表情で聞いていたC子は動揺するそぶりも見せず、自分以外の女性の存在も、それが彼女であろう事も薄々気づいていたみたいだった。


正直に洗いざらい打ち明けた僕に対してC子は、


「たぶん彼女がいるんやろなって思ってたけど、あの夜Kさんすぐに来てくれたし、泣いてる私のこと考えて朝までずっといっしょにいてくれたから…。」


「信頼できるし、それにいっしょにいてて楽しいし、何かホッとします。」


「だから、今彼女いてても、いつか私のとこ来てくれるまで待ってようって思ってました。」


僕はC子の真っ直ぐな心と限りなく澄んだ瞳に、恥ずかしさと不甲斐なさをおぼえ、胸が苦しくなった。


こんなどっちつかずでダメな男を信頼して慕ってくれるC子に、何か答えを出さなくては…。


そう思えば思うほど気持ちだけが先走り、何も言葉が出てこない。


その場しのぎの軽々しいものではC子に申し訳ないからだ。


もうここで決断するしかない。


そう思い、今の自分のありのままの気持ちを伝える事にする。


「もう、相手もたぶん薄々気づいていると思うねんけど、全部彼女に話してみようと思ってるねん。」


「だから、もう少し待っててくれへん?」


「ちゃんと答え出すから。」


「ほんとですか!ありがとうございます。」


「ちゃう!ちゃう!」


「ありがとう言うの俺の方やからぁ。」


「こんなしょーもない男やのに待っててくれるなんて…。ありがとうな。」


そう言って僕はC子を抱きしめる。


これでもう後戻りはできない。


はずだった…。


けど、そんな簡単なものではなかった。


後日、僕はC子の気持ちに答える為に彼女へ全てを話そうと久しぶりに会う約束をする。


今日はその告白の日。


朝から重い気持ちのまま仕事を終えて、会う時間が近づくにつれて更に重い気持ちと足取りでいつもの待ち合わせ場所へ向かう。


出来ることならこのまま逃亡したい。


そんな無責任な気持ちに駆られながらも到着して車を停めると、彼女が駆け寄ってきて助手席に乗り込む。


彼女も笑顔が引きつっている。


「はやく来てたん?」


「ううん、さっき来たとこ。」


「どうしょう?」


「とりあえずお腹空いたやろ?ご飯行こか?」


と言ってみるが、僕ははっきり言っていっぱいいっぱいで食欲などない。


たぶん彼女も一緒だろう。


案の定、


「私はあんまり…。」


「やんなぁ。」


「俺も。」


「電話でも言ったけど、大事な話あるから少し走ろうか?」


「うん。」


あーダメやぁ!


この雰囲気と空間、ちっ息しそうや!


思わずそんな心の声が出でしまいそうになる。


おまけにちゃんと話せるかどうか心配で動悸が激しくなる。


彼女は外の景色を見ている。


C子の信頼してるという言葉とその時の真剣な眼差しが頭をよぎる。


ちゃんと話さなくては、二人ともに悪い。


そう決心し、


「あんなぁ、俺、実は他に好きな娘できてん。」


「ほんとにH子には悪いねんけど、こないだ電話くれた時もその娘といててん。」


「ずっと話さなあかんって思っててんけど、中々言われへんで…。ごめん。」


「謝って済む事じゃないねんけど、今の俺にはそれしかできへんから…。」


「ほんとに黙っててごめんな。」


そういい終わった僕の顔を見つめている彼女の瞳は、とても寂しげで今にも泣き出しそうだった。


本当は人一倍泣き虫な彼女が必死に涙をこらえて僕に語りかける。


「私なぁ、ちょっと前からKに誰か好きな人がいるって知ってたよ。」


「でもKと別れたくないし、好きやからそれでもいいって思って、知らないフリしてた。」


「それに、キッカケつくったの私の方やし。」


「私だってまだ前の彼氏の事ちゃんと出来てないし…。Kの事苦しめてる。」


「全部自分のせいやと思ってる。」


「私の方こそごめんね。」


「いや、それでも俺との事ちゃんとしようとしてくれてるH子の事裏切ったのは俺自身やし、悪いのは俺やから謝らんといて。」


「それに俺…。」


「もう元には戻られへんし…。」


「正直に言うとな、その娘と付き合おうと思ってるねん。」


「ごめん。」


「だから…。別れてほしい。」


「…。」


彼女は無言でうなだれてしまう。


その頬にはひとすじの涙がこぼれ落ち、街の灯りに反射する。


彼女はこみ上げる感情を精一杯こらえているのか、肩を震わせて、


「やっぱりあの夜の夢が現実になった…。」


とつぶやく。


僕は何の事かわからず、


「あの夜の夢?」


と問いかける。


「うん。もう忘れてるやんなぁ。」


「前にKが腰痛いって言ってた日に私がマッサージするからってホテルに行ったやん?」


「その時に見た怖い夢…。」


「Kに好きな人できて、私がフられる夢やってん。」


「私、夢の中でKの事引き止めようと必死で追っかけるんやけど、どんだけ走っても追いつけなくて、どんどんKが離れてって見えなくなってしまうねん。」


「それで私、Kと離れたくなくて大声で叫ぶねんけど返事が無くて、どうしたらいいのかわかれへんし涙が止まれへんし、そこで目が覚めて現実に戻ったらKが目の前にいて、安心したら余計に涙が止まらんくなってん。」


「その夢ほんとになってしまった…。」


「もう私らダメやねんなぁ…。」


彼女は僕に問いかけるような、自分に言い聞かせるような口調でつぶやいて、その場に泣き崩れる。


「ごめん。」


僕はそう言うしかなかった。


車を側道に停めて別れ話をしていた僕達は、もうこれ以上お互いを傷つけたくなくて、しばらく無言のままそこで時が過ぎるのを待った。


どれくらい経っただろうか。


彼女は泣き疲れてハンカチで涙をぬぐいながら黙ったままの僕に話しかける。


「あんなぁ、少し変なこと言っていい?」


「何?」


「うん。前に話した十年愛ってドラマの事覚えてる?」


「うん、うん、何か前に言ってたなぁ。」


「あのドラマ俺も見てたし。」


「浜ちゃんと田中美佐子出てるヤツやんな?」


「うん。その十年愛のスペシャルって見た?」


「うん。見たで。」


「何か結局再開していい感じになるねんけど結婚せーへんってヤツやろ?」


「そう。」


「そうなんやけど…。」


「もしなぁ、もしやでぇ?私ら別れて別の人と付き合って、それでも結婚までいかんくて、お互いに十年後一人やったら一緒になるってのどう?」


「うーん?何でや!」


「俺の方はあり得るかもしれへんけど、H子はないわー!」


「絶対いい人と結婚して、子供3人ぐらい産んで、旦那尻に敷いてそうやん!」


「何でよー!」


「そっちこそ、年下の可愛い娘と上手いことやってそうやしー!」


「アホか!」


「あっ、ごめん。俺そんなん言えた立場じゃないわ。」


「ほんまやわ!」


「私、捨てられたんやし!」


「サヨナラされたんやし!」


「二回も言うかー!」


「ほんまごめんって。俺が言うのもなんやけど、十年後お互いフリーやったら一緒になろう。マジで。」


「うん。約束やで。」


「わかった。」


僕は心の底からそう思った。


今回はダメだったけど、僕達はまだ若くて先が長い。


人生何があるかわからない。


そんな事を思いながら僕は、


「しかし、俺らアホやなぁ。」


「別れ話してるのに、最後は訳わからん笑い話になっとるやんか。」


「ほんまやね。」


いつもならそこから笑い話がさらにエスカレートしていくのだが、今日は違う。


お互い、真剣な顔に戻る。


「もう今日で会えんくなるん?」


「そうやなぁ。ごめんな。」


「このままヅルヅルいっても別れづらくなるからなぁ。」


僕は彼女に言ったようで、本当は自分に言い聞かせる為の言葉だった。


それから彼女を家まで送って行って、


「じゃあ、元気でな。今までありがとう。」


「うん。私の方こそありがとう。」


あっけなく僕達は違う道を歩むことにした。


つもりだったけど…。


数日後、何気なくポケベルを見るとそこには彼女からのメッセージが、


「突然ごめん。何かすごい言いにくいねんけど、生理が遅れてるねん。どうしよう?別れた後にこんなん言われても迷惑やんなぁ。」


僕はそのメッセージを何度も見返す。


何度見返しても内容は変わらない。


当たり前だ。


すぐに彼女にメッセージを送り返す。


「大丈夫?病院とか行ってみた?」


返信が、


「ううん。まだ行ってない。怖くて。」


僕は、


「俺が一緒について行くから。」


と返す。


そして再び返信が、


「まだ二週間ぐらい遅れてるだけやから、もう少し様子みてみる。」


僕は、


「わかった。何かあったらすぐに言ってや。」


と返して、彼女から、


「わかった。ありがとう。」


と返ってくる。


そんなやり取りをしたあと僕は、かなり動揺していて、その日の仕事は手に付かず、うわの空でミスばかりしていた。


正直言って身に覚えがあるだけに、妊娠したのではないかと気が気ではなかった。


そしてそれから一週間後、彼女からのメッセージが…。


僕は恐る恐るメッセージを確認する。


そこには、


「大丈夫。ちゃんときた。心配かけてごめんね。」


と入っていた。


僕はそれを何度も見直して、胸をなでおろす。


この一週間考えたあげく、もし赤ちゃんができていれば、C子と別れて彼女と結婚する覚悟まで決めていた。


正直ホッとした僕は、


「謝ることないで、二人の責任やし、H子の体が一番大事やから。言ってくれてありがとう。元気で体に気をつけてな。」


と返信する。


「Kもね。今までいっぱいありがとう。」


これが彼女から送られてきた最後のメッセージだ。


その後彼女とは音信不通になり、色々障壁もあったけど、無事C子と付き合う事になる。


僕は、彼女を傷つけてまで手に入れた恋を全力で全うしようと心に誓った。


つづく


*尚、この物語は実話をもとにしたフィクションです。


*文中に登場する僕は筆者の友人Kでその彼女はHです。その他の登場人物はイニシャルか三人称で表記しています。

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