第8話 僕のこころ

人のこころは弱いもの。


気持ちの楽な方へと押し流されて行く。


僕のこころも例外ではなく、新鮮で安らかな方へと自ら向かっていった。


それを後押しする出来事がある満月の夜に起こる。



自宅の電話が鳴る。


自室の子機で電話をとる。


「もしもし、夜分遅くにすみません。◯◯と申します。Kさんはいらっしゃいますでしょうか?」


C子からだ。


「あっ、俺。こんばんは!どうしたん?」


「……。」


何か様子がおかしい。


「Kさん!私っ…。助けてください!」


と電話の向こうで泣き崩れる。


「何!何!何かあったん?」


「大丈夫?!」


「さっき家に帰る途中で変な人に襲われて、車に乗せられそうになって……。」


C子は精一杯の涙声でそう言って再びシャクリあげる。


「逃げて来たの?」


「大丈夫?」


「今どこにいてんの?」


僕は思わぬ出来事に動揺して、心臓バクバク状態、C子を質問攻めにする。


パニック状態のC子は呼吸を落ち着かせるのがやっとで声にならない。


「家の近く?」


「今からすぐに行くから、いてるとこどこか教えてくれる?」


するとC子はひと呼吸し、ささやくような声で、


「今、家の近くの公衆電話です。私、怖くて、怖くて、必死で逃げて来て……。」


また泣きだす。


「わかった。こないだ送って行った所の近くの電話ボックスやんな?」


「はい。」


「今からすぐ行くから!そこで待っててな。」


「ごめんなさい…」


突然電話が切れる。


小銭が無くなったのだろうか?


それともテレカが…。


しばらく折り返しの電話を待っていたが、かかってこない。


事は急を要するので、身じたくもままならないまま、車を走らせる。


家を出てから15分ほどで到着する距離だけど、やけに長く感じる。


ようやくC子の家近くの電話ボックスがヘッドライトの先に見えてくる。


車のスピードを緩める。


道路脇の様子を慎重に伺いながら、電話ボックスの少し先に白い人影を見つける。


近づいて行くとその人影はガードレールにもたれながら、少し肩を震わせている。


C子だ。


泣いている。


車を脇に停め、


「大丈夫?」


と優しくエスコートして助手席に乗せ、嫌な出来事があった場所を少しでも離れようと車を走らせる。


そして何度かC子と行った淀川の河川敷に車を停めて、


「もう大丈夫やで。」


「少し落ち着いた?」


と声をかける。


C子は、涙が付いたままの膨よかなほっぺたを精一杯上げてニッコリと微笑む。


「私、ごめんなさい。」


「もう大丈夫です。ありがとうございました。」


「しかし、何も無くて良かったぁ。」


「電話かかって来た時マジで焦ったしっ。」


「すいません。」


「私怖くて、声も出なくて、必死に振り払って逃げて来て…。」


「パニクってて、どこに連絡したらいいんやろって思ったら、何故かKさんに電話してました。」


「そうなんやぁ。」


「俺もこんなんはじめてやから、C子ちゃんの顔見るまで心配で、心配で、とにかくはよ行こって思って、何も考えんと飛び出して来てしもたわ。」


「ほんと何も無くて良かったー。」


「ほんとです。」


「私もKさんに電話して良かったー。今日は本当にありがとうございました。」


「もし今度何かあった時も、またKさんに電話してもいいですか?」


「もちろんいいけど…。」


「どっちかっていうと何も無い、どっか遊びに行こって電話の方がいいけどなぁ。」


「緊急電話は心臓に悪いし。」


「そっかー。」


「じゃあ今度海遊館に連れてってください。」


「えっ!いきなりやなぁ。」


「魚とか好きなん?」


「はい!」


「俺も好きやけど…。」


「Y子から聞きました。」


「Tやなぁ。あいつー。」


「じゃあ今度行こか!」


「いつがいい…。」


「えっとですね…。」


僕達は、満月の夜の忘れられない事件があったにもかかわらず、その後はお互い笑顔で会話しながら夜明け近くまで過ごした。


その間僕は、すっかり彼女の事を忘れてしまっていた。


もちろん、夜の定例電話もしていない。


この満月の夜の事件をキッカケに、C子との距離は急速に縮まっていく。


僕は一線を越えてないにせよ、明らかに彼女を裏切っていく事となる。


あんなに愛おしくて夢中になっていた彼女なのに、あの夜の告白だけでいとも簡単に心は離れ、裏切りに走ってしまった。


いや、むしろ裏切りというよりも、僕を偽っていた彼女への当てつけなのかもしれない。


カッコ悪い男の嫉妬心だ。



今日はその彼女と久々のデート。


僕のこころの移り変わりを何も感じていないのか、それとも感じてないフリをしているのか、彼女はやけにはしゃいでいる。


そのきゃしゃな右手の薬指には、僕が誕生日にプレゼントしたアクアマリンの指輪が輝いている。


僕はそれをそっと見ながら、自分の不甲斐なさと彼女への後ろめたさを痛感していた。




つづく


*尚、この物語は実話をもとにしたフィクションです。


*文中に登場する僕は筆者の友人Kでその彼女はHです。その他の登場人物はイニシャルか三人称で表記しています。

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