二章   同魂の双子

     1  二〇二四 葉月―初



 八月上旬、お盆休みにはまだ少し早いくらいの蒸し暑い時期。

 僕は柄にもなく興奮気味に、先日の体験について話していた。

 夕陽も沈んだ夜の入り口。ワーキングチェアーとソファーに座って仕事をする二人の女性のBGMとして、僕の口はせっせと貢献し申し上げている。まさに、BGMさながらに興味を示してもらえない悲しさについては、舞い上がっる今の僕には、何ら気になるものではなかった。

 そんな僕の中での特ダネニュースは、夏真っ盛りには定番も定番。思い出すだけで気も踊る、嘘のようで間違いなく本当の、つい二十四時間前の出来事だった。

 つまりは昨日だ。昨日の夜遅く、僕が唯花の家から自宅までの帰路を歩いていたときのこと。書類整理の仕事を、夜行性の唯花に付き合って片付けていたら、そんな時間になってしまったのだった。

 昼間にはうるさい蝉の声もなく、街灯もまばらな道を僕は一人で進んでいた。怖いなんて少しも思ったりはしなかったが、それでもできるだけ早く家に辿り着きたかった僕は、いわゆるショートカットを試みた。以前に街の大きな病院を訪れた際、付近の公園を突き抜けるといい感じのルートを描けると分かっていたのだ。

 そうしてその公園に踏み入ったとき、僕はこの歳になって初めて、背筋の凍る感覚を味わった。寒気というのだろうか、恐怖というのだろうか。さらに加えて、そのどちらにも当てはまらない強い衝撃を、このときの僕は感じていた。

 それは言うなれば、途方もない違和感だ。ただ純粋に、何かが現実とそぐわないことを知らせる凄まじい違和感。

 おかしな感覚を脳天に受け、意識が麻痺する中で僕は、両眼の視点を正面に合わせる。

 僕の視界の中心にいたのは、淡い月明かりに照らし出された少女であった。見た目には中学生くらいであろうか。異常なほど細く長く、膝まであろうかというほどの黒髪。それがさらさらと夜風にはためいていて、なおかつ白いゆったりした服をなびかせ、ぼんやりと揺れるように振り向くそれは、僕の知識と良く良く重なる“幽霊”の姿そのものだった。

 どちらかといえば僕は、そういった迷信は信じないタイプの性格だが、実際に目の当たりにしてしまうと考えは揺らぐ。どこまでも論理的かつ理性的な現実においても、もしかしたら自分の前にだけ不思議な現象というものは起こるのかもしれない。超常現象的展開が存在するのかもしれない。そんな風にも思ってしまう。見たこともないほど儚げな少女の前で、僕はありがちな非合理思考に囚われていた。

 眼球から飛び込む情報の処理にいささか不具合が生じ、口を開けたまま立ち尽くす。

 動かぬ僕を見兼ねたのだろうか。少女は弱く、言葉を発した。

「……こんばんは。どうか、したの?」

 声を耳にして、僕はとても驚いた。客観的にとらえれば、携える容姿に相応な若く高い声である。しかしながらその雰囲気に内包され、とても無視することのできない強い印象として抱いたのは、限りなく深い妖艶だった。

 端的に言えば魅力である。ただし単純に可愛らしいとか綺麗だとかいう意味のものではなく、文字通り人を魅了する力のこと。人を魅せ、虜にする力だった。

「え、ええっと! 別に、特には!」

 僕の返答は、不自然なほど大声になった。動揺していたということもあるし、あるいはそうやって気を張っておかないと、よもや骨抜きにされてしまうような気がしたのだ。

「……そう。あなたも散歩?」

「き、帰宅の途中。何て言うか、バイト帰りみたいなもので」

「へぇ……そうなの。ところでお兄さん、私のこと、知ってたりする?」

 月明かりに溶けこむ少女は、ただ周りの景色を見て佇むだけで、微動だにせず話していた。こちらには横顔を向け、閉じ気味な瞼を被った瞳だけを動かして僕をとらえる。その様子は実に、ミステリアスだ。

 だからだろうか、少女の放つ雰囲気に当てられて、違和感に狂わされて、僕は次の発言にこんな言葉を選んでしまった。

「幽霊さん、かな……?」

 冷静に考えればそんな物言いは失礼だし、想像力の豊か過ぎる人だと認識されておかしくない。初対面の異姓に対して向ける言葉では、決してないのだ。

 でも僕は、このときばかりは信じ込んで、少し浮ついていたというのが本音である。僕の日常は既に壊れてしまったと、以前に唯花に言われた影響かもしれなかった。

 そうして奇人扱いを覚悟するばかりとなった僕であったが、意外にもそれは少女の反感を買うことはなく、同時に会話の発端にさえなった。

「ふふっ。ああ、そう……お兄さんは、わかる人なの」

「え、嘘!? 本当にそうなの?」

「ええ、まあ。強運ね、お兄さん」

 少女は僕の方を振り向く。相対する少女の姿は、幽霊だと思えばなおのこと、淡く儚くて、透き通って見えた。これで一瞬でも明滅して見えたなら、もう間違いなく怪奇の域だ。

 まあ僕としては、強運でツイているよりもむしろ憑いている方だと思いもしたが、これはさすがに本人の前では言えそうにない。

 僕らはふとしたきっかけで少しずつ言葉を交わし、取り留めもない雑談に自然と興じた。向こうの事情は知らないけれども、どうせもう夜遅いことに変わりはないし、僕としては多少油を売ったところで構いやしない。赤の他人と話すなんて普段なら気が乗らないところだが、幽霊は他人換算には入らないだろうという気分だった。

 会話の中身としては、白い服は礼儀なのかとか、やはり髪は長くないといけないのかとか、どのくらいこの世界にいられるのかとか……僕はそういう、取るに足らないことを聞いた気がする。

 少女によれば、服はこっそり出てきたから着替える暇がなかったからで、髪は長い方が雰囲気を出せるかららしい。そしてはやり、この世界にはそう長くはいられないようで、近いうちに期限がきたらいかなくてはならないとのこと。どうやら幽霊にも色々あるようだ。

「あのさ。お兄さんって……幽霊とか、そういうのが好きだったりするのかしら?」

「あ、いや……今までは、否定派だったんだけどね」

「じゃあ、本物を実際に目にして……怖くないの?」

「そうだね。君には色々と質問にも答えてもらったし、もう恐怖はあまり」

 正直なところ恐怖は本当に感じなかったが、それよりも強い異質感は感じていた。やはり人ならざるものだけあって、さらにそれと言語による意思疎通を実現しているだけあって、不思議な感覚というものはどうしても拭えず僕の中にあった。

 しかし、だからといって特にそれが不快であったかと問われれば、別にそんなことはなかった。その感覚をあえて無視するまでもなく、会話自体は興味も持てて良好だ。

 空には煌々と輝く月。ぼんやりとした光は、周りの星々を見え辛くする。僕ら二人は少々広めな独特の距離を保ち、深い夜空を見上げて話した。

「ところで……せっかくの機会だから、今度は私が質問してもいいかしら?」

「え、ああ。うん、どうぞ」

 相変わらず少女の方には、動作と呼べるほどの動きはなく、その心象はどうにも度し難い。けれども、進んで話題を提供してくれるということは、いくらかの好感は得ていると考えて良いのかもしれなかった。

「幽霊の私が聞くのも変だけど……もしお兄さんに、もうすぐ死がやってくるのよって言われたら、どう思う?」

 そして、何だろう。最近の初対面の人との会話において、この類の質問の占める割合の多さといったら。あるいはもしかして、これが違和感の正体か? この少女もやはり幽霊だけあって、僕の現状を察知することができるのだろうか。

 まあ、そんなこと口が裂けても聞けないけれど……。

 僕は少女の質問に、ただ純粋に答えた。

「どうにかなるなら、それなりに抵抗するよ。好んで死にたいわけではないから。でも、もしどうにもならないのだとしたら、どうもしないよ。たぶんね」

「そう。潔いのね、随分と」

「あはは。何ともならないことも、この世界にはあるものだしね」

 潔い、というのだろうか。全てを受け入れてしまえることを、少女はそうやって表現した。でもきっとそれは、もっと突き詰めて言ってしまえば、もっと的確に言ってしまえば……諦めが良いという意味の表現なのだ。僕は自分のことを答えたつもりなのに、そこにはどこか、他人事のような軽さを感じる。

 ああ、そうだ。口に出してみて改めて実感する。僕の発言はまるで他人事のようではないか。

 確かに僕のこの現状――僕が余命約二年を残して死に瀕しているという状況は、唯花がどうにかすると言ってくれている。いやに自信満々に、百発百中の契約を結んでくれている。何せ千年の経験則に準じた契約だ。

 しかしその経験則を僕が信じるのも、比べれば幽霊を信じるのとあまり大差はないではないか。唯花には悪いが、実際にはこのまま僕の寿命が戻らずに死に至ることも、十分考えられる顛末である。僕はそういう事態も、ちゃんと想定しておかなくてはならないはずだ。

 だから僕は、少女への答えの訂正と同時に、自分に向けての言葉として、続けて述べる答えを選んだ。無心でボーっと生きていても、最低限しなければならないと思うことが僕にだってある。

「あ、でも………待って。どうもしないって答えたけど、そこだけやっぱり言い換えるよ。きっと準備をする。死ぬ、そのための準備を」

「……準備?」

「うん。思い残すことがないように、人並みにはね。あとはそう、自分の死に、そして生に、意味があるように……かな」

 口で語れば、大仰な言い方になってしまう。でも、それはいつか唯花に語った事柄とも関連していて……永遠に生きるわけでもなく、いつか必ず終わりを迎える人生なら、遅かれ早かれ考えなくてはいけないことだ。

 少女は、僕の次なる発話を待っていたようだった。言葉少なに、それでもいささかの興味を示して、僕に主張の釈明を求めた。

「僕は、人生には意味があるんだって、そう思いたい。そうあってほしいって、願う。そしてたとえば、人の生に大きな意味を付与するのは、その死かもしれない。どう生きて、そしてどう死ぬか。人間にとってとても大事なことだ。小説でも映画でも、幕の引き方が大切なのと同じで」

 少女は、ただ笑った。静かで涼しげな、笑みを零した。

「なるほどね、よくわかった。お兄さんって……面白いのね」

「面白い話をしたつもりはなかったけど……あれかな、幽霊になる心構えでも、試されたかな」

「あら鋭い。そんなところよ」

 さすがにそれは冗談だったのかもしれないが、僕の話に少しくらいは満足してもらえたようだった。

 夜空を仰いで目を細め、やがて通常の何倍もの時間をかけつつ、首を動かしてこちらを見る。双眼は僕を視界にとらえ、のちにまたゆっくりと閉じられた。

「素敵なお喋りだったわ。こんな話を真面目にしてくれる人は、そうはいない。でもごめんなさい。そろそろ私は戻らなきゃ」

 言うと、少女はまるで浮いて滑るように歩き出した。僕らの距離は徐々にゆっくり縮まっていく。帰り道は、僕のきた道の方なのかもしれない。

「そっか。もう遅いしね。気を付けて」

 僕は少女に同意を示し、別れの提案に承諾する。

 一方、僕の帰り道は、少女の後方にある公園の出口だ。お互いが帰路に着こうとすると、一度交差して反対を行くことになる。

 両者の間隔に反比例して、僕の心音は高まっていった。すれ違いざま、肩が重なるくらいすれすれの隣を行く少女に対し、僕はこの緊張が伝わらないようにするだけで必死だった。

 だからだろうか。少女を真横にして聞いたこんな言葉は、非常に鋭く、僕の脳を貫くことになる。

「お兄さんこそ、悪い悪霊に連れていかれないようにね」

 心の中の異質感と、この状況が作る夢幻性……そして少女に抱いた違和感が、絶妙に混ざり合って奔流する。瞬間、どうにも処理し難い感覚が僕の全身を支配する。

 やがて少女が僕から離れて後方に立ったとき、さよならの代わりに再びこんな質問をした。

「あ、そうだ。最後にこれだけ聞いておくわ。お兄さんは自分の生に、そして死に……具体的にどんな意味を持たせるつもりなの?」

 少女はきっと、振り返ってすらいない。

 だから僕も、動くことなく前を向いたままで、質問に答えた。

「具体的に、か。……ごめん、それはちょっと……もう少しよく考えてみないと」

 少女が歩いて行く足音が聞こえる。直前の質問よりも遠い場所から、消えゆく寸前の淡い声で、最後の感想が僕に届く。

「そっか。なら……本当に死ぬその時までに、見つかるといいね」

 足音が完全に聞こえなくなってから、僕はゆっくりと公園を出た。

 頭の中は、濁流の去ったあとのようにぐちゃぐちゃだ。理解の範疇を超えた出来事に出合うと、人はどうにも思考を投げ出してしまうのだということを、このとき僕は理解した。

 そこから寝るまでの記憶は、この出来事と比較して印象が薄過ぎたためか、まったくといっていいほど頭に残っていない。

 僕のBGMは、ここまでだ。早口で次々と語ったために、ものの十分程度だっただろうが、聞き手二人は既にほとんどの興味を失っていたらしかった。そのことに関しては、僕は一通り話し終わってから気付いたものだ。

「詞ってば……それで、その子が幽霊だって信じたわけ? 溜息が出るほど単純ね」

「年下の少女にからかわれるなんて、川澄くんは少々純情過ぎるのではないか?」

 まったく、なんて否定的なコメントだ。非常に傷つく。特に二人とも、唯花はパソコンから、灯華さんは書類から一瞬たりとも目を離さずに返答しているあたり、その興味のなさは疑う余地がない。

「……反応が雑で、悲しいなあ……」

 BGMはBGMらしく、一人でずっと喋っていればいいということだろうか。そりゃあもちろん、笑い話でもなければ役に立つ話でもない。聞き流していい話かどうかと問われれば、その答えには肯定を返すしかないのだが……。

 だからといって、だ。

「灯華ー、詞が悲しんでるわよー? ちゃんと話、聞いてあげなきゃ」

「唯花こそ、面倒な事務作業は川澄くんにまかせっきりで、別に急ぎの仕事もないのだろう?珍しく積極的に話題を振ってくれているのだから、反応してやらないと怒られるぞ」

 だからといって、これは二人とも冷たいと思う。

「おかしいなあ……話の中には、至極魅惑のキーワードが含まれていたはずなんだけど」

 灯華さんは無理でも、せめて唯花の興味を引くくらいの自信はあったのに。にも関わらず、予想外のあまりに冷めた反応に、むしろこちらが驚いてしまうくらいだ。

「魅惑のキーワードって? 可愛い少女のことかしら?」

 違う。唯花の感性はそんなものか。

「それじゃあまるで、僕が変な趣味の人みたいじゃないか!」

「何だ、違ったのか? 私もてっきり、キーワードと言えばそれしかないと思ったのだが」

 灯華さんまで……この人の感性も、大概似たようなものだった。二人は、きっとそのあたりがどうかしているに違いない。

「だいたいですね。その女の子が可愛いとかいう話だったら、もっとそういう部分が際立つように話しますよ。だいいち、その少女が可愛かったかどうかということを、僕が今、一度でも問題にしましたか!?」

「でも、可愛かったのだろう?」

「それは……まあ……綺麗な子でしたけど……」

 何だろう。灯華さんは、なぜかこういうところばかりが鋭い。女の勘か? だとしたら恐ろしい限りだ。

「詞ってロリコンなの? 確かにそういう趣味の人は一定数いるものだけどさ。まさか詞がねえ」

「僕はロリコンじゃないよ! 断じて!」

「せめてもっと早く言ってくれればなー。服装だけでもそれに合わせてあげたのに。私、可愛い系の服も多少は持っているわよ?」

「だから僕はロリコンじゃないって言ってるじゃないか! そんな気遣いは嬉しくないっ!」

 唯花は唯花で、灯華さんに対する僕の返答から、とんでもないところまで思考を発展させたらしい。僕がロリコン? 本当に本当にとんでもない。それに、いくら唯花が服装だけを努力したとて、彼女にその類の属性は一生かかっても付かないだろう。

「みなまで言わせる気ですか。キーワードは“幽霊”です! 幽霊!」

 実際のところ、さきほどの僕の話にそれ以外の特徴はない。このキーワードに気を回さずして、いったいどこに注目するのか極めて謎。二人は女の子の容姿に興味がいってしまったようだが、普通の人なら勘付くところだ。

「えー……。灯華ー、どう思う?」

「いや、でもなあ? 幽霊だぞ? この科学技術の発展したご時世に、よもやそんな心霊現象を真に受ける人がいるとは」

「そうよねえ。そりゃあ、むかーしむかしはそういう話を信じている人の方が大半だったけど……もう最近はねえ」

 しかし相変わらず、彼女らの幽霊に関する興味は冷めていた。それはもう本当に、冷め切っていた。夢もロマンも、へったくれも何もない。

「……科学も所詮、宗教の一つのようなものなんですよ。あくまで人間が生み出した一つの思想の側面に過ぎないんですよ! 今更常識にとらわれるなんて視野が狭いです、二人とも! 自分たちだって十分、非現実的な立場の人間だって言うのに!」

 どんな話であれ、自分の意見が信じてもらえないのは悲しいものだ。たとえそれが迷信めいた伝説でも、狂気じみたお伽噺でも。

 ここまで言われてしまっては、僕もそう簡単に引き下がりたくはない。二対一で分は悪いが、僕にだって意地はある。

「僕もこれまでは、どちらかといえば否定派でしたよ。でもですね。あの雰囲気は特別でした。あの子のオーラから感じる違和感は、紛れもない本物だったと思うんです。昨日から残るこの不思議な感覚は、どうしても理性とは別物です」

 必死だろうか、僕は。特に声を大にしているわけでも、身振り手振りに情熱を込めているわけでもないが、それでも訴えるような口調にはなっていた。

 脳天から身体を突き刺すあの感覚、異質な気配は、疑いなく僕がこの世に生を受けて以来、初めてのものだったのだ。それがどんなものなのか、僕以外の他者にも知ってほしい。そして考えた末の他者の宛てが、この二人くらいしかいなかったということだ。僕が少しばかり諦め悪く語るのは、きっとそういう想いもあったのだろう。

 百聞はどこまでも戯言だが、一見すればそれはたちどころに、疑いのない真実となる。この目で見てしまったからには、信じないわけにはいかないのだ。唯花たちにとって僕の言葉はやはりただの戯言でも、僕には語るくらいしか術がない。

 こうして室内には、突然に物音がなくなった。唯花と灯華さんが作業の手を止めたのだ。二人同時に、僕の発言に合わせて止めた。僕の訴えが、ついに彼女たちの注意を引きつけたのかと、そう思った。

「いつになく真剣だな、川澄くん。そんなに言うのなら、そうだな……」

「灯華、もしかして気になったの?」

「ならなくはない、といったところか」

「まあ、そうね。キーワードとして、可能性はゼロではないわね」

 察するに、何とか興味を引きつけたこと自体は確信して良さそうだった。けれども如何せん、この二人の阿吽の息にはついていけない。会話内容は、概ね僕にはわからなかった。

「ならば、うん。触れておいて損はないさ」

「でも、時期が時期だけに望み薄だけどね」

「時間は、関係あるものなのか?」

「どうかしら。ないこともないんじゃない? 慣れって意外と重要だもの」

 やっと……やっとまともに会話に混ざってくれるようになった。

 と思ったら、僕は一瞬にして蚊帳の外。何の意思疎通を図っているのかわからないけれど、いやむしろわからないからこそ、やはり間違いなく蚊帳の外だ。さながら、どうぞどうぞと誘ったものの、赤い布もろとも吹っ飛ばされた闘牛士のよう。

 そこからも彼女らの会話は少々あったが、僕はすっかり割り込む機会を逸していた。ちょっとした首を突っ込む隙すら、見つけられなかったのだ。仕方ないから、飛び交う言葉を耳でひたすら追うばかり。かなり虚しい気分を味わう。

「ねえ詞、それで……って詞? 聞いてる?」

 と、そこに、久々に僕へお声がかかったようだ。とっくに呆け始めていた僕は、唯花の言葉に後れをとる。

「こら詞。あほ面は美しくないわよ。言い出しっぺでしょう。しっかり聞いてて」

「いや、そりゃ話し始めたのは僕だけどさ……」

 あほ面って……。

「でしょう? けど、さっそくその話の腰を折って悪いのだけれど」

「って、腰を折るなら言いだしっぺも何も関係ないじゃないか!」

 話の腰を折る、と最初から公言するのもなかなか珍しいものだ。もう完全に明確に容赦なく、僕の話を乗っ取るつもりでいるらしい。

 唯花は文句を受け付ける様子など微塵もなく、既にそのための一言目を紡いでいた。

「その幽霊の少女に感じた違和感について、詳しく話してみて」

 そして突然、どうにも難しいことを言う。説明だなんてそんな……。

 だいたい唯花は、その少女が幽霊だとは思っていないくせに。いったい何のための質問だろう。

「何それ。詳しくって言われても……違和感は、違和感だよ」

「だから、それはどんな違和感なの?」

「どんな……? うーん……まるでこの世のものではないような、超常的な感覚? 普通じゃない、みたいな?」

 そもそも違和感とは、よくわからないけれど何かがそぐわない感じを表す言葉だ。厳密な定義は別としても、少なくとも僕はそういう意味で使った。説明は困難だということが、既にその表現の中には内包されていると思うのだが。

「詞って説明下手ね」

 要するに、上手く伝えられない部類の感覚なのだ。だからこそこんなコメントをもらってしまう。仕方がないとはいえ、僕はそんな唯花に少しだけむっとした。いちいち言われなくても、別に説明が得意な自覚なんてない。

 僕は何かを言い返そうとも思ったけれど、図星に返す言葉はない。言い訳選びに必死な僕の口よりも早く、次に唯花に声をかけたのは灯華さんだった。

「唯花、聞くならもっと直球がいいぞ。前置きばかりいくら重ねても、おそらく永遠に話は進まないだろう。君の悪い癖だ」

 それは、暗に僕の理解力に見切りをつけた言葉だろうか。違うと願いたいところだが……ただし悲しきかな、それも事実。長話での唯花の前置きは長いし、彼女には無意識にでも真実を勿体つける癖があるようなので、今の灯華さんの助言はありがたかった。

 唯花の方も「それもそうね」と言って言葉を選び直す。

「じゃあ詞、改めて聞くわ。その少女が遺失者の可能性は、あるかしら?」

 けれども、僕はその質問に対して固まってしまった。

 真面目な質問だというのはわかった。だが唯花の放つ言葉はときに、場所も状況も選ぶことなく、僕を非現実へ引きずり込む。ほんのわずかでも内情を知っている僕にとって、唯花と、そしてともすれば灯華さんの言動は、常にそういう意味を持っているのだ。

 もしかすると唯花がいつも並べ立てる前置きは、聞き手のショックを和らげる効果を持っていたのかもしれないと、このとき気付いた。

「ほら、だから呆けるの禁止。どうなの、可能性は。あるの? ないの?」

 そんな僕の心境を知るはずもない唯花が、質問への回答を急かしてくる。

「い、いや……それは……わからない。僕が感じたのは、何度も言った通り、違和感だよ。その中身まで詳しくはわからない。ただ単純に、普通からかけ離れていることしか、わからなかった」

「普通からの隔絶、ねえ……」

 違和感。具体的に表現できない感覚だからこそ、僕はそれを違和感と呼ぶ。中身が何かわかったなら、その感覚には別の呼び名が付くはずだろう。

 それよりも、唯花の質問を経た僕には、気になることが一つ浮かんだ。

「っていうか、相手が遺失者かどうかなんて、見ただけでわかるものなの?」

「わかるわよー。別に見なくてもわかるけど。私があなたに初めて話しかけたとき、あなたの遺失を見抜いたじゃない」

「ああ、そういえば……。でもそれって、唯花にだけできることじゃなかったの? 僕にもできるの?」

「あ~……うーん……。そうねえ……そうくるわよねえ。もういっそのこと、全部話した方が早いかなあ……」

 唯花は、腕を組んだり人差し指を顎にあてたりしながら、様々な仕草で思考をする。僕の投げかけた質問は、思っていた以上に彼女を悩ませるものだったようだ。

 回答を待つ方としては、その緩慢な動きにはじれったさが募るが、でもここは黙っていた方が良いだろう。下手に急かしても、小言が増えるだけで答えは遠のくばかりだろうし。

「ねえ灯華ー。いいかなー?」

「ん? お前がいいと思うのなら、いいのではないか?」

「そうねえ……」

 思考を経て、相談を経て、唯花はまだ何かを悩んでいる。

「前に、私にしてくれた話だろう? あまり知られてはいけない話だったのか?」

「いや、そういうわけじゃないけど。単純に灯華はどう思うのかなーって。立場的に、色々思うところがあったりしないの?」

「川澄君ならば大丈夫だろう。それに、どちらかといえば私よりは、川澄くんの方が知る権利を持っている人間だと思うぞ。何せ、彼にとっては他人事ではないのだからな」

 相談の内容は、やはりというか理解不能だが、それでも聞く限りでは僕に関わる話らしい。灯華さんはさておき、僕と唯花にとって他人事ではない話。それは以前と同じ推測の結果として、遺失に関する話だろうとわかった。

「ま、そうね。じゃあ説明してあげる。面倒だから先延ばしにしたかったけれど、でもこれも、いい機会なのかな」

 考えるための姿勢を一通りとり、ようやく唯花の中で結論が出たようだ。ソファの上で居住まいを正し、僕を呼ぶ。話しながら歩き回っていた僕を、向かいのソファに座らせた。

「説明って何? 難しいこと? あまり複雑な話は得意じゃないんだけど……」

「何よー、せっかく人が面倒なのを我慢して、話してあげるって言ってるのに」

「うん、それはとてもありがたいけど……。でも、面倒って……身も蓋もない言い方だね」

「だって事実面倒なんだもの。できるだけ簡単に話すつもりだけど、私にだって限界はあるわよ」

「が、頑張ります……」

「そうね。頑張って理解できるのなら、その方がいい。知っておいて損はないことだわ。特に、私や灯華といる場合にはね」

 どんな話が飛び出してくるのかと緊張しながら、僕は「わかった」と頷いた。

 唯花は「まあ、詞なら大丈夫よ」と笑ってくれたが、実際のところはどうだろう。彼女は僕のことを過大評価しているようにも過小評価しているようにも見える。とにかく僕は、できれば彼女の期待を裏切りたくはない。

「それじゃ、まずは基本的なことね。この世界にある全てのものに言えることなんだけど、それぞれにはそれぞれの“器”があるのよ。その存在に対して大きくも小さくもない、ぴったりのサイズの器がね」

「う、器? いきなり……抽象的な話だね」

「いいから、我慢して聞く! で、その器っていうのは、それがこの世界に存在して得ていくものの大きさに合わせて、変化していくの。過不足なく丁度良くね。例えば灯華の場合は……灯華が生まれて、お勉強して賢くなったり、色んな感情を味わったり……そうやって得たものを、ぴったり収めることのできる器を持っているわ。もちろんそれは灯華だけじゃなくて、この世界のほぼ全ての存在が、そうなんだけどね」

 続く話も、繰り返すまでもなく抽象的だった。想像力の要求される話だ。僕が難しい顔をする横で、話の引き合いに出された灯華さんが、これまた微妙そうな顔をしている。

 どうやらこの話での器というのは、器量とか度量とか、そういった意味のものではないらしかった。単純な入れ物ということだ。とすると、生きてそこに収めていくものというのは、人の場合ならば記憶とか感情とか、そういった類のものだろうと思う。

「でね。その“ほぼ全て”に含まれない存在はというと……?」

「えっと…………僕、たち?」

「そうね。よくできました」

 唯花と、そして今や僕も属する遺失者というカテゴリは、ことあるごとにこの世界では例外的なポジションのようだ。それは一般とはかけ離れた非日常のものであり、非現実的なものであり……ゆえにどこまでも異質な存在なのだろう。

 未だ僕に遺失者としての自覚が生まれていないことは、きっと唯花にも見抜かれていることと思うけれど……だとすればこの話は、そんな僕への助言であり、さらにあるいは警告でもあるのかもしれなかった。

「そんな私たちが、普通とどう違うのかというとね。その器に違いがあるのよ」

「でも器って、個人によって様々なものなんでしょう? 違うのは当然じゃないの?」

「えっとー……器そのものじゃなくて、状態に違いがあると言ったほうがいいかな。器は人それぞれ違っても、皆々ぴったり満杯だって言ったでしょう」

「つまり、僕たちの器はそうじゃないと?」

 自身の持つ想像力と、順応性と、理解力を、ほとんど限界まで用いないとついていけない。特に僕という人間の感性は、このステレオタイプな現実という枠組みにどっぷり浸かって囚われているために、その方面の努力はよりいっそう必要だった。

「そう。私たち遺失者の器は、満たされていないの。隙間があるのよ。ぽっかりと空いた、空白が」

「でもそれも、余裕があっていいと思うけどな。僕は」

「机の引き出しじゃあないのよー? 詞の頭の中みたいに、スカスカのからっぽでいいわけじゃないの」

 な、何て言われようだ。スカスカ空っぽはさすがにひどい。余裕を好むかぴったりを好むかは、服装の趣味のようにそれぞれ価値観が分かれるところなのに。どちらが優れているとも言えないはずなのに。

「この器に関しては、今みたいな考え方はダメ。必ず丁度。それが一番安定なの。だいいちその余裕だって、本当は持っていたはずのものを失くしてしまって、それで生まれた空白なのよ?いいわけないじゃない。器という概念について、満たされた状態から見たら、超過も不足も相対的には不安定。良くない状態と言えるわ」

 まあ、遺失者の器が超過だなんてことはないんだけれどね、と最後に唯花は一言付け足す。

「えっと……とりあえず、僕たちの器は不足状態というわけだね。でも、不足していて不安定だと、その先いったいどうなるの?」

「不安定な状態のものは、安定な状態を目指そうとする。よくある物理法則なんかと同じよ。学校でそういうの、習わないかしら?」

 水は高いところから低いところへ流れる、みたいなもののことだろうか。あるいは、唯花の言った法則はもっと別のもののことかもしれないが、僕にはこれくらいしかぱっと浮かばない。でも、別にいいだろう。

 気になれば確認をとれなくもないが、またけなされそうなのでやめておく。

「と、とにかく。不安定な器は、安定を目指すんだね。でもそれって、具体的にはどういうことなの? もしかして、放っておいたら失くしたものを見つけ出して、ぴったりな器に戻るんじゃない?」

「運が良ければねー。でも、自分の失くしものって、不思議と自分じゃ見つけられないものなのよねー」

 唯花は「あははー」と朗らかに笑っていた。

 確かに、自分で失くしたものって、なかなかどうして簡単には見つからない。人に探してもらうとすぐ見つかっても、自分一人ではいつまでも見つからない。そういうことは、ままあるものだ。気持ちとしては、わからなくもなかった。

「まぁまぁ、それはさておき、ここからが大事よ。いい? しっかり聞いてね?」

 そして、本件は今から山場のようだ。

 これ以上の思考が僕に可能かどうかは疑問だが、しっかり聞けと改めて釘を刺されては無視もできない。一応は頑張って聞くとしよう。

「空白のある欠けた器は、失くしたものを取り戻そうとするわ。その、失くしものを求める気持ち、心の鼓動は、“共鳴”するのよ」

「……共鳴?」

「不安定な器から出る波動。それは、同じく不安定な器にだけ感知できる特殊な波動なの。安定した器には感知できない、共鳴波。詞の言葉を借りて表せば、つまり違和感よ」

 これを聞いて、僕は思った。唯花の口から出る話には何度も抱いた感想だが、それはもう突拍子もない話だと。

 だがしかし、直後には納得していた自分がいた。少しだけ驚いたのは事実だが、その驚きさえも瞬時に引いていったのだ。

 失くしてしまった悲しみ、辛さ。そして、それを取り戻したいと願う心。何も失くしていない人には理解のできない、失くした人にだけわかる、悲嘆。

 そういう意味では、共鳴というのもあながち有り得ないことではないのかもしれないと、僕には思えた。

「詞、オーケー? 理解できた? できたのなら、最初の質問に立ち返るのだけれど」

 理解は、できた。全てではなくとも、八割くらいは。もしかしたら僕が当事者なだけあって、感覚的な面での把握が先行し、それが頭での認識を補佐してくれたのかもしれない。

「うん。昨日の少女についてだね。どうかな……今の話を聞いて、もしかしたらっていう気もするけれど……」

「まあ、そんなところよね。やっぱり、確信にはほど遠いのかしら」

 ……う、そりゃあ、会ったときはそんなこと知らなかったし。ただでさえ曖昧な感覚を思い出しながら審議するというのは、非常に困難な作業だ。今この瞬間、少女は僕の前にいないのだから。

 僕が座って悩み続ける一方、唯花はパッとソファから立ち上がって伸びをした。小難しい説明をして、彼女の身体も固まったようだった。

 結局のところ、確実に確かめるには、昨日の少女自身にも確認が必要になるわけだし、これ以上はどうにもならないわけか。せっかく難解な説明を理解したのだから、少し実践をしてみたいと思わなくもなかったが……。

 いや、待てよ。唯花の説明によれば、あるいは……。

「ねえ唯花。共鳴って、遺失者同士なら、誰でも起こり得る現象なんだよね?」

「ん~? そうだけどー?」

「じゃあ、僕が唯花から何かを感じるかどうかで、確かめることができるんじゃないの?」

「あー、まあねー。何~? 詞は、私から何か感じるのかしらー?」

 ストレッチをしながら歩き回る唯花は、僕の質問に興味を示した。

 そうして今度は、バフッという音が出るくらいの勢いで、僕の座っているソファにダイブする。

 瞬間的に僕は横へずれたのだが、このソファは三人掛け程度の大きさだ。唯花が寝そべればスペースをとられ、必然的に僕は端の方へ追いやられる形になる。

「っふふ。どう ?感じる? 私から何か、感じるの?」

「ちょ、ちょっと……狭っ……」

「逃げちゃダメよ~。大事な確認なんだから~」

 下から僕を覗き込み、上目遣いで迫ってくる。あまつさえ、彼女の手が僕の頬に伸びてこようとしたときは、さすがに驚いてソファから飛び退いたものだった。

 唯花は冗談のつもりだったろうが、こっちは到底そうもいかないのだ。理由はもちろん、そう、恥ずかしいから。

「あ~ん、詞の意地悪~」

「こ、怖い怖い。変な誘惑はやめて」

「怖くないわよ。ほらほらー、近くにいた方が分かりやすいかもしれないでしょー?」

「手が怖い、動きが! あと目も! 灯華さん、ちょっとこれ、止めてください」

 おかしい。まっとうな質問をしただけのはずだったが、唯花に変なスイッチが入ってしまったみたいだ。

 でも、僕のできる抵抗は逃げることくらい。度の過ぎた悪戯の制止は僕には無理だし、ここでは是非、灯華さんの助け舟を期待したかった。

「何だ。女体は嫌いか?」

 っておい! ダメだこの人! いやむしろ、この人もダメだ!

 そもそも灯華さんに助けを期待したという点で、駄目なのは僕の方だろうか。でも、ここには他に人がいないし……。

 雰囲気的にはもはや貞操の危機すら感じる。唯花の洒落は、僕には洒落程度で済まないことが多過ぎる。

「あら、私から逃げようなんて、愚かよねぇ……」

 そう広くもない室内だ。ソファから離れようとも、ものの数秒で僕は退路を失った。部屋の隅に追い詰められ、パシッと手首も掴まれて、唯花の顔は目前まで迫った。目を瞑ろうにも、それはそれで怖いものだ。妖艶な笑みとともに近づく彼女を視界の中心にとらえ、髪の香りも、睫毛の本数まで分かるくらいに接近する。

 いったい全体、何の冗談だ。あまりにも唐突でついていけない。

「あの……こ、これ……ギャグにも洒落にも、なってないんだけど……」

 今の僕には、唯花の顔しか見えるものがなかった。白い肌も、黒い瞳も、ほんの数センチ足らずしか離れていない。

「ギャグでも洒落でもないのだから、逃げるなんて失礼だわ。集中して。どう? わかる?」

「まずは、離れてよ。これじゃあ、わかるものも分からないって……」

 集中ったって、こんな状況ではそんなの無理だ。確かに神経は研ぎ澄まされているけれど、それはどちらかと言えば別の部分。触覚に嗅覚に……他にも色々。それらが彼女から受ける刺激に対し、無視なんて到底できるはずないのに。

「唯花、離れ――!?」

 と、二度目の抗議をしたそのときだった。

 瞬間、脳天から貫くような感覚が、僕の身体の全体に走る。鮮やかに強く、そして鋭く。僕が昨日感じたものと、それは同じか、似たものか。あるいは似て非なるものか。しかしとにかく、日常では感じることのない異質な衝撃を、今まさに感じ取ったのだと分かった。

 心が直接反応する。揺さぶられ、鳴り、引き合う。強烈なまでの呼応が、二つに重なって僕に届く

「あ――。わかる――。唯花……それに……」

 そんな共鳴という現象に、神経の制御を奪われてしまったのだろうか。僕は、さきほどまで離れてと言っていた唯花を見つめ、握られていない方の片手を動かし、そっと彼女の頭へ回す。

 僕が触れたのは目の前に凛と咲く、かんざしだった。

「へぇ……本当、かあ」

 吐息すら感じる距離に、唯花はいる。彼女がそう呟いたのが、僕に聞こえないはずはなかった。

 唯花は近づけた顔を少しだけ離し、かんざしに触れる僕の手に、そっと手のひらを重ねてくる。

「灯華、間違いないわ。詞はもう、こんなにも早く、遺失の共鳴を感じ取れる」

 唯花が灯華さんにかける言葉は、その声色は、さきほどまでの悪戯半分な声とはまったく異なるものだった。艶やかという点で似てはいても、今の真面目な声の方が何倍も何十倍も、深く落ち着いていた。

 対する灯華さんの様子も、阿吽の呼吸で真剣な口調だ。

「そうか。実に優秀じゃないか。川澄くんは」

「そうね。例の子、探してくれないかしら?」

「ああ。任されよう」

 灯華さんは、備え付けられたデスクトップのパソコンを起動し、機敏な動きで何かの作業に取り掛かった。

 しかしながら、そんな様子がわずかばかり気にはなったものの、僕の注意は未だに唯花の頭上に注がれていたのだった。

「唯花、これ……。本物の花……?」

「スターチスの花。可愛いでしょう? 以後、お見知りおきをお願いするわ」

「スターチス……? 花が……人じゃないのに、どうして」

「あら、遺失が人に限られる現象だなんて、そんな話はなかったわよ? 確かに稀ではあるけれど、花だって何かを失くすことはあるのでしょう。私たちと同じように、生きているのだから」

 僕が感じた衝撃は、二重だった。その正体のうち一つは、もちろん唯花。そしてもう一つは、どうやらこのかんざしということらしい。

 花がその器から何かを失うなんて、飛び抜けた話の中でも、一際奇怪なことだろう。それはまるで、花にも心があるかのようだ。感情が、あるかのようだ。

「まあ、詞がこの花のことを作りものだと思っていたとしても、無理はないわ。だってこの子も、私と同じなんだもの」

「うん。悪いけど、てっきり造花なんだと思っていたよ。まさか本物の花だなんて……驚いた」

 いつも唯花の頭の上で、煌びやかな桃色を放っている小さなかんざし。アクセサリーなのだから当然、常にその咲時のように大きく花弁を開いているのだと思っていた。満開の花を模して造られてのだと思っていた。

 でも違った。

「唯花と同じってことは……その花も……?」

「おそらくね。どのくらい私と一緒にいるかは、もうあまり覚えていないけれど……でももう、かなり経っているわ。そして私は一度も、この花が枯れたところを見たことがない。今までずーっと咲き続けている」

「そう、なんだ。以前の唯花の話に頷いておいて、おかしなことだけれど……よもや信じられないよ」

 僕の感想に唯花は笑いながら「別にいいのよ」と言ってくれた。そしてまた「じきに慣れるでしょうから」とも言ってくれた。

 彼女は僕の前でかんざしをとり、胸の前に両手で持って優しく続ける。

「とにかくね、そういうわけだから私は、この子をとても気に入っているの。気に入っていること自体は前にも言ったと思うけれど、理由は初めて教えると思う。理由はもちろん、この子が私と同じだから。この世界で唯一、私と同じ道を歩む存在だから」

「それは……永遠に生きるという道?」

「ええ。この子とはね、ずっとずっと一緒にいるの。私は今まで長く長く生きてきて、それなりに親しかった人は何人もいたけれど、その誰とも、ずっと一緒にはいられなかった。数十年かしたら、すぐに別れなきゃならなかった。みんな私よりも先に逝ってしまったから」

 胸元の小花を見つめて話す彼女の顔は、わずかに下方へと向いていて、俯いて見えた。慟哭を露わにするというわけではなかったけれど、それでも何か、少しばかりの寂しさのようなものを漂わせ、そこはかとなく自虐的な笑みまで浮かべた。

 もちろん普通の人間は、時間が経てば老いて死ぬ。それはこの世の常識であり摂理であり、反する唯花の想いは身勝手な寂寞だ。彼女自身も分かってはいるのだろう。心境はとても複雑そうだ。

「まあ、私の方がおかしいんだから、寂しいなんて言えないけどね。でもそんな中で、この子だけはずっと一緒にいてくれるの。想い入れっていうか仲間意識っていうか……大切に思ってるの」

 悲愴的な言葉の中に、ひとしずくの慈愛が感じられる。目尻を下げ、落ち着いた彼女の笑みは、儚げで美しかった。

 けれども僕は、唯花にはそんな笑顔なんて似合わないと思うのだ。本当なら、僕がここで気の利いた言葉でもかけて、彼女をいつもの満開の笑顔にしてあげたい。そんなことができたら、きっとすごく格好良い。

 でも、何と声をかけたらいいのだろう。僕は情けなくも迷ってしまう。

「………………」

 言葉が選べず、沈黙するしかなかった。

「っと、それはいいのよ。脱線脱線。話を元に戻しましょう。さすがは私の助手ってところよねー。有能かつ順応性に溢れる詞は、偉いわよ!」

 そして僕が頭を悩ませている間に、彼女は自ら沈黙を破ってしまった。

 明るい唯花に戻ってくれて嬉しい反面、少しの後悔も心の中に滲んで残る。

「いや……うん。って、あれ? それ、僕を褒めてるんだよね? 自画自賛じゃないよね?」

「やぁね。両方よ、両方」

 唯花はもう、とっくに気分を入れ替えたらしく、軽快な口調と仕草で対応した。とはいえ、今のはやっぱり、さりげなく自分のことも褒めていたのか。なんて人だ。

 対して僕は、即座に反論をした。面倒でも、ここは突っ込んでおかなくてはいけない。唯花の自画自賛をスルーしたりしたら、今後から事あるごとに自分を褒めそうだ。それはきっと、大いに癪に障るに違いない。

 でも唯花は、僕の言葉など気にもせず華麗に受け流す。かんざしを元に戻し、くるっと回れ右をしてソファに戻った。

 それを見て僕も、溜息をつきながら、彼女と向かいのソファに腰を掛けることにする。呆れて、疲れて、安堵して……ついたのはそんな溜息だった。

 数分して、灯華さんからさきほどの件の報告が返ってきた。

「二人とも、もう話はいいのか? というか、むしろ少し待たせてしまったか」

 その声に、僕と唯花は揃って視線を灯華さんに移した。

「いや、久々に例のデータベースを覗いたものだから、ちょっとばかし時間をとられたよ」

「例のデータベースって、何です?」

「灯華は、自治体の管理するデータベースの閲覧権限を持っているのよ。それで……わかったの?」

 な、何だって? それって個人情報じゃないか。プライバシーとかはどうなるんだ。

「ああ、わかったよ。川澄くんの話に出てきた少女だが、やはりというかもちろん、幽霊ではなかったな。街の病院の入院患者のようだ。実在する人間で、年の頃は中学三年といったところか。入院は長期に渡っているそうで、この夏でもう一年と半年になるらしい」

 個人情報、プライバシー。どうなるも何も、駄々漏れだった。逆に言えば、そういう権限を持っている灯華さんがすごいということになるのかもしれないが……僕もあれで調べられた形跡があったりしたら、嫌だな……。

「ふ~ん。そこって、私が詞に初めて会ったところ?」

「だと思うぞ。ならば、場所はわかるな? 近いうちに行ってきたらどうだ」

「だってさ、詞。明日、行こっか」

「え、明日? また随分と急だね」

 唯花に初めて会った病院というと……あそこか。一度だけ診察を受けた記憶がある。

 でも結局何も解決しなくて、無駄足だった。というかそもそも、診てもらう必要なんてなかったわけだけれど。

 あれから経過観察になったものの、唯花と出会ったのもあって、二度目の診察には訪れていない。初診の次の週にまたくるよう言われていたような気もする手前、ちょっと顔を出し辛いものがあるけれど……。

「早い方がいいじゃない。どうせ暇なんでしょう?」

 唯花にこう言われてしまっては致し方ない。実際のところ確かに暇だし、返す言葉も特になかった。

 僕の曖昧な了承により、この計画は決定となる。

 しかし、一度会ったとはいえほぼ初対面の人のお見舞いに行くなんて初めてだ。いやそもそも、ほとんど面識のない人の見舞いに行くということ自体が、一般的にはかなりのレアケースだろう。唯花に気負いなどはないのだろうが、僕は正直なところ不安だった。

 それでもまあ、何だかんだで行くのだろうけど。

 決定となった今となっては、もはやその件は話題から退き、唯花と灯華さんが楽しそうに雑談をしている。部屋では二人の声だけが聞こえていた。灯華さんはパソコンなど久しぶりにつけたものだと言い、唯花はメンテナンスがどうのこうのと文句を言うのだ。

 まるで本当の親子のよう、あるいは姉妹のようにも見えるものだな。僕は何となく二人の姿を眺めていて、無意識にそんな感想を抱いてみる。

 やがて宵の景色は闇夜に変わって、太陽は月に置き換わり、唯花をマンションまで送り届けてその日は終わった。



     2  二〇二四 葉月―初



 翌日は過ごしやすい晴れの日となった。穏やかに流れる白い雲が、時折太陽光を薄く遮る。

 僕と唯花は待ち合わせをして、目的地である街の病院へと向かった。

 けれどもその入り口の前では、もう十時近くだというのに、唯花が眠たそうに目をこすりながらぼやく。

「詞~、どうしてこんな早い時間にしたのよー」

「ちっとも早くなんてないよ。唯花が夜更かしするから眠いんだよ」

 取り決めた集合時間にこそ間に合ったものの、唯花はここにくる間も、ひたすらに文句を言い続けた。

 待ち合わせの時間を決めたのは僕だったが、しかしそこまで早い時間にしたつもりはなかった。普通の生活をしていれば余裕を持って集まれる時間だったはずだ。早いと感じるのは、昼と夜がひっくり返った生活をしている唯花くらいのものだろう。

「ほら唯花。もう病院に入るよ。電子機器の電源は切ってね」

 何だかんだで、僕の方が先導する構図になってしまっている。唯花にはそろそろしっかりしてほしいところだ。

 目的が少々違うとはいえ、僕らはこれから見舞いに行くのだ。その見舞いの客が眠気で怠そうにしていたら、第一印象はまず間違いなく悪いものになるだろう。それは、できれば避けたい事態である。

 発案者の唯花もそのあたりはさすがにわかっているようで、持参するいくつものデバイス、もとい複数の携帯やミュージックプレーヤーの電源を一つ一つ切り、もう一度目が覚めるように気合を入れ直しているようだった。

 隣で見ている僕としては、次々にポケットから出てくるデバイスの数の方が気になったりしたものだが、この際それは脇に置いておこう。

「ん~~、オーケー。眠くないわよー」

「大丈夫? 寝ぼけて電源切り忘れないでよ? 寄るだけじゃなくて見舞いだから、マナーはちゃんと守っていこうね」

「そうね」

 こうして僕らは自動ドアをくぐり、受付のカウンターまで歩いていった。

 しかしながら、そのカウンターを目の前にして、僕は思った。至極当然のことを、今更になって。

 はて……見舞いにきた少女の名前は?

 名前を知らなければ、どの部屋にいるのか聞くこともできない。どころか見舞い相手の名前を知らないなんて、土台不自然な話である。

 それなのに現状で僕が知っているのは、少女が中学三年生で、この病院のどこかの部屋に入院しているということだけだった。

「えっと、唯花。灯華さんから詳しい情報もらってない? 僕、結局あれから何も聞いてないんだけど……」

 僕が唯花に尋ねると、彼女の方も当たり前のような顔をして、こう答えた。

「え? 特にもらってないけど?」

 ………………。

「それって、名前もわからないってこと……?」

「わからないわね。いつもそうだけど、灯華は余計なことまで教えてくれたりしないわ。必要最低限のことだけなの」

「いや……名前はその“必要最低限のこと”に含まれてもいいと思うんだけどな……。じゃあ僕らは、結局のところほとんど何も知らないでここにきたことになるよ」

 僕はてっきり、あの例のデータベースの情報を、唯花が聞いてくれていると思ったのだけれど……。一応そういう部分は、灯華さんも法に気を配っているということなのだろうか。

 でも、せっかく閲覧権を持っているのだから、もう少しくらい情報がほしかったと感じなくもない。

「どうしよ……二人してカウンターの前で突っ立っていたら、絶対不審に思われるよ」

「大丈夫よ、裏を取ってもらったんだから。ハッタリでも何でもかまして、とりあえず尋ねれば上手くいくわよ」

 えー……んな無茶な……。

 確かに、間違いなくここにあの少女がいるというのなら、知り合いですと名乗るだけでいいのかもしれないけれど……。

 不安だ。非常に不安だ。

 ただ、いい加減にカウンターを目前にした作戦会議も限界を感じる。僕はそう思って、こちらを向いて対応しようとしている看護師さんに声をかけた。

「こ、こんにちは。あの、見舞いにきた者なんですけど」

「はい、ありがとうございます。どなたのお見舞いですか?」

 対応は、ごく自然だ。

 それでも、返ってくる一言一言が、探りを入れながら話す僕にとっては怖いものだ。

「その、中学三年生くらいで、結構長いこと入院している女の子がいると思うんですけど」

「はぁ。まあ、患者さんの中には、そういう方もいらっしゃいますけど……お知り合いか何かですか?」

「え、あ……はい。知り合い、みたいなものです」

「みたいな、もの……? 申し訳ありませんが、患者さんのお名前とか、そういったものを教えて頂けるとありがたいのですが……」

 あれ? 何かやっぱり疑われているような……。っていうかハッタリってどうかますんだ?

 正直なところ、知っている情報が少な過ぎてハッタリすらもままならない状況だというのがじわじわと把握できてくる。

「詞……下手……」

 ボソッと唯花が隣で呟くのがわかった。

 下手で悪かったね! そりゃあそうだよ!

 僕の日常にハッタリをかます機会なんて今までなかった。そもそもやったことがないのだから当然の結果である。

 自然だった看護師さんの対応にも、次第に疑惑の色が混じり出す。あからさまにこちらの立場が危うい空気を、僕は感じ取った。せめて学生服とか、外見だけでも多少の警戒を解ける身なりをしてこれば良かったという後悔もわいてくる。

 作戦失敗。とりあえずこうなってしまっては、あとはもう、出直しますと伝えて逃げるくらいしか選択肢はないと思われた。

 が、そんなときだ。

 ふと背後から聞き覚えのある声が聞こえた。まるで鈴を転がしたような、高く愛嬌のある女の子の声が。

「あれー? もしかして、あのときのお兄さん?」

 僕が驚いて振り返ると、自分の真後ろの、腰くらいの高さに誰かがいた。

 すみれ色のゆったりした服を纏い、車椅子に座って無邪気に笑う可愛らしい少女。紛れもない、あの月夜の少女だった。

「君は…………そう! 君だよ! 一昨日の公園の子!」

 雰囲気は少し違うけれど、間違いない。よもやここまできて、この偶然に人違いはないだろう。

「君に会いにきたんだよ。良かった。夜遅くて暗かったし、もう覚えてないかと」

「わっ! ちょ、ちょっとお兄さん、声大きいよ!」

 思わぬ救いの手に、僕は少しばかり興奮気味に喜んでしまった。ここが病院だということも忘れて声を大にしてしまい、注意を受ける。

 ハッとしてすぐに謝ると、少女ははにかみながらこう言った。

「えっと、えっと、私に会いにきたんだよね? じゃあさ、部屋に行こう! 私のとこ、個室だから!」

 ただ、少女は何やら慌てながら、僕の手を引いて催促をする。空いた一方の手で器用に車椅子を操り、そそくさとこの場を立ち去ろうとするのだ。

「受付はー……パスでいいよね! あとよろしく!」

 カウンターの看護師さんには少女が手早く簡単に言葉を残して、奥へと進む。その言動のあまりの機敏さに、少しの疑問や当惑があったことは確かだけれども、それでも受付で不審者として閉め出される不安がなくなって、僕としては助かった。

 呆気にとられて手を引かれていく僕の背後では、唯花があっけらかんとした様子で謝辞を置いてきていた。

「どもども~」

 一言も会話に参加していない彼女は、僕以外から見たら未だに素性不明の謎の人だ。けれども、一通りのやりとりを傍で見ていた看護師さんは、ポカンとしつつも最後には手を振ってくれていた。だからきっと、おかしな誤解は免れたはずだ。

 そうして僕らは、広々とした院内の廊下を歩いていく。

「ちょっとお兄さん~。もう、びっくりしたよ」

「ごめん。つい、大声に……」

「違う違う、そうじゃなくて。夜中に公園で会ったなんて、言っちゃダメだからね」

 少女はぷくっと頬を膨らませた。僕が両手で押す車椅子に座りながら、こちらの顔を見上げるようにして訴える。首を動かすたび、びっくりするほどに長くて細い綺麗な黒髪が、ヘアゴムで束ねられたまま踊るように跳ねる。

「あのときは、その……こっそり抜け出したんだよ」

 少女は可愛らしい口元に手を当ててこっそりと、内緒話をするような仕草を見せた。

 なるほど、そういうことか。確かに冷静になって考えれば、ここの患者である少女があんな時間に公園にいたのはおかしなことだ。

「裏口からこっそり出て行ったの。その……月が綺麗だったから、ちょこっとお散歩に」

「そりゃまた、大胆だね」

「んー……でもね。ここの人たちは、ちょっと過保護なの。この車椅子だって、本当は必要ないんだよ。私、ちゃんと自分の足で歩けるのに」

 少女はそう言って、半分呆れて、半分残念というように苦く笑った。

 思えば、一昨日の夜に公園で出会った少女は、ゆっくりではあったものの、しっかりと自分の足で歩いていたものだ。それを見たことのある僕にとって、少女のこの言葉はただのわがままではなく、真実なのだと思われた。

「車椅子って、嫌い。窮屈だし、視線が低くなっちゃうから」

 小さな子供の視点なんだよ、と続ける。

 確かに座ったままの車椅子では、視点の高さも、本来の身長の半分程度だろう。少女に言わせれば、それは想像以上につまらない世界らしかった。

「だからね。本当はこうしてお兄さんに押してもらう必要も、ないんだよ。ごめんね」

「構わないよ。気にしないで」

「うん、ありがと。そういえば今更だけど、私、お兄さんの名前、知らないんだよね。えっと……教えて、くれない?」

 ああ、そう。名前だ、名前。さきほどもそれを知らなくて苦労をした。僕が少女の名前を知らないのだから、同様に少女も、僕の名前を知らないのだ。僕とこの少女が一昨日の夜に公園で出会ったことを考えれば、それも自然なのだけれど。

「そっか、そうだったね。僕は川澄詞っていうんだ。この近くの高校の、二年生だよ」

「へえー、そうなんだ。私は、織戸悠那っていうの。よろしくね。悠那って呼んでくれたら嬉しいな」

 織戸……?

 それは、僕にとってはよく耳にする苗字。クラスの委員長と同じものだ。名前で呼ぶことを許可してもらっておいて申し訳ないが、当然ながら気にはなった。何か関係があるのだろうか。

 ただやはり、いきなり不躾にも家族構成を聞くことは憚られたので、余計なことを聞くのはやめておく。

 よろしく、悠那ちゃん。僕はそう言って、ただ笑った。

 僕と悠那ちゃんの自己紹介が済むと、続いて彼女から疑問が投げかけられる。

「それで、そっちのお姉さんは? さっきからお兄さんと一緒にいるし、知ってる人なんでしょう?」

 もちろん唯花のことである。

「あ、うん。こっちの人は……てか唯花、さっきからずっと黙ってるけど、どうしたの? 自己紹介してよ」

 僕が唯花にそう言うと、あとを無言でついてきていた唯花が久しぶりに開口した。

「詞って、年下の女の子には優しいのね~」

 しかし第一声は自己紹介でも何でもなく、僕に対する感想だった。

 ……え? 何その、微妙に嫌味も入っているようないないような感想。

 唯花の態度はいつもと同じで、顔は自然に笑っているように見えるけれど……。

「別に、僕は誰に対しても優しいよ。それより早く、自己紹介」

 何気に心外なことを言われたので、僕は抗議を付け加えて催促した。

 すると唯花は、わざわざ車椅子の前まで回り、膝をかがめて丁寧に挨拶をする。

「こんにちは、悠那ちゃん。私の名前は音瀬唯花。立場としては……そうね、詞のバイト先の先輩ってところかしら」

 パッと笑う、花が咲くような明るい表情。横に立つ僕が見ても少しドキッとするくらいの、華やかな唯花の笑顔だ。

「こんにちは、お姉さん。とてもとても、綺麗な人だね」

「あら、ありがとう。あなたもすごく可愛らしいわね。詞が気にするのもわかる気がするわ」

「ち、ちょっと唯花。あんまりそういうことは……」

 気にするだなんて、まあ……そりゃ事実ではあるけれども。

 しかしながら、どうして唯花はいつも、こういった誤解を招きやすい言い方をするのだろう。悠那ちゃん本人に聞かれてしまうと、なおいっそう恥ずかしいものがある。

「あら、いいじゃない。何も変な意味を込めたわけじゃわないわ。だってこの、漆のように光る長くて真っ直ぐな髪とか、誰が見たってぞくぞくすると思うもの」

「ぞくぞくって……だから、その言い方が問題なんだってば。危ない発言は控えてってば」

 駄目だ。唯花自身に自己紹介をさせたことを、今更ながらに後悔した。これなら黙ってついてきてくれた方が、よっぽどか良かったんじゃないか。

「あのね、よもや本人を目の前にしてそんなこと――」

 唯花のその言動に対し、僕は文句を重ねる。

 ついでにもう一つくらい文句を連ねてやろうとすると、そこで僕の言葉を上書くようにして、快活な高い声が響いた。

「あはははは。あはは。二人とも、すごく仲がいいんだね! もしかして、お兄さんとお姉さんは、付き合ってる、とか?」

 声の主は、悠那ちゃんだ。

 ただ僕は、突然の笑い声よりも、その発言内容の方に仰天する。

「なっ! 悠那ちゃん何言って……ねえ、唯花!?」

 車椅子を押すのも忘れて、僕は慌てて否定をした。そんな誤解、勘違い、とんでもない!

「そうねえ。残念だけど、付き合ってるわけではないわね~。詞は、私の助手だから」

「そ、そうそう。助手だよ、助手!」

 通常なら、それもあまり同意したいものではなかったが、今回の場合は例外だ。唯花と付き合うだなんて……。そんなこと、一欠片も今まで考えたことはなかった。

 でも、一度言われてしまったら、意識せざるを得ないというのもまた事実だ。

 悠那ちゃんに答える唯花は、相変わらずあの花の咲くような笑みを零して話している。そんな顔をわずかでも見てしまえば、僕は視線を上げられないではないか。

 悠那ちゃんは「そっかー」と言って笑っていたから良かったものの、そこからは唯花に車椅子の操舵を取られて、僕の方がおいていかれる形になってしまった。

「お兄さんー、早くー。こっちだよ」

 無邪気な悠那ちゃんの質問に、こんな風にして右往左往しつつ、僕らは目的の部屋に向かうのだった。

 目指すべき悠那ちゃんの病室は、病棟最上階の西の端にあった。

 廊下を歩きエレベーターに乗って、そこからまた廊下を歩く。いくつもの曲がり角と、同じ扉が連鎖する長い道のりを経て、院内でもあまり人通りのない、活気の乏しい区画に行き着いた。まるで迷路のようなその道は、帰り道のことが不安になってしまうくらい複雑だ。どこまでも続くような、生気の抜け落ちた白い床の繰り返し。果てのない、無機質な壁のスクロール。

 辿り着いた病室は、表札のない、分厚い引き戸に閉ざされた個室だった。

 悠那ちゃんが慣れた手つきで部屋の扉を開け放つと、途端に彼女は目を丸くする。

「え、あ――あれ?」

 彼女の後ろについて歩いていた僕には、すぐには状況が分からなかった。しかし部屋の中から爽やかな男性の声が聞こえたとき、そこには既に誰かがいたのだと理解できた。

「どこに行ってたの悠那! 心配したよ」

「ゆ、悠斗! どうして? くるのは午後からだって、言ってなかった?」

 悠那ちゃんが驚いた様子で対応する。するとまた、新たに別の声が聞こえる。

「悠斗のやつが、早く行くと言って聞かなかったんだ。何か、問題があったか?」

「桂兄まで……。あの、今ちょっと、お客さんが……」

 二種類の声。しかも一つは聞き覚えがある。

 唯花は特にひるむこともなく冷静な表情をしていたが、室内を覗ける位置まで寄った僕の方は、どうにもそうはいかなかった。中にいた二人のうち、その一人と目が合い、お互いに同じような驚きを見せる。僕とその人の「あっ……」という呟きが重なった。

「お、織戸くん?」

「あれ、川澄くんじゃないか。どうしてここに?」

 室内に立っていたのは、学校ではよく見た委員長の姿。私服に身を包んだ清潔な身なりは新鮮だったが、僕の知っている織戸桂祐その人であることに間違いなかった。

「あ、えっと……見舞い、かな」

 さきほどの悠那ちゃんの自己紹介で苗字にひっかかりを覚え、一瞬だけ頭の中に彼が浮かんだ。けれども、まさかこんなにも早く、現実に対面することになるなんて。

 ここにいるとうことはもしかして……いや、もしかしなくても、彼は悠那ちゃんの血縁者ということだろうか。

「なるほど、見舞いか。もしかして、悠那とは顔見知りだったのかな。見たところ、君の知人もいるようだが」

 しかし向こうからしたら、きっと僕らの存在の方が、よっぽどか謎だっただろう。妹の見舞いに訪れていきなりこんな場面に出くわせば、そりゃあ驚くのも無理はない。僕なら彼のように落ち着いた対応をするのは難しいと思う。

「俺は、織戸桂祐といいます。ちなみにここにいるもう一人は、織戸悠斗。俺の弟で、悠那とは双子になります」

 そう言って織戸くん――もとい織戸桂祐くんは、自己紹介と同時に弟を傍に寄せて挨拶をさせた。彼自身の紹介は、主に唯花に対してのものだろう。

 隣の織戸悠斗という子は、確かに悠那ちゃんによく似ていた。もちろん男の子だし、髪は短く切り揃えていて背丈も体格も男性然としていたが、顔立ち等を比べればよくわかる。双子と言われて違和感はなかった。

 そして僕は、その紹介に応えるようにして自分と唯花の紹介をしたのだった。僕と唯花の、名前と関係。一般的な素性。加えて、悠那ちゃんとの出会いの件を。

 最後にはまた、皆でよろしくと言って上手くまとまる。

 ただ、互いの紹介をしている間、傍にいた織戸悠斗くんは何故だかずっとしかめっ面をして黙っていた。最初に聞いた、悠那ちゃんに対する明るい声は出てこなくなり、随分と大人しくなってしまっている。

 ……警戒されているのだろうか。

 僕は少々不安を感じたが、それについてはすぐにフォローがなされるのだった。

「あの、川澄くん、すまない。悠斗は今朝から、とても悠那と話したがっていたんだ。いきなり初対面の人に出会って戸惑った節もあるだろうし、悪く思わないでやってくれ。音瀬さんも、そういうわけなので、大目に見てやってくれませんか」

「ええ、私は別に気にしてないわ」

「ああ、うん、僕も。それに、こっちこそ悪かったよ。織戸くんが謝ることじゃ……って、えっと、ここはみんな織戸なんだっけ」

「はは、そうだな。みな織戸だ。ではもし良ければ、俺のことは桂祐でいい。ややこしいからな」

 爽やかに笑う。とても好意的な笑みだ。

「そうだね。じゃあ僕は、桂祐くんって呼ぶことにするよ。それと、せっかくだから僕の方も、名前で呼んでくれると嬉しい」

「なら、私もそうさせてもらおうかしら。私を呼ぶときも、好きに呼んでもらって構わないわ。名前でも苗字でも、呼び捨てでもさん付けでも。あと、言葉遣いも普通でいいのよ。気にしないで」

「そういうことなら、そうしよう。詞くんに、えっと……慣れるまでは、音瀬さんでいいかな。俺も少し、恥ずかしいから」

 社交的な桂祐くんでも、やはり初対面の異性には気恥ずかしさがあるようだった。唯花とは視線を合わせて話してはいても、少しぎこちない感じがあって、隠しきれない戸惑いが見え隠れする。

 まあ、今でこそ僕は唯花のことを呼び捨てるけれど、確かに初めてなら緊張もすることだろう。話す内容はともかく、外見の映える唯花が相手では、特にそうかもしれなかった。

「ふぅ~ん、桂兄とお兄さんって、もともと知り合いかー」

 そして、僕らのやり取りを横で見ていた悠那ちゃんは、これ見よがしに感心していた。

「桂兄って、友達いたんだね」

「まあ、人並みにはな」

 だが、それはなんて言い草だろう。冗談だとしても、実の兄に対してあんまりのように思う。

 さらに本人も本人で、特に言い返したりしないものだから、僕は代わりに慌てて訂正をした。

「け、桂祐くんは、僕らのクラスの委員長だよ。人気者だよ。人望の塊さ」

「えー、そうなの? こんなユーモアのない堅苦しい人が、お兄さんより人気者なの?」

 何だろう。桂祐くんの実の妹からの評価は著しく低いようだった。彼は決して、家と学校で態度が変わるような人柄には見えないものだけれど……うーん、不思議だ。

「成績もいいし、とても親切だよ。友達も多くて、先生にも高く買われているんだ」

「休日もろくに友達と遊んだりしない桂兄がねえ……。お兄さんのが、よっぽど面白いのに」

「いや、僕こそ大したことはないよ。特に、こと学校ではね。あの……桂祐くんも、少しは否定と補足をしないと……」

 そんな中、暴言を食らっている本人は不自然なほど涼しげな態度で立っていた。否定も反論もない。言われ放題だ。

「まあ、いつものことさ。あまり気にしないでくれ。俺は自分のことには疎くて……むしろ、丁寧なフォローに感謝するよ、詞くん」

 さらに依然として、こんな調子。気にしていないというよりは、本当にそういうことには鈍いのかもしれない。僕にとっては、知らなかった彼の一面だ。

「それより、悠那の見舞いにきてくれて、どうもありがとう。ただせっかくのところ済まないのだが……詞くんに、音瀬さん。ロビーの方で、少し俺の話を聞いてくれないかな」

 やがて彼は改まった口調になって、僕らにこんな提案をする。

「えっと、ロビーで? 僕は構わないけど、唯花も一緒に?」

「ああ、できれば。ここにきて突然なのが、申し訳ない限りではあるが」

 それを聞いて僕は唯花の方を向き、彼女の意思を確かめる。

 肩をすくめながら「何かしら?」というような表情をしたが、特に悩むこともなく唯花自信が口を開いた。

「いいわよ。ここにくる途中にも、悠那ちゃんとは話せたしね」

 唯花は賛成らしい。

 けれども、反対票も、あるにはあった。

「ちょっと桂兄、私のお客さんなのに。横取りだよ、それ」

「悠那は、悠斗と一緒にいてやってくれ。これ以上待たせると、機嫌を損ねるぞ」

「それは……いいけど……。でも、あのこと話すなら、変な印象与えないようにしてよ。暗いのは嫌だよ」

「ああ、善処する」

 桂祐くんは荷物を持って、病室から出ていこうとする。

 悠那ちゃんは自分で車椅子を操りながらベッドへと向かった。「二人で遊ぼっ!」と悠斗くんに声をかけて。そのあとも僕らが部屋から出て扉を閉めようとすると、忘れずに手を振ってくれる。

 つられて悠斗くんも、仏頂面ながらに軽い会釈を見せた。

 僕らは再び廊下へと出た。瞬間、やはり静まり返った空気を感じる。病院自体に活気はあるはずなのに、ここの辺りだけはやはり例外らしかった。

「よし。じゃあ、そこの近くのフリースペースに行こう」

 桂祐くんは、少し声を落としながらそう告げた。

「え? ロビーで話すんじゃないの?」

「いや、ここからロビーは遠い。部屋にはまだ用があるから、近い方がいいんだ」

 ……? 桂祐くん、妙なことを言っていないか? 少し様子が変だ。

 彼は数メートル先にある開放区画に向かい、一つの椅子を選んで腰掛ける。僕らにも、当たり前のように周辺への着席を促した。

「その、頼みがあるんだ。少し……いや、いくらか長い話を聞いてもらいたい。けれど、万に一つも楽しい話ではないから、もし面倒ならば、この場で拒否してもらって構わない。えっと……どうかな」

 何だかとても、とてもひっかかる言い回しだ。語る口調は少し重いが、いったいどんな話なのだろう。彼の前置きに、僕は戸惑いや警告めいたものを感じたが、しかし隣の唯花がすぐに返事をしてしまう。

「悠那ちゃんか、あるいは悠斗くんのことかしら」

「ああ。音瀬さんは、察しがいい」

「そうよね。聞くわ」

 紛れもない、清々しいほどの即答だった。唯花の落ち着いた顔つきは、桂祐くんの前置きにまったくたじろいでいない証拠だ。椅子を引いて居住まいを正し、太ももの上で腕を組んで正面を向く。

 当然ながら、そんな彼女の横で拒否の意思など示しようもなかった。僕だって、ちゃんと心得ている。もともとここへきた目的も戯れではないのだから、むしろこれは好都合だろう。

 僕も唯花に同意のつもりで、同じように姿勢を正す。

 すると、桂祐くんは話を始めた。

「こんなところにきているのだから、だいたいの予想はつくかもしれないが……悠那は、病気だ」

 予想に難くない事実だった。

「そう……なんだろうね。えっと……もし事情を聞いてもいいのなら……」

「構わない。構わないが……と言っても、話せる事情がほとんどそれだけなんだ。非常に情けない話なのだが、悠那の病気に関してはあまり詳しいことがわかっていない。わかっているのは、死期が近いということくらいで」

 ………………。

 さーっとその空間に、沈黙が落ちる。

 当然だ。死の関わってくる話。そんな話なら普通、誰が聞いたって尻込みする。だからこそ、衝撃から思考がついていかなかった。ゆえの沈黙だ。

 けれど、唯花の方はどうだろう。こういう事態には、少なくとも僕よりは慣れていそうだ。横目には、相も変わらず落ち着いた様子で、特に感情が挙動に表れているわけもない。

「俺の父は、ここの病院の院長を務めている。つまりは医者だ。それなのに娘の病気を何ともできない歯痒さには、苦しんでいるようだった。悠那の個室が不自然に広くて立派なのも、そういう事情からの配慮だ。ほとんどここで暮らすことになるし、経過観察もあるから」

「あの、僕は医学の知識がないから、すごく単純な疑問なんだけど……よくわからない病気なのに、もうすぐ死んでしまうことはわかるの?」

「身体のそこかしこに頻繁に異常が出るらしくて、だんだんと身体機能が下がってきているみたいなんだ。悠那のやつ、今は結構元気に振る舞ってはいるが、辛そうにしているときもよくあった。だが、申し訳ない。正直、俺もそれ以上のことは詳しくないんだ。今の俺の知識では父の話の全てはわからないし、父も何もかもを大っぴらに話そうとはしない」

 桂祐くんは、学校ではとても見せることのないような、悲しく苦しそうな表情で話す。

 彼の話を聞いて、僕は遺失の件を思い出していた。原因不明の早い死期。それは、今の僕の状況と、とてもよく似ている。

 そして悠那ちゃんと再び今日会ってみて、彼女が遺失者であるかどうかの確認を、唯花がとったはずだった。

 僕としても、あの明るい雰囲気の悠那ちゃんからでさえ、やはり微かに何かを感じる。あとから改めて相談をすれば、何らかの糸口は分かるかもしれない。

「こんなことを君たちに伝えるのは、お門違いというか、時期尚早というか……本当にすまないと思う。ただ実際のところ、俺も切羽詰まった想いで……こんな、縋るみたいな言い方に。それに、悠那のこともを考えると、やはり伝えるべきかとも思ったんだ」

 桂祐くんの声は、一定の張りを保ってはいるものの、それでもちらほらと感情の端が漏れ出している。時折わずかだけ震え、俯き加減のためか、声は床の方へゆっくりと落ちていく。それは気持ちを押し殺したっきり、どう伝えたら良いのか、表現したら良いのか、わからないという感じだった。伝えたいのに、うまく言えない。こんなとき、どんな声で、どんな顔で、言葉を紡いだらいいのかわからない。そんな様子だ。

「桂祐くんは、少し不器用な性格なのね」

 唯花の率直な表現は、よく的を射ていると思った。

「私たちのことは、気にしなくていいわ。頼みがあるって言っていたわね。回りくどいことはいいから、素直に言ってごらんなさい 」

「そうだよ。唯花の言う通りだよ。僕らでよければ力になるから」

 ただ唯花はともかく、普段なら僕は、こんな安請け合いはしない。解決の宛もなく、相手に期待ばかりさせるのも悪いし、自分にとって負荷にもなるからだ。

 しかしながら、今回は別だった。

 今の僕の特殊な立場と、そこに生まれる義務にも似たものに影響され、桂祐くんの頼みを引き受けるべきだと感じたのだ。

 僕らの返答を受けた桂祐くんは、わずかな疲れを浮かべた顔に、安心と喜びの意思を示して、礼とともにこう言った。

「ありがとう、感謝する。ならばもう一度、悠那の部屋へ向かおう」

 彼は、静かに立ち上がった。それから再び訪れた扉の前、よりいっそうの小さな声で、続きを述べる。

「音を立てないで、中の様子を伺ってくれ」

「伺うって、内緒で? そんなことしていいの?」

「何だか事情がありそうだけれど、私もちょっと気が引けるわ」

 これはいわゆる、盗み聞きというものだ。兄である彼はともかく、僕らがこんな行為をしていいのだろうか。

 それでも桂祐くんは、躊躇はしなかった。

「いいんだ。実際に聞くか、あるいは見るのが一番早い。俺が許すよ」

 彼はそっと引き戸の入り口に隙間を作り、中の音が聞こえるようにしてくれた。室内の空気が漏れ出てきて、同時に耳に届く物音もクリアになる。

「ベッドからは、扉の動きは見えないはずだ。この状態なら気づかれることはないから、しばらく聞いていてくれ」

 即座に感じたのは、不自然なほどの静けさだった。けれどもそれは、室内が無言だったということではない。

 遠慮がちに様子を探ろうとする僕の聴覚には、囁くような甘い声が響いてきたのだ。

「悠斗、夏休みは楽しい?」

「普通だよ。夏休みでも夏期講習があるし、学校にはいかなきゃならないんだ」

「じゃあ、夏休みでも友達と会えるんだね。いいことだね」

「いいもんか。せっかくの休みなのにさ」

 室内には、悠那ちゃんと悠斗くんしかいない。自分の目の前の人だけに届ける声なら、そこまでの大声にはならないことはわかるけれども、それでもこのときの二人の様子に、僕らは驚いたものだった。

 その理由は、両者の声が、ある特別な音を奏でていたからだ。

 特別な音。特別な想いから、奏でられる声。その言葉の中に好意が含まれているのは明白だった。

「そんなこと言わないで。学校は、楽しいところでしょう?」

「楽しくない。悠那といた方が、何倍、何十倍も楽しいよ。せっかくの休みなんだから、もっと悠那と一緒にいたいのに」

 あるいはそれは、好意と表現してすら足りないかもしれない。あの二人が紡いでいるのは、もっと深くて、色濃いものだと、僕は思った。

「そう、かな……? 私なんかといて、本当に楽しい?」

「当たり前だよ。俺は、誰よりも悠那といるのが楽しい。悠那といるのが幸せだ。だから……好きだよ」

「そっか。うん、ありがとう……悠斗。いつも悠斗がくれるその言葉が、私は何より嬉しいよ」

 そう。まるで、まるで恋人同士のようだった。今この室内に、隙間なく敷き詰められるかのごとく溢れる感情は、愛なのかもしれなかった。僕には、どう聞いてもそれが家族愛には思えず、知識として知る恋愛の……愛の囁きそのものに感じられた。

 だから桂祐くんに対して、二人は仲が良いんだね、なんて発言が適切でないことくらいは簡単にわかった。

 隣で扉を支え続ける彼は、下を向いていて、ひどく居心地が悪そうだ。

 僕は、彼にかける言葉が見つからず、黙って視線を向けるばかり。

 そして室内の会話もなくなり、誰の声も聞こえなくなった頃には、かすかな水音が漏れてくる。こんなところで聞くからだろうか。その音はあまりにも、際立って通った。姿が見えない分、なお信じがたいけれど、悠那ちゃんと悠斗くんが何をしているのか、僕には容易に想像ができてしまった。

 どうやらそれは、唯花の方も同じだったらしい。部屋の中の、僕らから辛うじて見える床の位置に落ちる、二人の影。それを人差し指で指し示しながら、唯花は言った。

「あらあら、これはまた、随分とおませさんね」

 床の影に目を向けると、二人のそれが重なって、まるで一つになったように見える。

「あれって……キス、してる……?」

「大胆ねえ。いくら二人きりだからって」

「す、すごく……その、情熱的だね」

 こんな場面に聞き耳を立てているこちらの方が、よっぽどか恥ずかしくなって赤面してしまうくらい、それからの二人は扇情的だった。

 悠那ちゃんは、何度も甘く、悠斗くんの名を囁く。細く消え入りそうな、絹糸のように細い声で。

 悠斗くんは、何度も激しく、悠那ちゃんに好きだと告げる。息次ぐことすら忘れ、喘ぐような縋る声で。

 それを聞くと、伝わってきてしまうのだ。互いを欲する、狂気的なほどの想いが。そこらの街中を歩くカップルよりも、二人は何百倍も互いを求め合っている。必要としている。そんな感情が空気の振動に乗って、僕の方にまで波及した。

「悠那、その……最近調子は?」

「いつも通りだよ。悠斗は心配性だね」

「本当に? ちゃんと検査は受けた?」

「大丈夫だってば。大袈裟なんだから」

 悠斗くんは、とても不安気に質問をした。

 一方の悠那ちゃんは、不思議なくらい落ち着いた様子で答えている。無理をしているのわからないが、それが余計に悠斗くんを不安にさせているようにも感じられる。

「大袈裟なくらいでいいんだよ。悠那自身のことなんだ。気にならないわけ……ないじゃないか」

「悠斗、大丈夫。そんなに心配しないでいいよ」

「でも……無理だよ、そんなの。心配だよ……」

「大丈夫。大丈夫だから。私はまだ、悠斗の傍にいられるから」

 悠那ちゃんは、その優しくも儚げな声で“まだ”と言った。それだけでわかる。彼女も、自身の置かれた状況を理解しているのだと。迫りくる死を、感じているのだと。それなのに……なんて、なんて冷静に話すのだろう。

「まだ、いかないよ。まだ私たちは、一緒にいられる」

「でも、でも……俺、怖いんだよ。悠那がいなくなるなんて……考えるだけで、頭が割れそうになるんだ」

「悠斗……泣かないで。ほら、こっち」

 悠斗くんは怯えていた。嗚咽を漏らすような音が聞こえる。自分の半身のように大切に思う悠那ちゃんが、いつ遠くにいってしまうかわからない。そんな想いからくる恐怖を、感じているのだろう。

 もしかしたら明日、目覚めたとき、もうこの世界には悠那ちゃんがいないかもしれない。愛しい彼女の声が聞けるのは、今日で最後かもしれない。そんなことを考えたら、誰だって心の安定なんてとれやしない。僕にとっては想像の上でしかない感情だけれど、悠斗くんの心境を考えると、とても強く胸を打たれた。

 床に落ちる黒い影は、悠那ちゃんが悠斗くんを抱き寄せたようにさらに重なり、いっそう深く、濃くなった。それが、直接は見えない動作までを僕らに伝える。

「ねえ悠斗、こうしていると、落ち着くでしょう? ほっとするでしょう?」

「うん、安心する。……でも、もっともっと、怖くなる。こうやって悠那に触れられない日々が、いつかくるってこと。いつか俺は、一人になってしまうこと。それが、どうしようもなく分かってしまって……怖い」

「……ごめんね。ずっと一緒に、いられたら良かったのにね」

「嫌だよ……ずっと一緒に、いたいよ……。悠那のいない世界なんて、俺はそんなの、いらないのに……」

 悲痛な想いと、それをなだめる不自然なほどに穏やかな笑顔。考えなくたって、簡単に脳裏に浮かんでしまう。阻むことのできない感情の濁流に、そうやって僕は飲まれていく。

「ずっと、ずっとずっと一緒にいたいよ。悠那といたい。ああ……悠那……ゆう、なぁ……」

 悠斗くんの声は、もう途切れそうになっていた。発作にも似た慟哭が、彼の言葉をすり潰してしまっている。

「悠斗。私はまだ、ここにいるよ。ここで今、悠斗を抱いてあげる。だから……それで、許して」

「嫌だ……嫌だよ。悠那は寂しくないの? 俺をおいていくのは、 平気なの?」

「平気じゃ、ないよ。でも……でもね、どうにもならないことも、この世界にはあるんだよ。ごめんね。だから、分かって」

「嫌だよ……。ついていきたい。俺もついていきたいよ、悠那に」

 僕の全ての神経は今、聴覚だけに集中していた。届く音に含まれる想いが大きすぎて、それを処理するために必死だったのだ。二人の感情の余波に抗えない。感化されてしまう。次なる発言が、そこに宿る無視などできない激情が、強く僕の鼓膜を揺らし、脳を割ろうとする。

「……じゃあ、さ。……ついて、くる?」

 そして続く言葉は僕の脳を強く揺さぶった。

 ニコリと一言。きっとそうやって、容易く紡がれた言葉だった。それが、どんな意味を持つのかを知って。

 悠斗くんは全てわかった上で、悠那ちゃんに答える。彼は明らかに、その言葉を待っていたようだった。

「ああ、ありがとう。悠那、ありがとう。俺もいくよ。悠那と一緒に、どこまでもいく」

 悠斗くんは、何よりも目の前の悠那ちゃんを愛し、慈しみ、求めていた。

 他人というものを、そこまで想えるものだろうか。自分と同じくらい、あるいは自分よりも、もっと大切な人。そんな存在は、本当にあり得るものだろうか。考えさせられずにはいられないほどに。

「なら、一緒にいこうね、悠斗。悠斗が望むなら、私があなたを殺してあげる。悠斗と……そして、私のために」

「……うん、約束だ。すごく嬉しいよ。そのときはすぐに、悠那のところへ飛んでくるから」

「そっか、うん。待ってる。そのときまで、待ってるね。そうしたら、二人でいこうね。約束だね」

 室内から聞こえる囁きは、僕には刺激が強過ぎた。ひたすらに甘い。甘すぎて、感覚の何もかもがいかれてしまう。二人がああして分け合っている愛の味は、きっと気が狂うほどに魅惑的なのだろう。二人が放つ一言一言、その言の葉に、僕の身体は中からじわじわ侵されていくようだった。

 特に最後の悠那ちゃんの提案には、僕の許容限界を超えた感情が乗っていたように思う。その感情は……愛情や狂気や、他にももっと、僕が呼び名すら知らないたくさんの想いで形作られていて……未知なる響きをもって、室外から耳にする僕さえも惑わし、恐怖させ、魅了した。

 駄目だ。惚けて思考が回らない。脳を溶かし、活動を担う歯車を狂わせ、おかしくする。やはりこれは、僕には毒だ。こんな激しい、毒気のような恋情にあてられて、一人ではとても抜け出せない深みに落ちそうだ。

 でも、その瞬間に我に返る。トン、と肩に手を置かれて、意識を取り戻す。

 隣では苦しそうな顔をした桂祐くんが立っていた。

「もう、分かったろう」

 僕は若干混乱していて、何がわかって何がわからなかったのか、その判断ができなかったけれど、彼に無闇な質問はできなかった。曖昧な表情で首を縦に振ることしかできない。

「今度こそ、本当にロビーへ行こう。昼時も近い。外まで送るよ」

 僕の様子を見て彼は、唯花にもその旨を伝えて同行を促す。そうして、隠しきれない苦渋と疲弊の滲んだ顔で、必死に平静を保とうとしながら僕らを見送ったのだった。

 彼の話では、悠那ちゃんと悠斗くんのあのような会話は、もはや珍しいものではないらしい。二人きりになれば、いつものようにしていることみたいだった。

 この日、彼は総じて元気がなかった。学校で話すときと比べて、目に見えて覇気が欠けていた。通常は押し殺す苦痛の想いも、休みの日まで同じようにはいかないのかもしれない。

 安易な同情は失礼だとしても、それでも、同情せずにはいられないほどの苦悩を感じた。

 病院を退いても、僕と唯花は無言だった。桂祐くんと別れるまではぽつりぽつりと会話があったが、やはり二人になると難しい。しばらくそのまま歩いて行き、初めて悠那ちゃんと僕が出会ったあの公園の辺りで、ようやく唯花の方から口を開いた。

「元気ないじゃない。どうしたの、詞」

 ただ、そう言う唯花も、いつものように明るくはない。いやに真剣な顔をしている。

「いや、元気がないっていうか……もう、わけがわからなくて」

「そうね。少しばかり、驚いたわね」

「でも……桂祐くんの頼みは、ちゃんと聞いてあげないとって思うんだ。僕らの当初の目的にも関わるのかもしれないし。それに、個人的にも……」

 僕の言葉に、唯花はただ淡々と応じ、最後に小さく「うん」と返した。

 帰りがけに、僕らは桂祐くんから一つのお願いをされた。その彼のお願いというのは、別段無理難題ということはない。外界との接点が乏しくなってしまった悠那ちゃんのために、時間の許す限りで見舞いにきてほしいというものだった。僕らが彼女のために、外の世界との架け橋になってほしいというものだ。

 ただ、この頼みにはもう一つ別の意図があることを、僕も唯花もわかっていた。桂祐くんの本音をはっきり言ってしまえば、悠那ちゃんと悠斗くんを少しでも二人きりにしておきたくないのだろう。あの二人の度を超えた“仲の良さ”を、桂祐くんは憂いていた。超えてはいけない一線をいともたやすく超えかねない二人の様子を。

 まあそれでも、見舞いくらいは別に大したことでもないのだ。いくらでもこられる。その程度であの二人の関係を変えることができるかどうかは、正直、微妙なところだけれど。

 何せ、あんな様子だったのだから。

 二人は、あんなにも甘く愛を囁き、キスをして、抱き合っていた。とても普通の家族間で交わされるスキンシップとは思えない。明らかに常軌を逸している。

「それにしても、すごい出来事だったよ。ちょっと言葉には、言い表せないくらい。悠斗くんと悠那ちゃん……あの二人は、双子って言っていたよね?」

「ええ、そう言っていたわね。まあ私には、恋人同士にしか見えなかったけど。近親相姦っていうのかしら、ああいうの」

「きっ! あのね唯花、あんまり滅多な言い方は……」

「でも、そんな雰囲気だったわ。むしろ的確な表現だとさえ思う。家族と恋人って、どっちの方が深い関係なのか、私は知らないけれど。あの二人……あんなにも強く互いを欲して……まるで目の前の想い人が、自分の全てって感じだった」

 確かに、口にするのは憚られるが、僕も内心では同意見だ。否定は、できない。

「他人の逢引きを邪魔するのは、良くないことだとは思うけれど……でも……」

 僕らが見舞いとして訪ねれば、多かれ少なかれ彼らの関係の阻害にはなるだろう。いくら桂祐くんの頼みでも、やはりどうしても気は引ける。

 しかし、だ。僕らにも事情はあった。

「ところで唯花。最初の話に立ち返るけれど、悠那ちゃんの遺失はどうだったの?」

 僕の質問に対し唯花はびくっと肩を跳ねさせ、意外にも複雑そうな顔をした。

「悠那ちゃんは……遺失者じゃ、なかった」

「そっか。それはよかっ――」

 なんだ。違ったのか。ならばそんなに深刻そうな顔をしなくても良いのに。僕はそう思って安堵の言葉を漏らそうとしたが、けれどもそれは唯花によって遮られた。

「でも、完璧に無関係ってわけじゃないみたい。彼女の器は、決して正常ではなかったわ」

 ――え!?。

「それに、悠斗くんの方も普通じゃない。彼の方が遺失者だった。彼の器には、大きな穴がぽっかり空いていたわ。彼は……心を失くしているわね」

 僕は固まってしまった。

 心……? 心を失くしているって……いったいどういうことだ?

「心は精神の根幹。彼の精神は、そのせいでとてつもなく不安定になっているわね。きっと、見た目よりもずっと危うい状態だわ。心という根幹、つまり土台を失って、感情が不安定になっている」

 唯花は真剣な表情で考え事をしていた。口元に片手を添えて、ゆっくりと歩く。目は開いているけれども、周りには気が回らなくなっているみたいだった。

「おそらく今、悠斗くんを支えているのは悠那ちゃんなのね。さしずめ悠斗くんは、文字通り心を奪われて、悠那ちゃんの虜ってところかしら。でもそれなら、悠斗くんの心の在処はもしかして……」

 コツコツと、緩慢な足音が響く。

 遺失者が悠斗くんであったという事実に、僕は驚いて立ち止まってしまったが、そんな僕に気づく様子もなく、唯花は俯き気味に一人で進んでいってしまう。

「悠那ちゃんが、悠斗くんの遺失に関係していると考えるべき……? それなら悠那ちゃんの原因不明の病気も……? いやでも、そこまでは断定できない。勝手な想像かしら……」

 快晴の太陽が真上から照りつける中、それをまったく気にした風もない。おそらく唯花の頬を垂れる汗は、この気温によるものではないだろう。彼女には珍しく、深刻そうな表情をしている。

「あの病室の中で、とても大きな違和感を感じた。あそこは色々なものが混じり合っている。ちょっと……不気味ね……。どうしたものかしら……」

 その独り言は、夏の陽炎に滲んで、遠ざかるうちに僕へ届かなくなっていく。

 僕はハッとしてから、慌てて唯花の後についていった。

 何かが複雑に絡み合っている。唯花の言う通り、僕も直感的にそう感じた。

 僕は唯花に声をかけることができず、ゆっくりと進む唯花の斜め後ろについて、行き先もわからない帰路に着く。



     3  二〇二四 葉月―中



 夏休みも、随分消化されてしまった。だいたい半分だ。まだ半分、とは思えない。もう半分だ。特に忙しくも充実してもいない毎日なのに、休みというだけで体感時間は短いものだった。

 そんな貴重な時間を使って、僕は今日も唯花と見舞いにやってくる。悠斗くんや悠那ちゃんの問題を解決するには、僕らの方から積極的に二人に関わっていかなければならない。でも、それも別段、悪いとも面倒だとも感じてはいなかった。僕の貴重な時間が、唯花や悠那ちゃん、そして悠斗くんのために消費されていくのなら全然、文句なんてありはしない。一人でいてもどうぜ僕は、無為に過ごしてしまうのだろうから。

 こんな風に考えながら、見舞いも既に何度目かになる。唯花と二人で行くこともあったし、僕一人で行くこともあった。悠那ちゃんにせがまれて、連日で訪れたこともあるくらいだった。だからもう、複雑だった彼女の個室への道も、とっくに頭に入っている。

 ただ、この日に至っては、少々予想に反した展開が僕らを待っていた。そのためにか、僕らは今、個室の前で二人して聞き耳を立てている。初めてここへきたときに、桂祐くんに促されてしたように。

「唯花……どうしよう。入り辛いよ」

「おかしいわねぇ。今日は平日のはずなのに、こんな時間から悠斗くんがいるなんて」

 室内からは、記憶に刻みついた、あの甘い囁きが聞こえる。

 時刻は午後二時。夏休みではあっても、中学三年である受験生の悠斗くんは学校で夏期講習を受けているはずの時間だった。

 そんな彼が、どういうわけか異常に早い時間から悠那ちゃんに会いにきている。

「今入ったら、多分悠斗くんは嫌がるだろうなぁ」

 初対面の日の、少し影のかかった彼のしかめっ面が、僕の脳裏には浮かんでいた。いくらこちらが見舞客だとはいえ、わかっていてそんな顔をさせるのは、何だかちょっと申し訳ない。

「そうでしょうけど、でもこれはむしろ、私たちには好都合かもしれないわ。悠斗くんと話せる機会は、あまりないと思うから」

 まあ、それはそれで正論だ。

 遺失をしているのは悠斗くんの方だと、以前に唯花は言っていた。つまり、僕らの仕事のターゲットは、悠那ちゃんよりもどちらかと言えば悠斗くんの方。好都合というのは、そういう意味を含めてのことだろう。

 だからといって、やっぱりあの二人の間に入るのは……うーん……どうにも気が進まないというか、後ろめたいというか……怖いというか。

「こうしていても仕方がないわね。さて、じゃあいくわよ」

 それでも唯花は、未だに戸惑いを見せる僕に一言放って、悠那ちゃんの個室の扉をノックした。コンコン、と軽く二回。そのあとに、中へと踏み込みながら挨拶をする。

「悠那ちゃんこんにちは~! またきちゃった~!」

 出会い頭の明るい挨拶は、唯花なりの社交スタイルなのだろうか。その素早い行動に僕は少々遅れを取りながら、慌ててあとに続こうとする。タイミングを見失わないうちに、室内に入って笑顔を作る。こんにちは、悠那ちゃん。そう言って笑う。

 すると、期待した通りの快活な彼女の声が返ってくる。

「お姉さん! それにお兄さんも! いらっしゃいー」

 最初に僕の目に飛び込んできたのは、悠那ちゃんの後ろ姿だった。清流のように光る黒い長髪が、注意を引惹きつけてやまない。どこまでも癖のない真っ直ぐなその髪が、綺麗にまとまってベッドの上にせせらいでいた。

「ごめんねー。もうすぐこれ終わるから、少し待って。悠斗もほら、二人に挨拶しなさい」

 普段は結われている悠那ちゃんの黒髪が今はほどかれて、悠斗くんがその手入れをしていたのだ。左手でそっと持ち上げ、右手の櫛で優しく研ぐ。ゆっくりと丁寧に、繰り返し繰り返し。

 その途中に、僕らは入室してしまったようだった。

「……こんにちは」

 悠斗くんは、横目で僕と唯花を一瞥し、興味のなさそうな乾いた声でそう言った。よく見ると彼は制服姿だ。

 僕と唯花が彼に対して挨拶を返すも、彼は一瞬たりとも悠那ちゃんの髪を研ぐ行為に休みを入れない。幸せそうに彼女の髪に触れ、手先からは目一杯の愛おしさが零れる。そうやって、十分に長い髪の毛先まで丹念に世話をすると、最後に両手でさっと整えながら尋ねた。

「じゃあ悠那、今日はどうする? ポニーテールにする? それとも三つ編み?」

 さきほどの僕らへの挨拶とは、雲泥の差があろうかというほどの、穏やかな声。

「うーん、そうだね~。難しくしなくていいから、軽くふわっと結ってくれる?」

「うん、わかった。それならゴムはやめて、リボンにしようね、悠那」

「うんと可愛くしてね!」

「悠那は、どんな髪型でも可愛いよ。任せて」

 思わず目を逸らしてしまいそうな甘々なやり取りだ。見ていて僕はひどい疎外感を味わう。もちろん実際のところ、今の僕らはお邪魔虫以外の何者でもないのだけれど……。

 唯花はどうだか知らないが、少なくとも僕は、こんな空気に免疫はなかった。この二人の逢瀬の妨害は、もう本当に、気まずい。気まずい。気まずすぎる。特に悠斗くんのあの視線をもらってしまうと、僕に立つ瀬などあろうはずもなく……悠那ちゃんの髪が結い上がるのを、呼吸すら止めて待っていたほどだ。

「はい、できたよ。ゆったり結び」

 やがて悠斗くんは慣れた手つきで丁寧に髪をまとめ、動作の拍子に解けない程度の軽い結び方を仕上げてみせる。難しくしないと言っていたが、僕からすれば随分と凝った結び方に思えたものだった。

「いつもありがとう。すごく気持ち良かったよ。悠斗は、理容師さんの才能があるかもね」

「だとしても、悠那の髪以外は触りたくないから、それはいいや」

 整った髪の悠那ちゃんは、それはそれは可愛らしかった。女の子って、髪型一つで変わるものだ。よく唯花がお洒落で服装や髪型を変えて遊んでいるから、そういった変化には慣れているつもりだったけれど、それでも驚く。ふわっとした清楚な髪型になった悠那ちゃんは、とても年下とは思えないほど淑やかで大人っぽくて、どこかの令嬢のような雰囲気を放った。

「悠那ちゃん、それ、とっても可愛わ~。私ももっと髪が伸びたら、やってみようかしら」

「本当に、よく似合うね。悠斗くんのコーディネートの賜物かな」

 悠那ちゃんは頬を染めて「えへへ」とはにかんでいた。

 けれどもそんな風に僕らが会話に加わると、悠斗くんの方は微妙に曇った表情になって、面倒そうに口を開く。

「悠那はどんな格好でも似合うんだよ。それより、俺はもう今日は戻るから。さよなら」

 脇に置いてある鞄を持ち、スタスタと出口まで歩いていく。扉の前までいくと、最後にこう言って。

「悠那、またくるよ。あれ、確かに渡したからね」

 僕らに問い掛ける隙も与えず、彼は去っていった。

 僕たちは数秒の間、その去ったあとに閉ざされた扉を見ていたが、やがて悠那ちゃんが口を開く。

「あの、ごめんね。悠斗が帰ったのは、お兄さんたちのせいじゃないから。怒らないであげて」

 心配そうに、苦笑いで悠斗くんを庇う。

「いや、僕たちこそ邪魔だったかな。謝るよ」

「そんなことないよ。そもそも今日は平日で、悠斗はここにはこられないはずなんだから。今日、悠斗はね、夏期講習をすっぽかしてきたんだよ」

 なるほど、そういうことだったのか。ならば確かに、この時間に訪れる僕らと鉢合わせたことにも頷ける。こ

「学校が終わる時間には帰らないと、桂兄にばれて、怒られちゃうかもしれないでしょう。だからだよ」

 きっと、朝に家を出て、学校へ行くふりをしながら、その足でこの病院にきていたのだろう。だから彼は制服を着ていて、わざわざ鞄を持っていたのもそのためだ。

「悠斗くんは、よくこうして、ここへきているのかしら?」

 唯花も彼の態度を気にしている様子はなかった。ただその行動を気にかけているがゆえの質問だろう。

「ううん、違うよ。最近では珍しい方かな。前に一時期、頻繁に学校を休んでここへきていたことはあったけど……それが桂兄に知れたときは、色々言われていたみたい」

「そう。それが今日は、またどうして?」

「家でね、こんなものを見つけたみたいなの。一日も早く、届けたかったんじゃないかな」

 唯花の問いかけに対し、悠那ちゃんは嫌な顔一つせずに答えてくれる。傍の引き出しから、錆び付いた小さなペアリングを取り出した。

 それはいわゆる、シルバーアクセサリというやつだ。おそらく、元は鮮やかな銀の光沢を放っていたのであろうが、しかし今悠那ちゃんの手のひらに収まるそれは、特有の黒い煤を纏った哀れな姿をしていた。

 彼女は目を細め、まつげを落とし、優しげな笑みを浮かべて囁く。手のひらの上にある銀の輪に、遠い昔を見るようにして。

「これは私たちの、思い出の指輪。エンゲージリングだから」

 二つ一組の小さなリングは、彼女の片手の上でわずかに重なり、そっと揺れるたびにしゃらしゃらと鳴った。耳をつくその淡い音は、彼女にとって心地良いものだったのだろう。口元を綻ばせながら、穏やかな表情で話し続けた。

「でもこれ、もう小さ過ぎて、ダメなんだ。左手の薬指には、もう入らないの。はまらないエンゲージリングなんて、皮肉だよね。大きくなったら、幼い日の幻想には、もう縋っちゃいけないんだって」

 その追憶の彼方は、いったいいつのことなのだろう。きっと、まだ恋人の意味すら知らない時代のことだ。遠い遠い昔の約束を、悠那ちゃんは思い起こして語っている。

 過去の二人はその指輪に、どんな風にして願ったのだろう。祈ったのだろう。望んだのだろう。

「あ、あのさ。悠那ちゃんはもしかして、悠斗くんと……えっと、結婚とか、したいと思ったりするの……?」

 だがそれは、聞くまでもなかった質問だ。僕の方が、口にしただけ野暮だったのかもしれないと思ったほどに。

 躊躇いながら尋ねた僕への返答は、まるで当たり前でしょうとでも言いたげな、そんな意味を含む冗談めいた悠那ちゃんの笑い声。

「ふふっ、どうかなー。でもね、間違いなく悠斗はそう思ってるよ。小さい頃の、ままごとみたいな約束を、今もずっと信じてる。これっぽっちも、疑ってなんかいない。私には分かる」

 輝くような笑顔だった。真に無邪気で、無垢そのもののような。

 そして彼女の言うことは、間違いなく事実だろう。面識の浅い僕ですらわかる。悠斗くんは、幼き日にしたという悠那ちゃんとの結婚の約束を、幼いが故の戯言などとは思っていない。何よりも堅い誓いとして信じている。今日、朝から真っ先に例のリングを届けにきたことが、その想像に確かな裏付けを与える。

「もちろん、悠斗も私も、それが不可能なことだってのは、わかってる。いけないことだって、知ってるよ。頭では理解してるんだ、そんなこと。私たちは双子で、家族で……だから結婚はできない。だから、この世界で、私と悠斗が一緒になることはないよ。法も世間もそれを許さない。運命だって、許してなんてくれない。どうしたって、離れ離れだよ」

 そう、確かに、この現実において二人が一緒になることは難しい。そして、一緒になれないことを離れ離れだとするならば、悠那ちゃんの言うことは正しいのだろう。言葉通り、彼女はちゃんとわかっている。

 でも淡々と語る口調には、その現実に対する不満も、非難も、絶望も含まれてはいなかった。

「わかっているのに、じゃあどうして……」

 僕にはその微笑む顔が、その意図がわからない。感覚が、理解できない。

「わかっていても、我慢できない、抑えられない。どうにもできない。そんな気持ちなんだよ。理性じゃ説明しきれないの。私たちは、互いを諦めきれないの」

 悠那ちゃんの言葉は、僕の頭の中で消化不良の残留物として積み重なった。僕は彼女の声を聞き、それを記憶してはいるものの、そこからは何一つとして読み取ることができないのだ。

 諦めきれないと言う彼女。それなのに、全てを悟ったような表情をする彼女。

 いったい、何を考えているのだろう。

「だから二人で、ここじゃない場所に、いくことにしたんだ。私と悠斗が、一緒になれる場所。幸せになれる場所。すごく、楽しみだよ」

 形の良い綺麗な唇から、白く光る歯をちらりと見せ、彼女は嬉しそうに微笑んだ。幸せそうに目を細めて、穏やかに温かく。

 ここでない場所にいくこと。この世界を出ていくということ。それは、とてもではないが、あんな喜悦に満ちた表情で語ることとは思えないのに。

「つまり……この世界での生を、諦めるってこと……?」

 僕の問いに、彼女は流暢な言葉遣いで答える。

「諦めるのとは、少し違う。私がもうじきいかなければならないところへ、悠斗も一緒に連れていくだけ。あの子がそれを望み、私がそれを受け入れたから。あの子がそれを願い、私がそれを叶えるから」

 窓から差す陽光は、次第に横薙ぎになっていた。わずかに朱の色を帯び始め、室内の光と影の部分を明確に分ける。その明暗は、悠那ちゃんの表情の上でもコントラストを奏で、目元を隠し、口元だけを露わにした。

 彼女は笑う。ただ、笑う。笑い続ける。でもきっと、その感情は、喜悦ではない。

 そこから僕に伝わってくる感情は、心は……溢れるほどの“何か”だった。僕には理解できない“何か”。僕が生きて得た知識には、一切該当しない“何か”。もう喜悦を通り越してしまって、まったく別の想いになっている。

 そしてその得体の知れない想いに対しては、戸惑う僕に代わって唯花が、至極直線的な返答をするのだった。

「駄目よ。そんなの駄目。死ぬことを考えるなんて、いけないわ。良くないことよ。それは何の解決にもならない。あなたは生きることを、考えるべきだわ」

 真剣な眼差しだった。唯花はいつになく、深く低い声で言葉を紡ぐ。入室の際におどけていた彼女はもう、そこにはいなかった。

 しかし相も変わらず悠那ちゃんは、異常なほどに穏やかに話す。

「ううん、生きているうちしか、死ぬときのことは考えられない。お姉さん、これは大事なことなんだよ。そのときがくるまでに、決めておかなければならないの」

「違うわ、悠那ちゃん。あなたを助けようとしている人間が、あなたに生きてほしいと願っている人間が、あなたの周りにいっぱいいるでしょう。悠斗くんだって、本当はあなたと一緒に死んでしまうより、生きていたいと思うはずよ。連れていくなんて間違ってる。それは、あなたたちがこの世界で一緒になることよりも、禁忌に近しい行為なのよ」

「ふふっ。うん……それは、そうかもしれないね。でもさ、お姉さんたちは、悠斗がどんなに私のことを好いているか、知っている? ちょっと想像してみてよ。もし私が死んで、悠斗だけが残されたら……あの子だけが、この世界で一人、生きることになったら」

 悠那ちゃんは微笑みを崩さず、首をかしげて僕らに問う。さらにほどなくして先を語った。

「私が死んでしまったら、あの子がどんなに求めても、そのとき私はもういない。この世界のどこにもいない。悠斗と同じ世界にはね。大海の真ん中で、あの子が縋ってきた藁のような私は、もう消えてなくなってしまっているの。そうなったら、誰があの子を救ってあげるの? 誰が、あの子を癒してあげるの? 慰めてあげるの? そんなことになったら、きっと悠斗は壊れちゃうよ。おかしくなっちゃう。絶望の海に沈んじゃう。なんて可哀想。可哀想すぎて、とても見ていられない。ずっとずっと昔からあの子は、私が触れてあげなきゃ、撫でてあげなきゃ、抱いてあげなきゃ……ダメなんだから。そうしないと、喋らない、動かない。まるで、そう……心のない、人形になっちゃう」

 期待でいっぱいの彼女の笑み。悠斗くんを想いながら、幸福そうに話す声音。澄んだ真っさらな瞳。

 冗談とは到底思えない。このままの調子でその時がこれば、より禁忌に近しい行為を、躊躇なく実際に行うだろう。

 僕は、その狂おしいほどに純真で無垢な白い笑顔が、ただひたすらに怖かった。怖くて怖くて、たまらなかった。

 ああ、文字通り、狂っている。

 殺すほどに愛しい。死に引きずり込むほどに離れ難い。深く深く、どこまでも大切。そんな想いを、人間が他人に抱くことなんて、あるのだろうか。想像を絶する悲哀と情愛が、そんな想いを生んだのだろうか。

「いいえ、あなたは死なない。二度とそんなことを口にしないで。それに、もし仮に、たとえそんなことになったとしても、悠斗くんは、大丈夫よ。一人の悲しみを、彼はこの世界で乗り越える。そういう風に生きていく。そうしなければいけないの」

 しかし唯花は、頑なに死をほのめかす悠那ちゃんの言葉を否定する。強い語調で諭すように、悠那ちゃんを正視して。

「そう……随分と、辛いことを悠斗に課すんだね。でもそれはね、多分無理だよ。あの子はこの先、死ぬまで私を忘れられない。大好きな私といられないことに、あの子は絶対に耐えられない」

「大丈夫よ。生きていれば、生きてさえいれば、どんな傷だって必ず癒えるわ。彼がこの先に生きる時間が、彼を救う。時間が全てを解決する。私はそれを知っている」

「ううん。一人で生きれば生きるだけ、悠斗の悲しみは続くんだよ。悠斗はずっと、私だけ。私の虜。それはこの先も絶対、変わらない。目覚めるたび、新しい朝を迎えるたび、あの子は私だけのものになる。どんどん私だけしか、見えなくなっていくの。昨日より今日、今日より明日、そしてこれからもずっと、永遠にね」

「聞き分けがないわね。ええ、確かに、悠斗くんはあなたを好いているでしょう。ぞっこんでしょうね。でもだったら、なおさらあなたは彼のために、この世界に留まろうとするべきじゃないの? この世界で、あなたたち二人は、めいっぱい好き合えばいい。私はそれを、頭ごなしに否定したりしないわ。だからあなたは、この世界から逃げないで」

「あのね……お姉さん。どうしようもないことって、この世界にはあるんだって。仕方ないことって、あるんだって。私の身体は囁いてる、もうすぐだって。悠斗の心は叫んでる、一緒に終わりたいって。もう、どうにもならないんだよ」

 いくら論を重ねても、いっこうに二人は平行線だ。

 先にとうとう、唯花の方が言葉を失った。固く唇を結び、顎を引きながら悠那ちゃんを見据えたままになった。

 同じ言語を話していながら、これほどまで意思疎通が成立しないことに、隣で僕は混乱を覚える。発言をしようと言葉を選びつつも、それは上手く音にならない。喉につかえた幾つもの声を、混乱と恐怖がまた奥へ通し戻してしまう。

 影は光をゆっくりと埋め尽くし、気付けば室内は、ほとんどが闇の包む空間となっていた。シンとして止まった時が、ますますそれを僕たちに意識させる。

「この髪……綺麗でしょう?」

 傍に流れる自分の髪を、悠那ちゃんはそっと持ち上げて言った。

「いつも悠斗が手入れしてくれるの。さっきみたいに、丁寧に丁寧に、いっぱいいっぱい時間をかけてね。そのときのあの子の表情といったら……幸せそうで嬉しそうで。私のこと、愛しくて愛しくてたまらないって顔。そう、思うでしょう?」

 彼女の視線は、言うと同時に僕らから外れた。向けられた先は、彼女の白い両手の上。そこにある漆黒の髪。闇に同化してなお存在がよく分かる。わずかな光沢のある黒色が、まるで鏡のように僕らの様子を映している。

「……だったら、その悠斗くんのためにも、死ぬような道を選んではいけないわ。さっきからそう言っているじゃない。考え直すべきよ。あなただって悠斗くんのこと、好きなんでしょう?」

「………………」

 悠那ちゃんは答えない。

 二人の会話はもう既に、ばらばらに崩されたパズルピースのようになっていた。あるべき場所に問の答えがない。問いに対して問いを重ねる。答えが答えになっていない。

「考え直すのも、今更だね。悠斗も私も、何度泣いたかわからない。私たちの今の気持ちは、そうやって何度も考えた末の結論だよ。たとえそれが最善ではなかったとしても、悠斗と私が、二人で一番に望んだことなんだ」

 悠那ちゃんは唯花に告げ、同時に自分に告げているようにも見える。

「どう考えたら、そんな結論になるのか理解できないわ」

 唯花はあくまで冷静だが、わずかに苦々しい声で否定を放った。ささくれ立って、心にこびりついてくるような、そんなざらついた想いを感じる。

 やがて完全に言葉が途切れた。悠那ちゃんは反論をしないし、唯花も次なる発言をしなかった。体感では何十分にも感じる静寂が流れる。

 これ以上続きはないと悟ったのだろう。唯花はくるりと振り返って、悠那ちゃんに背を向けた。

「……ごめんなさい。今日は、もう失礼するわね」

 詞、行こう。そう言って扉に手をかけ、すぐに廊下へと消えていく。ちらりと見えた横顔は、眉を付せ、少し悲しそうな表情で何かを呟いていた。

「そう? よかったら、またきてね。いつでも、待ってるから。お兄さんも、ね」

 悠那ちゃんは去っていく唯花と、そして僕に、穏やかな別れの挨拶をした。唯花の代わりに僕が答える。

「……うん、またくるよ。必ず。それまでに、君の言ったことを、少し考えておく。それが正しいのか、間違っているのか。君がどんなことを、思っているのか」

 唯花と悠那ちゃんの会話の端で、僕はずっとそんなことを考えていた。恐怖と狂気を感じながらも、頭に流れ込んでくる疑問があったのだ。死を否定する唯花。死を受け入れようとする悠那ちゃん。いったい、どちらが正しいのか。

 本当は、こんな疑問に正解はない。そして意味も、きっとない。わかっている。それでも僕は、無意味だと思えてなお、考えざるを得なかった。思考を止めることができなかった。なぜだろう。それを考えることが、僕が今ここにいる理由だと、思えてならなかったのだ。

「そっか、わかった。うん、楽しみにしてるよ。素敵な答えを――」

 悠那ちゃんは、笑うととても可愛らしい。そして華やかな声を持つ。でも今日は、その笑顔が同時に恐ろしくもあることを知った。その声が、まるで濃厚な毒のように甘すぎるものだと知った。

 見るたびに、聞くたびに、背筋が張り詰めてぞくぞくする。魂を引き抜かれるみたいな、抗えない浮遊感と危機感がある。魅入って飲み込まれてしまったら、きっともう戻ることはできないだろう。

 だから僕は、できる限り平静を装い、内心では怯えながら、悠那ちゃんの病室をあとにするのだった。先に行ってしまった唯花を追うために、当惑する頭を凍ったように止めて、静かにゆっくりと足を動かす。

 彼女と本気で話し合おうとするならば、唯花はともかく、僕にはまだ覚悟が足りない。心の準備が足りなかった。

 悠那ちゃんは、そして悠斗くんは、言っていた通り本当に、長い時間をかけて真剣に悩んだのだろう。喉が擦り切れそうになるほど喘ぎ、胸が潰れそうになるほどに苦しんだのだろう。そうしてやっとのことで一つの結論にたどり着いたのだ。

 でも、このままではいけない。唯花は二人を死なせまいと思っている。それに悠斗くんの遺失だって、解決しなければならないのだから。

 もしそのために、二人の結論を否定しなければならないのなら、変えなければならないのなら、きっと同じように、僕らは真剣な覚悟をもって考えなければならないだろう。二人の苦悩を知り、愛を知り、そうして初めて、僕らの言葉は届くようになる。そうしなければ、二人にとって僕らの言葉は、どこまでも他人の綺麗事と変わらない。

 きっと僕は答えを出さなければならないのだ。


     4  二〇二四 葉月―中



 あの日から、僕の頭は靄がかったように冴えないでいた。最低限の日常生活をこなしはするものの、まるでそれはテレビ画面の向こう側の出来事のようで、不思議なくらい現実味がなかった。

 唯花にも灯華さんにも呼び出されることもなかったため、ここ数日は落ち着いている。事務所や唯花の部屋に行くことがなければ二人と会うこともないわけだが、夏休みになってから三日と空けずに顔を合わせていたからか、それには少しだけ違和感を覚える。そうやって唯花と話さないでいると、唯花の明るい声を聞かないでいると、少し前に僕を惑わせていた、あの空白の気持ちが広がるのだ。

 空っぽで虚無感のたちこめる、あの気持ち。まるで伽藍堂の中心に一人で立ち尽くしているような、どうしようもなくやるせないあの気持ち。一度それに捕まると、たちどころに日々が色褪せていってしまう。ただ不安も恐怖もなく、無色に染まっていってしまう。

 そんな無味乾燥の世界の中、僕が唯一していたことは、病院で聞いた悠那ちゃんの言葉を考えることだった。深く鋭く僕の心に突き刺さったあの言葉たち。そればかりを頭に浮かべ、ほとんど惚けたように数日を過ごした。

 そしていよいよ考え事が気にかかって仕方なくなると、僕は一人で彼女のところを訪れた。唯花に断りを入れずに勝手なことをしたら怒られるかとも思ったけれど、前回のあの様子を思うと、唯花を誘えばまた議論の平行線に陥りかねないように感じたのだ。だから今回は一人で出向いた。

 昼時を少し過ぎてから、院内のロビーや廊下を素通りし、棟の端にある個室の扉を叩く。その人気の少ない広めの部屋の前で深呼吸をしながら、僕は居住まいを正した。

「はーい、どなたですか?」

 扉越しに、声が聞こえる。

「川澄詞です。こんにちは、悠那ちゃん」

 僕がそれに答えたあと、なぜだろうか、数秒の間が空いた。特に室内で何かをするような物音はないけれど、ただ沈黙が流れる。

 そののちに、また、声が聞こえた。

「今日は、一人みたいね。どうぞ」

 足音でも聞こえていたのだろうか。今日は唯花と一緒でないことが、既に彼女にもわかったみたいだ。

 僕は「お邪魔します」と言って病室の引き戸を開く。中に入ると、いつもと違った光景に、少し驚いた。

「あれ、何をしているの、悠那ちゃん」

「見てわかるでしょう? 鉢に水をあげているのよ」

 彼女は振り向かず、窓際の鉢植えに視線を向けたままだった。そんな彼女は、自分の足で立っていたのだ。二本の足に均等に荷重を分け、銅像のように姿勢を良くして、花に水を与えていた。

「そっか。その花は……誰かのお見舞いの品、とか?」

「いいえ、ずっと前からここにあったものよ。気づかなかった? 最近になって、緑色だった蕾が、開き始めたの」

「へえ。うん、気づかなかったな。ちゃんと世話をしていて、偉いね」

「たまに水をあげるくらいよ。世話なんてほどじゃないわ。それに、咲いた花が私の部屋ですぐに枯れでもしたら、寝覚めが悪いでしょう」

 僕と会話をする間、悠那ちゃんは一度もこちらを見ることはなかった。あの明るくて無邪気な丸い瞳を、今日はまだ一度も見ていない。

「まあ、確かにそうかもしれないね。でも偉いよ。しっかり水をあげていたから、綺麗な赤色の花が咲いたんだね」

 鉢に咲く花はハンディサイズのジョウロから注がれる水滴をよく弾き、小さな花弁の上に踊らせている。そして瑞々しく張りのある、濃い紅を呈していた。

「………………」

 ジョウロの水が切れてからも、彼女はずっと手元の花を見つめている。水の降るわずかな音さえもなくなって、室内は、澄んだ空気と沈黙だけに満たされる。

「ところで今日は……何だか少し、様子が違うね」

 答えない彼女に対して、僕は再び会話を投げかけた。すると、いつもよりもゆっくりとしたテンポで、声が伸びてくる。

「そう……? どんな風に?」

「大人しいというか、元気がないというか……とにかく、とても静かだね」

「お兄さんは、賑やかな方が好き?」

「いや、決してそんなことはないけれど……まるで、別人みたいだなと思って」

 そこまで言葉を交わしてやっと、悠那ちゃんは緩慢な動作で踵を返し、僕の方をまっすぐ向いた。そこには普段の快活な印象はまったくなく、代わりに深く幽玄な雰囲気を感じた。

「あら……だって、別人だもの」

 ポツリと彼女は、短く零す。

 僕はその発言の意図を、すぐには理解できなかった。

「……えっと……え?」

 目の前の女の子は、いつも始終笑顔をくれていたはずの女の子は、今は無表情で氷のような視線を向けてくる。それは怒っているわけでも、喜んでいるわけでもない。ただただ、感情が見えないのだ。

「べつ、じん……? 君は……悠那ちゃんじゃ、ないってこと? もしかして、二重人格、とか?」

 僕がそう聞くと、彼女の無表情な顔がほんのわずかだけ綻び、束ねられていない長くてまっすぐな髪がさらりと揺れた。

「ふふっ、お兄さんって、本当に面白いわね。よく言われない? 変わってるって」

「いや、そうかな。僕は、至って平凡な男子高校生のつもりだけど」

「いいえ。ユーモアがあって、好きよ。そういうの。でも、ごめんなさい。私はそんな大そうなものじゃないの。ただ、猫被ってるだけよ」

 かなり意外な言葉だった。瞬間、僕は驚いて息を飲む。僕のしてしまった突飛な想像よりはよほど現実的だけれど、あれほど純粋に見えた悠那ちゃんの口からそんな言葉を聞くと、よりいっそうの非現実性を思わせる。

「だからね、むしろ逆なのよ。今の私が本当の織戸悠那で、これまでお兄さんと接してきた私が、私じゃないの」

「へ、へえ……そ、そっか……」

 驚きは態度だけでなく、僕の声にも表れてしまうほどだった。そしてそこには、彼女に見つめられているがゆえの緊張も、混じっていたのだろうと思う。

 年下の女の子になんて、見えるはずがなかった。僕に向けられる、冷たくも魅力的な彼女の視線。それは、彼女と接した僕の記憶の中で、たった一度だけの邂逅を思い起こさせる。

「まあ、一番最初だけは、例外だったけどね」

 そう。あの、淡い月の光に包まれた夜――彼女と初めて話した夜のことだ。

「一番最初……公園で、初めて会ったとき……」

「そうよ。まさかあのときは、こうやって見舞いにきてもらうような間柄になるとは、思わなかったからね」

 確かに今の悠那ちゃんからは、あのときと同じ空気を感じる。儚げで美しく、虚無感を伴う冷めた声音。

 僕は、その凛とした透明な姿に引き込まれないよう、気を張った。今日僕が一人でここを訪れたのは、どうしても気になったことを確かめるためだ。僕自身の意見を固め、伝えるためだ。だから、ああ、しっかりしなくては。

 そして今日は、僕の単身の訪問が功を奏したといっても良かった。今僕の目の前にいる彼女は、紛れもなく確実に“本当”のようだから。

「そっか……なるほど。でもあるいは、今日の話は本音の方が都合がいいから、僕としては歓迎かもしれないよ。君が裏の……いや、本当の悠那ちゃんなら」

「裏だなんて、人聞き悪いわ。いくら事実でもね。いったいどんな話? と言ってもまあ、だいたいの察しはつくけれど」

 溜息混じりで、彼女は言った。

 僕は一呼吸置き、これからする話が少しでも彼女の気を惹くであろうことを願い、口を開く。

「続きだよ。初めて会ったときにした話の、その続き」

 すると、それを境に彼女の声は抑揚を帯び、口元はわずかに引き上がった。笑顔というよりは、妖艶にほくそ笑むような感じだった。

「へえ……てっきり、私を説得でもするのかと思ったわ。でも、案外楽しそうな話じゃない」

 説得、か。それに関しては、あまり否定もできないところだけれど。

「まあ、そうじゃないと言えば、嘘になるかもしれない。でも……聞いて、欲しいな」

 返事は返ってこなかった。ただ目の前では、悠那ちゃんが僕を見て、やはり淡い笑みを浮かべる。どうぞ、と僕に先を促すようだった。

「僕は……悠那ちゃんの意見に、反対しないよ」

「……私を、止めないの?」

「うん。前に唯花が、ここで声を強めて主張をしたとき、それを見ていて思ったんだ。唯花の考え方は、僕とは少し違った。でも君は、僕と似た思考を持つ。だから、止められない。否定、できないんだ」

 思えば唯花はあのとき、死というものを完全に否定し、拒絶していた。それについて考えることさえ、認める様子はなかった。

 それが僕とは違う。それが悠那ちゃんとは違う。

 僕は、悠那ちゃんと同じように、自分の死について考えたことがあるのだ。何度も、何度も、出るはずのない答えを探して。それが自分の生に意味を与えると信じて。

 そんな僕だからこそ、わかることもある。きっと僕は、唯花よりも悠那ちゃんに近いはずだ。

「もし君が……諦めではなく、確かな想いと意志の下に死の道を選ぶというのなら、それを止めることは、できないと思う」

 僕が言うと、彼女の髪がさらりと鳴り、透明な音を奏でた。それはまるで、彼女の心の音のようだ。緩やかに弾む心の、嬉しがっている音に聞こえる。

「本当に面白いわ。今まで誰一人として、私にそんな言葉をくれた人はいなかった。怒りや諦念からではなく、優しさと誠意を持ってそんな言葉をくれた人は、いなかった」

「うん、これに関しては、少し僕も異常みたいなんだ。君の言うことには、わからない部分がとても多いけれど、でも同時に、とてもわかってしまう部分もある。生きて死の意味を考えること、その価値を見出すこと。とても、大切なことだよね」

 彼女の心と僕の心は、きっと同調を難としない。ある意味ではきっと、同類なのだ。

 そうしてやっと、僕は今、彼女の想いの深淵に触れ始める。

「そうね。本当にそう思う。そして、だから私は見つけたのよ。自分の生の証、死の意味を、織戸悠斗という存在の中に」

 きっとここまでは、僕の気持ちがよくよく彼女のそれと重なることで可能となったアプローチだ。ここまでは僕が、彼女に快く受け入れられていると分かる。

 しかし、本当の話し合いはここからだ。彼女の思想に、それと相反する僕の意思を伝えるための、そのための主張。今から放つ僕の声は、目の前の彼女に届くだろうか。

「けど、でもね。やっぱり待ってほしいんだ。僕は君に反対できない。でも、賛成することもできないよ。考え直してほしいって、言いにきたんだ。君をこのまま、黙って見送るわけにはいかない。君がいってしまうことを……君が、悠斗くんを連れていくことを……僕は見過ごすことはできないんだ。君は、悠斗くんと一緒になりたいんでしょう? それが望みなら、きっと選択肢は他にもある。この世界の中でも、十分に。だから……」

 僕が初めてここを訪れたとき、桂祐くんに促されて、悠那ちゃんと悠斗くんの関係を見た。二人の逢瀬を。そして、その抑えきれないほどの想いを。

 けれど、だとしても、二人の思い通りにはさせられない。

 僕はできるだけ優しく、ゆっくりと訴えた。

 すると彼女は、嬉々とした表情をフッっと消した。面白くなさそうに窓の外へと視線を流す。前髪の影が落ちる冷めた瞳で、陽の当たる明るい外界を見ながら、ただぼんやりと答えた。

「随分と、無責任なことを言うじゃない。気休めって言うのよ。そういうの」

「気休めのつもりはないよ。簡単だなんて思わないけど、それでも、不可能じゃない。方法は他にもある」

「他にも……ねえ。そう……お兄さんの言いたいことは分かった。それが冗談半分じゃないってことも。でもね。そもそもお兄さんは、きっと何か勘違いをしているわ。私の望みは、悠斗と一緒になることじゃないの。別に私は、あの子と末長く幸せになりたいなんて、そんなことは思っていないのよ」

 そして彼女は、さらに少しの間をおいてから、何かを読み上げるように平坦な語調で言ったのだった。

「私の望みは、悠斗と一緒に死ぬことだもの。言ったでしょう? 悠斗と一緒に、この世界を出ていくんだって。それは妥協でも苦肉の策でも、何でもない。それこそがまさしく、私の率直な望みなの」

 思考が揺らいだ。彼女との会話では、これは何度目のことだろうか。僕はそのとき、自分の理解の範疇を超えた異常性に、また思考を阻まれそうになったのだ。

 彼女の言葉にはもしかしたら、何かしらの感情が、溢れるほどに含まれているのかもしれない。けれどもその感情は、僕には理解できなかった。認識すらできない、未知種の感情。彼女が何を思うのか、その言葉からは到底わからない。

「何を言っているの……? 彼と死ぬことそのものが、君の望み……?」

 僕の声は震えていた。困惑がありありと表れていた。

 彼女は僕を見て、ふわりと柔和に、また微笑む。まるで友達との他愛のない会話の中で、当たり前の同意を求めるときのように。

「っふふ。だって、一人で死んでしまうのは、寂しいじゃない? ねえ?」

 明るい声が恐怖を煽る。

「……それが君の、死の理由だと、そう言うの?」

 妖艶な笑みと氷の無表情を幾度となく繰り返し、何度目かすらわからない彼女の笑顔は、あまりにも落ち着いていて、悟り切っていて、凄絶なほどに清らかで、僕の目と意識は少しチカチカした。

 ただ恐ろしかった。その恐怖に加え、焦りや、わずかに怒りまでも感じる。そういった想いが、ミキサーでかき回されたみたいに混ざり合って、急に心臓がざわついた。

 陽は高く外界を照らすが、室内は影になって薄暗い。そこに生まれそうになった闇が僕の不安を絶妙に掻き立て、胸にこびりつかせてゆく。

「そ、そんなの身勝手だよ! 君はそれでもいいかもしれないけれど……彼は、悠斗くんはどうなるのさ!」

「どうなるも何も、あの子もそれを望んでいるのよ。まるで砂漠の真ん中でオアシスの水を求めるかのように、心の底から、その願望を抱き続けている」

「でもそれは、たとえそうだとしてもそれは……彼のためにはならないはずだ! 彼の人生を、死の理由を、君が奪ってはいけないんだ! 君は、君だからこそ、よくそれをわかってくれるはずじゃないか!」

 悠斗くんはきっと、悠那ちゃんと一緒にいたい一心で、ついていくと言ったのだと思う。錯乱したような思考の中で、心までなくしていて……死ぬということがどういうことか、そんなことを考える余裕なんてないだろう。

 まだ残されているはずの時間を捨て、その命の答えも見つからぬまま死ぬなんて、そんなの絶対、間違っているはずなのに。

「死の理由は、人間の死は、とてもとても大事なことだと思う。それを見つけるために、人は生きると言ってもいいくらいに。それこそが人の生に意味を与える。でもだからこそ、簡単に見つけられるようなものじゃない。年端もいかない僕らには、まだ到底手の届かない真理のはずだ。それは、自分がそのために生まれてきたんだって感じられて、そのために死ぬのなら満足できて……生きて、生き抜いてよかったって思えるような、そんなこと。ちゃんと自分の人生を全うして、長い時間を生きた果てに、見つけなければいけないものなんだ。かくいう僕も、だから……こうして生きている」

「そう、そうよね。まさにそう。お兄さんの言っていることは、きっと正しいわ。でもね、その簡単には見つからないものを、私は見つけてしまったの。そして悠斗も、見つけたの。この世界での生に、最高の意味を与える、その理由。二人で共にくぐる、この世界からの旅立ちの門を」

「そんなはずない。君たちは一時の感情に流されているだけだよ。君も悠斗くんも、まだ幼いじゃないか。考え直そう。それに、百歩譲って君はいいとしても、今の悠斗くんは普通じゃない。そんな状態で、いったい何を見つけるって言うんだ。君たちは最後の最後まで、生きて考え抜くべきだ。勝手に自分で幕を下ろしていいはずがない」

「ねえ、お兄さん。生きる理由、死ぬ理由。それは全部、自分で決めるの。誰も見つけてなんてくれない。誰も教えてなんてくれないわ。正しいかどうかさえも自分次第。だから、私が幼いからとか、悠斗が普通じゃないとか、そんなことは関係ないのよ」

 僕は無意識に声を張っていた。もちろん自制はしたが、とても冷静ではいられなかった。お腹の下の方がキッと痛んで、胸に何かがせり上がってくる。

 目の前の、穏やかで長い睫毛のかかった瞳も、上品で優しい清楚な声も、氷のように冷えた鋭い針となって僕に刺さった。

「決めるのは、自分……。そりゃあ……そうかも、しれないけど。いや、でも……」

 でも、何なのだろう。この先に紡ぐ言葉を、僕は用意できる気がしなかった。何か言わなくてはと思うのに、喉を搾っても何も出てきやしないのだ。

 彼女との会話には、何か得体のしれないタイムリミットが設けられているように感じる。早急に答えて返さなければ、手遅れになるという焦燥を感じる。

 では、手遅れになると、いったいどうなるのか。

 きっと、辛うじて届きそうな僕の言葉は、ついに彼女には届かなくなってしまうのだろうと思った。

 そうして悩みながら立っていると、目の前では「ふう」と溜息が聞こえ、彼女がさらに口を開いた。

「悠斗が、あの子自身が、望むことなのよ。自分のために生きるよりも、私のために死ぬことを、あの子は望むの。だったら、そうすればいいじゃない。止める必要なんてまったくないわ。そう、悠斗は……私のために死ねばいいんだから」

 愛しい人に、死ねばいいなんて、そうは言えない。正直、気が触れているとさえ思う。そんな常軌を逸した憎悪のような愛情が、悠那ちゃんを、そして悠斗くんを包み込んでいるのだ。

 わからない。追いつかない。僕の脳では、とてもではないが理解不可能だ。二人はもう、生きて得られる愛の形には、到底満足できないのだろうか。世界で最高の愛の形は、一緒に命を終えること。そういう風に、考えているのだろうか。

「頼むよ、考え直してほしい。そして彼にも、考え直させて。そんな思想、あまりにもめちゃくちゃだ……」

「残念だけれど、そんな時間は残っていないわ。もうすぐなのよ。運命は、もう変わらないわ」

 話す彼女は、必要以上の動きは全く見せず、まるで人形から音が出ているだけのようにすら感じた。

 対する僕は僕で、身体の動きに割くだけの神経の余裕がなく、働くのは頭と口だけだ。

 怖いくらいに静かな室内で、僕と彼女の声以外の音は、存在しきれないようだった。

「お兄さんこそ、もう一度よく考えて。もうすぐ私は、完成されるのよ。魂は、欠陥ばかりのこの身体から解放されて、その生を終え、自由になる。それってすごく、素敵なことだと思わない? 何ならお兄さんも連れて行ってあげたって、いいんだよ?」

「いや、駄目だ。僕は……認められない。君が……だって、彼を連れていくなんて……駄目だよ……」

「……そう……駄目なの。私と同じお兄さんなら、わかってくれると思ったのに。そのお兄さんに否定されちゃうと、ちょっと……残念ね」

 混乱は、もうとっくに頂点だった。何度も頭打ちを繰り返し、それでもまだ収まる気配を見せない動悸と不安に潰されそうになりながら、僕は必死で両の足を折らずに保っている。こんな状態で、悠那ちゃんと対話をするのは苦しい。彼女は、眉一つ動かさずに平気そうな顔で話すのに。それなのに、僕の方は内心すぐにでも逃げ出したい衝動に襲われ続けて、なのにそれすらも適わずに釘づけでいた。

 彼女がそっと表情を崩す。悲しそうに視線を落とし、焦点を合わせる先も見つけられないまま、目尻と眉を少しだけ下げて小さく呟く。

「ええ……実に、残念だわ」

 今日僕と顔を合わせてからずっと帯びていた冷たさはそのままにしながら、今はそこに寂しさを重ねて纏い、その姿は言うなれば、究極的なまでに儚げで繊細なガラス細工のようだった。透き通った美しい存在は何者をも魅了し、先端に触れれば少々危なく、しかし実はとてつもなく脆い。そんな印象を、このときの彼女は僕に与えた。

「あの花――」

 ああ、彼女の消え入りそうな細い声は、こんなにも恐ろしく、そして甘い。甘美な毒が心をかき乱す。これほどに甘い声を紡げる人に、僕はこれまで出会ったことがない。

「あの小さな花、思ったよりも、綺麗に咲いたわ。何ていう、花なのかしら」

 僕は大きく唾を飲み込み、掠れないように注意深く答える。

「……僕も、わからないな。植物には詳しくなくて。でも、白い部屋だから、濃い赤が、よく映えるね」

「そうなのよ。蕾のまま萎れてしまわないで、よかったと思う。せめて、時がきて枯れてゆくまでくらいは、面倒を見てあげたい気になるわ。光をあげて、水を注いで……ね」

 透き通るほどに、そして雪のように純白の指で、真紅の花弁をさらりと撫でる。翠緑の葉をパッと弾く。触れる手先からは愛しさが溢れていて、すぐにでも吸い込まれそうだ。

「永遠咲きの花なんて、この世にはないわ。そんなまがい物、花とは呼べないもの。花である限り、散り時は必ず訪れる。だったらその、美しい最後まで、私が隣にいてあげよう。そう思うの」

 美しい最後……。それはきっと、彼女が望む終わりそのものだ。辿り着けば、自由と完成が手に入る。そう言って。

 僕は、何かを言おうと思った。言わなければならないと思った。強い焦燥にかられながら、それに加えて、悲しそうな彼女の表情に耐えられなくなって。

 でも、それでも僕は何も言えずにただ立ち尽くすだけで、自分がとても情けなかった。僕の口は、一ミリたりとも動かなかったのだ。

「ごめんね、お兄さん。今日は、ここまでみたい」

 彼女は話を打ち切る。反応のない僕にとうとう飽きてしまったのか、気分がすぐれなくなったのか、理由は様々思いつくところだけれど、とにかく唐突だった。

「その……つまらなかった、かな」

「いいえ、そんなことない。興味深い意見だったわ。そうじゃないの」

 ゆっくりと目を瞑りながら、一つだけ深く呼吸をして、纏う空気をフッと変えた。

 次の瞬間、リズムの良い軽い音が二回、コンコンと部屋に響く。

「悠那、邪魔するよ」

 ガラリと鳴って扉は開き、声の主は現れた。

 すぐに悠那ちゃんは明るい挨拶を返す。

「いらっしゃい、桂兄」

 僕が振り返った先にいたのは、彼女の兄であり僕の級友でもある、織戸桂祐くんであった。

「ん、詞くんか。度々見舞いにきてくれているそうだね。ありがとう、感謝するよ」

 淡々と、しかしながらとても丁寧に、清潔な声で彼は話す。

「悠那、着替えを持ってきた。どこに置こうか?」

「うん、いつもありがとうね。部屋の隅にでも、置いておいてくれればいいよ」

 桂祐くんは、小さめのボストンバッグを片手で持ち、軽々と指示通りに部屋の隅に置いた。手慣れた様子といった感じだ。僕はこの光景を初めて見るが、きっといつもこうやって、桂祐くんは悠那ちゃんの身の回りの世話をしているのだろう。

 荷物を置いて手ぶらになってから、彼は両手を腰に当てつつ振り返り、僕に言う。

「もしかして、話の途中だったかな。悪かったよ」

 まっすぐに僕を見ていて、その表情からは、ひたすらに誠実さが感じられた。

「いや、そんなことないよ。僕の方こそ、もうだいぶ長居しているんだ」

「そうか。ただ、俺はすぐ戻るから、まだまだ長居してもらって構わないが」

 その様子からは、彼が僕の訪問を快く思っていてくれることがよくわかった。悠那ちゃんの話し相手になってほしいと言っていた彼は、僕を歓迎してくれている。

 ただ、半ば打ち切りだったとはいえ、僕と悠那ちゃんの会話はもう既に終わっていた。僕の困惑という形で、停滞を見せていたのだ。

 今日僕は、僕なりの考えを彼女に伝えた。しかし彼女にも彼女なりの考えがあり、互いの思考は納得がいくほど合致したとは言えない。

 今の段階では、これ以上僕がここに残っても、おそらく沈黙しかできないだろうと思った。

「あるいは帰るのなら、途中まで一緒に行かないか」

「えっと……うん。そう、しようかな」

 桂祐くんの提案に対し、僕は悠那ちゃんの顔色を気にしつつ同意をした。

「いいよ。送ってあげて」

 彼女は嫌な顔一つせず、明朗に微笑む。

「お兄さん、とっても楽しい時間だったよ。ありがとう」

 彼女にとっては、あの会話は不完全燃焼ではなかったのだろうか。僕はそれを気にしていたのだが、しかし楽しい時間だったと、彼女は言う。その真意はわからないけれども、彼女が僕の話したことを、少しでも真剣に考えてくれれば嬉しいと思った。

 隣では桂祐くんが、部屋の備品などを確認し、次にくるときには何を持ってきたら良いかなどを整理していた。それを見る悠那ちゃんは、終始明るい声で答えつつ、彼とも少しだけ他愛のない会話をする。

 そして、最後にこんなことを言うのだった。

「あのね……突然で悪いんだけど、これから少しの間、一人にしてほしいんだ」

 ゆっくりと、刻むように一言一言、告げた。

「ああ、俺も詞くんももう帰るから、問題ないだろう?」

「ううん、違うの。少しっていうのは、数日間くらい。その……考える時間が、ほしくて」

「……何か、あったのか?」

 桂祐くんはわずかに不安そうな顔をした。病人である妹が、しばらく見舞いにこないでくれと言うのだから、当然だろう。

 けれども僕はそれを見て、彼女が今日の話をしっかり受け止めてくれたのかと思った。それについての思考をするために、時間がほしいと言っているのだと思った。

「ちょっとね。だから桂兄、悠斗にもここにはしばらくこないように言っておいて」

 悠那ちゃんは、桂祐くんと話すときは相変わらず明るい。その屈託のない笑顔のためか、桂祐くんも必要以上に心配することはなく、そのまま話を進めていく。

「悠斗にもか。あいつは……素直に聞くか、わからないものだが」

「私が言ったって伝えれば、大丈夫だよ。だから、よろしくね」

「ふむ……。わかった。だが、あまりにも長くはいけないぞ。みんなが心配するからな」

「もちろん。気が済んだら、そのときにまた知らせるから。お兄さんもね。お姉さんに、また伝えておいて」

 彼女は僕の方にも同様に笑いかけ、伝言を用意した。

 先ほどまでとのギャップに若干戸惑いは隠せないが、僕は当たり触りのない同意を返す。

「……うん。けど、無理はしないでね」

 こうして僕は病室を後にすることとなる。

 去り際、悠那ちゃんははっきりと意志のこもった表情をして、こちらを向きつつ言葉を紡いだ。それは僕と桂祐くんの二人というよりも、明確に僕の方へ向かっての行為だったように感じた。

「ありがとう。私の答えが出る頃に、またきて頂戴ね」

 目尻は穏やかに下がり、口元は品良く閉じられている。そこにはやはり、少女とは思えない大人っぽさ、艶やかさがあった。放つ雰囲気で伝わってくる。この言葉は、間違いなく“本当”だと。彼女は、いずれまた僕が、ここへくることを望んでいる。

 もちろん僕だって、呼ばれれば飛んでやってくるつもりだ。もう僕は、彼女が死んでしまえば十分引きずる。それくらいの関係になってしまったし、だからこそ彼女の力になりたいとも思う。



     5  二〇二四 葉月―末



 最後に悠那ちゃんの見舞いをしてからというもの、それからはまるで、嘘みたいに平坦な毎日が過ぎた。何もなくても事務所には定期的に顔を出すよう、もとい話し相手になるように灯華さんには言われていたので、ちょこちょこ出向いたりはしていたが、しかしそれもそう頻繁というわけではなかった。

 唯花は最近、顔を合わせれば病院へ行こうとばかり言う。僕が悠那ちゃんと会った最後の日の伝言を、既に唯花にも伝えてはいたが、それでもなお唯花は様子を見に行こうと何度も言った。おそらく彼女なりに心配をしているのだろうが、対して僕は、その都度真剣な表情で返答をするのだった。もう少しだけ待ってみよう、と。

 ただ、最初はまだ良かったものだが、次第になかなか厳しくなってきた感じもある。時間が経つにつれて、唯花の提案は頻度を増し、僕の制止も曖昧になってきていた。 

 唯花はもちろんのことだろうが、僕自身も、不安に思う気持ちを隠せなくなっている。

 僕が悠那ちゃんの姿をこの目に最後に収めてから、今日まで期間としては一週間が経っていた。決して、長くはない。だがそれでも、彼女の場合は事情が事情。軽くはない病気を抱えた状態で、放っておくには短くもなかった。

 夏休みは、もうすぐ終わる。もう、残すところ数日だ。

 気持ちを切り替えるのも少々億劫に感じながら、暖炉の残り火を眺めるような名残惜しい気持ちで、僕は日々を消化するしかない。眈々と、待つことだけを心に決めて。

 そして、ある夜。そのときは訪れたのだった。

 夜といっても既に午前。正確には深夜と呼ぶべき時間帯。僕の枕元で、携帯のチープな着信音が鳴り響く。

「……また唯花か。まったく……メールだからって、時間なんかお構いなしなんだから……」

 当然のようにベッドで寝入っていた僕は、その音に目を覚ましつつ、ぼやきながら携帯を手にとった。どうせくだらない要件なのだ。そう思って。

 けれども、そこに浮かび上がった薄明るい小さな画素の集合体は、僕の脳に即座に飛び込み、急速に覚醒を促した。携帯を持つ右手も、投げ出した両の足も、画面を見つめる眼球も硬直して、届いたメールの文章だけが頭の中でぐるぐると回る。

 そこには一言、こうあった。


『今夜は月が綺麗です。こんな夜には、またあなたとお話がしたくなりました。』


 彼女が、悠那ちゃんが呼んでいるとわかった。

 連絡はできるだけ早い方が良いと思い先日アドレスを交換しておいたのだが、結局これが彼女との初めてのメールとなる。彼女も、メールの時間はあまり気にしない性格のようだ。

 ふと窓から空を仰ぐと、なるほどその通りだった。星のない漆黒の背景に一つ、極めて目を惹く明るい三日月が浮いている。僕と彼女が出会った日の、あの儚気な白い月にそっくりだった。

 僕はすぐに『いつでも構わないよ』という返信をしようとした。ゆっくりと親指を動かし、文を打ちこんでゆく。

 しかしそこで、メールの文が完成するよりも早く、また携帯が震えた。それも今度は、メールではなく電話の着信だ。

「も、もしもし、詞くんか? 寝ていただろうが、こんな時間に……済まない」

 突然の電話の相手は桂祐くんだった。

 意外な相手だ。いや、もっと言えば妙でもある。彼がこんな、常識的とはとても言えない時間に電話を寄越すなんて、いったいどうしたのだろうか。

「うん、僕だよ。大丈夫。それより、何かあった?」

 彼の声は、電話越しにでもわかるくらい慌てていた。彼は普段から冷静な人だが、今は動揺を抑えようとしてそれが上手くいかないような、そんな複雑な声色だった。

 僕が尋ねると、彼はたどたどしく状況を話した。

「隣の、悠斗の部屋から物音が聞こえて起きてみたら、悠斗がいないんだ。あいつがこんな時間に家を出るなんておかしい。悠那のところへは、悠那自身からこないように言われているから、あいつがその言いつけを破るはずがないし、だとするといったいどこへ――」

「落ち着いて。落ち着いてよ、桂祐くん」

「だ、だが――」

 気が気ではないのだろうと感じた。妹の容体と、その妹と弟の関係。この二つを真摯に心配する彼にとって、わずかでも関連する出来事ならば大いに気にかかる。当然のことだ。

 でも今回に限っては、彼がそれを僕に相談してくれたのは、非常にタイミングが良いと言える。間違いなく他の誰よりも、僕が適任だ。なぜなら僕は、うろたえる彼に対し、こんな風に答えることができるから。

「あのね、桂祐くん。たった今僕のところへ、悠那ちゃんからメールがきたんだ。きっと、悠斗くんのところにもきたんだと思うよ。だから悠斗くんは、悠那ちゃんのところへ行ったんじゃないかな」

「メールが……? 悠那から……?」

「うん。他愛のない内容だったけれど……そうだね、受け取りようによっては、会いにきてっていう意味だったのかも。だから、もし桂祐くんさえよかったら、これから彼女に会いにいかない? こんな時間だし、おかしいかもしれないけれど……何となく会える気がする」

 悠斗くんを、そして僕を呼んだということは、悠那ちゃんの中で何かしらの結論が出たということだろう。可能ならば、すぐにでも是非聞いておきたい。

 桂祐くんは、僕の誘いに迷いなく賛同し、これからすぐ待ち合わせて病院へ向かうことになった。

 何故だろうか、胸騒ぎがする。急いだ方が良いかもしれない。僕はそう感じ、ベッドから飛び降りて外出の準備を始めた。

 唯花にも忘れずに電話をする。きっとこの時間なら、ギリギリまだ起きていると思うのだ。まあ、仮にこの電話が寝ている彼女を起こすことになったとしても、要件が要件だから許されるだろう。むしろ知らせない方が、後になって何を言われるかわからないものだ。

 電話は、二回ほどコールを挟んで繋がった。反応速度からして、やはりまだ寝てはいなかったとわかる。

「何よ、詞じゃない。良い子は早く寝なさいよ。こんな時間にどうしたの?」

 こんな時間と、どの口が言うのだろう。言われて仕方のないことではあるが、当たり前のようにまだ起きている唯花には言われたくない台詞だ。呆れてそう突っ込みたい衝動が、ないわけではなかったが、だが今は如何せんそんな場合でもない。

 僕は、極力平静を保って現状を説明した。

 悠那ちゃんからメールがきたこと。その直後、桂祐くんから電話があったこと。そして悠斗くんが、おそらく悠那ちゃんのところへ向かったであろうこと。

 するとすぐに、唯花は僕の考えていることをわかってくれた。こういうときの唯花の行動は、素早いものだ。的確に状況を把握し、すべきことをよく理解してものを言う。

 これから唯花とも落ち合い、三人で悠那ちゃんのところへ向かうことに決まった。

 僕も急ごう。騒がしくないように支度をし、感づかれないように外へ出る。家の誰かに呼び止められても面倒だ。

 踏み出した外は、夜にしてはとても明るく、夏にしてはとても涼しかった。異常とさえ感じてしまうほどだ。街灯なんてなくても前がよく見えるし、全力で走っても汗だくになんてならない。

 けれどもやはり、どうしても焦る気持ちは抑えられず、急げば急いだだけ呼吸は荒くなった。息を上げながら、できるだけ早く待ち合わせの指定場所を目指す。真夜中の道は走りやすい。前さえよく見えれば、横断歩道も信号も、踏切も歩道橋もお構いなしだ。僕以外に他に動くものはなく、時間の止まったファンタジーのような世界を、一人で奔走している錯覚にとらわれた。まあ、本当に時間が止まってくれるなら、今はそれに越したことはないのだけれど。

 僕が集合場所まで赴くと、早くもそこには唯花が立っていた。まるで随分と前から、既にそこにいたみたいに。

 さらに僕の到着とほぼ同時に、桂祐くんも現れた。彼も走ってきたのだろう。僕と同様、少し息が上がっている。

「……音瀬、さん。あなたも、一緒だったか」

 どうやら、待っているのは僕だけだと思ったのだろう。少しばかり驚いていた。

「あら、ごめんなさい。ご一緒させていただくわ」

 対して唯花はうろたえもせず、澄ました顔でさらりと告げる。

「ど……どうでもいいけど、何で唯花が一番早いのさ」

「それは本当にどうでもいいことね。まあ、私が一番近くに住んでいるからかしら?」

 そうだろうか。いや確かに、数百メートル単位で唯花の家の方がここへは近いのかもしれないけれど。そういう問題ではない気がする。

「そんなことより、早く向かいましょう。急いだ方が良さそうじゃない? ねえ、桂祐くん?」

「あ……あぁ。そうだな」

 僕らは再び、夜の道を走った。

 情けないことに僕は、涼しい中でも結構バテ気味だったが、幸いこの場所から目的地までは十分近い。体力的には平気そうな表情をして走る唯花と桂祐くんに、置いて行かれなくて済みそうだった。

 この時間の病院は、外も中も真っ暗だ。宿直室に明かりが灯る程度だろう。当然ながら扉は開かない。しっかりと施錠されているはずだ。

 僕としては、到着したらしたでどうするのかと思っていたが、しかし結論から言えば、それについて心配はなかった。

 はなから正面玄関には向かわず、走りながら桂祐くんはこう告げる。

「裏へ回ろう。多分悠斗も、そっちから入った。鍵は、開いているはずだ」

 聞けば、どうやら合鍵というものがあるらしいのだ。それを悠斗くんが持ち出したと、彼は言う。実際に裏へ回れば、彼の言葉通り、扉は開いていた。

 僕らはそこから建物に入る。

 シンとした院内は、白い壁や床が闇色に染まっていて、廊下も階段も異様に長く感じた。外にいたときとは違って風の音がない。不気味なほど静かな院内では、自分の心臓の音だけが、唯一鼓膜を刺激する存在だった。

 目指すは最上階。その端の部屋。さすがに中では走るのを控え、エレベーターも使わずに階段を上る。

 僕は必死ではやる鼓動を鎮め、息を落ち着かせつつ二人に続いた。

 そうしてやっとのことで悠那ちゃんの病室まで辿り着くと、静止した空気を伝って、引き戸越しに声が聞こえた。

「悠那……いきなり会ってくれなくなって……俺、驚いたよ」

「あはは……。ごめんね、悠斗」

 悠斗くんと悠那ちゃんの、二人の会話だ。悠斗くんは不安を訴えるような声で、悠那ちゃんは可愛らしく愛嬌のある声で話す。二人にとっても、少々久々の会話のはずだ。いったい、何を話しているのだろうか。

「ちょっとね、考えなきゃいけないことが、あったんだよ。真剣に考えなきゃならない、大事なことがね」

「わざわざこんなに長い間、一人きりになって? 俺、すごくすごく心配だったよ……寂しかったよ……悠那……」

「長い間って、ほんの一週間ちょっとじゃないの。もう、大袈裟だよ、悠斗」

「そうだけどさ……。でも俺には、その一週間が、何十倍も長く感じられて。その間、いつもにも増して悠那のことばかり気になって。何も、何も手につかなかった」

 悠斗くんの訴えは、責め立てるというよりも、ただひたすらに不安そうな様子だった。消え入りそうな、弱々しい言葉たち。それは周りがこれほどまでに静かだからこそ、辛うじて僕らにも聞き取れる。

「そう? 悠斗は私に会えないと、そんな風になっちゃうんだね」

「だ、だって……俺が生きてるのは、悠那のためだよ。悠那に会えない毎日なんて、考えられない。気が、狂いそうになる……」

 相変わらずだ。相変わらずこの二人のやり取りは、姉弟然としていない。

 桂祐くんは、以前こうして二人の会話を聞いたときと同様、苦い表情をしていることだろう。今は暗がりで確認はできないが、きっとそうだ。

 そういえば、僕らは今、またあのときみたいに盗み聞きのようなことをしてしまっているけれども、いつになったら室内に入るのだろう。先頭を行っていた桂祐くんが扉の前で立ち止まって、以降そのままになっている。

「悠斗ったら、そんな調子で大丈夫? 夏休みの宿題はちゃんとやった? もうすぐ、学校が始まるでしょう?」

 室内では、悠那ちゃんの場違いに明るい声が響く。クスクス笑いながら、穏やかに問いかける様子が目に見えるようだ。

 すると、対して今度は悠斗くんも、力無くだが笑って返した。

「はは……よく言う。からかわないでよ、悠那。宿題なんてさ、学校なんてさ……どうでもいいことだって、悠那もわかってるだろう。今日、あんなメールを、俺にくれたんだから」

「っふふ。そうだね……その通りだね」

 あんなメール。それは、悠斗くんをここへ呼んだときのメールだろう。僕が知りたいことが、そこにある。

 悠那ちゃんの導き出した答え。

 悠斗くんがここへきた理由。

 二人の心の中にある思惑。

 ただそれらは、僕の考えでもまったく検討がつかないわけではなかった。いくつかの選択肢として、それぞれ可能性を持って想定される未来がある。それが不安の、焦燥の、そして恐怖の種となる。

「じゃあ悠斗。もちろんそのつもりで……ここへきたんだよね?」

「当たり前さ。悠那が望むなら、俺は何処へだっていく。ここじゃない世界……天国でも地獄でも、何処だっていいよ。悠那がいれば、俺はそれだけでいいんだから」

「そっか。嬉しいな。なら確かに、学校なんてどうでもよかったね。その他のことも……うん、どうでもいいね」

 中の様子は見えないのに、僕には彼らが、彼らの仕草が、手に取るように頭に浮かんだ。恍惚として見つめ合う二人。艶のある声。感じさせる背徳性。そして手を重ね、寄り添って、希望に満ちた瞳で語る。

「ねぇ……ねぇ悠斗。私たち、どんな風にいくのがいいかな? 屋上から、羽ばたくみたいに飛んだら、気持ちがいいかな。それとも、薬を口移しでもして飲んでみる? あるいは、練炭を燃やして、眠るようにいくのがいいかな。悠斗はどれがいい? ううん、もういっそのこと……刃物で互いを貫いたって、いいんだよ」

「……俺は、痛くたって苦しくたって、構いやしない。でも、最後まで、悠那と一緒が……いい」

 狂気を、そのまま言い表したかのような会話だ。聞いているだけで総毛立つ。想像なんてしたら、足が竦んでしまうかもしれない。クラクラするくらい甘く、誘惑的で、頭の中を掻き回される。異質で、生々しくて、恐ろしくて、超常的だ。

「じゃあ……そうだね。そこにあるそれ……そう、そのハサミを、とってくれるかな、悠斗」

 直後、物音のなかった部屋からは、フロアタイルを踏みしめる、コツコツという音がする。ゆっくりと、秒針のような一定の間隔で、悠斗くんが歩くのだ。

 そしてすぐに足音は止み、刃を開くときのシャキっというステンレス擦れの音が耳に届く。

 あぁ、駄目だ。止めないと。そうしないと、本当に取り返しのつかないことになる。考え得る最悪の未来が、訪れてしまう。

 止めなければならない。止めるしかない。早く、早く……手遅れになる前に、早く――。

 僕は脊髄反射で床に凍りつく足を引き剥がし、目の前で動かない唯花や桂祐くんを押し退けて、病室の引き戸を力一杯開け放った。

 血液が沸騰したように泡立って、心臓がドクドクと鳴り、脳が弾けそうだった。一瞬で全身から汗が吹き出てくる。ヒヤリと冷たい、凍える汗が。

 ガタンと響いた扉の音に、鋭利で高い金属音が重なる。誰の言葉もなく、何よりもクリアに、それは鼓膜を貫いた。

 切断音。何かが思いっきり断ち切られた。

 瞬間、部屋中に、その床を埋め尽くすようにして、細くて長い黒の光が舞い散ってゆく。

「やっぱり……もう、きていたんだね」

 サラサラと、視界にちらつくそれは、髪だ。

「またこっそり聞いていたんでしょう? ヤな趣味してるなぁ。わかってるんだよ、お兄さん。……あぁ、それと、余計な付き人があと二人……かな」

 唇をかみしめて固まった唯花。放心状態の桂祐くん。そして理解の追い付かない様子の悠斗くん。僕は必死な顔で事態の把握に苦闘をし、悠那ちゃんだけがつらつらと話す。

 何が起こったのか、数秒ほど遅れて、やっとわかった。

 悠那ちゃんが、自らの髪を切り落としたのだ。あの漆のように黒く、濡れたように美しい髪を、バッサリといっぺんに。そこに展開された事態の有様は、悠那ちゃん以外の四人が各々予期した事態のいずれとも異なり、誰一人として、未だに何の挙動も見せない。

 僕は、悠那ちゃんがハサミを手にしたとき、それで彼女は悠斗くんを刺すと思った。殺そうとするのだと思った。もちろんこんな思考が異常だということは、自分でも十分に理解している。けれども今は、その異常な思考が妥当に当てはまるくらい、同じく異常な状況なのだ。

 薄暗い室内には、仄かな月明かりだけが差し込んでいる。真っ暗の影は床に散る髪と混ざり合い、その中でハサミの刃が、銀色の光を跳ね返している。

 まさに今、この場を占める空気は変化した。僕にはわかる。なぜなら、そう。この瞬間に、目の前の彼女が、纏う人格を変えたからだ。

「ゆ、悠那……? な……何を、して……」

 呆然とする悠斗くんは、瞬きも忘れて目の前の光景をとらえていた。彼の表情は、まるっきり状況についていけないといった感じだ。悠那ちゃんのすぐそばにいた彼は、切り落とされて散った彼女の髪を少しばかり被っていたけれど、それを払い落とすことさえもしていない。ただただ、どうしていいのかわからないようだった。

「さて、もうみんなきちゃったことだし、下らないお芝居も、終わりかしらね」

 悠那ちゃんは冷めた目で悠斗くんを見下ろし、それから僕らに視線を流した。肩口から下がそのままなくなってしまった髪の束を揺らして、毛先や袖口に絡みついた残り髪を手で軽く払いつつ、落ち着いて緩やかに首をひねる。

 以前僕が出会った彼女。つまりは、“本当の”彼女が今、そこにいた。

「い……いったい、何をしているんだ。こんな……」

 僕は彼女の視線に射抜かれて、やっとのことで正気と声を取り戻した。それから極めて異常な室内の様子を指して呟く。

「だって、邪魔だったんだもの。お兄さんたちも、部屋に入るきっかけができて、一石二鳥だったしょう? 着いたのなら早く入ってきてくれないとさ。もう、時間も少ないんだから」

「それは……。いや、そうじゃなくて……何をやっているんだ。悠斗くんに大切にしてもらっていた、綺麗な髪なのに」

「だから、邪魔だったのよ。鬱陶しかったの。長くて重いしまとわりつくし、いいことなんて一つもなかったんだから」

 悠那ちゃんは吐き捨てるように嘲笑う表情で「やっぱり軽い方がいいわ」なんて言う。その冷めた言葉の向けられた先は、目の前で惚ける悠斗くんだ。

「あらあら悠斗。どうしたの? ぼーっとして。壊れた人形みたいに固まって、バカみたいよ?」

 彼女は妖艶な雰囲気を漂わせ、クスクスと笑みを浮かべながら、悠斗くんの顔にかかっている数本の髪を払い落とす。指先で頬を撫でるように、はらりはらりと優しい手つきで。

 しかし悠斗くんは、それに対して反応もせず、目の前の悠那ちゃんにガラス玉のような瞳を向けるばかり。

「悠那……どうして……。大事な髪が……」

 動揺し、困惑し、事態の処理が追いついていない。あまりに信じられないといった様子だった。

 それでも、そんな彼を気にすることなく、悠那ちゃんは言葉を重ね続けてゆく。穏やかな仕草と表情に、あまりにも不釣り合いな、刺のある言葉を。

「大事にしていたのは、あなただけよ」

 彼女の話す様子は、まるで何かのしがらみから解き放たれたような清々しさと、達成感にも似たものを思わせた。

「そう……好きだったのは、あなただけ」

「好きだったのは……俺だけ……? どういうこと……?」

「そのままの意味よ。あなたがどんなに私を好きでも、私はあなたのことなんて好きじゃない。大嫌いだって言っているの。……気づかなかった?」

 本当にバカみたいね。最後にそう付け加えるときにも、笑顔のままだ。彼女の発言は何一つとして、こんな柔らかい声が似合うようなものではない。本来ならもっと、歪んだ表情や苦々しい口調が相応しいような、そんな言葉のはずだった。彼女の言葉たちはまさに、刃のように悠斗くんを刺し貫くのに、それと対極の包み込むように温和な笑顔は、理解できる感覚の範囲を逸脱していて……気持ちの不整合、恐怖を感じさせる。

「悠那は俺のことが嫌い……? 嫌いなの……? 嫌いって……何で……?」

「嫌いだからよ。嫌いなものは嫌いなの。私にないものを全部持っているあなたが、そしてそれなのに、それを見せつけながら、平気で私に慣れついてくるあなたが、憎くて忌々しくて、仕方なかったわ」

「そんな……。俺は悠那のことが好きで、悠那も俺のことが好きだって。だから、二人一緒になれるように、この世界から出ていこうって」

「違うわ。私はあなたに、今までで一度たりとも、好きだなんて言っていない。その言葉だけは言わなかった。だって私は、あなたを殺してやりたいくらい、憎くて憎くてたまらなかったんだから。そして私の命がじきに終わるなら、あとを追うように仕向けよう。そうやって、何もかもあなたから奪ってやろう。そう思っていたの」

 僕は、身体の芯からさーっと冷たくなるのを感じた。皮膚は泡立ってゾクゾクし、室内の空気がいやに敏感に、鋭く感じられた。穏やかな夏の夜のはずなのに、内蔵にまで直接、寒気が刺さる。

 唯花たちもどうやら、身じろぎ一つ取れないようだった。目の前の狂気じみた光景に気圧されてしまって、指一本動かせないのかもしれない。

「ま、待って! 俺の持っているものなら、全部悠那にあげるから。悠那になら俺、何だってあげるよ。俺は、悠那さえいればいい!」

 嫌いだなんて言わないで、聞きたくない。そんな悠斗くんの悲痛な叫びは、弱々しくかすれていた。歪む顔が、とても痛々しかった。

 しかし、その訴えを向けられている当の悠那ちゃんは、まるで彼の声など聞こえないかのように、僕らを横目に見て話す。悠斗くんを正面に見据えているにもかかわらず、彼の言葉には一切興味がないみたいだった。

「……けどね、うるさい外野が騒ぐから、私、もう一度考え直してみたのよ。そうしたら、そんなの冗談じゃないって思えてきたわ。確かに私は悠斗のこと、殺してやりたいって思っていたけれど 、それでも、一緒に死ぬのは御免よね。死んでなおあなたと一緒だなんて、ぞっとする。さすがに私も、ちょっと耐えられそうにない」

「ゆ、悠那……」

「っふふ。でも、わかってるの、悠斗。私があなたに、こんな風に本当の気持ちを打ち明けたとしても、そんなことくらいじゃ、あなたの中の私は消えない。だってあなたは、私のことが、大好きでしょう? その心は私の虜で、私でいっぱいなんでしょう? 私以外のことなんて、あなたには見えないのだわ」

 あなたの中は私だけ。彼女はそんな、恍惚とした甘い響きを連ねてゆく。うっとりするくらい艶やかな唇で、脳を麻痺させる旋律を放つ。そうして悠斗くんの頬に真っ白い雪のような手を添えながら、吐息のかかるほど近くまで顔を近づけ、囁くように、諭すように、告げるのだった。

「ねえ悠斗、もうすぐなの。もうすぐ私は、この世界での生を、終えるのよ。私の魂はこの小さな身体から解放されて、自由になる。だからね、私は一人でいくわ。あなたは間違っても、追ってなんてこないでよ。私はもう死んでしまうけれど、あなたは生きる。この世界で、その命が尽きるまで、ずーっとね」

「ずっと……生きる……?」

「そうよ、生きるの。私に置いていかれ、私のいないこの世界で、私のことを忘れられずに生きるのよ。その胸の中から、私は消えない。それどころか、どんどんどんどん大きくなる。それなのに、もう一生、あなたは私には触れられない。私と会うことも、話すこともできない」

 だって私は、もうすぐ消えてしまうのだから。言い放つ悠那ちゃんは、嬉々として見えて、そして深い憐憫に満ちていて、どこか微かに哀しみを感じさせる。

「苦しいでしょうねえ。ええ、あなたにとっては、想像を絶する地獄だと思うわ。可哀想、なんて可哀想な悠斗。私は、そんなあなたが嘆きながら、ボロボロになりながら苦しんで生きる姿を、最後の最後まで、傍で見ていてあげるからね」

 悠斗くんの口からは、もう言葉は出てこなかった。添えられた手一つに、身体全てを掌握されているように動かない。呼吸すらしているのか怪しいほど、石のごとく停止していた。

「ねえ悠斗? 忘れられるものなら、どうぞ忘れてごらんなさい? 決してできやしないと思うわ。だってあなたは私のもの、私はあなたの全てだもの。だから私は、ずーっとあなたを見ているわ。あなたのすぐ、隣でね」

 そして悠那ちゃんは、儚くも満足気な笑顔を浮かべ、まるで内緒話をするかのように、悠斗くんの耳元へ口を近づける。一言だけ、今にも消え入りそうな、絹のように細い声を紡ぐ。

 その声は悠那ちゃんの羽織る衣擦れの音に混じって僕らにも届き、同時に彼女の行為に意識を集める。彼女はゆっくりと腰を浮かし、もたれかかるようにして悠斗くんを抱き寄せながら、そのまま、口づけをしたのだった。

 それは、以前僕らが覗き見たときのような、深々としたものではなかった。微かな水音さえ聞こえない、まるで儀式のように神聖な、唇が触れるだけのキス。

 このとき僕はその姿を目の当たりにして、感じてしまった。目の前にある光景が、まるで重厚な額縁に納められた名画のように美しく、さらには神々しくすらあると。

 二人の身体は光に包まれ、超常的な感覚さえ味あわされる。僕がまだ知らない感情。心。そういう不思議な、異質な想いを。

 行為は、時間にして約数秒。やがて二人の唇は離れ、悠那ちゃんは、悠斗くんに重なるようにして寄りかかり、首に回した両腕に力を込める。弱々しくも、強い意志を滲ませて。

「じゃあね。バイバイ、悠斗」

 言葉は、それ自体はとてもはっきりとしているのに、掠れて消えてしまいそうな印象だった。透き通った至純。胸を切り裂く哀切。生々しい憎悪。きっとそういった、様々な感情を含んでいる。絵の具を混ぜたように幾重にも溶け合い、見るもの全てを魅了する感情を、描いている。

 彼女は艶やかに微笑み、最後に呟いた。

「大好きよ――」

 そこには、愛という感情も、含まれているのだろうか。仄かに囁かれたのは、それを是とも否とも断言できない複雑な声色で、思考の止まった僕の頭の中を、何度も何度も反響した。

 それっきり、悠那ちゃんは動かなかった。魂が抜け落ちたかのように力なく、脚からも、腰からも首からも、悠斗くんを抱く腕からさえも、何も感じない。

 おそらく一番近くにいた悠斗くんが、誰よりも早く察知したことだろう。ゆっくりと、けれども一度始まってしまったら収まらず、小刻みに彼は震え出す。怯えるようにカタカタと揺れ、油の切れたロボットのようにぎこちなく動いて。彼が悠那ちゃんを起こそうとして、肩を揺すっても、背を叩いても、しかし反応は一切なかった。

「悠那……。悠那っ! 起きてよ悠那!」

 僕らは悟る。彼女にはもう、何も届いていないのだと。

 悠斗くんは、忘れていた呼吸を取り戻すかのようにハァハァと肺を働かせ、突然に動揺を表しながら、悠那ちゃんへの呼びかけを繰り返した。そしてなおも返答がないとわかると、彼女をベッドに再び寝かせて、縋りながら名前を叫んだ。

「悠那っ! 起きて悠那! 目を覚ましてっ!!」

 悠那ちゃんはもう此処にはいない。此処には、つまりこの世界には、もういない。だから何度呼びかけても、返事は、あるはずがなかった。

「どうして……どうして俺を置いていくの、悠那。お願いだから、答えて……答えてよ!」

 語調は次第に激しくなるも、それはひたすらに虚しく響くばかりだった。

「悠那、待って! 俺も、一緒に……。ぁあ……あぁあああぁぁあああぁ――――!」

 今この場所で、僕らが彼にかけられる言葉なんて、いったい何があるだろう。慰めも同情も、彼の悲哀と慟哭を誘うだけだろう。

 僕らにできることは、千切れるような声を出して叫ぶ彼を、黙って見ていることだけだった。

 彼は、自身と悠那ちゃんを照らす薄青い月の光が、明るく白んだ陽の光に変わろうかというまで、ただただずっと泣き続けていた。そうやって泣きじゃくり、ベッドシーツに顔を擦り付け、悠那ちゃんの綺麗な寝顔を抱き寄せながら、声を詰まらせて涙を零した。

 耐え難い現実に直面し、最愛の人を失った彼は、いったい何を思うのだろう。そしてその最愛の人から、地獄のような現実での生を強いられた彼は、いったい何を感じるのだろう。きっと胸を貫かれるように、抉られるように辛いことだと、僕にはそれだけがわかった。

 悠那ちゃんは、悠斗くんに生きろと告げた。ともに死のうと誓った相手に、最後の最後で生きろと言い残し、一人で逝った。悠斗くんを自分のものだと言い、彼の唯一の存在になり、魂の片割れとも思わせるほどに愛させて、たった一人で逝ったのだ。

 彼女は、悠斗くんの全てだった。失うには、あまりに大切すぎる人だった。

 もうこの世界で、この時より先に、彼女の声を聞くことは出来ない。彼女の笑う顔も、見られない。

 そしてそれは、僕らにとっても同じことだ。

 悠斗くんの抱く深い絶望が、僕の心にも余波となって深く届く。不安が、恐怖が、胸をよぎる。

 以後悠斗くんは、そして僕らは、これから先悠那ちゃんのことを考える度に、彼女がもう自分と同じ世界にはいないことを実感し、思い知らされるのだろう。日々の中でそんな思いを抱いていくことだろう。

 わずかに明るくなりかけてきた部屋で、冷えた空気は次第に夏らしい本来の熱を取り戻していく。まるでさきほどまで、この場所が外界から切り離されていて、立った今、元の病室に戻ったみたいに。

 こうして僕らは、耽美で残酷な夜を終えて、光り輝く凄惨な暁を迎えた。ここにいる皆、悠那ちゃんの死から一時も目を離すことができず、ただ彼女を見つめたまま、それぞれ複雑に胸を痛めて、悲哀を照らす太陽の光を浴びていた。

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