三章   また、いつか

     1  二〇二四 長月―中



 僕は、焦茶色で重厚な雰囲気を放つドアを開ける。未だ残暑の厳しい街中を歩いてやってきた僕にとっては、その隙間から漏れ出す涼風は心地良かった。

「あれ、灯華さんは?」

 ここは、黄金色に染まり始めた、景色の良い昼下がりの落ち着いた部屋。高級感があってシックで整った、僕らの拠点だ。

 しかし僕の来訪と唐突な質問には、ここの主人でなく別の人が答える。

「出かけた」

 非常にそっけない回答。

 部屋の中を見渡しながら「そうなんだ」と僕は零した。

 気のなさそうな小さな声は、僕の死角であるソファーの後ろ側から聞こえてくる。回り込んでみると、そこにいるのは唯花だった。何やらノートパソコンで作業をしている。

 ただ、見たところソファーの上には誰も腰掛けてはいない。唯花はどうやら、ソファーを背もたれにして、床に座り込んでいるようだった。それも、かなり隅の方で。

 最初の一言以降、彼女は口を開かなかった。膝の上に置かれたパソコンのキーボードから発せられるカタカタという音だけが、淡々と部屋に響いている。

 いったいどうしたんだろう。何だかすごく、卑屈なオーラを感じる……。僕はそう思ったが、しかしそこには絶大な触れにくさを感じたので、露骨に避けておくことにした。

 代わりに、ごく普通の、他愛のない会話を試みようとする。

「床に座ると、服が汚れない?」

「………………」

 それでも、唯花は口を閉ざしたままだった。当然、聞こえてはいるのだろうが、反応を見せる様子はない。伏し目がちに黙々と作業を続ける彼女の顔には、長い睫毛の淡い影がかかり、つまらなそうにも、物憂げにも見えた。

 僕らの間に会話はなくなって、そっと辺りに落ちた沈黙が、少しばかり気まずい空気を強調する。僕としては、もう一度別の話題で話を振ることも考えたけれども、しかし彼女がそれを望んでいないのかもしれないとも感じ、どうするべきか迷っていた。

 窓の下の街並みから、夕方始めの忙しない様々な音がかすかに聞こえる。それを耳にしながら、まるで家具と同化したかのように僕が目を瞑って立っていると、とうとう隣の唯花はキーを叩くのを止め、溜息をついて問うのだった。

「……ねぇ、詞。あれから少しバタバタしたけど……悠斗くんのこと、何か聞いた?」

 彼女の述べた“あれから”というのは、始業式の二日前に行われたお葬式から、という意味だ。それはもちろん、織戸悠那ちゃんのためのもの。急だったせいもあり、ほぼ身内だけの本当に小規模な式が催され、そこでは親族の涙を多く目にした。

 その式に僕らが出向くことを許されたのは、佳佑くんが声をかけてくれたからだった。辛く大変な状況の中、彼は哀しみに堪えつつ、僕らにも気を遣ってくれたというわけである。

「うん。学校には、どうにか行っているみたいだよ。まだやっぱり……ぼーっとしていることや、悲しそうなときは、あるみたいだけど……」

 最近の僕らが気にかけているのは、他でもない悠斗くんのことだった。悠那ちゃんの死後、彼の様子にはのっぴきならないものがあり、ほんのわずかな時間でも目を離すには不安で仕方がないくらいだったのだ。

 あの日、病室で悠那ちゃんを看取ったとき、泣き叫んだまま担当の看護師さんが駆けつけるまで涙を流し続け、然るべき処置をして遺体を運び出す際も、彼は必死で縋りついて離れなかった。現実をまったく受け入れられず、この世の絶望という絶望の総体を眼前に見る表情で、凄絶な理不尽に抗い続けた。そしてその後も状態は逼迫したまま、何をしでかすかわからない危うさを纏いながら、始終泣いて、嘆き尽くした。傍から見ていて、とても痛々しい光景だった。

 それからしばらく涙の絶えない時間を過ごすと、しかしあるとき、今度はいきなりパタンと大人しくなって、まるで魂を失ってしまったかのように覇気のない目をしながら、彼はふらふらと元の生活に戻ったのだった。

「悠斗くんの様子は、まだとても安定したようには見えない。ころころと態度が変わって……きっと、自分でもどうしたらいいかわからないんだ。受け入れるしかない現実を、どうしても受け入れられないんだ。でも……それでも、悠斗くんが悠那ちゃんの後を追うことは、きっとないよ」

「……どうしてそう思うの?」

「彼は、悠那ちゃんの言うことを違えるような行為は、しない。だからどんなことがあっても、この先、悠斗くんが死のうとすることはないだろうって……そう、桂祐くんは言っていた」

 僕はあの件の直後、悠斗くんの自殺まで視野に入れて、彼を見ていたものだった。唯花もおそらくは、そう考えていたことだろう。常に彼の周りには誰かがいるようにして、見ていたというよりは、ほとんど見張っていたようなものだった。

「……そんなのわからないわよ。悠那ちゃんは、悠斗くんのことを嫌いだって言って死んだ。悠斗くんが一番辛い思いをするように、そういう言葉を残して、死ぬことを選んだ。あれじゃあ、悠斗くんがいつ後を追っても不思議じゃないわ」

 唯花は悠斗くんのことが心配なのか、元気のない低い声でそう言った。安心はできないと、言いたいようだった。確かに彼の現状は、まだ安心にはほど遠い。唯花の考えは至極普通だ。

 でも、僕は桂祐くんの言葉を聞いて、確かに大丈夫だろうと思えるようになっていた。その意見に強く納得し、間違いなく、想定した最も悲惨な事態だけにはならないだろうと信じられた。

 悠斗くんは、死なない。少なくとも 恣意的には。彼は今でも悠那ちゃんが好きで、だからこそ彼女の言葉を無視することは、できないはずだ。

 そう、信じられる。

 ゆえに最近の僕は、悠斗くんのことに関しては経過観察という判断を下し、定期的に桂祐くんからの話を聞くことでまず大きな問題はなさそうだと、落ち着くことができていた。

 こうして、少しだけ余裕のできた脳の容量で僕が次に考えたことは、悠那ちゃんのこと。そこに思考が行きつくのは、必然と言っても過言ではなかった。彼女の死。それについての、真実を探る解釈だ。

「悠斗くんは、大丈夫だよ。まだそうは見えないかもしれないけど、でもきっと大丈夫だ。彼は、悠那ちゃんが最後に残した言葉を、ちゃんと聞いたんだから。それにね、唯花。悠那ちゃんは、自ら死ぬことを選んだわけではなかったよ。あれは彼女の、天命の終わりだったんだ」

「最後の言葉って……『大好きよ』っていうやつ? でもあれは、悠斗くんを苦しめるための、自分を忘れされないための……そのための言葉でしょう。偽りの言葉じゃないの」

 唯花は僕の意見に賛同を示さない。窓の外を見続ける僕には、彼女の表情は見えないけれども、言葉の端々に少し悲しそうな様子が表れていた。悠斗くんへの感情移入が少しでもあるならば、その想いは鋭く胸を刺すことだろう。

 ただ、それでも僕は、視線を動かさずに答えを返す。彼女の望まぬ答えを。

「僕は、そうは思わないよ。彼女が残したあの最後の言葉は、本物だった」

「なら詞は、嫌いだっていう告白の方が、嘘だっていうの? あんなにも躊躇なく、吹っ切れたみたいに並べた、嫌悪と軽蔑の羅列の言葉が?」

 とても信じられないという顔で、唯花は僕を見る。

 僕は続けた。

「いや……きっとそれも、本当だったと思うよ。悠那ちゃんの抱いていた、悠斗くんへの嫉妬と憎悪。とても、演技には見えなかった」

「……言ってることが矛盾してるわ。詞の考えてること、全然わかんない」

「そうだね、矛盾してる。でもさ、相対する気持ちの、そのどちらもが本当だっていう心理も、真実だと思うんだ。そういうことってあるものだと思わない? 悠那ちゃんは、悠斗くんに嫉妬していた。自分はずっとベッドの上で寝ているばかりなのに、一方で双子の悠斗くんは、元気に外で生活している。そしてそれを、自分の目の前でつまらないと呟く。聞いていて、複雑な気持ちだっただろう」

「そうでしょう? だから長い間騙し続けて、殺してやろうと思ってたって、あの子は言ったわよね」

「うん。でも……彼女は最後、そうはしなかったじゃないか」

 僕と唯花の解釈は違う。きっと、考え方が違うからだ。

「それは……その方が悠斗くんが苦しむって、わかったからじゃないの」

 同意が得られないことに対する不満と混乱を、唯花はあまり隠そうとしなかった。当然のように思っていた悠那ちゃんの気持ちの理解。それが僕と異なることを、彼女は許せないようだ。

「いや、きっと悠那ちゃんの胸の中には、悠斗くんを愛する気持ちが大きく存在していたと思うんだ。憎む反面、けれど確かに愛していた。その気持ちが最後の最後に、彼女の結論を変えたんだよ。悠斗くんは生きるべきだ、死ぬにはまだ早い。そういう風に」

「……それは詞の想像でしょう?」

「想像だよ。本当のことは、彼女本人に聞かなければわからない。でも、僕と彼女は近しい思考を持っていたんだ。悠斗くんの死を、その意味を大切に考えた結果が、あんな死に際だったんじゃないかなって、僕は思ってる」

 話していると、自然と背筋がピンと伸びた。静かでも芯のある、凛とした声が紡げていると、自分でもわかった。彼女の想いに、何故だろうか、自信があったから。

 ただ、どんなにもっともらしい主張をしたところで、やはりそう、本当のことはわからないままだ。なぜなら、悠那ちゃんはその胸の内を明かすことなく、逝ってしまったのだから。ここで語る僕の想いは、悠那ちゃんの気持ちは……どこまでいっても決して想像の域を出ない。

 それでも僕の揺るがぬ口調のためだろうか、唯花は理解を示そうとしてくれたようだった。そういう見方もあるのだろうかと、思ってくれたようだった。

「結局は全部想像……か。悠那ちゃんは、本気で悠斗くんを殺すつもりだった。でも、そうしなかった。もし……もしも詞の言う通りなのだとしたら、最後にあの子の意志を変えたのは、詞なのよね……」

 そしてその納得にだって、本当のところ意味はない。わかっているのだ。僕も、唯花も。ここで何を話したところで、彼女が戻ることはないし、哀しみが癒えることはない。

「二人の想いが、悠那ちゃんと詞の想いが……私にはやっぱり、全然わからないわ……」

 唯花は珍しく自分の意見を曲げて、僕に賛同を示した。僕は彼女の同意よりも、その寂しげで消え入りそうな声の方が、よほど印象に残って気にかかってしまったけれど。

 再び静寂が訪れる。二人の間に微妙な距離を思わせつつ、これ以上の言葉は喉から先へ上がってこない。

 唯花はついに、話すでもなく作業をするでもなく、ぼーっとしながら苦い表情で唇をきつく閉ざしていた。そんな彼女の様子は、ドキッとするほどあまりに切なげで、照らす夕陽に溶けてしまいそうな儚さが、強く僕の胸を打つのだった。

 そのとき、入り口の方で扉の軋む音がする。シンとした部屋の中の、時間から切り離されたかのような静止を壊して、滑舌の良いはっきりとした声が聞こえてきた。

「留守番悪かったな、唯花。ただい……ま……?」

 しかし室内に漂う何とも言えない空気に感づいたのか、語尾には疑問と戸惑いが混ざる。

「なんだ二人とも……喧嘩か?」

 振り返るとそこに立っていたのは、ここの主人である灯華さんだった。姿勢良く、張りのある黒いスーツに身を包み、知的そうな眼鏡をかけている。

「……違いますよ。唯花と喧嘩なんて……そんな不毛なことしません」

「っはは。そうかそうか、ならば良かった。仲良くしてくれよ、いいコンビなんだからな」

 この場合、幸いと言うべきなのだろうか。どうなのだろうか。会話の続く見込みが一切なかったさきほどまでの微妙な状況は打破されたが、しかしこれはこれで水を差された感じがしないでもない。

 唯花は、これ見よがしに大きな溜息を一つついて、いかにも機嫌の悪そうな低音を出しながら立ち上がった。

「灯華、遅いわ。どこまでお昼食べに行ってたのよ。もう夕方よ」

「いや、済まないな。色々あって」

 灯華さんに悪びれる様子はない。

「……ふぅん。まあいいわ。はいこれ。報告書と回収物」

「ああ、そうか。今日はこれを渡しにきたのか」

 そこで二人が行ったのは、どうやら業務上のやり取りのようだった。二人がこういった会話をしているのを、僕はまだ数えるほどしか見たことがない。それもあってだろうか。僕はこの珍しげな光景に、ふと口を挟んでみたくなった。

「何ですか? それ」

「これか? これは君と唯花がこの間に解決した仕事の、その事後報告だよ」

 特に隠す様子もなく即座に答えは返ってきたものだったが、その内容から、さらに僕の疑問は増える。

「……解決した仕事?」

「そうだよ。例の、病院の女の子だったか? なぁ、唯花?」

 灯華さんの問いかけに対して、唯花は振り返りもせず、そそくさと元のポジションであるソファー裏に戻って座り直した。途中、ついでのように「そうね」と反応する。

「え……あれって解決だったの? だって、遺失者は悠斗くんの方だって……」

 しかしながら、解決とはいったいどういうことだろう。確かに一段落はしたものの、僕らの本来の目的である仕事については、てっきりまだ続くものだと思っていた。もちろん、悠斗くんのなくしものを、その心を見つけ出すまで。

「悠斗くんの遺失は、解消されたわ。見てなかったの?」

 対して唯花は、僕の予想とはまるで反対の返答を、次々と返してきた。僕の知らない間に、事は解決の瞬間を経ていたと言う。さっぱり、わからない。

「……見て……?」

「あの日、悠那ちゃんが最後、悠斗くんにキスをしたでしょう? あのときよ。あの瞬間に、悠斗くんの遺失は解消されたの」

 僕は唯花の告白に、驚きのあまり口を開きっぱなしにして、硬直してしまっていた。

「悠斗くんの心は、悠那ちゃんの中にあったわ。頭の隅で想像はしていたけれど、さすがにかなり特異なケースだったから、本当にそうだったってわかって私も驚いたけどね」

 唯花は構わず、つらつらと、淡々と、そして抑揚もなく僕の知らなかった顛末を語った。その様子は、解決を喜んでいる風でもなく、はたまたやり切ったという風でもなく、まるで手帳のメモでも読んでいるかのように無感情だった。

 僕は、僕にとっては驚愕の事実である話の内容を咀嚼し、飲み込むために理解を焦らせる。

「悠那ちゃんの、中に……そっか……」

「結末を知った今となっては、それも当然のように思えるわよね。あの二人の様子を振り返るとさ……。まぁ、そういうことよ」

 指摘されたキスの瞬間を思い出しても、解消の兆しあったかどうかまでは、僕にはわからない。それでも、悠斗くんの遺失の解消を、僕は喜ばしいことだと感じた。彼のなくした心が見つかって、良かったと思った。それならば彼の精神は落ち着いて、より危険は少なくなっていくだろう。彼はやはり大丈夫だ。悠那ちゃんへの想いと現実を、ちゃんと受け入れていけるはずだ。

 それなのに、唯花はやはり、あまり嬉しそうな様子ではなかった。僕への説明のあとも、晴れない表情をしながら、小声で呟く。

「まぁ、あれじゃあ、解決なんて言えたものではないけれどね……」

 そんな風に。

 疑問だが、これは聞いてもいいことだろうか。僕は悩んだ。

 しかしさきほどとは違って、沈黙などは訪れなかった。灯華さんがいたからだ。

「何にせよ、二人ともご苦労だったよ。今回もいい仕事だった。ところで、川澄くんはもう学校のはずだろう? 今日はやけに早いじゃないか」

 僕と唯花の会話を見ていて、気を遣ってくれたのだろうか。会話の収束を避けてくれる。ただこれも、意図的なのかそうでないのか、わからないものだが。

「ええ、その、ちょうど試験が終わったもので。今日は、買い物のついでに寄ったんです」

「なるほど。植物肥料とは、また意外な買い物だな」

「そうですね。例の子からもらい受けた鉢植があって。綺麗に咲いているので、真面目に世話をしようかと思いまして」

 不思議なことに、灯華さんはごく自然な世間話がとても絵になる。。僕の提げる荷物になんて、灯華さんが興味を示すとは思えないのに。それでも、まったくもって悪い気はしなかった。

 しかし、だ。

 一向に普段の快活さを取り戻さない唯花がいる。しばらくは触れない方がいいかな、なんて考えが頭に浮かんだが、そこで唐突に、灯華さんの選んだ話題と僕がした返答へ、思いがけず唯花が興味を示した。

「ねぁ……詞、それって……悠那ちゃんの病室に置いてあった、あの赤い花の鉢のことよね? もしかして、今も咲いているの?」

 まさか唯花が、この後に及んで僕と灯華さんのやり取りに入ってくるとは思わなかったものだが。しかも病室にあったこの鉢に、彼女が目聡く気づいていたことにも、ちょっと驚きだ。

「そ、そうだよ。最近できた新しい蕾も開いてきたし、小さいけど、濃い赤が映えていて、結構華やかなんだ」

「……蕾? ……開いてきた? どういうこと……?」

「どういうことって……何を言っているの、唯花。蕾が開くのは、当然のことじゃないか」

 さて、こんな空気は、本日何度目だろうか。またしても、僕らの当然の感覚がすれ違った。蕾は、花が咲く前の段階で、成長すれば開き始める。何と当たり前のことではないか。

 そう思う僕が不思議そうに首をかしげても、唯花は口を閉ざしたままだった。人差し指の腹を唇にあてがい、何かを必死で考えているようにも見える。

 そうしてやがて、彼女は言った。

「……詞、明日時間あるかしら」

 随分と急な問いかけだ。

「え、明日? そうだね、学校が終わってからなら――」

「それでいいわ。空けておいて」

 僕は「う、うん」と戸惑いがちに返す。半分くらいは気圧され流されたように、反射的なものだったけれど。いったい何事だろうか。

 すると唯花はすぐに立ち上がった。

「灯華、今回の件に関しては、もうそれで事後処理は終わりよね」

 早口で述べながら、扉の方へ歩いていく。

「私、今日はもう帰るわ」

 唯花は灯華さんの返答を待たずに勢いよく出ていき、僕らの別れの挨拶が彼女に届くことはなかった。

 遅れて扉がパタンと閉まる。残った僕と灯華さんは、無言で唯花の去ったあとを見つめ続けた。

「……なんか、最近の唯花……おかしくないですか?」

 二人だけになって僕は、ここぞとばかりに引っかかっていた唯花の様子について尋ねる。

 すると、大仰なワーキングチェアの動く音と共に、灯華さんは答えた。

「おかしいとは?」

「元気ないっていうか、妙にイライラしてるっていうか……」

「ふむ……そうだな。いや、まぁ、無理もないだろうが」

「ど、どうしてですか?」

 僕の中での唯花の印象は、快活で華やかな、明るい笑顔。横暴で身勝手で偉そうでも、いつも楽しそうに笑っていた。そんな凛とした、気高いトラブルメーカーだった。だからあんな風に余裕がなく、気が立っていて、落ち込んでいる唯花は初めて見る。たまに真剣な表情で静かになっても、元気がないなんてことはなかったのに……。

 初めて彼女が悠那ちゃんと出会ったときも、妙な様子になってはいたが、今はそれとも違う。本人の前では言いにくいけれど、あれでは当然、心配だ。

「この間の件だよ。結局のところ、病院の女の子は亡くなったそうじゃないか。それを気にしているのさ」

「でもあれは……仕方のないことで……」

「そうらしいな。だが、唯花はあれで、割と完璧主義だからな。今までの仕事でも、失敗らしい失敗はなかったものさ。だから、その子のことを、助けられなかったと思っているのかもしれない。助けられたはずなのに、自分のせいだって……そう、責任を感じているのかもしれない」

 完璧主義。言われて確かに、わからなくはない。あの唯花の性格なら。

 でも、唯花だって、神様ではないのだ。あの場合、悠那ちゃんの死は、誰の非でもなかった。どうにかすることなんて、できなかった。なぜならあれは、彼女が最後まで生きた、その結果だったのだから。

「ほどがありますよ……。そんな……いくら唯花でも、不可能なことは……あります」

「もちろんそうだ。実際のところ本件でも、唯花の働きとしてはあれで申し分なかったと、私は思う。しっかりと遺失は解消されたようだし、その証拠として報酬もここにある」

 灯華さんは、唯花の報告書を読んでいる。だから事後把握とはいえ、僕らと同様に話の顛末を知っているのだ。その上でこの人が唯花の働きを十分だと評価するのなら、たぶんその通りなのだろう。きっと唯花に落ち度はなかった。それなのに、あんなにも落ち込むなんて……。

「おそらく唯花はな、死というものが、とても苦手なんだと思うんだ。あの子はあからさまに、死を忌避している。自分の死だけでなく、周りの者たちの死でさえも、受け入れたくないと思っているんだ。死にゆく人は誰でも、自分の手で助けてやりたいと考えているところがある。元がお節介なのも高じてな」

 なんだかそれは、とても唯花らしいではないか。灯華さんが語る彼女の印象は、僕の抱くそれともよく重なった。今までの付き合いで、灯華さんも同じように感じていたみたいだ。

「あの子は昔、千三百年前だったか……両親の死を、そして兄弟や友人の死を、目の前で見たそうだ。他にもいくつもの死を見たそうだ。今よりも比にならないくらいに生きにくい時代だし、そこでの死はとてもありふれたものだっただろう。それでも当時は、何もできない自分を、そして何よりも死そのものを憎んだという。どこにでもある話だけれども、自分が死をなくしたのは、それがきっかけなのだろうと言っていたよ。もちろん真実は違うかもしれないが、唯花はそれくらい、死というものに嫌悪感を持っていたし、今もその傾向はあるのだろうね」

 灯華さんが語ったのは、唯花がまだ遺失者になる前の話のようだ。僕がまだ聞いたことのない、唯花の過去。遺失のきっかけ。

「そう、なんですか……初耳です」

「そうか、悪いな。本来なら、君もそのうち唯花から直接聞かせてもらえただろうが……君にならしてもいいかと、思ってしまった。それに私は、君には唯花を慰めてやってほしいと思っているんだよ。見たところ、唯花よりは元気のようだしな」

 暗い顔の僕に対し、カラリと笑って灯華さんは言った。

「僕が慰めても、全然駄目ですよ……きっと」

「そうか? 効果覿面だと思うのだが」

 本当にそう考えているのだろうか、灯華さんは。仮に僕が慰めたとして、その結果、唯花が強がることはあっても、素直に元気付けられるとは思えないのに。

「冗談は止めて下さい。またそうやって、僕のことからかって……」

 百歩譲って、叱咤や激励はできるとしても、慰めるなんて無理だろう。唯花の過去を知ってしまったなら、なおさら。

 だって僕は、唯花と同じようには、考えられない。

「いやいや、心外だな。傷付くじゃないか」

 灯華さんが、傷心の様子などまったく見せずに唇を尖らせた。

 それを見て僕は、唯花のように、大きな溜息でもついてやろうかと思った。

 けれども、やめておく。代わりに「それも冗談ですか」と毒づいて踵を返した。コーヒーメーカーの置いてある棚に向かい、カップ二つにアイスコーヒーを満たす。

「私は、そんなに君の信用を欠くほど、嘘をついた覚えはないんだがな……」

 砂糖もミルクも乗せずに僕がそれを届けると、そこには不満そうな、腑に落ちないといった様子の顔があった。

「ここだけの話、君と出会った頃の唯花は、それはもう上機嫌だったんだぞ? 君にはわからないかもしれないが、あの子は随分と浮かれていたんだ」

 灯華さんは、僕が自分の話に耳を貸さないのがお気に召さないらしい。

 確かに、出会った頃の唯花は、いつもパッと花が咲くような笑顔で、口うるさいくらい元気だった。その明るさが、僕にとって眩しかったのも事実だ。でも、浮かれているというほどだったのだろうか。そこまでには見えなかったけれど。

「最初は、助手ができたからかと思っていたんだが……どちらかと言えばむしろ、その助手が君だったことが、理由として大きかったみたいでな」

 言いながら灯華さんは、横に立つ僕を見る。コーヒーを少し口に含み、風味を確かめるようにして飲み込んでから、さらに続けた。

「君は、唯花に気に入られているんだよ」

 思いの外、真面目なトーンの言葉だった。まあ、からかっているかどうかはさておき、嘘でないことは良くわかる。けれども如何せん、嘘でないことがわかってしまうと、僕の心境としても変化が避けられないものだった。

「信じられません……」

 とりあえずはそうやって返答してみたが、しかし赤面は抑えられない。灯華さんに背を向けても、声にまで紅潮の気配が表れているのではないかと心配だった。

「信じてくれよ。いや、そうやって照れているということは、七割くらいは信じたか?」

 そしてやはりというか、ばれた。

 ああ、もう。唯花に気に入られてるなんて言われたら、どうしてもこれくらいの反応は出てしまうのに。

「僕をからかって、楽しいですか……」

「多少はな。だが、本当のことだよ。だから、君があの子を慰めてやれるなら、それが一番だと私は思う」

 振り返ると、机の上のカップはとっくに空になっていて、灯華さんは布を手に、眼鏡のレンズを拭いていた。

 僕を見上げたのちカップに視線を移す行為は、二杯目要求の意思表示だとわかる。

 それを受けて、僕は立ったまま自分の分のコーヒーを飲みほしたが、上がった体温と動揺のせいで、肝心の味はよくわからなかった。

 だが、動揺していたのは単に恥ずかしさのためだけではないと、このときの僕にはわかっていた。もちろん照れてしまっていたのは本当だし、思考のほとんどはそこに割かれていた。けれども心の隅の方では、ほんの少しの小さな不安が、どうしても消えないでいたのだった。

 僕が慰めても、やはり唯花は元気にはならないだろう。それ以前に、僕が上手な慰めの言葉をかけることから難がある。

 唯花の昔話からもわかるように、彼女は悠那ちゃんの死そのものを気にしているのだ。そしてその死については、僕と唯花で見解の相違がある。

 僕が慰めるにあたってその話題を避けることはたぶん無理だし、おそらくは今日最初に唯花と会ったときのように、じめっとした空気を生んでしまうだろう。容易に想像できることだった。

 複雑だ。そう思う。

 返す言葉がなくなって、僕は机上にある空のカップを拾い上げてからコーヒーの二杯目を注ぎにいく。

 再び戻ってから、さきほどまでの話題をまるっきり無視して会話を再開した。

「そういえば灯華さん、さっき報酬って言っていましたよね? 誰から、何をもらったんですか?」

「何だ何だ、あからさまに話をすり替えて」

「そりゃ、すり替えますよ……あんな話」

 あからさまでも何でもいい。率直に「もう別の話をしましょう」と言っても良かったくらいなのだから。

 灯華さんは「まぁいいか」と言って机の引き出しを開いた。

「これだよ。君には、まだ見せていなかったかな」

 現れたのは、手のひらサイズの黒い立方体。唯花が報告書と一緒に渡していたものだ。灯華さんはそれを、パカッと開いて僕に見せる。

「これって……悠那ちゃんと悠斗くんの、指輪じゃないですか」

 目の前には、見覚えのあるシンプルなデザインのリングが、二つあった。まるで新品のように輝いていて、地の銀に窓外からの黄金色の光が差し込み、どちらとも取れない中間色を跳ね返す。記憶に残るくすんだレトロチックな雰囲気は皆無で、収められた箱のせいもあり、とても安物には見えなかった。

 え……これが報酬って、はて、どういうことだろう?

「いつだったか、君とこうして二人で話していたときに、私たちの仕事に関して省いた説明があっただろう。それが、これだよ」

 その言葉を聞いて、ふと思い出す。僕がまだここに顔を出し始めて間もない頃、契約がどうとか、そういう話をされたことがあった。確かにあのときの灯華さんは、この仕事の素姓について一部言及を避けていたものだ。説明が難しいと言って誤魔化された。どうやらあの件に該当するのが、これらしい。

 とは言っても、僕にはただのペアリング以外の何物にも見えはしないのだが……。

「そんな不思議そうな顔をされると、教え甲斐があるものだな。これは、今はもうただの指輪ではないんだ。言うなれば、少々異質なマジックアイテム、といったところだ」

 ……へ……?

「マジック、アイテム……? 何ですか、それ」

「言葉通りの意味だよ。この世ならざる力を持つ、魔法の品さ。唯花によれば、欠損した器が再び満たされたときに、付随的に発現するものらしい」

 何を言っているのだろう、この人は。さすがに今のは聞き流せない。唯花と揃って変な人だということは、前々からわかってはいたけれど。

「また君は、信じていないな? 本当だぞ? 見境なく巷に出回れば、混乱は必至の代物だ」

 僕は疑問いっぱいの表情を浮かべ、怪訝そうに灯華さんを見た。それしかできない。本当本当って、何度も言えば僕が信じると思っているのだろうか。

「信頼性のレベルが違います。無理ですよ、そんなの信じろだなんて。現実的じゃないです」

 しかし灯華さんは、凝りもせず、そして嫌な顔もせずに話を続けた。フッと軽く笑ったあと、意外にも業務的で凛々しい顔つきになったのが、気になって仕方がなかった。

「さて、いつだったか……唯花の言葉を借りれば、君の日常はとっくに壊れてしまったはずだが?」

「うっ……」

「真の現実と、一人間が認識している現実が異なることは、よくあることだよ。君が知らないだけでな。これもそのうちの一つだよ。君や唯花のような遺失者が現れたとき、こうしたものが生まれる可能性があるんだ。だから私たちはそれを見つけ次第、解決し、回収するのさ。さながら失くしものの見つけ主が、拾得物から礼として一部をもらい受けるかのように。な? 面白いだろう?」

「え、はぁ……」

「どうしても信じられないのなら、自分で試すか?」

 僕の態度に変化がないことを察したのか、灯華さんは最後にそう付け加えると、こちらに向かって指輪を放った。

 僕は瞬間、慌ててしまう。大切そうな品を、あまりにもぞんざいに投げつけられたから。

「……この指輪には、どんな力があるんですか」

 僕は指輪を注意深く両手でキャッチし、手元に見る。そして、その指輪の代わりに、一つ質問を投げ返した。

「詳しくはわからん」

 けれども、得られた答えはあまりにあっさりとした、こんなものだった。「何ですか、それ……」と僕は零す。

 うーん……いまいち真剣に信じさせる気があるのかも怪しい。だけれども、相も変わらず、灯華さんの顔に冗談の色はなかった。

 ああ、気味が悪い。本当に。

「知らんものは知らんのだ。だが、これの持ち主たちは、恋する相手に心を差し出し、一方ではそれを奪うほどの強い想いを持っていたようだから……そうだな、意中の人を虜にできる程度の力は、あるかもしれないな」

 ………………。

 返す言葉はなかった。当然、信じてなんていない。気味が悪いだけで、信じてなんていない。それでも、もし、もしもそれが本当だとしたら、現実にそんなものが存在するのだとしたら……いや、うん、恐ろしいものだ。

 僕の日常は壊れた。さきほど灯華さんに、そしていつの日だったか、唯花にも言われた言葉が、脳で響く。それを考えてしまったら、この指輪を手に持っているだけで、じわじわと少しずつ不安になってくる。

 僕が固まっていると、こちらを見て灯華さんはまた、カラリと笑った。

「なに、ただの想像だぞ。想像」

 だだの想像。それでも、あくまで冗談だとは、最後まで言わなかった。

 あれもこれも、不確定な想像ばかり。でもその中の一つは、ときには真実と同義かもしれない。いやに気になる。信じてしまいそうになる。丸め込まれた気分がして、とても癪だ。

「それで、どうする? 使うか? 君になら譲っても構わんが」

 瞬間、不覚にも心臓がドキッと跳ねた。

「……え、遠慮しておきます」

 そんな僕を見て、灯華さんはニヤニヤしながらパソコンの電源を入れる。意地の悪い人だ。きっとこの人の中では、僕は今の話を信じたという結論になったことだろう。表情を見ればよくわかる。

 そしてそれっきり、灯華さんは仕事をし始めたのか、口を開かなくなった。

 僕は、またいつの間にか空になっているカップに三杯目のアイスコーヒーを注ぎつつ、ついでにそっと指輪を返却する。

 僕の日常と非日常。二つの絶妙に混ざり合ったこの部屋の中に、沈黙はゆっくりと溶け込んでいく。差し込むオレンジ色の光はだんだんと弱くなっていて、太陽の消える地平線が視界に映った。夜の入り口が、そこにあった。



     2  二〇二四 長月―中



 翌日になって放課後、僕は一人街を歩いていた。遊び歩いているわけではない。下校中なのだ。

 だがしかし、一概にまっすぐ家へと向かって歩いているわけでもなかった。

 実のところ、迷っているというのが正しい表現かもしれない。僕は、どこに行くべきなのか迷っていた。自宅か、事務所か、あるいは唯花の家か。

 僕と唯花は昨日、会う約束をしたはずだった。別に埋まる予定もないのだけれど、僕はそのために今日、放課後の予定を空けておいたのだ。

 それなのに唯花ときたら、姿を見せるわけでもなければ、一向に連絡も寄越さない。

 当然、既にこちらからのコンタクトは試みた。メールと電話を、それぞれ一回ずつ。どちらも不発だ。

 結局、業後にしばらく学校で待ったのち、こうして歩いているのが今というわけである。こうなると、次なる候補はやはり事務所か。

 そう考えた末、帰る方向とは重ならないが、仕方なしに僕はそこへ向かって進路を定めた。

 別に、唯花と会うのも、それがどこで何時でも構いやしないが。それでも、僕のメールや着信に対して、何らかの返事くらいはしてくれたっていいだろうに。

 まったく唯花は……そういうところは雑なんだから。あんなに何個も携帯を持っていても、これではまるで意味がないではないか。

 僕は、半分呆れながら足を進め、大通りへと出る。往来には人も車もそこそこ見られて、道沿いの店も活気に溢れていた。それらを平坦な気持ちでなんとなく眺めながら、ぼんやりと階段に差し掛かる。

 僕は歩道橋を上った。まだ新しく、自動車向けの案内板が複数設置されているくらい大きめのものだ。しかし、それでもこいつは、僕の知る限りなかなかに不憫な歩道橋なのだった。

 数十メートル付近には、横断歩道付きの交差点。もう少し歩けば、駅の地下通路まであるというなんとも絶妙な立地条件で、この歩道橋を利用する歩行者はほぼ皆無。それこそ、たまたま反対側に見つけた知り合いに声を掛けるくらいの状況がなければ、わざわざ階段まで上ってこれを渡る人はいないだろう。そんな難儀な存在である。

 けれども一方で、灯華さんの事務所に通う僕にとっては、非常に重要となる設置物と言えた。これは、紛うことなきそこへの最短ルートなのだ。ちなみに個人的な豆知識だが、この街での夕陽が綺麗に見られるスポットとしては、かなりのものと思われる。

 僕は、ゆっくりと階段の全ての段を上り切った。そうしてせっかくだからと、真横から照らす赤い太陽を見るために首を捻った。

 そのとき、視界の端に人影が映る。思わず視線は太陽から、その人影の方へと流れていく。

 目の前にいたのは唯花だった。腰上まである無骨な通路壁にもたれかかり、肩口まである短めの髪を風に揺らしながら、真下の通りを眺めていた。

 声をかけようとして僕が歩み寄ると、まるで彼女は最初から僕に気づいていたかのように、ゆっくりと身体の正面をこちらへ向けた。彼女の表情は、笑顔ではなかった。

「なんだ唯花。こんなところにいたんだ。僕のメール、見た?」

「………………」

 彼女からの返答はない。瞬きもせず、黙ってこちらを見据えている。

 僕はそれを妙に感じたが、やがて音もなく何かが取り出され、彼女の手元に現れる。それは、小さな赤花の鉢だった。よく見れば、見覚えのある形の花弁が、唯花の髪と同調して風に揺れている。

「あ、あれ……それって、僕のじゃないか。確か部屋に、置いてあったはず……」

 彼女の持つそれが何なのか、近づかずともすぐわかる。僕が悠那ちゃんからもらい受けた鉢だ。

 唯花は、そっと静かに口を開いた。

「……そう。詞の部屋にあった鉢植よ。さっき、取ってきたの」

「……どうして? いや、というか、どうやって?」

「普通に、詞の家に行って」

 クスリともしない無表情の唯花は、両手で鉢を持ちながら淡々と答えた。なおもさらに、そのまま続ける。

「ねえ詞。この花、桔梗の花っていうのよ。知ってた?」

「え? い、いや……知らなかったけど……」

「そっか。あのね、これは桔梗の花。旧暦の秋に咲く花なの」

「そう、なんだ」

「ええ。だからね……本当ならもうすぐ、一年の咲き時を終えるはずなのよ」

 旧暦の秋といえば、それは現在の夏とほぼ重なる。九月に入ってしばらく経つ今となっては、終わりの近い季節だった。

 つまりは、この花はもうすぐ枯れる。唯花はそう言いたいようだった。随分と唐突に、どうしたのだろう。

 彼女はいやに晴れない表情をしていた。

 もちろん僕も、花に季節があるのは知っている。どれもだいたい、時間には敏感な生き物たちだ。飽きるほど長く咲いているものなんてほとんどなく、満開を過ぎればすぐにでも散ってしまう。それはわかっているつもりだった。

「そっか。まぁ、花ってそういうものだよね。でも、僕はその鉢植、できるだけ長く育てようと思っているんだ。もうすぐ季節が終わるからって、まだ枯れちゃったわけでもないし……せっかく悠那ちゃんにもらったものだしさ」

 言ってしまえば、鉢植は悠那ちゃんの遺品のようなものだった。それに、仮に花が枯れてしまったとしても、それで終わりというものでもない。また来年にはきっと咲くのだろうし、世話をすることは無意味ではないはずだ。

 僕が言うと、しかし唯花はなぜか一瞬だけ、さらに表情を曇らせた。

「ええ、そうね。開きかけの蕾も、あることだしね」

「そうだよ。まだ全然、枯れたわけじゃ――」

 そうだ。なんたってあの悠那ちゃんから継いだものなのだ。大切にしたい。もうじき枯れてしまうとしても、まだ開きかけの蕾が残っているような段階で、世話を投げたすわけには――。

 ……あれ?

 思考をする頭は突如、得体の知れない違和感に、強く貫かれた。

「枯れたわけじゃ……ないし……」

 ちょっと待った。どうしてそこには、今から咲こうとする花があるのだろう。どうしてこの時期から、花開こうとする蕾が、あるのだろう。ふとそんな疑問がよぎって……何かが、おかしい気がした。

「詞、よく見て。この花を、よく見て」

 そして唯花の声が、僕を呼んだ。強い風が吹けば消えてしまいそうな、少し弱めの声だったが、それでも確かに僕へ届く。

「よく見て、詞。ここにあるわ。あなたの失くしもの――」

 彼女の言葉が、終えるかどうかの境だった。

 突然、僕の両眼に桔梗の紅が飛び込んできて、奇妙な感覚に襲われる。視界が、脳が、胸が、身体中が――湧き上がってきた何かに満たされて、いっぱいになって、眩暈がするほどの速度で神経が動いた。強すぎる光で麻痺したかのように目が機能しなくなり、立っているのもやっとなほどの衝撃が走った。

 けれどそれも、たったの一瞬、いや、数千分の一秒くらい。よろける身体を両の足でどうにか支えると、すぐに元いた世界が目に映る。

 そうしてまた、声が聞こえた。

「……どう? 見つかったかしら。あなたの、失くしていたものが」

 唯花の声だ。

 対して僕は、素早い回答ができないでいた。

「う……っ…………」

 僕が答えようとして前を向いたとき、一番最初に、光る唯花の手元が見えた。徐々に目線を引き上げていくと、既に彼女は次の言葉を紡ごうとしている。

「よかったわね。これであなたもまた、人並みに長生きができる。そして私も、任務完了ってところかしら」

 ぎこちない笑顔が、そこにはあった。

 僕はようやく、唯花を正面に見て話し出す。

「今の……僕の遺失が、解消されたのか……。いったい、どうやって」

「私はどうもしていないわ。強いて言うなら、見つけただけかしら。この花に、詞のなくした寿命が宿っているって思ったから。だってまるで、ずっとずっと咲いていそうな勢いだったじゃない? この花」

 あなたの寿命を得ていたからだわ。唯花は言った。

「でも僕……その花には、もっと前から出会っていたよ。なのに、どうして今になって……」

「失くしものっていうのはね……たとえすぐ近くにあったとしても、案外わからないものなのよ。失くした本人ならなおさらね。だから、そこにあるんだってわからないと、気づかないと……見えないのだわ。そんなものよ」

 気がつかないと、目には見えない。そこにあるんだってちゃんと見ないと、意識に上らない。失くしたと思っていたものが、意外にも自分のズボンのポケットにあったり、カバンの中に紛れていたり……そういうことは、確かにあるのかもしれない。それと同じだろうか。その場合、そこにあるかもしれないと思って探すまでは、やはり気づきにくいものだろう。

「その、じゃあ……唯花は、わざわざこのために……?」

 確かに、指摘されなければ気づかなかった。もし唯花が言ってくれなければ、失くしものを隣にして、僕はずっと失いっぱなしの状態だったかもしれない。

「別に、わざわざってこともないわ。詞の遺失も何とかしてあげる。そういう約束だったじゃない」

 唯花はそう言ってまた、わずかに固さの残る笑みを浮かべた。

「そ、そっか。そう、だったね。なるほど、昨日の今日で深刻そうに話すものだから、いったい何かと思ったけど……安心したよ」

「………………」

「よかった。ありがとう、唯花。これで僕は、余命数年ってことも、なくなったんだね」

 これで元通り。そう思うと、心に空いていた穴みたいなものが、少し塞がったような気持ちになった。

 唯花は唇を閉ざし黙しているけれども、僕としては素直に嬉しいと感じる。失くしたものが見つかって、本当に良かった。

 しかし、僕の礼の言葉に、唯花は反応を見せなかった。いつもなら、僕の想像の範疇の唯花ならば、 大仰で明るいコメントでも返してくれるはずなのに。それなのに、やはり最近の彼女はどうにも変だ。目を伏せて下を向き、恥ずかしそうにも不安そうにも見える様子で、か細い言葉を返してくる。

「それでも、何十年かしたら……やっぱり、死は訪れるんだけどね」

 一部は風の音や街の喧騒で上書かれ、僕には聞こえなかった。

 なぜ、最近の彼女はこんなにも覇気がなく、ぎこちないのだろう。目の前の唯花と僕の記憶の唯花が、どうしても重ならない。これほどまでに儚げな気配を彼女から感じるのは、初めてだ。ほんの一ヶ月ほど前の彼女の笑顔が恋しいとさえ、思えてしまう。

 僕が怪訝そうな顔で見ていると、彼女はわずかに目を逸らした。

「あ、あのね……詞。実はさ。私のしたかった話ってのは、本当はここからでさ……」

 夕陽が横薙ぎに差し、街を、僕らを、唯花の横顔を染める。

 僕の方ではない何処かに忙しく視線を移しながら、唯花はその手元で光を散らすあるものを差し出した。

「これ……何だかわかる?」

 彼女の両手に乗るそれは、溢れんばかりの生気を湛えた、美しい小さな花だった。さきほどまで携えられていた桔梗の鉢植はもうどこにもなくて、まるでそれにとって代ったかのように、装飾品のような花弁が輝いている。綺麗に形を整えられた、アクセサリーのようにも見える。

「……花……。僕の遺失から、現れたもの?」

 強い光に包まれた世界の中、目に映る何もかもが朱色に染まる今この場所で、その花だけは異彩を放ち、どんな色にも迎合しない紅を見せる。真紅の桔梗が浮かんでいる。

 灯華から、話は聞いているんだね。唯花は言いつつ、先を続けた。

「そうよ。これはあなたの失くしていた寿命の、その力を反映した、特別な花」

 ふと気づくと唯花は、もう視線を泳がせることは止めて、再び真っ直ぐに、僕の方を見据えていた。彼女の目はやはり、笑顔のそれではない。真面目な顔つきで堂々と正面を向いていて、しっかりと僕の姿が、彼女の黒く大きな瞳に映し出されているのだろうとわかった。

「私の話っていうのはね……これを、詞に使ってほしいっていうことなの」

 穏やかに、けれども力強く、凛と告げる。

「詞、この花の力を使って……私と同じ、永遠になろう」

 そうして紡がれた彼女の意志は、その想いは、僕の予想を遥かに超える突拍子もないものだった。当然、僕の脳では、その理解をすぐに行うことはできない。唯花の言葉が、強すぎるイメージを持って僕に押し寄せる。

「え……永遠……?」

「うん。この力を使えば、詞も私と同じように、永遠に生きられる。死なないでいられる。そういう力を、この花は持ってるの。そうやって、ずっと私と一緒にいましょう」

 永遠、と唯花は言う。僕だって、その単語の指し示す意味は、知っているつもりだった。しかしその実、真剣に考え出すと、とてもではないが口にするほど単純ではないのではないか。

 僕の思考は、動き出さないままだった。

「なんて、あはは……。いきなり過ぎて、意味わかんないか」

 固まった僕を前に、唯花は口だけで乾いた笑いを作った。

「ねぇ詞、大事な人と別れるのって、悲しいことよね。死んでしまうのって、辛いことなの」

 彼女はもう、目を逸らさない。意を決したようにして語り出す。

「私は今まで、長いこと生きてきた。もちろんその中にはたくさん関わった人たちがいて、みんな私にとって大事な人たちだったわ。でも、そういう人たちと、私はずっと一緒にはいられなかった。別れなくてはならなかった。だってその人たちはみんな、時がきたら死んでしまって……この世界を去っていったから」

 言葉が僕の胸の中に、静かな雪のように積り始めていくのがわかった。

 彼女の目がわずかに細くなる。何かに耐えている表情だ。

「ほら、私がたくさんの名前を名乗ってきたって話、前にしたじゃない? それってね、そういう別れの悲しみに、目を向けないようにするためなの。仲良くしていた人と別れるたびに名前を変えて、その人に呼ばれていた名前を二度と聞くことがないようにして、新しい自分に生まれ変わったような気持ちになって……そうやって、ずっと悲しみから目を背けてきたの。考えないようにしてきたんだ。忘れちゃったなんて言ってたのは、本当はただの強がりでさ。自分の最初の名前も、今までに捨ててきた名前も……ちゃんと全部、覚えてる」

 彼女の正面にある、小さな真紅の一輪花が揺れる。それを握る手に、さらに力がこもった。

「ここ最近は……といっても、二百年くらい前からだけど、あんまり他人と親しくなり過ぎるのも良くないかなって、そんな風にも思っていたくらいで……心の奥ではきっと、誰かと別れるのが、一人になるのが……寂しかったんだと思う」

 ずっと耐えてきたもの。ずっと見ないようにしてきたもの。そんな唯花の、途方もないほどに長い時間重ねられてきた、千三百年の悲しみ。当然、僕はその全てわかってあげることはできない。それでも彼女が、必死の想いでこんな告白をしてくれていることは伝わってきた。

 唯花の形のいい唇が、さらに先を語る。

「そんな人生の中で、今年の夏、私は詞に出会ったわ。実は最初から、一目見たときから、あなたがどんな存在かわかっていた。何を失くしているのか、どんな存在になれるのか。確証はなくても、確信はあった。あなたは私と同じように、永遠になれる存在だって、わかっていたの」

 初めからわかっていた。出会った当初、突然何の前触れもなく唯花が僕に話しかけてきたことを思うと、それは何となく納得できた。少しくらいは驚いたものだったが、僕は口を挟まずに聞き入った。

「詞と一緒に過ごし始めてから、すごく楽しかったわ。面白い人に出会えたって思ったし、詞は私にとても優しくしてくれた。しかも、しかもよ。今度はずっと一緒にいられるかもしれない人。初めて出会った、そんな可能性を秘めている人。そのせいか私ったら、ついつい気が緩んで、すごく甘えちゃった。思いっきりべったりしちゃったわ。詞の隣にいるとすごく安心している自分に、いつからか気が付いたの」

 柔らかい、とても穏やかで暖かな響きだった。

 その唯花の声に誘われて、僕もここ数か月の記憶を思い起こす。浮かんできたのは、この短い期間で僕が彼女に抱いた憧れ。そしていつも彼女の隣にいる僕の姿と、満開の笑顔で笑いかけてくれる彼女の姿だった。

 しかし今、目の前にいる彼女の表情に、記憶の中の笑顔は重ならない。語る声がわずかに震え出すのがわかった。

「でもね……悠斗くんと悠那ちゃんに出会って、二人のあんな姿を見せられて……あれ、すっごい不意打ちだったんだ。いきなり酔いが覚めたみたいに、詞に安心しきっていた自分が、ぐらぐらの足場の上でのうのうと笑っている自分が、とても浅はかに思えてしまった。また別れがやってくるかと思うと、とてもじゃないけど、今度はその悲しみをかわせる自信が持てなかった。だから私は、詞の永遠の可能性を早く確かなものにしたくなって、焦っていたの」

 そして私は、たどり着くことができた。痛々しい声で、唯花は紡ぐ。

「このままでは、あなたは確実に死んでしまうわ。たとえ遺失が解消されても、何十年かしたら、この世界からいなくなってしまう。それは、五十年先? 六十年先? もしかしたら、七十年先かしら? けれどそんなの、どれも同じよ。どれも、あっという間だわ。私はそんなの、絶対に嫌。だから詞には、私と同じ永遠になってほしいって、そう思うの。私はあなたと離れたくない。これから先、ずっとあなたの隣で生きてゆきたい。そうしてあなたともっと親しくなって、もしかしたら恋なんかしちゃったりして、好きになったりして……そうやって、詞を愛せるようになったらいいなって思うの。それにね、私の隣にいてくれたら、詞のこともきっと楽しませてあげられる。これって、互いのために最高の、文句ない話だと思うわ」

 彼女の目元には光が見えた。真横から差す太陽のオレンジを反射する、淡い光の玉。

「詞、あなたは私を唯花と呼ぶ。私はこの名前を失いたくない。これから先ずっとこの世界で、あなただけの唯花でいたい。永遠にその名で呼ばれていたいの」

 その訴えを僕は、理解し、全て飲み込もうとする。容量の少ない、硬直ばかりしてしまう情けない脳みそでも、今くらいはちゃんと動いてほしい。今こそ動かなくてどうする。

 彼女の視界は滲んでいるのかもしれなかった。しかしその両手が涙を拭うことはなく、視線は僕をまっすぐとらえている。僕の目には唯花が映っていて、その唯花の瞳の中には、やはり僕が映っていた。

 答えよう、彼女に。無理やりに神経を動かしてでも、答えなければならない。

 一呼吸、ゆっくりとおいて、僕は口を開く。

「……唯花の話を聞いて、僕も、わかったような気がするよ。唯花と出会ってから、僕の頭の中は、唯花でいっぱいだった。いつもいつも、唯花のことを、考えていた。いつからだろう。僕はとっくに、唯花のことを好いていたんだ」

 知っていた。気づいていなかったわけでも、無視していたわけでもない。ちょっとばかり恥ずかしくて、口にしたのはこれが初めてだけれど、その想いは心の底から肯定できる。

 僕は唯花が好きだ。

 けれども、僕の中にある好意の行き着く先は、彼女の提案とは少し違った。

「でも……ごめん。唯花の言う通りには、できないよ。僕は永遠にはなれない」

 唯花は瞬間、目を見開く。きっと反論など、予期していなかったのだろう。

「……どうして? 詞は私のこと、好きなんでしょう?だったら……」

「うん、好きだよ。そう、だからこそ僕はね、唯花の失くしたものを、見つけてあげたいと思うんだ。大切なものを探してあげたい。唯花が僕にしてくれたように、唯花の欠けた器を、元通りにしてあげたいんだ」

「ちょっと待って。私の失くしものは、これまで私が、長くずっと探してきているものなのよ。簡単に見つかるものじゃないわ」

「わかってる。それでも、協力したいんだよ。唯花は、自分の失くしたものを、取り戻すべきだ」

 自分の中の信念。正義感や使命感。そして唯花を想う気持ち。そんなものたちが、主張を強く形作る。僕は彼女に、あるべき姿を取り戻してほしいのだ。僕はそう告げた。

「何よ、それ……。そんなのわかってるわよ。けど、それはすぐには無理なの。だから――」

 カツン、と一歩踏み出す彼女の足音が、歩道橋を介して僕の身体に伝わる。

「あのね、唯花はきっと無意識のうちに、今も死から逃げているんだよ。失くしたものは取り戻さなきゃいけない。それが正しいと口では言うけれど、きっと本心ではないんだ」

 それは僕が唯花と出会ってから一緒に過ごした中で、彼女に感じた印象だった。死を嫌い、それを失くした彼女は、今もなお、いずれ訪れるべき終わりを受け入れられないでいる。

「そんなことないわよ。失くしたものを、取り戻したくないわけがない。いつか見つけなきゃならないって、ちゃんとわかってる」

「だったら探そう。いつかじゃなくて、今から探すんだ。僕も唯花と同じ存在でいたい。でもそれなら永遠じゃなくて、小さな一人の人間として。死という運命から逃れられず、それを大切に考えて歩む、そんな人間として一緒に生きたいと思うよ。人間は皆、死ぬ。誰もが終わりの約束された人生を送っている。そしてだからこそ、そこに意味があるんだって僕は考える。その方がきっと幸せだ。だから唯花もそうなるように、僕は力になりたいんだ」

 唯花は戸惑うような表情を浮かべ、わずかな沈黙を経てやがて尋ねた。

「……死んでしまうのに、幸せなの? いつか別れてしまうのに、それが幸せなの? 違うわよ、詞。私たちは、お互い傍にいれば、それで幸せなんだから、その方が幸せなんだから、それでいいじゃない。そう……思わない?」

 そうじゃない。そうじゃないんだよ、唯花。それはきっと、正しくない。掠れた苦しそうな声が僕の胸に刺さるけれど、一方で唯花への賛同を感じることはなかった。

 照らす夕焼けを見ていると、それは何となく、唯花との初めてのデートを思い起こさせる。あの日、僕は、今と同じ燃えるような赤い世界の中で、唯花の秘密を知ったのだ。そして、そこで何と感じたのだったろう?

 枯れない花は夢みたいだと、唯花は言った。でも僕は、それが本当に美しく幸せなのか、疑問に感じた。

 きっとそのときから、僕の中の答えは、もう出ていたのだ。

「唯花……たとえばさ。花は、綺麗だよね。それが、遠くない未来に必ず枯れるとわかっていても、美しいと思うよね。そういう美しさはやっぱり、作りものとは違う。僕は作りものよりも、咲いている花の方が、綺麗だって感じるんだ。やがて散るとしても、それでもいい。だからこそいい。きっとまた、繰り返し咲いて、本物の輝きを放つ」

 以前に唯花が話した例えだ。意味はわかってくれただろう。

「枯れてしまうから、散ってしまうからこそ……だからこそ、本物の方が綺麗なんだって……詞が言いたいのは……そういう、こと?」

 僕は静かに頷いた。「そうだよ」と。彼女の受け取った解釈を、黙って静かに肯定した。

「そう……残念だわ……。詞なら、わかってくれると思ったのに。詞となら、ずっとずっと一緒にいたいって、思ったのにな」

 すると唯花は、悲しみを湛えた表情のまま、くるりと回って僕に背を見せ、名残惜しそうに夕陽を見る。

「あなたのこと、もっとよく知りたかったのに……。詞のこと……愛せるようになりたかったのにな……」

 抑揚のない、落ち着いた、囁くような言葉が届く。凛として、まっすぐに伸びた背筋が美しい。告げながら、少しだけ見えるその横顔は、頬が一筋光っていて、僕の惚れていた笑顔の唯花とは違うけれど、吸い込まれてしまうくらいに魅力的だった。

 僕は彼女の想いに、目一杯の気持ちで答える。

「僕も唯花のこと、もっとよく知りたい。僕は今、唯花のことを愛しているよ」

「そっか……そうなんだね。うん……ありがとう、詞……」

 そうして最後に僕の名を呼ぶと、唯花はさっと、元きた道を歩き出したのだった。

 僕は追いかけたい衝動に駆られたが、でも今はやめておこう、そう思ってこらえる。代わりに一つの提案をした。

「そうだ、あのさ唯花。もしよかったら、今度、都合にいいときにでもまた、二人で出かけようよ。デートをしようよ。探しものも兼ねて、さ」

 彼女は立ち止まる。でも、振り返りはしなかった。

「……そうね。デート、いい考えね。またいつか、二人で行きましょう」

 それだけを答え、また、歩いてゆく。階段に差し掛かり、下り、離れていく。

 遠ざかるたび、距離に比例して足音は聞こえにくくなり、かわりに僕の耳に届くのは、無機質な喧騒だけになった。

 僕は彼女を見つめ続ける。

 やがて、もう声も聞こえないような、人に紛れる寸前になって、彼女は振り向いて唇を動かす。わずかに震えていたようにさえ見えたその唇は、ゆっくりと優しく、きっとこんな言葉を告げていたのだとわかった。

「また……いつかね」



     3  二〇二四 長月―末



 いつ頃からだろうか。厳しかった夏の残暑は、ある日を境にパタリと止んだ。

 そしておそらく今頃は、この街の誰もが感じていることだろう。秋がきたのだと。あの華やかで騒がしかった夏という季節は、もう去ってしまったのだと。

 終わってしまうと、途端に名残惜しい気がしてならないものだった。

 そんなことを思いつつ僕は、街の中心街の一角にある、お洒落なカフェの扉を開いた。初めて訪れる場所だった。

 カランカランと高く鳴るドアベルの音と同時に、清潔そうな身なりのウェイトレスさんが僕を出迎える。

「いらっしゃいませ。お一人様でございますか?」

「い、いえ、知り合いがいると思うのですが……」

「では失礼ですが、その方のお名前を、お教え頂けますか?」

 僕は変に緊張しながら名前を答えた。「音瀬です」と。

 そうしてすぐに通された窓際の席には、既にコーヒーが二人分用意されていた。どちらのカップからも、湯気が立ち昇っている。

「こんにちは、灯華さん」

「おー、そろそろくる頃だと思っていたよ」

「窓から見えましたか」

「なんだ、ばれていたか。まあ、とりあえず飲め。今日は私の奢りだよ」

 口に含んだコーヒーは、舌の上で溶けるように広がった。ほのかな苦みが心地良い。店の雰囲気のせいもあるのだろうか、それは一味も二味も違うように思える。

 この場所から見えるガラス越しの街並みは、悪くなかった。

「珍しいですね、今日は」

 灯華さんはいつも通りのスーツ姿に眼鏡といった、知的雰囲気満載なオフィスレディスタイルだ。

「私の奢りがか?」

 そして、話す調子もやはりいつも通りだ。

「違いますよ。こんな場所で会うことが、珍しいですねって意味です」

「ああ。最近見つけたんだよ、ここは。いい店だろう?」

 軽く微笑んで、こちらを見る。

 「そうですね」と僕は返事をした。

 この辺りは事務所からも遠いし、灯華さんが訪ねそうなオフィス街とは違って、レジャーやショッピングを楽しむ場といった感じの区画なのだけれど、いったいどんなきっかけで見つけたのだろう。まぁ、それに関しては、僕の知る由もないのだけれど。

「たまには趣向を変えてみようと思ってな。いつもいつも事務所やその下の喫茶店では、飽きるだろう」

「僕は別に……どこでも構いませんけど。それより、話があるんじゃないんですか?」

「おっと、そうだそうだ。コーヒーが旨くて、つい忘れてしまったよ」

 そう言いながら灯華さんは、傍のハンドバッグを開いて中を探った。何やら見覚えのある茶封筒と、一枚の白い紙を取り出す。

「よし。君との雑談も割と好きだが、今日のところは直接本題に入るとするか」

「何ですか? これ」

「こっちは給与で、これは契約書みたいなものだ」

 契約書という響きに、僕は少しだけ緊張を感じた。背筋が、ピンと張る。

 すぐに微笑みとともに説明が続いた。

「と言っても、なに、そんなに大層なものじゃない。印も署名も必要ないよ。ただ、業務の内容が少々変わるからね。そのことについて書いてあるんだ。暇なときにでも目を通しておいてくれ」

 業務内容の変更。灯華さんの言葉に、僕はいささか心当たりを覚えた。

「あの……それって、具体的には?」

「ん? 気になるか? まぁ、そこに書いてあるんだが、要は行政関係の雑務等を受ける、私が本来主としていた仕事に戻るということだ。とりあえず差し当たっては、君は私の助手ということになる。便宜上な」

 薄々感じてはいた。こういう事態にも、なり得るだろうと。ここ数日で起こった一つの変化に、引きずられるようにして。

「それはつまり……唯花が、いなくなったからですか……?」

 数日前から、既にわかっていたことだった。いつ部屋を訪ねても不在ばかりになったし、電話やメールも繋がらなくなった。特に後者に関しては、唯花が反応しないという意味ではない。本当に繋がらなくなったのだ。この番号は現在使われておりません。このアドレスにはメールが送信できません。そういった音声や返信を、最後に唯花と別れた日から、僕は何度も受け取っていた。

「そうだよ。唯花がいなくては、前のようなことはもうできないからな」

 灯華さんは、とても冷静に答えた。

「あの……唯花から、何か聞きましたか?」

「留守電をもらったよ。今までありがとう、だとさ」

 何らかの感情を押し殺しているという様子はまったくなく、普段のように穏やかな表情だった。随分とドライな対応だ。

「それだけ……ですか……?」

 僕は恐る恐る答えを待った。

「それだけだよ」

 それを聞いて、無性に悲しい気持ちになる。

「あの……申し訳ありません……」

 意図するところもなく、ただただ、謝罪の言葉が口をついた。

 それでも、灯華さんは相変わらずだった。

「なぜ謝る? 君が謝ることじゃあないよ。遅かれ早かれ、こうなることはわかっていたんだ」

「でも……」

「気にするなとは言わん。だが、そう暗くなられても困るよ。これからあの事務所での私の話し相手は、君だけなのだからな」

 話し相手、か。確かに、一般的な雑用しかできない僕には、灯華さんの期待に沿えるところとして、その程度だ。

 ただ、そういった認識も、悪い気はしない。どちらかと言えば、灯華さんの大らかな明るい表情の方が、僕の胸には引っかかってしまったくらいだ。その優しそうで華やかな笑顔が、僕には、よくわからない。

「寂しくないのか、とでも問いたげだな」

 こちらの表情を見てか、灯華さんはそう言った。

 図星だ。僕は、ばつが悪そうにしながら答える。

「そう、ですね……。すみません。あんまりそういう風に、見えないものでしたから……」

「私はまぁ、こういう性格でな。ただ欲を言えば、もう少し長いこと一緒にやっていたかったというのはある。良い縁だったからな」

「………………」

「けれど、唯花は十分やってくれたよ。あの子にとっては、豪華な部屋も報酬も、大した価値などなかっただろうに」

 言われてみれば、唯花はお金とかそういうものには、あまり関心がなさそうだった。だから僕が思うに、唯花が灯華さんに求めていたものは、即物的な見返りなどではなく、居場所そのものだったのだろう。そう感じたのだ。

 だとしたら、やはり二人の関係は、ある程度強固なものであったはずなのに。

 灯華さんは性格と言ったが、こんな風に別れを受け入れるのは、僕にはまだ真似できそうになかった。

「それにな。一口に寂しさといっても色々だぞ。君は特に唯花と親しくしていたから、人一倍辛いだろうさ」

「……そんなの、灯華さんだって同じのはずですよ。灯華さんだって、唯花ととても親しかった。僕よりも、ずっと長く、一緒にいたのに」

「恋心と比べるなよ。もちろん私もあの子のことを好いていたが、君の気持ちには敵わない。そういった感情には、一緒にいた時間の長さなんて、関係ないのだと思うよ」

 こんな風に言われても、今日ばかりは否定する気にはならなかった。なれなかった。いい加減、もうわかっているのだ。僕は唯花が好きだった。それはもう、思いっきり惚れていたんだ。

「ばれて、いましたか……」

 それを心に思うと、痛い。

「隠していたつもりだったのか?」

「あはは……どうですかね……」

 隠し事は苦手な方ではないつもりだったけれど、この件に関しては、大いに怪しいものだった。今にして自分でも、そう思う。相手は灯華さんだし……それに、僕の抱いた唯花への好意は、おそらくは僕の人生で、一番のものだったはずだから。隠すには、少々大き過ぎたとも考えられる。

 ふと外に目をやれば、この辺りで唯花と遊んだことも、思い出しそうだ。明確なデート以外でも、結構色んなところに行ったから。

 僕はぬるくなりかけたコーヒーに口をつけ、呼吸を落ち着けてから、また話し出した。

「唯花に……ずっと一緒に生きようって、言われました」

「うん、そうか」

 唯花の気持ちにも、灯華さんは何となく気づいていたかもしれない。当然のように、短く頷いた。

「僕を、好きになっていきたかったって、言ってくれたんです」

「うん」

「すごく、嬉しかったんです」

「よかったじゃないか」

 よかった。嬉しかった。当たり前だ。僕は唯花が好きで、唯花も僕を求めてくれて、こんなに胸が踊るようなこと、この世界で生きていて、そうそうない。

 それでも、互いを欲する僕らの気持ちは、似ているようで、少しだけ違った。同じように見えて、異なった解釈が含まれていた。

 そして結局は、それが僕らを別ったのだ。

「でも……唯花の望んだずっとっていうのは、本当に“ずっと”で。それは、永遠っていう意味で……。そんな存在になろうって、唯花は言ったんです」

「なるほどな。そういえば唯花は、君の遺失から得たものだけ、そのまま持って行ったんだったよ。確かにそれを使えば、君の言うようなこともできたかもな」

「けれど僕の望みは、そうじゃなかったんです。僕は唯花と二人で、同じ今を、流れる時間の中を、歩いて行きたかったんです」

 そうやって、唯花と二人で生きたかったのだ。そう感じていた。譲れなかった。

「でも、わかってはもらえませんでした」

 違ったのは、それだけだったのに。それ以外の僕らの気持ちは、ぴったりと重なり合っていたのに。それなのに、僕と唯花は今、違う時の中を、違う場所で過ごしている。

「あの子はな……長いこと生きている割には、その心はなり相応だったように思うんだ。言動も思考も、君と似たような年の頃のそれだった。もしかしたらあの子の心の時間は、身体と同じように、止まってしまっていたのかもしれないな」

 カチャン、と茶器の鳴る音がする。灯華さんはカップから手を離し、両の指を組んで僕の方を向いた。そうして、暖かく目を細めて話す。

「いつか、あの子もわかるときがくると思うよ」

 僕を見ながら、そしてなおかつ遠くを見る目だ。まるで、もう遠くにいる彼女を、見ているように。

「いつか……そうですね」

 “いつか”。それは、曖昧で身勝手で、苦くて、魅かれる。そんな言葉だ。彼女も最後に、それを残した。その言葉を、声を、思い出す。

「僕、唯花をデートに誘ったんです」

「ほう」

 それを聞くと、灯華さんは微笑んだ。

「そうしたら笑って、またいつか行こうって、言ってくれました」

「そうか。今すぐでないのは残念なところだが……でも、よかったな。行けるといいな。デート」

 そう、行けるといい。また、いつか。

 そうしたら、僕の知らない唯花が、まだまだいっぱい見られるだろう。新しい唯花に、出会えるだろう。そこではたとえば、またも唯花の下らない趣味を知って、どうでもいい知識をひけらかされて。あるいは行く場所に揉めながら迷ったり、買うものや食べるものを何時間も悩んだり。そういうことも、あるのだろう。

 きっと、何よりも大切な時間。決して永遠に続くことはない、いつの日か終わりがくる、愛おしい時間。

 終わりがあるからこそ、そんな時間には価値があるのだ。そして、終わってしまったそのときにも、出会ったことを決して後悔などしないだろう。

 唯花も、それをわかってくれるようになったら、きっといつかまた行ける。

 今だって、僕は思っている。唯花に出会えて良かった、と。

 僕の心に空いていた穴を、唯花はちゃんと埋めてくれた。忘れられない想いをくれたのだ。あの眩しすぎる存在を、僕は最後まで忘れない。最後まで、この生を精一杯駆け抜ける。そうやって最後には、やはりまた思い出すだろう。

 僕がこの世界から旅立つとき、死ぬときにはきっと、唯花のことを思い出すよ。

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