一章   名のない花

     1  二〇二四 水無月―末



 今日は、朝から雨が降っていた。夕暮れ時に映えるはずの太陽も、あの厚くて黒々とした雲たちを貫くほどの光を放つ気はないらしい。時計の短針が午後四時過ぎを示す今頃になってすら、外界の様子に変化はなかった。

 それもそのはず。最近はどの放送局の天気予報を見ても、雨、雨、雨のオンパレード。画面には賑やかな傘マークが、所狭しと並んでいるのだ。閉じた傘、開いた傘、水滴に濡れた傘、他にもたくさん。もう放送局が持っている傘マークの種類に知らないものはないのではないかと思うくらい、僕らの地方の人間は、強弱様々に雨という天気を網羅していた。これも、梅雨時の宿命と言えばそれまでなのだが。

 そんな空模様に辟易しつつも、僕は出先の病院から家までの道に踏み出そうとする。そんなところだった。

「あ……傘……」

 そこで僕は、思わず呟く。理由は簡単。傘を、なくしてしまったのだ。

 けれども、それは決して僕の落ち度ではない。僕は施設内に入る際、きちんと入り口の傘立てに閉じて立てかけたし、その場所も傘の特徴も、この頭に入っているのだ。

 だとすれば答えは一つ。簡単だろう。

 盗まれたのだ。

 ただそれも、使い古されてくたびれたコンビニのビニール傘では、相手の抱く罪悪感なんて知れたものだろう。そして僕には、同じように他人のビニール傘を拝借する度胸がない。

 とにかくこれで僕は、この止む気配のない降り続く雨の中を、何の装備もなしに帰る羽目になってしまったのだった。

 どうしたものか、と悩み果てる。

 結局のところ、止む気配がないと自分でわかっていながら、院外に設置された休憩所で雨宿りをしようとする。そんな行為が、濡れて帰る覚悟のなさを露呈している気にもなった。

 迎えを呼ぶという選択肢もなしだ。濡れて帰る気力ならまだしも、誰かと話す気力の方が皆無だからだ。今は全然、気分ではない。

 考えてみれば、今の僕はないない尽くしだった。

 そうして降る雨粒の音を数えるうちに、いつの間にか眠ってしまっていたようだった。それはもう、気付いたら時間が経っていたという感覚であって、まったくうたた寝をしてしまったというつもりはなかったのだけれど、再び目を開いたそのときには、景色は既に一変していた。

 具体的には何が変わったかというと、まずは辺りが暗くなった。どのくらい寝入っていたのか検討もつかないが、次第に街の活気が消えていく雰囲気を察知できた。病院の入り口も、両開きのドアの片方が施錠されている。

 そしてさらに変わったことといえば、雨宿り仲間が増えたことだった。目を覚ました瞬間から隣に人の気配を感じ、その人が話しかけてさえきたものだから、誰かが傍にいることはすぐにわかった。

「あら、おはよう。随分長いお昼寝だったわね」

 女性の声だ。僕はその声に息を飲み、跳ねるように覚醒したが、とりあえずは返事をするべきだと思って口を開いた。

「お……おはようございます。でもどちらかというと、こんばんはって感じですけど」

 眠ったら気力が回復したのか、人と会話をすることへの脱力感は、思うよりは少なかった。それに、相手の姿を視界にとらえた際の驚きで、些細なことは気にならなかったというのが、また一つの事実であった。

 彼女は着物姿だったのだ。この暑くてじめついた季節の中、わざわざ病院を訪れるのに着物姿だなんて、風情を通り越して奇怪でしかないと思うが。

「そうね。こんばんはの方が、適切かもね。それよりもあなた、ここで誰かを待っているの?見たところ、ずっとここにいるようだけれど」

 紡がれる言葉には、なぜだか妙な親近感が感じ取れた。

 僕と同年か、わずかに上でしかないくらいの容姿。肩まで流れるセミロングの黒髪を束ねず流し、それをとても作り物には見えない一輪の花のかんざしで彩った優雅な姿だ。周囲との釣り合いのなさや、そぐわなさに気を取られがちになるが、外見の美しさという点では、大抵のものには引けを取らないだろう。そんな印象を受けた。

「雨が……止むのを待っていました。そうしたら、知らないうちに寝てしまったみたいで」

「そう。でもね、もしかしたら余計なことかもしれないけれど、今日の雨は止まないと思うわよ。このまま明け方まで降り続くわ」

「そうですね……。僕も、何となく止まない気もしていたんです。梅雨ですし」

「毎年毎年、この時期の雨は止まないものね。今日は休日だもの。お天道様もお休みなのよ」

 語る口調から、その天気に対しての嫌悪は感じられなかった。繰り返すが、彼女は着物姿だ。そんな格好をして外出しているのであれば、雨は歓迎できない天気のように思うのだが……。しかしまあ、この雨は朝からずっと降っているのだから、彼女なりにそれに合わせた服装をした結果がこれなのかもしれない。無理やりそう考えることもできる。

「せっかくの休日も、通院で潰れてしまっては寂しいものです。ところで、僕がずっとここにいると知っているあなたの方も、相当長居をしているみたいですけど」

「私はさっきここへきたのよ。夕方から続いた野暮用が、ようやく終わったものだから」

 なるほど。僕が眠りこけている姿を、彼女は病院を訪れたときから見ているのだ。そして今になって外の休憩所にやってきたらしい。

「お見舞いですか。優しいですね」

「そんなんじゃないわよ、野暮用だもの。どちらかと言えば、お仕事かな。ここへくるのは、だいたいお仕事」

 こちらに関しても、まったく辟易する感じはない。休日まで仕事をして、それに不平一つないとは、とても殊勝なものだと思った。

「それで、あなたの方はどうしてここへ? 患者さんには見えないから、あなたこそ誰かのお見舞いなのかしら?」

 彼女は気さくな笑顔で僕との話を続けようとする。

 対して僕の方が、その笑顔の一割分の笑みも作れないことについては、何だか少し申し訳ない気持ちになった。

「そうだったら……いいですよね。でも実は、今日は僕が医者にかかりにきました。といっても軽いカウンセリングで、今日が初診だったんですけど」

「あらあら、どこか具合が悪いのかしら? とてもそんな必要があるようには見えないけれど」

 そんなことを言われても、それは回答に困る質問だった。おそらくはきっと、僕の何処かには間違いなく欠陥があるのだろうが、それが何なのかは僕には答えられないからだ。わかれば、わざわざここへはこない。

 だから僕は、そんな問いかけを誤魔化す意図も含め、会話の方向を変えることにした。

「あなた、面白いですね。こんな……見るからにつまらない話しかできなさそうな僕に声をかけて、そのまま話し込んでいるんですから」

 彼女は問題なく、こちらの用意した話に乗ってきてくれる。

「つまらないかしら? そんなことないわ。あなたはとても魅力的よ。あなたのこと、もっと聞きたいわ。良ければ聞かせてくれないかしら?」

「いいですけど……きっと面白くも何ともないですよ」

 初対面の人間とこんなにも距離の近い接し方をするなんて、僕には滅多にないことだった。あるいはもしかしたら、僕の感じている親近感のようなものを、彼女も感じているのではないだろうかと思うくらいだ。そう思うほどに、両者の間に漂う空気は穏やかで、共感や同調性に満たされている。

「少し前からなんです。僕ちょっと、慢性的に気分が沈んで、気怠いんです。小さなことがすぐに不安に繋がってしまって、無闇にそわそわして、落ち着かなくて……。まるで、そう。何か大事なものを失くしてしまって、それを忘れているような気持ちになって……胸に穴が空いたような気分が、消えないんです。実際は、何も失くしてなんていないと思うんですけど……」

「ふぅん。何かを失くしてしまったなら、やっぱり探すのがいいんじゃない? 自覚がないと、何かを失くしているのかどうかわからないけれど、あなたが何かの遺失を感じるなら、それはきっと正しい感覚だと思うから。自分の感覚は大事にするべきよ」

「そう、ですかね。じゃあ僕は、いったい何を失くしたんだろう。おかしなほど確かな喪失感が、胸の中から消えません。変な病気だったらとか思うと、また少し不安で、あんまり考えすぎて、明日いきなり死んじゃったりしたらどうしようとか思ったりして。まあ、そんなんだから母が、知り合いの医者に診てもらえと言ったんですけど……。死ぬって、どんなことなんでしょうね」

 不安なこと、考えると止まらない。死ぬとか。死んだらどうなるとか。じゃあ死ぬって何だとか。そんな哲学的なこと、どこまでも矮小な人間一人という存在に、僕という存在に、わかるわけがないのに。

 それでもひたすらに考え続けるのは、空いてしまった穴を見ないように、意識しないように、頭の中を何かで埋め尽くしておかなければならないからだろう。日々何かを考えようとして、けれどついに考えることもなくなって、こんなおかしなことを、きりのないことを考えようとしたのだ。

「気が滅入ったときは、そういうことを考えてしまうのかもしれないわ。不安なのは仕方がない。でも、大丈夫だから、元気を出して。死ぬなんて、考えちゃだめよ。人はそんな簡単に死んだりしない。死ぬべきじゃない。生きていれば、生きようとすれば、景色も変わるわ。難しいことを考える必要なんてないの。生きようとすれば、この世界はとても快適よ」

 呟く僕を見て彼女は、励ましてくれる。元気づけようとしてくれたみたいだった。何かを考えようとして、難しいことをぐるぐる考えて陰鬱な気持ちでいる僕に対し、それを止めようとしてくれる彼女の言葉は、いくらか慰めになる。

 しかしながら、その言葉だけで、このありありとした不安が拭えるということはないわけで。考えるのを止めてしまうよりは、それなりに真剣に考えてきたことへの、答えがほしいとも思うのだった。大仰ながら、人はどうして死ぬのだろう。少なからず、興味は、ある。

「そう……かもしれないですね。難しいことは、よくわからない。もちろん僕も死にたくはないです。生きることを考えた方が、何倍も楽しいと思う。でも、あなたの意見を否定するつもりはないですが、僕はその、疑問の答えを知りたいとも思っていて……。生きることにも、そしてもちろん死ぬことにも意味があって、僕はそれを感じてみたいんです。今までこんなこと、欠片も思ったことがなかったのに……本当にどうかしている自覚もあるんですけど……」

 そして僕の小さな抵抗は、思いの外、彼女に対して強く届いたらしい。発言の刹那、虚を突かれたような表情をした彼女は、やがて優しく微笑むように口元を引き上げて、いっそう穏やかに言葉を返した。

「へぇ……。なるほどなるほど。落ち込んでる割には、芯はあるわね。思ってたよりは元気そうかも。しかもちょっと面白いわ。魅せるじゃない、あなた」

 彼女は微笑みをみるみるうちに笑顔に変えて、無邪気な子供のように目を細めていく。嬉しそうで踊るように突然立ち上がり、片の掌をこちらに向かって差し出しつつ、突拍子もないことを口にする。

「ま、死んじゃったらどうのなんて考えちゃうのは、多分その喪失感にあてられたのよ。でも死ぬ方はともかく、生きる意味を考えるのは、大事なことね。あなたに声をかけてよかったわ。ねぇ、私についてこれば、その喪失感、綺麗さっぱり消し去ってあげる」

 僕はその彼女の言葉に、そして彼女の動作に合わせるように顔を上げ、瞼を見開いて目を丸くした。

「い、いきなりどうしたんですか?」

「伝わらなかった? だから、あなたのその悩みを、私が何とかしてあげるって言っているのよ」

 僕の悩みを、この喪失感を……消す? このどうしようもない空白の気持ちを……彼女が? そんなことが、果たして可能なのだろうか。

 憶測でものを断言するつもりはないけれども、この着物姿の見知らぬ女性に、そんなことができるとはとても思えない。彼女は心理学者でもカウンセラーでも、はたまた陰陽師でも未来預言者でもないだろうから。いや、もし仮にその中の一つに当てはまるとしても、僕の件に関して、解決が見込めるかどうかは微妙なところだけれども。

「そんな、まさか。医者には、まるっきり異常はないと言って、帰されたんですよ」

「そりゃあそうね。あなたのそれは、お医者さんじゃあちょっと無理よ。分野が違うもの。遺失者の救済は、病気の治療とは勝手が違う」

「遺失……者……?」

 なんて聞き慣れない響きなのだろうと、僕は思った。おそらくはきっと、僕のことをさして言った表現なのだろうが、しかしながらあまりピンとくることはなかった。

「勘違いではないと思うわ。あなたはやっぱり、失くしている。まあ、私も人のことを言えた立場では、ないのだけれどね」

 彼女は何を言っているのだろう。僕は何を聞いているのだろう。会話のキャッチボールが、いまいち成り立っていない気がする。きっとそう感じているのは、僕一人だけなのだろうけれど、だからこそなおさら、会話を止めるタイミングが見つからなかった。

「特にね、寿命の遺失は、お医師さんには荷が重いわ」

「…………寿、命……?」

「そう、私にはわかる。あなたの器からこぼれ落ちたものの正体。それは、あなた自身の、寿命のことよ」

 ………………。

 ついに僕の口は、いや脳は、オウム返しすらも不可能な領域の会話に困惑し、彼女から得られる情報の全てを遮断してしまいたいと嘆く。やがてぱたりと沈黙が落ちて、無言を通して僕が表すことができるのは、唖然の意思ただ一つだけだった。

「あら、あまりにびっくりして言葉がないかしら。それとも、信じてもらえなかったかな?」

 その推測は、どちらも等しく正しいと言えた。彼女が僕の顔を覗き込む間も含め、数秒を通して思考が止まる。

 ただ、笑顔の彼女は、たとえそうだとしても全然構わないといった様子で……これなら素直に答えても、気分を害する心配はないみたいだと、僕は感じた。

 回らない神経信号を、必死に僕は動かそうとする。

「……半信半疑って、感じですかね。今は僕の心身の何もかもが、置き去りでついていけていないようです」

「そう。じゃあ、まずは落ち着いて、ちゃんと信じて、順応して頂戴ね。私の話をきっかけにして自覚が芽生えれば、あとは自然に飲み込めると思うから。とにもかくにも、あなたは寿命を失くしているわ。そのまま取り戻さなければ、遠くないうちに死が訪れる。程度からするに、余命は残り二年弱ってところかしら。どう? 少しは納得してもらえるといいな」

「えっと……まあ……」

 その場凌ぎの反応だった。

 冴えない返答に彼女は悪戯な笑みを浮かべ「本当かな」とからかう。

「やっぱり、今すぐには理解が追いつかないだろうし、わからないのも無理はないでしょうね。でも、これ以上わかりやすい説明は、私には不可能だわ。今夜一晩良く眠って、改めて考え直してみたらどうかしら。全ては、あなたの遺失の自覚から。自分が何を失くし、それを探そうという意志を、想起するところから」

 そうして彼女の豊かな表情はまた移り、深く優しく、柔らかに輝く。

「大丈夫よ。なくしたものは、消えて散ってしまうわけではないの。今あなたの手元にないだけで、必ず何処かに存在する。だから探せばいいじゃない。私が手伝ったら百発百中よ? 根拠はないけど自信はあるわ!」

 着物には到底似合うはずもない 、ガッツポーズという勇ましい姿。彼女にこそ自覚はないのだろうが、あまりの格好の非現実性に、僕の方は笑えてしまった。とても隠すことのできない衝動で、クスッと思わず破顔する。

「根拠のない自信を、どう信じたらいいんですか。逆に不安にさせますよ、相手を」

「経験則よ。そこに理由が伴わなくても、今までそうだったんだから、これからもそうなの」

「そんなもんかなぁ……」

 彼女の言葉に、こちらを安心へと導く要素は少なかった。けれども、放っておいたところで、やはり僕の気持ちが晴れることはないのだから、これはこれで、駄目で元々の美味しい話なのかもしれなかった。

 僕の表情を見て軽く頷くと、彼女はゆっくりと隣の椅子から立ち上がる。

「さて……雨はやっぱり止まないわね。この傘、あなたに貸してあげるから使いなさいよ。私は大丈夫だから」

 差し出されたのは、白の下地に紅の花柄が入った、大きめの傘。彼女一人には十分すぎるほどの半径を持った、それはそれはさぞかし高価そうな和傘だった。

「え……こんな立派な傘、借りられませんよ。それなら僕は、走って帰りますから」

「遠慮しないで。気怠い中、お話に付き合ってくれたお礼だもの。それにあなたは、また私を訪ねるでしょうから、なんならそのときにでも返してもらうわ」

 僕は、差し出されたものをやんわりと押し戻す仕草を取った。

「駅前にあるオフィス街のビルの中にね、一階がトワイライトっていう喫茶店になっているビルがあるの。午後の二時からしか営業しないおかしな店だから、すぐにわかると思う。そのビルの四階に事務所があるから、気が向いたら訪ねてみて。私はだいたいそこに居る」

 彼女はニコッとしながら髪を跳ね除け、それと同時に、例の傘を持つ手を開いて放った。

 落としてはいけないという思いから、僕は咄嗟にそれを受け取ってしまう。

 だがきっとこれは、彼女の狙いの内だったのだろう。僕はそれには、傘を受け取ってから気付いたのだった。

「……わかりました。近いうちの晴れた日に、この傘を返しに行きますよ。ありがたくお借りします」

 仕方なく僕は、受け取った傘を地につけないように提げて、彼女を見つめながら謝辞を述べる。

 それを確認すると彼女は、コツコツと軽い草履の音を響かせ、野外休憩所の屋根伝いを歩き去ろうとするのだった。その前にふと、振り返ることなく一つの質問を残して。

「律儀ね、嬉しいわ。ところであなた、今日が初診だって言っていたわね。ということは、この病院へくるのも初めてなのかしら?」

「そうですよ。病院はあまり、好きではないんですけどね」

「そう……」

 表情は見えない。あれだけ表情の変化に富んだ彼女なのに、それが見えなくなると、ただそれだけで何を考えるのかわからなくなる。彼女の声には、それくらいミステリアスな抑揚が含まれていた。

「あの……どうかしましたか?」

「いえ、以前からこの病院にあなたがきている気がしたのだけれど、気のせいだったのかなって」

「……? ええと、そうですね。それは気のせいだと思いますよ。僕がここへくるのは、間違いなく今日が初めてです」

 嘘を言うつもりはない。できることなら病院なんて、僕にとってはたとえ一回でも来訪を避けたい場所なのだ。

「……そっか。とにかくありがとう。あなたに会えて、今日は良い日よ。楽しかったわ。再び会える日をまた、待っているわね」

「いえ、お礼を言うのは僕の方です。あなたに話を聞いてもらえて、よかったです」

「いえいえ、どういたしまして。それじゃあね、川澄詞くん」

 そのとき不意に呼ばれた自身の名が、僕の中では強く響いた。なぜ名前を知っているのだろうという思いとともに。

「え……名前――」

「私は唯花よ。音瀬唯花。訪ねるときに必要でしょう?」

 そして続きには、彼女の名が告げられる。

 思うに彼女は、話しかけてきた当初から、僕の名前を知っていたに違いなかった。けれどもそれをあえて使わず、一般的な二人称で僕を呼んでいたのだ。彼女なりの、意味深なユーモアだったのかもしれない。

 けれど、彼女はどうして僕の名前を知っていたのだろう? 気にならないはずはなかった。これも、次回訪ねたときにでも、種明かしをしてくれるだろうか。

 再び歩み始めた彼女の足は、ついに僕が驚くうちに、視界から外れる曲がり角の直前まで届いていた。完全に姿が見えなくなったら僕も立ち去ろう。頭の隅ではそう考えていたが、最後の最後で彼女はわずかに振り返るのがわかった。目元は前髪で隠れ、わずかに口元だけが見える角度。そんな絶妙な位置まで首を回し、この世の何もかもを魅せるほどの妖艶を纏いながら、そっと囁く。

「また……ね」

 彼女はやはり笑っていた、のだと思う。聞こえるはずのないその声が聞こえた。だからわかった。

 先の未来に僕との絶対の再会を確信する声音。そこに込められた感情が何なのか、僕には伝わった。

 感じたのは、彼女の胸にある期待――。



     2  二〇二四 文月―末



 自動扉をくぐると、乾いた冷気が体を包んだ。

 ここへくるのはまだ少し緊張する。学生が歩き回る区画ではないし、高そうな和傘を抱えて目的地を探した数日前の感覚が残っているのだ。

 そんな記憶が脳裏をかすめる中で、活気付く喫茶店には脇目も振らず、僕は奥のエレベーターを目指した。その中から関係者用のものを選び、4Fのボタンを点灯させる。ちなみに、このビルにエレベーターは三つあるが、関係者用のエレベーターは一つだけだ。僕がわざわざそれを選んだのは、残りの客人用のものが、四階で止まらない仕様になっているからだった。

 小さな箱に吊られてスムーズに四階まで辿り着く。次いで短い廊下を行き、焦げ茶色の手動扉を引いて開いた。

「あぁ唯花、やっときたか。お前に渡そうと思っていたこれを――」

 静寂にガチャリと音が響くなり、姿を確認するまでもなく声がかかる。ただし、相手は僕を誰かと取り違えているようだ。

「……いや、済まない。君だったか」

「すみません、僕で」

「悪い悪い。そんなつもりはないんだよ。まだいささか、アポもなしにここを訪ねるのが、唯花くらいだという認識が消えなくてね」

 机に座ったまま話すのは、ここの管理者である音瀬灯華という女性だ。

 そして予想通り、唯花の姿は見られなかった。

「次からはとった方がいいですかね、アポ」

 僕は少しの皮肉を交えながら、挨拶代わりの冗談を返した。

 対して向こうは、爽やかなショートヘアを揺らし、かける眼鏡を持ち上げながら笑みを返す。

「意地が悪いな、君も。済まないと言ったじゃないか。是非歓迎だよ、川澄くんも」

「はは……それは、ありがとうございます」

「で、見ての通り、唯花はいないよ。残念だがね」

 灯華さんは僕の方から視線を外すと、再び手元の書類の束に目を向ける。どれも同じに見えてしまう白い紙束を、彼女にだけわかる基準に従って分類しているようだった。

「いやまあ、いないとは思っていましたよ。いて欲しいときに唯花がここにいたことなんて、ほとんどないくらいですから」

 以前に、だいたい事務所に居ると言っていたのはどの口だったか。だいたい居るのは灯華さんだ。

 僕はソファーの傍に荷物を置き、棚に並ぶ数々のファイルの中から、ピンク色のそれを取り出した。同じファイルでも、灯華さんの扱うものとは似ても似つかない薄さに軽さ。これは唯花のものだ。とは言っても、ほとんど持ち主には触れられていない。

「あはは、そう言ってやるな。あれでも君が訪れ始めるより以前は、結構な出席率を誇っていたんだぞ」

「それはつまり、唯花が僕を避けているということでしょうか」

「まさか、むしろ逆だよ。君が世話を焼いて彼女を家まで呼びに行くものだから、癖になってしまっているのさ。君はいいパートナーだな」

 愉快に笑いを零しながら、灯華さんは僕をからかった。人を食ったようなこの性格は、どうにもこうにもやりにくい。その点に関しては、唯花と似ていると思うものだ。

「…………嬉しくないです」

「顔が赤いが、空調が弱いかな?」

 こうやってまた、すぐからかう。困りものだ。

「意地が悪いのは、灯華さんの方ですね」

 僕はファイルに目を落としつつ、小さな声で口を尖らせた。

「はは、悪い悪い。ところで話しついでに申し訳ないのだが、用が済んだらその唯花に届け物をしてくれないか」

「本人の携帯に直接、電話をすればいいと思いますけど」

「したところでどうせ、君に届けさせるように言われると思うが?」

 確かに、言えている。僕がここにきていると知ったらなおさらだろう。そしてきっと灯華さんは、そのことをわざわざ内緒になどしない。

「…………あとで、行きます」

 彼女の質問には、反論どころか同意の言葉を返すまでもなく、僕はうなだれて了承した。

「助かるよ」

 そうしてしばらく紙をめくる音と、ペンを走らせる音だけが耳をつく。夕方にはうるさいオフィス街も、ビル四階の隔離空間となれば関係ないものだ。そこでは互いの些細な行動が、物音だけで手に取るようにわかる。

 だからだろうか、このとき灯華さんはふと、僕の手が止まった際に質問を投げかけた。

「川澄くん、学校は順調かな?」

 決して気まずい空気の沈黙ではなかった。灯華さんの作業にも区切りがついたのか、それともぱたりと集中力が切れてしまったのか。質問のきっかけは、とても些細なものに思われた。

「どうしたんですか? 急に。まあ、そうですね、特に問題はないですよ。ですが……」

 僕は手元のファイルを閉じつつ応答する。丁度良い、と思った。彼女の仕事の邪魔にならない今なら、今日僕がここへきた目的を果たすタイミングとしてはベストだろう。

「その……今日、学校で噂を聞きました。この街には、どんななくしものでも見つけてくれる人がいるって」

 話を切り出すと、彼女は顔を上げて、少し目を見開いた。驚いた、という表現にはほど遠いが、それでも興味を引いたようだ。

「君のことじゃないか。その噂の主はなかなかの情報通だな」

「あるいは、あなたのことでしょう。いいんですか? これって、非公式のお仕事ですよね?」

 そこまで話すと、彼女は僕の意図を察したらしく、しかしなぜだか軽く口の端を引き上げる。

「構わないさ。所詮噂じゃないか。仮に公に活動したって、悪いことではないんだ。ただ、ちょっとばかり多めにもらっている報酬が、減ったりすることはあるかもしれないが、ね」

「そう……ですかね……」

「まあ元は便利屋みたいなもので、長いことこの街でやっていることだしな。唯花を雇ってから探しものに仕事が偏って、説明のし辛い方向に仕事の幅が広がったのは事実だが、それにしたって別に後ろめたいことでもない。私は一向に構いやしないよ、この街風彩に我等あり、と謳っても」

 微塵もそんな気はないだろうに、冗談半分に笑われても困る。だいたい、この風彩という街は決して小さい街ではない。あまり軽々と街の名前を背負うとか言わないでほしいものだ。いくら灯華さんにそれだけの社会に対する影響力があろうとも、僕はあまり目立ちたくはない。

 そう。実際のところの可能性を考えれば、先の噂の対象は、ほぼ間違いなく灯華さんだ。唯花という線もないこともないが、いや……表だって動くのは唯花だから、噂の伝播の直接因子は唯花かもしれないが、それでも責任者は灯華さんだ。悠長に笑っていていいものかどうか。

 ちなみに、灯華さんは僕のことだと言ったけれども、その可能性はかなり低い。僕が彼女ら二人と関わり出したのは、本当にごく最近のことだからだ。

「いや、それはちょっと……。それより何ですか? 説明のし辛いことって」

「それは、そうだな……。さっきも言った通り隠すことではないんだが、君に対しても同様に説明が難しい。心配しなくても、後々わかるさ」

「はあ……そうですか」

 今のように含みのある言い方で濁す節もある。きっと僕にもわからないことは、とてもとても多いのだろう。

 この通り、つまり噂の通りだが、灯華さんと唯花は仕事をしている。探し屋という仕事だ。それはいうなれば、噂の通り探しもののプロと表現するのが適切である。

 ただ厄介なのは、この仕事が、裏商売というほどではないが公の商売とも言い難い絶妙な分類にあるということだ。主な理由には、回ってくる依頼の中に警察等の公的機関が手を上げて投げた仕事が含まれるという点が挙がる。彼女たちの仕事自体がばれて問題なわけではないが、だからといって何でもかんでもさらせる情報ばかりではないらしい。

 内情に詳しくない僕であっても、想像する分には難しくなかった。公的機関が未解決の仕事を放り、一般市民にそれを流すというのは、色々な面で問題だろうから。信用とか、面子とか、そういったものを守る義務が、公的機関にはありそうだから。

 またもちろんだが、様々なルートを通ってごく普通の依頼も回ってくる。パイプ役は灯華さんだ。こちらの場合は、お手上げとまではいかなくても、手っ取り早い解決を望んでのことだと思う。

 何にしても一つはっきりと言えることは、本来ならば一介の高校生であるところの僕が関わるはずのない世界の話だということだ。唯花に出会った時点で、僕の人生がそこはかとなく曲がりくねってきている。

「もしかして君が今日ここを訪ねたのは、その噂を聞いたからか?」

「えっと……はい。いいのかな、と思って」

 当然、知られない方が良いと思って僕は心配したというのに。それなのに……。

「いいさ、気にするな。心配症だな、君は」

 楽観的過ぎるのもどうかと思う。心配性ならぬ楽観症なんて言葉があるのかどうかは知らないが、灯華さんも、そして唯花も、だいたいそれだ。新参者の僕が気にする必要はないと言えばそれまでだが、そのあまりのラフな対応には不安が募って仕方がない。

「さて、じゃあもしや、君の用はこれで済んだのかな? ならば唯花への用事を頼みたいのだが」

 だが言ったところで所詮無駄だろう。わかっているのだ。きっと、いや、間違いなく灯華さんも唯花も、二人してどこまでも笑い飛ばし、問題視などしないのだから。心労の軽減には、杞憂だと自身に言い聞かせるしかないと思った。

 僕はそうして一人で渋々納得に至ると、灯華さんの言葉にこれまた渋々と従った。ファイルを片付け、手渡しで唯花への配達物を受け取る。

「これを頼む。それから、こっちは君のだ。あとは、そうだな……最近寂しいからな、もう少し顔を見せてもバチは当たらないぞ、とでも伝えてくれ」

 灯華さんは、からっと笑ってそう告げた。優しく目を細めるその表情は、まるで母が娘へ向けるそれのようにも見える。唯花の笑顔とはまた別の暖かさを感じた。

 僕が手元に視線を移すと、二つの封筒が目に入った。ちょうど懐に収まるくらいの、名前の書かれた茶封筒。

 これは、もしかして……。

「給料、ですか?」

「そうだよ。何、小遣いみたいなものさ。とっておけ」

「唯花の小遣いはわかりますけど、どうして僕まで?」

「うちは職能給制でね。まだわずかだが、君も役に立ってくれているようだからさ。二人いっぺんに渡す方が楽だしな」

 職能給、ねぇ……。

 確かに僕がここへくるようになってから、二、三度くらいは唯花の手伝いをした記憶がある。しかしながら、その成果が職能という評価に足るかどうかは自分でもいささか疑問だった。

 察するにこの給料の中身は、唯花の手伝いというよりもむしろ、面倒な事務作業や雑用の分が大半を占めるのではないかと思うのだ。その観点で見れば、子供の小遣いというのは非常に的を射た表現だ。

 要件を承ると、静かな事務所から足を踏み出し、僕は再び暑く湿った外界を歩くことになる。夏の夕方だ。どれだけ太陽が傾こうが、日が見えてさえいれば光は強い。もうしばらく、街灯の出番は先送りだった。

 この場所から唯花の住居、とあるマンションまでは、わずかばかりの距離がある。学校から事務所ほどではないにしても、オフィス街を出て歩いて行くその道のりは、軽い散歩には十分過ぎるくらいである。僕自身の帰路に重なっているという若干の救いさえなければ、いくら灯華さんの頼みでも後日に回したことだろう。

 うなだれる僕は正直なところ、この遣いに嫌悪の想いを感じている。この場合、面倒だとか億劫だとかいうよりも、明確に嫌だと感じる点が重要だ。

 もちろん言うまでもなく遣い走りは面倒なものだが、それでもさすがに職能給までもらっておいて、訳もなく嫌だなんてのたまう口は持っていない。これにはちゃんと、理由があるのだ。

 ただそれを、今歩きながら考えることに意味があるのかと問われれば、おそらくきっとないのだろうと思う。だからそれは、よしておこう。到着すれば、それこそ嫌というほど感じることなのだから。

 代わりにここでは、もっと別のことを考えたいと思う。何かすごく楽しくて考え甲斐があり、それでいて有意義かつ心踊ることを。僕のこの日常に潜む、希望と可能性に満ち溢れる素敵なことを。さあ、是非是非、考えようじゃないか。

 …………………………。

 できるなら、このうだる暑さも忘れるような、そんな魅力的なことが良い。

 ……………………………………。

 ……はぁ……。

 いやまあ、いい加減認めよう。わかっていたことだ。そう、その通りだ。

 僕の日常は、めっきり印象の薄い淡白で枯れた日常に他ならず、悲しくもわざわざ振り返って考えるようなことはありはしない。くだらなくも楽しい友人との談笑も、燃える学校のイベント行事も一切ない。何もないのだ。

 ただ、一つの事柄を除いては――。

 しかしあるいはここで、一つだけでも思い出すに足る出来事があるのなら、それは喜ぶべきことだと思うこともできるかもしれない。当然そう思えるのなら、僕だってきっと嘆きはしない。

 でもその一つの事柄は、今さっき僕が思考から追い出そうと足掻いていた唯花のこと。そのことなのであった。

 はっと気付けば、今この時点で、僕の日常は唯花一色だ。これが例えば、僕は唯花にぞっこんだとか、僕の瞳にはもう唯花しか映らないとか、そういう意味の表現だったなら、まだ幸せかもしれないけれど、残念ながらまったく違う。いや、あんな人の虜になることが果たして幸せなことなのかどうかは、この際横に置いておくとして。

 とにかく、現状で僕の毎日が彼女で染まっていることに関して、それは他に考えるべきことがないからという、非常に消極的かつ面白くもない事情によるものであった。

 ああ、彼女の存在は、ただただ強い。強く強く輝き過ぎる。穴の空いた僕の日常に、矢のように突然降りかかってきた彼女。そしてすぐさま、僕の意識の中心になった彼女。そんな彼女の眩い印象は、辛うじて灰色に色付いていた僕の世界を一瞬で無色に書き換え、全ての感覚を一点に集約させた。彼女はまるで、暗い暗い舞台の上、スポットライトを浴びて光る一輪の花。注がれる視点は、捉える視野は、嫌でもその凛とした花を無視できない。そして同時に、それ以外のものなんて、もう舞台の上にはないも同然だ。

 僕ら二人は、まだ出会って一週間ほどで、どうにも新鮮さという補正から彼女の印象が普段より増して色濃く残るのは仕方がない。そう自分に言い聞かせてみても、さすがに異常な自覚はあった。

 覚えている。全てはあの、梅雨の闇夜からだ。

 あれから僕は灯華さんの事務所を訪ね、改めて自分の現状を知ったのだ。そして聞いていた通り、唯花は僕の失くしものを探し出すと約束してくれた。そういう契約を彼女らと結んだ。特別な依頼だと言っていたが、内容はあまり記憶にない。詳しいことは、解決の目処がついたら教えてくれるとこのことだった。それはもう実にざっくりとした契約で、どちらかといえば解約予備段階の口約束程度でしかない。

 そんな半端な関係にありつつも、えらく親しげだった唯花に言い寄られ、流されるように僕はこうして彼女と時間を共にしているという次第。ただ、言い寄られたとは言っても、それは仕事の手伝いについてだけれども。

 正直、唯花の考えていることは、僕にはよくわからないのだ。

 このところの僕の生活はといえば、やはりというか想像通り、唯花に振り回されっぱなし。今まで一人でやっていたらしいのに、突然僕を雇いたがった心理についてはめっぽう謎だが、その扱いについても大概だ。パートナーと言えば聞こえは良いが、客観的には手下という表現がぴったりくる。百歩譲って、良いところが部下だろう。まあ、仕事場の後輩と考えれば、別に文句のつけどころはないのだが。

 唯花と僕の具体的な活動記録としてはまず、猫を二匹探して見つけた。あと他には、いきなり夕刻に呼びつけられて迷子の子供を探したなんてこともあった。猫の方は、警察にも届け出ていた捜索依頼だったために正式な報酬があったらしいが、子供の方は完全な慈善活動だった。困って探し回っていた母親に出くわした唯花が、任せろと言ってその場で引き受けたらしいのだ。ちなみに、お礼に何処かのお土産っぽい饅頭がもらえたが、結果として喜んだのは灯華さんだった。

 僕が実際に探したのは、まだこのくらいだ。

 唯花の場合はこれ以外にも、ニュース沙汰寸前の行方不明者の捜索依頼や、地方議員の汚職についての調査依頼をこなしたらしいが、それについては僕は関与していない。

 一人の間に僕がやっていたのは、本来は唯花のすべき報告書の記入と整理、そして本来は灯華さんのすべき事務所の掃除だったと記憶している。

 ままごとのような現場仕事と、小間使いのような事務仕事が、今のところの僕にとっての活動記録だ。ただその割には、先ほどの“給料”の額には驚くものがある。高校生のバイトでもらえる金額としては十二分に満足できた。

 こういった経験からするに、今から訪れる唯花の住む部屋の質にも、不思議と納得できるものがあった。それはもう実に設備が良いのだ。家賃がいくらかなんて無粋なことは聞いたことがないけれども、外観を見ただけでも相当のものだろうと予想がつく。むしろ家賃なんて怖くて聞けないというのが本音だった。

 僕はちょうど、唯花の住むマンションのオートロックエントランスをくぐる。何度見ても飽きることのない高級感だ。あからさまなセレブマンションほどではないが、それなりの稼ぎがある家族が願って住むほどの環境は整っている。彼女に渡されたカードキーを持っていなかったら、僕は雰囲気に気圧されて踏み入る気にもならないに違いなかった。

 エレベーターまで直行し、目的の階のボタンを押す。今度は事務所のときのように甘くはない。選ぶボタンは十二階行きだ。そんなところまで暑い中階段で上るはずもなく、文明の利器は素晴らしいとしみじみ思う。

 動き出すとすぐに、小さな空間が重力に逆らって釣り上がる。辿り着いたテラスからの眺めを見れば……うん、圧巻だ。この高さまでよじ登る泥棒もそうそういまい。治安的な不安など、抱くべくもないだろう。

 ただそれも、僕に言わせればどうかと思う節もあった。こんな作りなのだから、毎日の外出にはとにかく手間だし、災害時には逃げ場もない。まさか飛び降りるわけにはいかないだろうし。

 さらに、一番の疑問の中心となる案件は、また別にある。やっとのことで扉一枚隔てるまでに迫った向こうの部屋に住む彼女にとって、そんなセキュリティが果たして真に必要なのかという点だ。仮に僕が犯罪者でも、その対象を唯花にとろうなんて考えない。そんなの愚かしいにもほどがある行為だ。何しろ、身の安全を豪勢な機械のセキュリティに委ねるほど、彼女がか弱いはずもないのだから。

 だからお願いだ。もう少し訪ねやすい場所に住んで欲しい。心の中で懇願しながら、僕は渋々とインターホンを響かせる。

 とはいえ案の定、中からの反応はない。これもまあ、毎回ではないがよくあることだ。

 溜息と共に僕はもう一度だけインターホンを押し鳴らし、その後には待つこともせずドアノブに手をかけた。

 信じられるだろうか。その僕の手は、厚い扉を容易く開けることができるのだ。

 鍵? チェーン? そんなもの、使わなければただの鉄塊。ご大層な錠の数々が、揃いも揃ってガラクタ同前。無機物だけど泣かれても一切驚くまい。

 ほとほと呆れつつも僕は靴を脱いで玄関に上がり、唯花がいつも使っている部屋に真っ直ぐ向かった。3LDKの、軽く迷ってしまうくらいの立派な内装の中、彼女の部屋は一番奥の隅っこにある。

 皮肉なことに、その扉にさえも錠が設けられているのであったが、機能しているはずもないので目もくれない。僕はノックもなしに部屋のドアを開け放った。

 そして静寂。出迎えの言葉など論外だろう。唯花は僕という侵入者に気付く様子もなく、無防備な寝姿をさらすのだった。

 気が抜ける、というか気力が抜ける眺めである。

 けれどもそれ以上に僕の気力を萎えさせるのは、彼女の部屋の様相の方だったりもする。目を背けてしまいたいが、嫌でも目に付く服、本、これに加えて電子機器。脱ぎっぱなし、出しっぱなし、開きっぱなしで粗雑に山積み。つなげっぱなしのつきっぱなし。

「はあ…………」

 そりゃあ、溜息くらい簡単に出る。何度だって出る。量産できる。こんな有様の部屋でよくも生活ができるものだ。せめてものフォローを述べるなら、散らかってはいるが汚いわけではないというくらいか。清潔といえば清潔だが、ただし、あまりにも物が多い。多過ぎるのだ。それがどのくらいかというと、本人が寝ているベッドの上にさえも、服や本が散乱しているくらいだ。完全に物に居場所を乗っ取られている。

「唯花。唯花、起きて」

 まさかとは思うが、携帯とかそういうものを下敷きにしていないだろうな……。

 不安に思いながら僕は、邪魔な物をベッドから下ろして彼女を起こす。本当は肩でも揺すって起こしたいのだけれど……夏だからだろう、彼女の格好はあまりにも薄着で、とてもではないが触れられるようなそれではなかった。

「……ん、ん~~……」

「唯花! 僕だよ! 詞だ!」

 一通りベッドの上だけを綺麗にすると、僕は彼女から目を逸らして声を張った。

「……ん、つかさぁ……?」

 対しては、これまた随分府抜けた反応が返ってくる。眠そうに目をこすりながら、三半規管の覚醒を待たずに起き上がる努力をしているようだ。

 ちなみに、起き上がった彼女の姿を見て、頭にピンクの花のかんざしがついていることを認識する。お気に入りらしく、それは彼女のトレードマークでもあるものだが、昼寝のときくらいは外せばいいのにと思わなくもない。

「……なんで、つかさが……?」

「灯華さんに頼まれた。渡すものがあるから、起きたら着替えてリビングにきて」

「ふぁ~……。灯華にー? 何を?」

「すぐにわかるよ。手渡しの方がいいものだからね。あと、ちょっとした伝言もあるし」

 あくび混じりに返答をする唯花を残し、僕は足早に部屋を立ち去ろうとした。

 けれども彼女は、そんな僕の様子を見て呼び止める。片手をパタパタさせながら、やっとのことでまともな調子の声を出す。

「あー、待って待って。リビングは暑いから、この部屋で話しましょうよ」

 入ったときから、気付いてはいた。確かにこの部屋は涼しい。クーラーが効いているのだ。一方のリビングは、まあ野外ほどではないにしろ暑いだろう。今の時期、クーラーなしでは室内でもかなり蒸し暑い。

 いやしかし、だからといってこの部屋では……。

「この部屋じゃあ無理だよ。僕の座る場所がないじゃないか。リビングのクーラーをつければいいでしょ」

「やーよ。面倒だし、涼しくなるまで時間かかるもの。この部屋がいいわ」

「あのね、唯花」

「部屋、片付ける。片付けるから」

 なんと。これはまた意外な発言が飛び出したものだ。蒸し暑さと片付ける手間を天秤にかけて、後者を取ったということだろうか。思考としては、それも良しとしよう。

 だが、実際には少々問題がある。本人がどう思っているかは知らないが、僕の記憶によれば、唯花は片付けが下手だ。いやもう、ものすごく致命的に下手だ。基本生活においての要領は良い方でも、こと片付けに関してだけはその限りではない。そんな唯花が本当に片付けをする気でいるのか、僕にはどうしても疑わしかった。

「片付け…………唯花が?」

「…………詞が」

「帰る」

 ほら見たことか。思った通りだ。

 僕は廊下に出て、すぐに部屋の扉を閉めようとした。

「わーー! 待った! 嘘よ、嘘! 私が片付けるから!」

「本当だろうねぇ……今からしっかり片付けるの?」

「うん、だから詞も手伝って」

 ……何よりもまず、来客に部屋を片付けさせるスタンスがいけない。

「ほんの最近、手伝ったばかりじゃないか。しかも、あのときはほとんど僕が片付けたし」

「最近っていつのことよ?」

「三日くらい前じゃなかったかな。それが何の痕跡もなくまた元通りに散らかっているのはどういうことさ」

「三日前でしょ? 三日っていったら七十二時間よ? 私はほとんどこの部屋で生活しているんだから、それだけあったら少しくらい散らかるわよ」

「家から出ようよ……いくら仕事がなくてもさ……。だいいち、これのどの辺りが“少し”なのかすごく疑問だよ」

 片付けのヘルプは、これで何度目になるだろう。このペースでいくと、唯花と関わる中でそう遠くないうちに、まず両手の指の数を越える。そしてすぐにでも、何回目か忘れてしまうほどの数になることだろう。

 かといって僕は、彼女を相手にするとどうも断れない。正直これは大問題だ。

「とにかく! 散らかってる程度がちょっとかそこそこかなんてどうでもいいの。細かいことはどうでもいいのよ」

 どうでもいい。もうこの際どうでもいいが、それでも程度を表すなら“かなり”だ。

「仕方ないなぁ……じゃあ手伝うから、早く始めよう」

 そして結局こうなってしまう。内心わかっているのなら、僕としては抗議をするだけ無駄にエネルギーを使うことになるのだが、せめて口だけでもうるさくしておかなくては癪だ。それにもしかしたら、限りなく低い可能性だとしても、こうしていれば彼女に片付け癖がつくかもしれない。いつかそのうち。いつか……きっと。

「えーっと……本は全部本棚でいい? とりあえずジャンルは分けずにしまうから、あとから自分で揃えておきなよ」

「はぁ~い」

 僕の片付けと整理整頓のスキルは普通だ。けれども、唯花と比べれば相対的にかなり優秀と言える。つまり結論としては、彼女の手際の悪さが格別だということになる。他の生活力に関してはむしろある方なのに、本当にどうしてか、片付けだけは苦手らしいのだ。

「あ! イヤホンだ! でも、あれ……? 繋がってたはずのプレーヤーがないなぁ……」

 理由の一つには、見つけたものにこうしていちいちコメントをしていくことが挙がる。放っておくといつまでも彼女の手は止まったままなので、僕は早急に対処する。ぶっちゃけかなり面倒だが、無視をすると彼女はいつまでも片付けに戻ってこない。

「プレーヤーってこれのこと? それともこっち?」

「あー……今使ってるのは、そのオレンジの方」

「本の下から掘り出したんだけど……本当に使ってるの? 携帯も何個か落ちてたけど、いくつもあるなら整理しておきなよ。わからなくなるよ」

「携帯は、前使っていた機種をとっておいてるだけよ。同時に何個も使ってるわけじゃないわ」

「あ、そう。しかし本当に、ガジェットマニアみたいだね……」

 唯花の部屋を片付けていると、街の電気屋で売っているめぼしい電子機器は、大体の割合で拝見できた。女の子には珍しいと思うのだけれど、そういうものが好きらしい。

「いやー、新しいのが出ると、ついつい欲しくなっちゃうのよね~。分解してどこが新しくなってるか見るのが楽しくて」

「そんなの調べてどうするのさ」

「別にどうもしないけど……いろーんな会社がこういうの作ってるから、どんな工夫してスペック上げてるのか比べてニヤニヤするのよ」

「……さいですか」

 正直、理解に苦しむ趣味だと思う。唯花の給料のうちいくらかは、こういう商品に変わるのだろう。

 部屋の片付けは順調に続く。いや、彼女は相変わらず手よりも口の方が活発だから、順調なのは僕の方だけなのだけれど、作業自体は進んでいく。

 それでもたまには、僕の順調なペースが乱れることもあった。正しくは乱されたというべきかもしれないが、幸か不幸か、僕は思考を持たないお片付けマシーンではなかった。

「ちょっ! ちょっと唯花!」

 仮にお片付けマシーンであったなら、彼女に即刻購入されただろう。まあそれも嫌だけど。

「散らかすのも、服までならいいよ! でもこれはダメでしょ! 早くしまって!」

「えー? なんか変なものあったー?」

「変なものっていうか、さすがにこれは僕じゃ扱えない!」

 唯花は僕の声を聞いて、いったい何が出てきたのだろうと、そんな期待溢れる表情をして寄ってきた。でも僕の差し出したものは、唯花にとっては別に大したものではなかったらしい。

「ってなんだ、私のブラか。部屋の中だと鬱陶しくて、上だけはよく脱いじゃうのよね。下着はタンスの上から二段目だから、畳んでそこにしまっておいて」

 自分の下着の発見者が僕だということも、唯花にとっては別に大したことではなかったらしい。

「いやいや、気にしてよ! 僕は一応、男なんだからね! 唯花は恥ずかしくないの!?」

「恥ずかしくって……あぁ、そういうこと? やぁねー詞ったら」

 下着を見つけられて唯花が赤面し、僕が平手をもらうとかなら、まだありだ。いや、掃除をさせられてそんな扱いも御免だけど……。

 でも違う。彼女は笑う、僕の動揺する姿を見て。こんなことがあって良いのだろうか? 何かが根本的に間違っている気がする。

 諸悪の根源である桜色のブラジャーを拾い上げつつ持ち場に戻る彼女は、僕に向かってこう続けた。

「まあでも、詞くらいだとちょうど、そういう年頃かもしれないわね~。欲しかったら一つくらいあげてもいいわよー。探せばそれとセットの下の方もあると思うから」

「いらないよ! 断じていらない! いるもんか! だいたい、唯花だって僕より少し年上なだけでしょう? お願いだから気にしようよ!」

 あまりの空回りに、僕はなぜだか悲しさすら覚える。

「少し年上? ……ああ、まあそうね。そうかもしれないけど。何よ、詞は私になんて興味ないってことかしら?」

 僕の言葉に、わずかな間をもって唯花が答える。脊髄反射の発言で、少し失礼なことを言ってしまったからだろうか。もしかして怒った、のかな……?

 でも、だとしてもあれは、彼女が悪い。僕としては早くあの桜色のブラジャーを視界から消してほしかったのだった。

「ないよ! 興味ない! だからほら、早くこれしまって!」

「そっか、なぁんだ。残念」

 唯花は、悪戯っぽく笑っていた。なんだじゃないよ、もう。別に彼女は僕の言葉なんて気にしないのかもしれないけれど……本当に唯花の本心はわからない。

 とにもかくにも、こんな調子で片付けは終わる。その代償は、僕の体力ゲージの八割と、唯花のそれの二割といったところだった。何という理不尽。割に合わないにもほどがある。

 しかしながら綺麗になった部屋を見て、彼女がお礼に桃を剥いて出してくれた。これによって僕の体力ゲージが回復する。我ながら実にコストパフォーマンスがいいというか、ちょっと短絡過ぎやしないか。

 ちなみに、唯花は桃を部屋で剥いた。目の前で見せて、手際の良さで名誉挽回なのかと思ったけれど、二十秒くらいでキッチンが暑くて嫌だったからという結論に至った。

「ふぅ~。とりあえずはこんなものかな。整った部屋の方が気持ちがいいよね。小腹も満たされたし、満足かな。あとは頼むから、少しでも長くこの状態を保ってほしいな」

「詞、片付けるの早いんだもーん。お姉さん尊敬するわ」

 最後の一切れを飲み込んだ唯花は、それはもうご機嫌だった。

「まあくだらない軽口は無視しつつ……はい、これ。灯華さんからだよ」

 頃合いを見て、僕は本題の届けものを机上に差し出す。表に“唯花”と名の書かれた茶封筒だ。

「ああ、お金ね。でもこれくらいわざわざ届けなくても、いつでも良かったのに。灯華も律儀ねー」

「唯花が最近、事務所に行かないからじゃないの? たまには顔を出してほしいっていう伝言も、一緒に預かってるんだけど」

「ん~? そんなにご無沙汰だったかしら。仕事はしっかりこなしてるんだけどな」

 唯花は、ベッドの上でごろごろ回りながら、指折りで日にちを数えていた。その様子を、僕は笑いながら眺める。片付けのついでに着替えてもらったから、もう目のやり場に困ることはなかった。

「単純に、顔が見たいんじゃないかな? 近いうちに会いに行くことをお勧めするよ」

「なるほどね。終わった仕事の報告もあるし、出席率も大事ってことかしらね」

 僕の方も、唯花への用事が事務所に出向いて事足りるのであれば嬉しい。これは期待だ。

「それはそうとさ、さっき片付けしてるときのことなんだけど……詞って、私にはあまり興味ない?」

 う、何だろう。とても唐突だ……。しかも、よりによってその話題か……。

「あれは……その、悪かったよ。そのときは動揺していたから、ないって言い切っちゃったけど」

 面と向かって異性に対して興味ないだなんて、いくら何でもひどい言葉だ。まあ、その前後では唯花が悪いのだけれど、僕も反省はすべきだと思う。

「あら、そう。じゃあ、ないこともない、と」

「ま、まあ…………そう、だね」

 なくはない。これまた面と向かって興味があると言える度胸も僕にはないけれど、それでもどちらかと聞かれればある方だ。唯花はたぶん、そこそこという評価を通り越して、かなり可愛い部類に入る女の子なのだから。欲を言えば、これでもう少しお淑やかならすごくモテそうだ。口が裂けても本人には言わないけれど、僕は心底から思う。

「あのね。私、自分のことをあなたにどこまで話したか、あまり覚えてないのだけれど、詞は私のことを、知っているのかしら? 例えばほら、灯華に聞いたりとかして」

 ただ、当の唯花の雰囲気は何だか違った。興味がないと言われて傷ついたとか、自分が女としてどうだということを問題にしたい感じではなかった。

「何? その質問。知っているか知らないかで言ったら、間違いなく僕は唯花のことを知らない方だと思うけど。灯華さんは、不必要なことまで話したりしないし、唯花に関してあの人から聞いたことは、ほとんどないよ」

「そっか……じゃあ、私から話しておかないといけないのね」

「……? そうなの? 別に言いたくないことなら、無理に話さなくてもいいと思うけど」

 いわゆる、真面目モードの口調、みたいな。唯花がこういう話し方をするときは、多くはこちらも真面目に聞くべき話題なのだ。まるで初めて彼女に会ったときのような。

「そういうわけじゃないわ。詞には知っておいてほしいことだと思ったから、一度ちゃんと話しておこうとかなって。それにあなた自身にも、少しだけど影響するかもしれないしね」

「僕に影響? それはつまり……遺失絡みってこと?」

「そうそう。どうしてこんなことになってるのか、知りたくないわけじゃないでしょう?」

「まあ……そりゃ、ね」

 それは、そもそもがこうなった大元の話だ。もちろん気になる。気にはなるが……。

「だから、その辺についての話をしてあげるわ。順序立てて説明するとね、私があなたに声をかけたのは……」

「待った。それってけっこう時間かかる? 長くなる話?」

「え? そうね……短くは、ないわね」

「じゃあさ、悪いけどそれ、また今度でいいや。もう外も暗いし、そろそろ帰らないと」

 気にはなるが、見上げた先の壁掛け時計の短針は、既に八の文字盤に迫ろうとしている。こんな時間になっているなんて、今の今まで気付かなかった。午後八時。もう、夜だ。

「あら、そうなの? 泊まっていけばいいじゃない。もう今日から夏休みなんでしょう? ピザ頼むからさ! 食べながら話しましょうよ!」

 唯花は、またしても僕を引き留める。さらにあろうことか、容易く泊まっていけと言い放つ。確かにこの家、部屋は多いけれど……。

 彼女の方こそ、僕のことをどう思っているのだろう。男性としての意識はあるのだろうか。

「ピザって……そんな軽い雰囲気で話せることなの? それに、夏休みなのは間違いないんだけど……明日の午前中、僕は学校に行かなくちゃならないんだ。だから今日は帰るよ」

「学校? どうして?」

「ちょっと、ね」

「ふぅん、なーんだ」

 本当なら、僕だって夏休み初日に学校へ出向きたくはない。でも、そうしないわけにはいかない用事があるのだ。

 提出を先延ばしにし続けた進路希望調査という紙切れを、僕は出さなくてはならない。本当は今日までが期限だったらしいと帰り際に知った。明日、先生に謝って出すつもりだ。

「あっ! じゃあさ、午後からなら時間ある?」

 唯花は、登校の理由までは聞かなかった。しかし代わりに、別の予定を提案する。

「あるけど……明日も呼びつけるつもりなの?」

「呼びつけるだなんて、人聞き悪いわね。明日は私も出るわ! デートをしましょう!」

 ……何だって?

「デー、ト……?」

「そう! 街に遊びに行くの! さっきの話も、そのときにするわ!」

「か、構わないけど……まあ、暇だし」

 驚いたことに、デートに誘われてしまった。冗談か本気か定かではないが、言葉の響きにいささか戸惑ってしまう自分がいる。

「ぃやったー! 詞と遊ぶのって、初めてなのよね~」

「そうだっけ。いつも出歩いてるのも、似たようなものだと思うけど」

「あれは仕事よ。全然違うんだから」

「そんなものかな」

 こんな話をしながら、はしゃぐ唯花の姿を横目に、僕は鞄を持って席を立った。

 その動作に僕の意図を察したのだろう、扉に近い側にいた彼女は、丁寧にドアを開けてくれる。同時に楽しそうに口を開く。

「そんなものよ! それで待ち合わせは、明日の午後一時。街の公園の日時計ね! あの、花壇のいっぱいあるところ」

 指定の場所は、オフィス街とは反対の華やかな区画だった。それは確かに、デートにはうってつけの、定番とも言えるほどの待ち合わせ場所。だいたいどこの街にもある、カップルが集まりそうな見栄えのいい目立つ場所だ。そう。カップルが集まりそうな……ね。

 ……危ない。ニヤけては駄目だ。

「わかった、一時だね。でも、都合で少し遅れるかもしれないから、もしそうなったら周辺の建物にいてくれるかな。暑いだろうしね。携帯があるから、近くにいればまず会えるよね」

「うん、了解! じゃあ詞が学校に行っている間に、私は灯華のところへ行ってこようかな」

「そうだね、それがいいよ」

 廊下をスキップで移動しながら、唯花は玄関まで送ってくれた。迎えるときはぞんざいなのに、送るときはいつもそうしてくれるのだ。僕がテラスまで出ると、中から優しく手を振って、彼女は言う。

「じゃあ、詞。明日、楽しみにしてるわ」

「あはは……それは何より。相手が僕で申し訳ないけど」

「何言ってるのよ。詞とデート、嬉しいわよ?」

「はいはい。じゃあ、また明日ね」

 僕の方も片手を振って、そしてエレベーターに向かって歩き出す。

 いい加減、唯花にからかわれるのにも、耐性をつけないといけないな。見てくれが美人だから難しいけれど、そうしないとこの先、僕の方の身が持たない気がする。

「バイバイ、また明日。うーんとおめかしして行くからねっ!」

 その言葉には、立ち止まって再度手を振るだけに留めた。振り返らなかったのは、まだ僕が、彼女の悪戯な笑顔に順応しきれていないからだ。



     3  二〇二四 文月―末



「ありがとうございます。失礼しましたー」

 僕は職員室内に声を放ると、廊下に踏み出して扉を閉めた。

 進路希望調査用紙の提出は、一日遅れた件について担任から少し小言が飛んだが、概ね事もなく完了した。まあ所詮は紙ぺら一枚だ。

 内容についても、無難な進学先である地元の大学を書いておいた。別に僕は、特別そこへ行きたいというわけではなかったが、そうやって書いておけば再提出になることはないと思った。

実際のところ僕の頭の中にだって、自分の将来の展望などほぼ皆無だ。

 もちろん、それがよないことだというのは分かっている。一年以上先のこととはいえ自分自身のことなのだから、しっかりゆっくり考えていかなくてはならない。実感はなくてもせめて今から想定はしておくべきというのが正論だ。

 でも正直なところ、それよりもまず僕は現状のことについて考えなければならないだろう。失くしてしまった寿命について、唯花の目測では二年ほどで期限が訪れる。このことだって同様に実感はないが、せっかく受験を超えて花の大学生になったとしても、半年で死んでは元も子もないのだ。

 僕は渡り廊下を歩いて昇降口まで向かった。

 ふと、校内にチャイムが響いていることに気付いたのはそんなときだった。当たり前過ぎて聞き流してしまいそうだったが、今は夏休みだ。だというのに、いつも通りの鐘の音が聞こえるのは、いったいどういうことだろう。ただ、このチャイムが定刻通り作動しているのだとしたら、今現在をもって時刻は正午ということになる。これなら唯花との約束には間に合いそうだな、なんて心の中でぼんやり考える。

 けれどもそこで、僕は意外な人に出くわした。その人物は、僕と同じ渡り廊下を反対側から歩いてきていた。

 そして向こうも、相対する人物が僕だとわかったとき、軽く口元をほころばせながら声をかけてくる。親しみやすく落ち着いた、好感の持てる声音であった。

「やあ、川澄くん。君も学校に用事かな?」

 声の主は、織戸という僕のクラスの委員長だ。整った髪型をして、センスの良い眼鏡をかけた好青年。

「うんまあ、そんなところだよ。織戸くんは……委員長の仕事でもあったの? 向こうの校舎からきたようだけど」

 彼が今までいたらしき向かいの校舎には、三年生の教室と委員会用の教室がある。彼はいくつか委員会に所属しているし、だいたいの用件は予想がついた。

「俺も、そんなところだ」

 夏季休業第一日目にして、なんと殊勝なことであろうか。

「ふぅん。大変そうだね。ところで、ちょっと気になったから聞いてみるんだけど、学校って休みの間もチャイムのスイッチを切ったりしないものなの?」

「ああ、さっき鳴っていたやつか? 違うよ。学校が生徒に使われないときには、もちろん電源は落ちている。でも今は、三年生が夏期講習をやっているから、それで必要なんだ」

「夏期講習? そんなものをやっているの?」

「受験生だからな。夏休みも勉強さ」

 織戸くんは、ははっと笑ってそう説明した。三年生の教室がある棟にいた彼は、きっと今まさにその様子を見てきたのだろう。

「うわー……。それは何でいうか、気の毒だね。僕ならちょっと耐えられそうにないよ」

「とは言っても、俺たちも一年後にはそうなるわけだ。もちろん、進学を希望すればの話だが」

 うっ……これは嫌な話を聞いたぞ……。今しがた提出してきた意思表明の書類によって、まだ体裁的ではあるにしろ僕も進学希望組となったわけだ。一年先のことだとはいえ、それを考えると正直揺れる。

「その顔を見たところ、川澄くんも進学を希望するようだな」

「えと……まあ、一応ね。でも今の話を聞いて、何だか思い直しちゃったよ」

「ははは。うん、大事なことだからな。気の済むまで悩むといい。三年になるまでに決めるとしても、それでもまだ半年ある」

「そう、だね」

 そう。今はまだ、夏休みも始まったばかりだ。今より約一ヶ月の間、くだらない授業から解放され、それが終わって秋がきて、冬がきて進級する。さらにそれから一年後、僕は人生の小さな岐路に立つのだろう。進学、就職、あるいははたまた、別の道。小さいとは言いつつも、重要であることには変わりない分岐点。きっと、覚悟が要求される。さきほど現状と比べて後回しにしてしまった思考が、また浮かび上がる。

 まだ半年? いや、たった半年、あるいはたった一年半だ。このままでは、未だに何一つ確かなものを手に入れていない僕が、自分の行く末を切り開く力もなく、ただただ成り行きで大人になってしまう。将来を決める術も勇気もなく、実りのない焦燥感だけを抱えて、空っぽの成人になってしまう。現状では自分の寿命さえ失った有様なのに自覚も薄く……ああもう、またこのもやもやの繰り返しだ。

 そう思うと、僕は無性に憂鬱だった。

 織戸くんの言葉に対してそんな陰気な思考を巡らせてしまった僕は、表情が曇ることをふと心配した。しかし幸い彼に気取られた様子はなく、彼は僕を見て少し不思議な顔を見せはしたが、やがて何かを思い出したかのように口を開いた。

「おっと、引き止めてしまって申し訳ない。もう帰るところだったみたいだな」

「いや、構わないよ。織戸くんは、今から職員室?」

「その通りだ。ちょっとした野暮用だよ」

 はて、野暮用か。まあ、委員会以外にも彼は色々なことに関わっている。校内の重要人物だ。

「すごいね、立派だ。頭が下がるよ」

「いいや。君が思っているほどではないさ。きっとな」

 答えると彼は僕の横を通り抜け「じゃあ」と告げて去っていった。

 彼は、やはり優秀だ。その上、真面目で人当たりも良く、適度に謙虚でさえある。先ほどの件、当然のことだからいちいち話題になんてならなかったが、彼の方こそ進学希望者なのだろう。噂で耳にしたことがあるが、彼の父親は街の病院の院長だそうだ。僕が前に訪ねた病院が、その病院だったと思う。だからきっと彼は、それを継ぐためにどこかしらの国立大学の医学部にでも行くのだろう。僕に限らず他の皆も、彼に対してはそういった印象を抱いているはずだった。

 まあしかし、それはそれ、彼は彼だ。そんな彼の人生にとって、僕はせいぜいクラスメイト程度であって、そして、それで十分だ。

 織戸くんと別れて再び一人になった僕は、携帯で時間を確認しつつ靴を履いて学校を出た。もちろん唯花のところへ向かうためだ。一時ぴったりに彼女が待っている保証はないが、だとしても僕が遅れて良いわけではない。デートのセオリーとして、男性は五分前には着きたいところだ。

「ごめんね、詞。待ったかしら?」

「いいや。僕も今きたところだよ」

 なんて会話を皮切りに、記念すべき初デートを最良の日に……いや、唯花相手にこれは無謀か。

 けれども何よりその前に、さきほどの会話を引きずって意味もなく暗くなっている僕の気分を、早めに何とかしなければ。このまま彼女に会ったら、それこそ何を言われるかわからない。

 怒られるだろうか、せっかくのデートなのにと。それとも心配されるだろうか、どうしたのかと。どちらにしても、僕としては歓迎できる展開ではなかった。

 彼女には、あまりこういうことを話したくないと、僕は思うのだ。

 自分一人で考えたいから? 彼女に話すのは恥ずかしいから? いいや……どうだろう。自分の中でもはっきりとした確証はない。

 普段の僕は、見栄とか虚勢とか、あるいは意地とか、そういったものとは遠い場所にいる。自分が周りからどう見られているかという点について、あまり執着がないということだ。

 でもなぜだろう。僕は唯花に対してだけは、その限りではない気がするのだ。彼女に向かっているときだけは、僕は“僕”として存在していたい。確かな自分を、彼女の瞳に映していたい。そう思う。確かな自覚が胸にはあった。

 彼女の前では、自分の存在の意味なんてものを、問いたくなる。その答えまで、わかってしまう気がしてくるのだ。

 では、反対に考えたらどうだろう。

 僕の目に、彼女という存在は、確かに映っているのだろうか。彼女という存在を、明確にその他の存在と区別して、認識できているのだろうか。

 彼女の存在は強い。僕の中では、それを無視することなど不可能なくらい、極めて大きい。彼女は僕の意識の大部分を、堂々と乱暴に占領している。

 でも僕は彼女のことを、実はよく知らないのだ。ここしばらく一緒にいて、実に美しい容姿を持つことや、それに反して片付けが苦手でサバサバした陽気な性格をしていること、やたらと新しい電子機器を買い漁ることは分かってきた。しかし、こと彼女の事情に関しては何も知らない。あの年で灯華さんのような人と繋がっていて、ちょっとヤバそうな仕事をしている事情については、何一つ存じ上げないのだ。

 もちろん僕にとって、彼女の境遇が気にならないものかどうかと問われれば、そんなはずはない。聞いたって教えてくれるとは思っていなかったし、興味本位で聞き出すのも良くないとも感じていた。

 しかし幸いにも、唯花はそれを今日、僕に語ってくれると言った。僕に、知っておいてほしいと言った。ならば僕は、それを知らなければいけないだろう。しっかりと彼女の話に、耳を傾けなければならないだろう。

 そうなのだ。考えてみれば、今日という貴重なこの日の時間を、僕の矮小な不安話で潰して良いはずがない。だいいち彼女は気紛れだし、もしも今日聞き逃したとして、明日以降に改めて聞いても答えてくれないという可能性は十分にある。聞き手の姿勢は非常に大切だ。心の準備は、万全の状態で行かねばなるまい。

 ほどなくして僕は、待ち合わせ場所になっている街の公園に到着した。思っていた通り人は多い。僕と同じような境遇にある人も多々いそうだ。

 とりあえず確認すべきは日時計の前。手頃なベンチが数か所に設けられている。そしてその全てが道行く人の休憩に使われていたが、しかし唯花の姿は見つけられなかった。

 まあ、これくらいは予想の範疇だ。先に述べた通りセオリーなんて通じるはずもなく彼女の遅刻という可能性もあるが、周辺には彼女の好奇心を刺激しそうな店が多い。いずれかに引き寄せられている可能性も十分あった。

 それに僕は、暑いだろうから店にでも入っていれば良いと、自分で告げていたではないか。実際にここまで歩いてきて痛感するが、炎天下はやはり暑いものだ。

 待ち合わせ特有の情緒には欠けるが、ここは電話をしてみることにしよう。僕はポケットから取り出した携帯でコールする。唯花は多趣味過ぎて、どの店にいそうだとか、そういう当たりを付けるのが難しいのだ。少なくともそれは、僕にはまだ到底無理な芸当である。

「あ、唯花? 公園まできたんだけど、今どこかな?」

 コールのあと、僕は当然、第一に唯花の声が聞こえるものと思っていた。しかし、実際に僕の鼓膜を刺激したのは違う音だ。それは人の声ですらなかった。

『ケーオーー! ユーアーグレイトー!』

 ……………………。

『あ、もしもし詞!? ごめんごめん、今ちょっと手が離せないんだけど、もう着いたの?』

 けたたましい効果音の濁流の中で、唯花の声はようやく聞こえた。最初は驚いてフリーズしてしまったが、冷静に思考が回ればすぐにわかる。電話のBGMは、これ以上にはない彼女の所在を知らせるヒントだった。

「うん、着いたよ」

『あら、早いじゃない。遅れるかもって言ってたくらいなのに』

「そうだったね。早過ぎたかな」

『ううん。早くきてくれて嬉しいわ。でも、もう少しだけ待って。あとちょっとで行けるから』

 電話越しでも、唯花の笑顔はよくわかった。声の弾み方が僕の耳には心地良い。まあ背景の音がうるさいけれど、この際それは無視しよう。

「いいよ。僕がそっちまで行くよ。そこで待ってて」

『え? こっちくるの? 場所わかる?』

「わかるさ。もう着くんだ。じゃあ切るね」

 実はもう、僕は話しながら移動をしていた。通話の繋がった瞬間に居場所が特定できたため、こちらから出向いた方が手っ取り早いと思ったのだ。唯花はまだ何かを言おうとしていたが、続きは直接聞こうと思って携帯をしまった。

 だって、そう。この自動扉を抜けた先、騒がしさで右に出るものはないゲームセンターという空間に、間違いなく彼女は居るのだから。

「やあ、唯花。調子はどう?」

「すごい、よくわかったわね。テレパシー?」

「あはは。だったらいいよね」

 もし僕がテレパシストなら、普段の唯花とのやりとりも、もう少し上手くいくことだろう。

 ここは、街で一番大きなゲームセンター。少し煙草臭い店舗の中に、所狭しとゲーム用筐体が設置されている。その中の一角、奥の方のゲーム台に、彼女は一人で座っていた。

 水色のカジュアルなキャミソールに青のホットパンツという、これでもかというほど夏らしいスタイルだ。加えてつばの広めな白い麦わら帽子をかぶっている。ちなみに、いつも必ず付けているピンクの花のかんざしは、今日は帽子にその身を預けていた。

「ねぇねぇ、この帽子どう? 可愛くない? シンプルでかっこいいでしょう?」

「キュートとクールを両方狙っているの? 随分と高難度だね。まあ、似合ってるけど」

 可愛くて格好いい。それはかなりのおしゃれアイテムだが、唯花の中ではこの大きな白帽子がそうらしかった。真っ先に同意を求めてくるところを見ると、なかなかにお気に入りのご様子だ。

「今日は随分と涼しそうな格好だね。腕とか足とか焼けちゃうんじゃない?」

「だってあっついじゃない。詞は色白好みなの? 私、それはちょっと、自信ないなー」

「いや、別にそんなことは……それに、唯花は十分白い方だと思うよ。だからこそ心配したんだけど」

「そう? じゃあ、次からは気を付けよっかな」

 唯花は「お世辞が上手ね」なんて言って笑う。でも世辞ではなく本当に、彼女の肌は白くて綺麗だ。

 そしてそれ以前に今日の彼女の服装は、男の僕としては若干目のやり場に困る節がある。二の腕とか太ももとか、そうした部位を惜しげもなく露出されては、露骨に視線も散るというものだ。

「ふふっ。別に見てもいいのよー? 私が自分で、この服を選んだんだから」

 唯花はちらちらと、ゲーム画面を見ながら話す。そんな注意の分け方をしていても、僕の胸中は筒抜けのようだった。まあ、これだけ不自然に目を逸らせばばれもするだろうが……いや、でもたったそれだけのことで、彼女にしてやられた感じがするのは複雑だ。

 僕の感想を知ってか知らずか、彼女はさらに続けて話す。

「それとも詞って、布の多い服の方が好きなのかしら? そういえば、部屋でもすぐ服着ろって言うわよね」

「それは……多分誰でも言うよ。唯花の部屋での格好を見たらね。別に、僕の好みはどうでもいいじゃないか。僕は、それぞれの人に似合う服装が一番好きだよ」

「なーにそれ、無難な回答ねー。でもデートなんだから、相手の好みの格好でいたいと思うのは自然じゃない? だから私としては、詞の傾向もできれば知っておきたいかな、と」

「傾向って……言ってることは正しいけど……でもそういうのはまあ、後々で。ほら、僕なんか今日、制服だしさ」

 図らずもこんな話になってしまうと、僕が今日ここに学校の夏服できたのは、もしかして失礼だったかな、なんて思ってしまう。いや、実際のところ、おめかししてきた相手に対して制服でデートに来るのは、確かに微妙だとは思うけれど……。そうか。言われてみれば当たり前か。何だか唯花に申し訳ない。

「ま、それは仕方ないわよ。用事のついでなんでしょう? 家帰って着替えてたら、遅くなっちゃうしね」

 しかし唯花は特に気にしていないようで、さも当然のように軽々と続けた。

「いいのよ。私は今日という日を、詞のための日にしたの! だから大目に見てあげるわ」

 恥ずかしい。すごく恥ずかしい。あまりそういうことを大きな声で言わないでほしいものだ。バカップルだと思われちゃうでしょう?

 僕のための日だなんて……そう思ってくれるのは嬉しいが、唯花はそれを思うだけでなく、面と向かって口に出せてしまう人だから、また僕の手に負えない。僕の器量は、彼女を相手にするには少々窮屈だったりする。

 結局僕は、軽い礼を述べておいて、話を逸らしていくしかない。

「あ、ありがとう……。ところで、唯花のやっているそれは……格ゲーかな?」

「ええ、そうよ。やったことない? ロードオブアーツっていうの」

「知ってる。結構前から流行ってるやつだね。僕にはちょっと、難しかったけど」

 唯花が現在進行形で熱中している目の前のゲームは、名前を聞けばすぐにわかった。僕は通うというほどゲームセンターにはこないけれども、そんな僕でも数回はやったことがあるくらい有名なゲームだ。以前に、その手のものに詳しそうなクラスメイトが教室で言っていたが、キャラクターデザインとゲームバランスが特に絶妙だとか何とか。

「やっぱりこのキャラデザがいいわよね~。センスを感じるわ。あとはそう、どのキャラクターでも、やり様によっていくらでも戦えるから面白いのよ!」

 うん、だいたい同じような感想だ。ある程度やるとその良さがわかるらしい。どうやら僕は、良さに気が付く前にやめてしまったみたいだが。

「全国オンライン対戦っていうのもいいと思うの。やっぱりコンピューターばっかりが相手っていうのは、つまらないものね」

「ああそっか。全国でこのゲームをやっている人と、リアルタイムで戦えるってやつだっけ? でもそれじゃあ強い人いっぱいいて、逆に面白くないんじゃない?」

「そうなの? 私は結構楽しいわよ。勝てるし。あ、ほら、また勝ったわ」

 言われてみれば、僕と話しながらもガチャガチャやっていた唯花は、さきほどからたびたび操作キャラクターに勝鬨を言わせていた。それを思うと、少しばかりゲーム画面が気になるところではある。

「唯花、もしかして上手いの? ちょっと見せてよ……って、げ!」

 そうして今になって、初めて唯花のアカウント情報を目にすると、そこに表れている数値が軒並みおかしいことに僕は気付いた。思わず変な声が出てしまったくらいだ。

「何これ。連勝105!? 所持ポイント23万って……気持ちわるっ!」

「き、気持ち悪いですって!? 失礼ね詞!」

「いや、だってこれは……。唯花どんだけこのゲームやってるのさ。っていうかやりこんでるのさ。このプレイデータはかなり……ものすごくイカれてるよね」

「イカれてるとはご挨拶だわ! あなたねぇ、もう少し私に対して言葉を選びなさいよ」

 僕は、素直な感想を言ったつもりだった。かじっただけの僕でもわかる。もう言葉を選べるレベルではない。ハッキングでもしたのではないかというくらいの戦歴だった。きっとこのアカウントデータをかざすだけで、ヘビーゲーマーの八割くらいは頭を垂れることだろう。

「だってこれランク別になってて、勝ったら加点、負けたら減点でしょ? 一日張り付いてゲームして、全部勝ったとしても200ポイントくらいしか稼げないはずなのに……。信じられないよ。僕は確か140ポイントくらいだったかな」

「うるさいわねっ! いいじゃない面白いんだもん! 一時期はまってただけだもん! もう今は、暇つぶし程度でしかやってないわ!」

 唯花は両手を拳にして振りながら、珍しく駄々をこねるようにして僕に訴えた。椅子を捻って僕の方を向き、ゲーム画面は丸っきり放置でムキになっていた。

 しかしあれだ。彼女にこんな特技があったなんて意外や意外。いや、これが特技と言えるかは別として、とてもすごいことだとは思う。記憶に残すべき教訓になるだろう。多趣味を舐めてはいけないのだと。

 僕が感慨にふけっているうちも、彼女は涙目で抗議を繰り返す。こんな可愛らしい唯花の姿は、彼女の悩殺デートスタイルと比べても引けをとらない一見の価値ある光景だ。

 しばらく一通りぽかぽかと殴られてから、僕は彼女を何とかをなだめ、改めて場所を移す提案をした。こうやってここで遊んでいるのも悪くはないが、しかし時間は有限だ。気になる本題もあることだし、これがデートならばなおのこと、色々見て回る方が良いだろうと僕は思った。

 ちなみに、僕への抗議のために画面を放り出した彼女は、そこでゲームに負けてしまった。あの凄まじい連勝記録を止めてしまったことについては、少々罪悪感を抱かざるを得ない。

 こうして僕らはデートを始める。

 さしあたって唯花の機嫌をとるために、彼女の行きたい場所を目的地とし、僕はそれに全力でお供することにした。美術館でも水族館でも、買い物の荷物持ちでも大歓迎だ。僕は彼女と一緒なら、どこでも楽しめる自信があった。

「詞なんて嫌い」

 しかしなだめたとはいっても、まだちょっとご機嫌斜めだ。

「あはは。まあ、そう言わないで。街に誘ったってことは、どこか行きたいところがあるんじゃないの?」

「……化粧品店。ランジェリーショップ」

「い、意地悪だね……」

 本当に行くと言われれば、まあ行くけど……。でも僕は男性だし、ずっと床だけを見ていることになりそうだな。

「冗談よ。そうね、夕方までの時間を過ごせればいいから、服でも見に行きましょうか。私の服、詞に選んでもらおうかな」

 よかった、冗談か。てっきり唯花のことだから本気かと思った。下着はともかく、服ならどうにかなりそうである。

「わかった、服だね。頑張って選ぶよ。それはそうと、夕方までってどういうこと? 今日は夕方で解散なのかな?」

「そうじゃなくて、夕方に行く場所は、もう決まっているの」

「へぇ、用意がいいね。それはどこ?」

「秘密よ。ひ・み・つ! 日の入りが近くなったら、連れて行ってあげるから」

 人差し指を唇に当てて見せながら、唯花は駆け出す。同時に当り前のように僕の手を取ったのは、人混みの中ではぐれないようにするためだろうか。その行動に、僕の胸は少しだけ高鳴った。

 どうやら彼女の機嫌は、徐々に回復していきそうだ。

 ただ、夕方までの時間はそう多くない。ゲームセンターで話し込んだこともあってか、何軒も店を行き来して服を選ぶというのは無理そうだ。そのため僕らは、向かう先を街の大きなデパートに定めた。

 唯花に連れられて入ったデパートは、風彩の街では一二を争う敷地面積を誇る。この街に住む人ならば、当然一度は訪れたことがあるだろう名所というわけだ。きっと全部は見て回れないので、時間内に出会った品々で、彼女の満足いくコーディネートができるように祈ろう。

「はい、とーちゃーく! このフロアはぜーんぶ、婦人服の売り場になっているわ! というわけで詞、期待してるからね!」

 目的地に着く頃には、この通り唯花のテンションはてっぺんまで上っていた。もちろんそれはそれで喜ばしいことだが、僕としてはそんな彼女を、ここでがっかりさせたくはないものだ。

「かなり広いね。もう一度確認するけど、本当に僕が選ぶんだね?」

「そうよー。今日は詞のための日だから、私があなたの着せ替え人形になってあげるわ!」

 何という発想。加えてその言い方。誤解を招くなぁ……。まるで僕に、女の子を着せ替えて楽しむ趣味があるみたいじゃないか。

「そうだなー……じゃあまずはあの店で」

 だがそれでも、結局やることは一緒だった。

 僕はまず、良さそうな店舗をいくつか決めて回ることにした。繰り返すけれども全て見る時間はないと思うので、外観からどんな服が売っているのかを予想しながらの買い物だ。

 今回どうやら唯花は、上から下まで全部を僕に選ばせるつもりらしく、それを知ってからはさらに気を遣う買い物となった。

 それでも僕は、てっきり彼女の注文がうるさいと思っていたのだが、意外にもまったくそんなことはなく……気味が悪いくらい素直に、こちらの言った通りのものを試着してくれた。人形と言いつつ、あれこれ文句を飛ばされる想像をしていたのだが、その辺りは彼女の配慮なのだろうか。

「これなんかどう? 似合うはずだよ」

「わかったわ。じゃあ、それ着てみる」

「スカートはこれかな。真っ白で、可愛いと思う」

「うん。待ってて」

 そう。こんな様子で、一言も文句を言わないのだ。僕が真剣に選んでいることを理解したのか、はたまた別の理由からか。とにかく、その従順さはちょっと怖いくらいだった。

 試着室で着替える唯花を待つ間も、僕は一人で店内を回った。今回に限っては効率重視だ。一緒に見て回るのも楽しいだろうが、そんなことも言っていられない。

 上下の服装が決まったら、靴と、それから帽子。似合えばそこに、アクセサリーなんかも加えてあげたい。考えれば考えるほど、買いたいものはどんどん増えた。

 僕に着せ替えの趣味はないと言ったが、何だろう……唯花がモデルなら、正直全然、悪くはなかった。女の子にしては背が高めで、何でも着こなす外見は異性から見ても羨望に値する。そのためどれを手にとっても捨てがたいのだけれど、彼女の手間も考えて、着用を試みるのは厳選後のものだけだ。

 そうして次第に彼女のコーディネートは完成していき、時間もそれ相応の経過を示していた。厳選したといっても、それなりに提案した着数は多い。今日一日だけで、彼女は何度衣類の着脱をしたのかわからないほどだ。紆余曲折とまではいかないものの、全ての購入物が決定するまでは、決して一本道ではなかった。いくら発案者本人とはいえ、よく最後まで音を上げないでいてくれたと思う。

 最終的に購入を決めたあと、確認のためにもう一度全てを試着した唯花の姿は、やはり期待通りだった。

「詞、着たわよ」

「うん」

 改めて全身を見て、僕は思う。コーディネーターを務めた僕自身が言っては自画自賛だが、それでも確かに、文句のない出来だった。達成感をしみじみと感じる。

「……何か、言ってよ」

「ああ、ごめん。すごく似合うね、悪くないよ」

「違うわ。……可愛い、でしょ?」

「うーん……どちらかというと、綺麗と言った方が相応しいと思うけど」

 選んだ服は、白を基調とした清楚な印象の服だった。長袖だが薄い生地で、夏にも着られるし秋物にもなる。ひらひらした装飾と、歩いて膝が見え隠れするくらいのスカートが一押し。靴はわずかにヒールの上がる白い靴。機敏な彼女が転ぶことはまずないだろう。帽子については、今日彼女が被っていたものがそのまま合ってしまったので、申し訳ないけれどそのまま使い回させてもらった。代わりといっては何だが、ワンポイントに誂えたアクセサリーには時間を割いたつもりだった。おかげで本人には不足がちな気品というステータスが二割増し。非常に結果オーライと言えよう。

「どっかのお嬢様みたい。それに、やっぱり肌は出さないのね。詞のタイプってわかりやすいわ」

「え、あれ? そういう話だったっけ?」

「本筋は違うけど、でもやっぱりそうなんだなぁって。自覚ないのかしら?」

「僕のタイプを探るのはやめてってば。唯花が今日着ていた活発な服も、僕は十分良いと思うよ」

 ともすれば、元々唯花が着ていたものと似ていない方が良いと、僕は思っていたのかもしれない。それは、元の唯花の服装が好みでないという意味ではない。それどころか僕の中の唯花の印象では、活発な服装の方が相応しいとすら思うくらいだ。

 しかしだからこそ、意外性という面も含めて、奇を衒ってみても良いのではないかと考えた。結果としてそれも似合ったのだから、試みとしては成功だろう。

「まあ、いいわ。私も気に入ったし、次のデートではこれを着てあげるね」

「そうだね、ありがとう。せっかくだからそれ、僕が買ってあげるよ。これから聞く話の、前払いにでもなればいいしね」

 告げながら僕は、店員のいるレジに足を運ぶ。購入の意思はあらかじめ伝えてあるし、唯花は服を着替える時間があるから丁度良い。

 着替えたら少し待ってて、とそう伝えて僕は彼女の前から一度立ち去ろうとした。

「あの、詞……私、そんなつもりで服……選んでもらったわけじゃないんだけどな」

「いいよ。気の利いたバイト代の使い道に困っていたんだ。大丈夫さ、僕にだって買える品だったよ」

 唯花は僕に渡されたものを試着していただけだ。きっと値札は見ていない。別に飛び上がる値段が弾き出されるわけでもないのだし、選んだ僕が買ってあげたかった。

 あるいはまあ、デート気分に当てられた気の迷い。そう解釈しても良い程度の気紛れだろう。

「あ……ありが、とう。感謝するわ」

「うん。どういたしまして」

 少し恥ずかしげな唯花も、光景としてはレアな方だ。僕の方も、それが見られて気分が良かった。

 それから再びエレベーターに向かい、着いたのところで僕は一息つく。

「ふう。いいね。溢れる達成感」

「私は幸福感。本当にありがとう。大事に着るからね!」

「頼むよ。床の上にほったらかしとか、僕怒るからね」

「そうね。間違ってもこの服たちだけはちゃんと扱うから」

 できれば全部の服をちゃんと扱ってほしいところだが、その言葉に悪い気はしない。今は散らかし癖のことは言わないでおこう。僕もそこまで無粋ではないつもりだ。

「じゃあ、そろそろ時間もいい頃だし、次の目的地に向かいましょうか」

「そうだね。やっと行き先がわかるのか。期待しているよ」

 僕は答えて、エレベーターの下行きのボタンを押そうとする。

 次の行き先について、それが気になっていたのは本当だった。唯花が勿体つけるときの言動は、異常にこちらの興味を刺激する。彼女の持つそういうスキルは、無駄に熟練度が高いのだった。

「あー! ちょっと! そっちじゃないわよ」

 しかし、咄嗟に彼女は声を張る。僕の指へ向かって手を伸ばし、ボタンを押すのを制止するのだ。

「な、何するの唯花。早く押さないと、エレベーター行っちゃうよ」

「そっちはいいの。私たちが乗るのは、上へ行く方だから。ほら、押すならこっち!」

 ……上? どういうことだろう?

 場所を移すなら、まずはこの建物から出ないことには始まらない。だから僕らには、一階に下りるエレベーターが必要のはずだ。なのに唯花は、そのエレベーターはいらないと言う。

 混乱する僕は掴まれた指を彼女の意思に預け、力を抜いてしまっていた。そうして彼女が僕の指に改めて押させたのは、上向き矢印のボタンだった。

 ほどなくしてやってきたエレベーターに彼女はためらわず乗り込み、慣れた手つきで操作をする。僕も続いて乗り込むが、行き先ボタンは彼女の影になって見えなかった。いったい、どこへ行くのだろう。

 僕は少しの過重力空間において答えの模索に励んだが、しかし結局のところ、その思考回路の完結よりも早く、目の前には解答が示されてしまう。

 エレベーターの扉が開いたときには、もう既に目的地だったのだ。

「着いたわよ。さ、出て」

 移動は、実に短時間で済んでしまった。

 僕は、唯花に促されて境界を跨ぐ。そこで僕が最初に抱いた印象は、婦人服のフロアよりもいっそう際立つ、広さだった。

 もちろん、敷地面積は同じはずである。上層なのだから、むしろ狭くなっていてもおかしくはないくらいだ。しかし、それでも広い。きっとそれは、このフロアの構造上の問題だろう。

 柱らしき空間占有物は限りなく少数に抑えられ、壁面のほとんどは透明のガラス張り。さらに敷地の七割以上がテーブルと椅子のために割かれており、一角にカウンターが設けられているのみであった。

 つまるところここはデパートの解放空間、休憩所といったところだ。そのためだけにワンフロア全てを用いる設計は、実に豪気だと認めざるを得ない。最上級の客への配慮だ。

 そしてさらに驚くのは、この目に飛び込む色彩だ。赤く赤く、世界は燃えるように輝いていた。

 浮かんでいるのは大きな夕陽。ガラス張りの周囲から、外界の光が強く差し込む。低くなった黄昏の光は、地平線と平行になって僕らに届く。

「……すごいね」

 言葉がないとは、まさにこのことだ。僕の少ないボキャブラリーでも、せめて唯花にだけはこの感動が伝わることを祈りたい。それくらい、感無量だった。

「でしょ。前にふらふら歩いていたら、たまたま今くらいの時間に、ここに行きついたのよ。この建物、憎いわよ。立地から階数まで、最上階のここが、この時間にぴったりこうなるように作ってあるんだって」

「このエスコートは、ちょっと妬けるな。何だか立場が反対だね」

「いいじゃない。さっきの詞も、とてもかっこよかったんだから」

 たかが地元のデパートでも、これは少々侮れない。そう思うくらいに圧巻だ。その上これを見るだけではなく、座ってお茶や食事ができるというのだから参ったもの。日の出の時間に店は開いていないはずだから、こんな風に太陽が見えるのは、一日の間でこの時刻だけだろう。

 唯花は僕の手を引いて、二人用の席へ腰掛ける。場所はもちろん窓際だ。同時に小さく息をつくと「ふぅ」という声が重なった。

「何か飲む? ここはコールをしないと店員がこないわ。頼むのなら今だけよ」

「なるほど。休憩だけの人もいるだろうからね。注文が今だけなのは、どうして?」

 問いかけながら唯花を見ると、彼女の手元には既にコールベルがあった。一度きたことがあると言ってはいたが、どうやらここでの主導権は彼女のようだ。

「だって、今から長ーいお話しをするのよ? 大事な話よ? その途中にオーダーがきて中断されたら、嫌じゃないの」

 あ、なるほど。確かにそうだ。わからなくはない。

「それに……知らない人には、小耳にでも挟まれると面倒だしね」

「あ、唯花もやっぱり、気にするんだね」

「さすがにね。内容が内容だし」

 それはそうだ。誰も盗み聞きなんてしないだろうが、だとしてもやはり気にはなる。これからするのは、そういう、話だ。

 僕と唯花は、二人で同じものを注文した。数分ののち、店員が紅茶を持ってきて去ってから、再び僕らは互いを見る。

 唯花は目を瞑って、申し訳なさそうに言葉を紡いだ。

「ごめんね。デートの最後にはあまり相応しくない話だけど、せめて雰囲気だけは繕ったつもりだから……許してね」

「大丈夫だよ。それに、僕としては唯花に事情を話してもらえるだけで、プラスの方面の出来事だから」

「……そっか、よかった。今日は、詞のためのお話の日、だっけね」

 唯花は言っていた、今日は僕のための日だと。きっと間違いなく、僕もそう思う。

 そして唯花は、単刀直入に話すと言って、正面で静かに口を開いた。前置きも枕詞も何もなく、ついに今日の本題が始まるのだ。

「詞。私…………何歳だと思う?」

 ……………………。

 いや、訂正。前置きも枕詞もなかったが、単刀直入というわけでもないようだ。

「唯花。えっと……帰ろうか?」

 それはあまりにフランクな質問であったため、僕はいささか錯覚してしまう。知らない間に真面目な話は終わっていたのか? もう帰る時分だろうか?

「こら、真面目な話だってば。ちゃんと答える!」

「あ、これが真面目な話? 気が付かなかったよ」

 違った。やはり今から始まるらしい。まだ終わってはいなかった。

 少しばかり気を抜く僕に対し唯花は「怒るわよ」と言って牽制したが、それでも僕の中の出端をくじかれた感は拭えそうにない。

「えぇー……まあそりゃ詳しくは知らないけどさ。二十歳前くらいなんでしょ? 灯華さんのところで働いていなければ、大学生とかくらい?」

「それが甘いのよ。私と出会ったあの日から、あなたの日常は既に壊れてしまったでしょう?常識が常識でない世界になったでしょう? もっとそういう方面から考えてよ」

「んな……無茶な……」

 手軽い解答は即刻、彼女に却下された。

 その瞳を見れば、間違いなく彼女は真剣だ。身体の正面で両手を組み、僕を見つめる視線が逸らされることはない。夕陽に照らされ、いつもよりも淑やかに映える。

 まあ、僕も無茶な話だということは十分に分かっていたはずだ。だから、考えろと言われて考える。

 唯花の指摘は正しかった。

 忘れてはいけないはずのことだ。彼女に言われたことは、紛れもなく事実なのだから。真実なのだから。変わらず流れる日常に再び巻かれても、僕は今の自分の状況を、覚えておかなければならないはずだった。

 これは、そう。“遺失”の話。

 

「えっと、じゃあ……さっきの質問は、今日話してくれるはずの唯花の事情に関係のある質問……っていうことで、いいんだね?」

「ええ、そうよ。当たり前じゃない」

 ふむ、そうか。ただ考えるとはいっても、僕がこの時点で考慮できることは、実はそんなに多くない。

 僕と唯花の繋がりは、僕が失くしものをしているということだけだ。契約等の細々としたものはこの際省くとして、大まかにはこれだけになる。

 今からするのは、間違いなく遺失の話。唯花の事情に関わる話。そして、彼女が僕に知っておいてほしいと言った話だ。

 これらのことが導く解答、それは……。

 考えていると、僕の中にふと、もっともらしい一つの見解が現れた。おそらくは唯花も、僕のような遺失者である。そういう答えが。

「一つ、ヒントがほしいな。唯花と僕は、同じなの……?」

「あら、非常に良い質問だわ。真面目に考えてくれているようで、何より何より」

 すると唯花は、質問の答えを貰ったわけでもないのに、妙に嬉しそうな顔を見せた。明るく弾むような様子ではなく、口元を軽く引き上げるだけで、静かに大人しく喜んだ。

「同じよ。そして、真逆でもある」

 返ってきたヒントはたったそれだけ。僕と唯花は、同じで真逆。何だかなぞなぞみたいな手がかりだ。

 しかしながらその手がかりは、幸運にも僕の直観を刺激する。

 僕と唯花は同じ遺失者。その仮定の元に発想を膨らませるのであれば、真逆というのは随分具体的な示唆になるだろう。

「あの、唯花さあ。そもそもこの問題の答えは、ちゃんと用意できているの? 唯花のことだから不安だよ。まず先に、それを確認させてほしいな」

「何よー。出題者を疑うなんてあんまりだわ。だいたいの答えなら、この場でちゃんと言えるのよ」

「それって僕のするべき回答も、だいたいでいいってことだよね?」

 ただこのとき、僕は少しだけずるかったと思う。答えより先に質問を挟んでしまった時点で、それはもう言葉のゲームのようなものだったのだ。

 唯花はきっと、僕よりもずっと頭が良いのだろうけれど、僕よりも多少純真だ。

 意表をつく言葉に彼女は固まり、薄い笑顔を浮かべて呟く。

「うっ……。詞、あんたって意外と狡猾ね」

「あはは……。唯花の悪戯みたいなものさ」

 しかし唯花が拗ねてしまう前に、当てずっぽうでも一度は答えておくべきだろう。ひとまず僕はそう結論した。

「そうだね、えっと……百歳くらい?」

 何とまあ、お粗末な回答だろうか。でもきっと、唯花の反応は良いはずだ。

「ちぇ。察しが良くて助かるわ、ほんと。あーあ、つまんないんだからー」

「ごめんね。もう少し若かったかな?」

 勿体つける楽しみがなくなってしまって、彼女は残念のようだった。

 僕としては苦笑いで返す他ない。

「いいのよ、別に。桁一つ誤魔化す若作りも、大したものでしょ」

 けれどもそれを聞いて、今度は僕が固まることになる。

 桁一つ……若作り……? どういうことだ?

「私そろそろ、千三百歳だしね」

「げ…………」

「人生の大先輩よ!」

 …………女性に年を聞くものではない。非常に良い教訓だった。

 唯花は嘘などつかないだろう。そしてそれが事実ならば、彼女は平安時代から生きていることになる。大先輩どころか、先祖の中でも古い方だ。

「そんな嫌な顔しないでよ。私だって、好きでこうなったわけじゃないの。気が付いたら、死を失くしていたんだから」

「……死を……失くす?」

「ええ。正確には、死までの時間。そこに向かうまでの身体の時間。自然死を失くしたとも言える。まあ、考え方は色々あるわね。詳しいことはわからないし」

「随分と、大変なものを失くしたんだね」

「ま、あなたの方も大概だけどね」

 つまりは不老不死ということだろうか。約千三百年前の遺失の瞬間から、彼女は姿形を変えることなく、今の今まで生きてきたということだろうか。何という突拍子もない話だ。

 そして、寿命をなくして死が間近に迫っている僕とは、正しく真逆の存在ということになる。

 話の中枢である大事な告白を終えた唯花は、もう既に軽々とした調子で話していた。表情を変え、仕草を交え、平常の雑談と同じ雰囲気で声を発する。

 けれども僕は、この瞬間にこそきっと、今日一番の深い思考を試みたと思うのだ。僕にとってこれは、とても気安い話ではなかったから。

 沈黙を経て、僕は呟く。

「…………大変、だったね」

「あら、どうして悲しそうな顔をするの?」

「だって僕なら、そんなに長い間……とても生きられそうにないよ」

 あくまで自然死、死までの時間を失っただけなら、死ぬこと自体は可能なのだろう。願えばこの世界から消えることは、できたはずなのだろう。

 だとしたら僕は、いや僕でなくとも普通の人なら、千三百年も生きられない。とても生きていられない。そう思う。

 きっと嫌になってしまう。きっと終わりたくなってしまう。そういうものではないだろうか。

 でも唯花は今、僕の前で笑っている。平気そうな顔をして、ここにいる。今、この時間に、生きている。

 実際に平気かどうかはわからないけれど、とても心が強くないと、できるようなことではない。

「慣れれば悪くないものよ。今までにこのことを話したのは、もちろんあなただけじゃないわ。中には、便利だねって言う人もいた。肯定的に考えればそうじゃない? 枯れない花なんて、夢みたいでしょう? そう思ったら、受け入れられるわ」

「無理……してない?」

「してないしてない。好きなこと、いっぱいできるのよ。好きなとこ、どこへでも行けるのよ」

「そう、かなぁ……」

 本当にそう思うのだろうか、唯花は。あるいは、そう思わないとやっていられなかったのだろうか。

 どちらにせよ、彼女の身の上を想像すると、僕の気は晴れないものだった。

「唯花も望んでそうなったんじゃないってこと、今の話でわかったつもりだけど……それでもやっぱり同情するよ。死なないなんて……辛いんじゃないかな。別に終末思考とかじゃなくてさ。人生にゴールがないなんて、どこに向かって走っているのかも、わからないよ」

 枯れない花は、素敵だろうか? 散らない花は、魅力だろうか?

 そんなのまるで、造花かドライフラワーのようじゃないか。生気の宿らぬ作り物や抜け殻が、たとえ便利で美しくあったとしても、幸せだとは思えない。

「ふぅん。死の意味ってやつ? 前にも聞いたわね、そんな話」

「ああ、いや! ごめん唯花! 唯花が悪いわけじゃないんだよね。それに、なくしたなら見つければいいって、唯花も自分で言ったじゃないか。この先見つかる可能性は、もちろん、その……十分にあると思うし!」

 唯花の意味深な返答に、僕はふと我に返った。彼女の突拍子もない話から、現実に戻ったのだ。そして、よもや彼女の機嫌を損ねてはいけないと思い、即座に否定をしたのだった。

 考え方は様々ある。唯花の境遇が辛いと思うのは、あくまで僕の意見に過ぎない。主観で他人に同情するなんて、さぞや不躾なことだろう。

「あっはは! 突然どうしたの? 別に怒ってなんかいないわよ? ほら、座って座って」

「そ、そう? なら、よかったよ」

 思わず僕は立ち上がっていたらしい。きっと声も大きかったろう。おずおずとまた椅子に座って縮こまる。

「でもね、詞の言っていたことには興味があるわ。今度聞かせてもらおうかしら。私のためのお話の日にでも」

「え、えぇー、嫌だよ。恥ずかしいし、別に面白くもないと思うし」

「今度よ、今度。もう今日は遅いしね」

 ああ、どうやらもう、時間らしい。さきほど立ち上がったときから気付いてはいた。

 もう夕暮れは終わる。もうフロアには人も少ない。太陽も、地平線の裏にお帰りだ。

 暗くなりかける外界を見ながら、僕ら二人は席を立った。

「あ、そういえばもう一つ」

「え?」

 しかし最後に唯花は言った。最上階を降りるエレベーターに向かうとき、何かを思い出したように手を叩いた。

「私、長いこと生きてるからさ、色々面倒なのよ」

「面倒? まあ、だろうね」

「あれよあれ。法律的な、こと?」

「何で疑問形なの?」

 これも、さきほどの話の続きのようだ。そりゃあまあ確かに、一口には語れない面倒が様々ありそうではあるが。

「あはは~、難しいことは嫌いなのよね。戸籍とか?」

「ああ、うん。あるね」

 どうでもいいけれど、疑問形は妙な不安が胸をよぎる。

「多分私のは、もうないと思うんだけどね。だから私って、本当はあんまり派手なことしちゃいけないのよね?」

「戸籍、ないんだ……。すごいね……」

「昔関わってた誰かにいじってもらったから、そのときからもうないはずなのよね。むしろ、戸籍っていう制度のない時代から、私は生きているんだけどね?」

 ここまでくるともう、語尾を上げて話しているだけだ。疑問系にする意味もないのだろうが……何だろう、彼女なりのユーモアだろうか。

「もう、わかりにくいよ! 今度こそ単刀直入に言って」

「何よ、今回は察してくれないんだ」

「毎回は無理だよ!」

 そもそも基本的に、僕に唯花の考えは読めないのだ。回りくどいのは勘弁願いたい。

「えっと……音瀬唯花って、偽名なんだけど」

 ……………………なるほど、そういう話か。

「あぁ……うん、ちょっとだけ驚いた。でもそっか。名前を変えれば、だいたいのことは誤魔化せるのか」

「そうそう。この名前は灯華にもらったの。なかなか気に入ってるのよ」

「へぇ、だから苗字が一緒なんだ。良い名前だよね。それで?」

「え? それだけだけど」

 何だ……何もないのか。

 思わずがっかりして、僕は肩を落としてしまった。オーバーなリアクションをとってやりたいくらいだ。てっきりまた、重要な話に繋がるのかと思ったのに。

「ま、まあ……でも僕はこれからも、唯花って呼べばいいんでしょう?」

「ええ、そうよ。これで何個目かしら。本名もそうだけど、もう忘れちゃったのよね~」

 千三百年も生きていれば、自分の名前すら忘れてしまうものなのだろうか。どうなのだろう。果たしてそういうものなのかもしれない。どの道その心境は、僕の想像の許容範囲外過ぎて、どうにも理解はできなかった。

 ただそのことは別として、僕にも理解できることがあったことを、ここで口に出して伝えておこう。彼女が僕に、自分の名前について話してくれたお礼にでもなればいい。

「一輪の花で、唯花。そのかんざしに因んでいるんだね」

「あらあら、今度は察しがいいのね。ねぇ……本当はどっちなの? わざとなの?」

 僕の予想は当たったようだ。それは彼女の名前の持つ意味。

 彼女はいつも、ピンクの花のかんざしを頭に差している。正しく明確に、いつも、だ。服装はころころ変わるが、そのかんざしが忘れられていたことは、僕の知る限り一度もない。

「たまたまだよ。わざとだなんて、めっそうもない」

「ま、いいわ。このかんざしとは、長い付き合いなの。灯華がこれにかけて名付けてくれたとき、とても嬉しかったのを覚えているわ」

「あと、花と華がかかってるのは、灯華さんなりの愛情かもね」

「どうかしらねー。苗字を貸してくれただけでも、十分愛情は感じたんだけどね」

 唯花は実に嬉しそうに話した。愛着ある名前だと言うから、その話題には心も踊ることだろう。

 とにもかくにも、今日は唯花のことをたくさん聞いた。もちろん、今日聞いたことが唯花の全てではないし、まだまだ知らないことは多いだろう。

 でも一日に聞ける分には限度がある。時間的にも理解度的にもだ。非日常の話は、非常に煩雑で奇怪で、とても疲れるものだから。

 今日僕は、家に帰ったら、寝るまでの間にこの話を整理する。それはわざわざそうしようとしなくても、無意識にでもすることだろう。

 今夜寝るのは、遅いかもしれない。

 唯花とは最後に、デパートから少し歩いたところの分かれ道でさよならをした。送って行こうかと提案したが、灯華さんの事務所に寄っていくからいいと言われた。午前中に寄ったのだけれど、また用事を思い出したらしい。

 こうして、僕は月の輝き始めた家路を一人で歩いてその日を終えた。

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