最終話 人狼の終焉

 銃声。

 ぐらりと彼の身体が傾く。

 話し合いの放棄が唐突だったから対応ができず、アーサーは易々と右ふくらはぎを撃ち抜かれてしまう。

 彼が膝をついた直後、カリスを引きはがして、彼の顔面を蹴り飛ばす。眼鏡が割れ砕けて、折れたフレームが空を舞う。

 拍子抜けするほど簡単に状況は好転した。

「くそ、くそ! 俺を撃ったな!?」

「撃たれないと思っていたのか。馬鹿だなアーサー、銃を手放していない時点で可能性はあったはずだ」

「ぐくっ、この……!」

「はっ、良い様になったじゃねえか」

 カリスを抱えたままゆっくりと後ろへ下がり、戻って来たブラッドに預ける。

足を撃ち抜いたから、もう逃げるどころか、歩くことさえも難しい。

 アーシェは充分に距離を保ったまま、哀れな化け物を見下した。

「前から嫌いだったんだ。あたしを好きなのは嬉しかったけれど、カリスを毛嫌いしたり、あたしのことを知りもしないで恵まれてるだとか勝手に持ち上げて。特にさっきみたいな、自分に酔った話し方が嫌いだった」

「な……」

「あーあー、こりゃ手痛くフラれたなァ。まあでも、その獸臭さじゃ仕方ねえな」

「ふ、ふざけるなっ! 俺が何のためにここまでしたと……!」

 信じられないと顔を歪ませる彼の額に照準を合わせる。それなりの友人ではあったが、今となっては殺すべき化け物でしかない。

 恨みもある。 

 こいつが存在しなければ、今頃はシェーンと一緒のベッドで寝ていたのに、わけのわからない組織に協力する羽目になり、あげくこんな尋常ならざる事態になってしまった。償わせなければアーシェの気が済まない。

「君が勝手にやったことだろう、恩着せがましい云い方をしないでくれ」

「女が……、下手に出ていればいい気になりやがって!」

「そういうところが、嫌いだっていうのさ!」

 アーサーが狼に変身して襲い掛かる。足を怪我しているというに、腕力だけで跳躍していた。

 兇爪を躱して、銃爪を引く。

 銃弾は彼の頬を掠め、振るわれた爪は地面を抉る。

 ブラッドがカリスを抱えて下がり、アーシェは彼らに目が向かないよう反対へと逃げた。

「どうした、人狼の力はそんなものなのか!」

 挑発の言葉を投げかければ、彼は低い唸り声で答えた。

 腕のみで移動している以上、這いずる彼の機動力はアーシェに遠く及ばない。いくら人知を超えていても、速さがなければその力は当たらないゆえに無意味だ。 

 アーシェはとにかく逃げることに専念して、路地を駆け抜けていく。

 背後では鈍い衝撃音が迫ってきていて、とてもではないが振り向く余裕がない。

 ブラッドはすぐに狼を狩りに来るだろうか。あの男はアーサーに過剰なほど警戒されていたから、実力は確かだ。ある程度は信用しても良いだろう。しかし離れてしまった。こちらに追い付くのは少し時間がかかる。逃げたのは少しばかり下策だったかもしれない。だが人狼と正面からぶつかるのはもっと下策だ。

 幸いこのあたりの土地勘はあるので、道に迷うことない。ブラッドが追い付くまで逃げ続けるのも手だろう。もっとも、それまでアーシェの体力が持つか疑問だが。

「アーサー! いつまで追いかけてくるつもりだ!?」

「お前を食い殺すまでだ、アーシェ!」

 咆哮が凄まじい勢いで背中に迫る。跳びかかってきたのだ。

 彼女はほとんど反射的に振り向いて、銃爪を引いた。

 銃弾がアーサーの右腕を掠める。彼は痛みで姿勢を崩し、壁に激突した。

 無理な姿勢で撃ったアーシェもまた体勢を崩して、あやうく転びそうになってしまったが、なんとか手足を動かして立て直し、距離を取ることに成功した。

 まったく気が気ではない。一瞬でも撃つのが遅れていたらどうなっていたことか。

「しつこいっ……!」

 脳内に地図を思い浮かべながらルートを取る。

 再び咆哮が響いて、路地の空気を揺らした。 

 全身が粟立ち、身体が自分のものでなくなっていく。腹の底から激情が押し上げられて、足を止めたくなる衝動にかられる。

 こんな時に限って、アーシェは人狼になりかけていた。

 心中で毒づいて、無理やり衝動を抑え込む。

 胸が苦しい、頭が破裂しそうなくらいに痛い。逃げずに立ち向かえと、嫌な言葉が思考を支配していく。

 どこかに隠れてやり過ごすことも考えた。逃げるのはやめて、アーサーの眉間を撃ち抜いてしまえばいい。そうすれば何もかも終わる。ちょっとだけ足を止めて、チャンスを窺って、銃爪を引くだけで状況を打開できる。もう走り続ける必要はない、これでアーサーとの因縁も終わる。

 だが、それはあまりに都合の良い考えだ。

 隠れてもやり過ごせる保証はない、銃の腕だって自信を持てるほどじゃあない。疲労困憊で腕を上げるのだって辛いのに、眉間を撃ち抜くことなんて絶対にできないと、自分の中の冷静な部分が警告していた。

 だから決して足を止めずに走り続ける。

 脚の感覚もなくなってきた、股関節が外れてるんじゃないかとさえ思う。けれど今足を止めてしまえば、もう二度と走れない。路地全体を大きく回りながら、元の場所に戻れるように走る。

「どこまで来るんだ、あいつは……っ!」

 速くはないが確実にアーサーは迫ってきている。追い付かれるのは時間の問題だ。少しばかり賭けに出る必要があるあろう。 

 アーシェは蒸気伝達パイプが張り巡らされた細道に入った。

 ビルディングの間には、多くの場合、蒸気伝達パイプが数十本ほど繋がっている。蒸気機関で作られた水蒸気をビルディング全体に循環させ、冷えて水に戻ったのを水槽に戻すためだ。

 複雑に張り巡らされたパイプで、通路は特に狭くなっていた。人一人がやっと通れるくらいの隙間しかない。人間の身体に比べて人狼のアーサーは図体が大きいから、パイプの間を通るには苦労するだろう。

 パイプの間を潜り、跳び越えて路地の奥へ。

 熱せられたパイプは火傷しそうなくらいで、触る度に左の手のひらが焼けていく。アーサーはパイプをよじ登っているようで、パイプのひしゃげ、折れる音が時折り頭上から降ってきたが、確実の距離は離れていた。

「くそ、本当にしつこいぞっ!」

 少し歩調を緩めて、頭上の暗闇に銃爪を引く。

 四発放ったがいずれもパイプに阻まれたり、まったく見当違いのところに飛んで行った。けれど驚かせ、焦らせることはできたみたいで、足を踏み外したのだろう、アーサーが地面に叩き付けられる音が聞こえた。

 アーシェは企みが上手くいって、内心ほくそ笑む。 

 これでかなりの距離が開いたはずだ。いずれ追い付かれるだろうが、それまでには元の場所に戻れる。

 そう思った直後。

 背中に鈍い衝撃が走って。

 大きく吹き飛ばされた。

 何が起こった。何がぶつかってきた。どうして地面を転がっているんだ。このままでは追い付かれてしまう。はやく、はやく起き上がって逃げなければ。

 激痛で視界が明滅する、思考が混濁する。空気を上手く吸えなくて、しゃっくりみたいになってしまう。左肩が熱くて痛くて堪らない、身体中の関節が悲鳴を上げている。それでもなんとか起き上がって、また走り出した。 

「こんな、ことで……っ!」

 さっきと比べて明らかに身体が重い。

 一度足を止めてしまった以上は、どうしても走るのが苦しくて動きが鈍る。

 遂に足がもつれて、転んでしまった。 

「は、ははは……、もう追いかけっこは終わりだぞ!」

 アーサーがすぐ後ろに着地する。

 次に彼が飛びかかれば、アーシェはいとも簡単に殺されるだろう。

 何か使えるものはないか、辺りに視線を走らせてみる。

 近くにはゴミ箱、壁には錆びた蒸気伝達パイプ、他には何もない。

 脳裏に諦観が過る。

 その時、シェーンの姿が見えた。

 それは疲労と痛みが見せた幻覚だけれど、アーシェには何よりも効果的な”きつけ”で。こんなところで死ぬわけにはいかないと、折れかけた心を奮い立たせるには充分だった。

「まだ、終わりじゃあないっ!」

 銃底でパイプを殴って、破壊する。錆びた蒸気伝達パイプは脆く、強く叩けば外れて蒸気が勢いよく噴出した。

 絶叫。

 顔を両手で覆い、苦しげに呻きながら、アーサーがうずくまった。真っ白な蒸気が彼の右目を焼いたのだ。足に加えて目も潰された彼は、これでしばらくの間、まともに歩くことすらままならない。

 しかしアーシェも同じようなものだ。

 身体がいうことを聞いてくれない。足が取れていると云われれば、信じてしまうだろう。限界を超えて走り続けた身体は、指の一本さえ動かす余裕もない。

 お互い満身創痍。

 そんな時に、アーシェの中で膨れ上がっていくものがある。

 殺意。

 憎悪。

 憤怒。

 カリスの時と同じく、激情が身体を蝕んでいた。

 罪を贖わせたい。アーサーの行った外道の数々は、おおよそ許容できるものではなかった。

 だが感情に任せて殺すのは違う。

 人狼になるということは、本能と感情に身を任せることだ。理性を放棄して衝動の赴くままに生きる。そんなのはアーシェの良しとするところではない。アーシェは誇りを持っている。人間としての、女性としての誇りだ。

 だから衝動に負けるわけにはいかなかった。

 膠着の中、先に動けるようになったのはアーサーだった。

 彼は右目が見えないながらも倒れ伏すアーシェに這いよる。見開かれた左目には憎悪と憤怒で彩られていた。

「殺してやる……、喰い殺してやるぞ……!」

 彼はほとんど覆いかぶさるような形でアーシェの眼前に現れると、顔面を喰いちぎるつもりなのだろう、大きく口を開いた。

「そう、簡単にっ……やれると思うな!」

 銃爪を引く。

 二度目の絶叫が響いた。

 堪らず仰け反った彼の右わき腹から血が噴き出して、アーシェの全身を濡らす。

 さらにもう一発、接射で腹を撃つ。

 ついに悲鳴を上げながら仰向けに倒れ伏したアーサーは、何が起きたのか理解できずに両手で胸を掻き毟る。

 なおも立ち上がろうとするものの、すでに血を流し過ぎて手足の自由が利かない様子だった。

 息も絶え絶えになりながらも、アーシェは死力を振り絞ってどうにか立ち上がる。本当はそのまま寝転がっていたいのだが、それではとどめをさせない。

 確実に額を撃ち抜かなければ、殺したという事実をこの目に焼きつけなければ、安心できないのだ。

「アーサー……」

 瀕死の彼に、言葉を発する力はない。

 だがその琥珀色の瞳は、何よりも雄弁に感情を語っていた。 

 数秒の沈黙。

 銃爪に指をかけて、そして。

「さようなら」

 銃弾が彼の額を貫いた。

 追いかけっこの末路は、なんとも呆気ないものであった。

 

 

 英國はテムズのほとりに建つゴシック・リヴァイヴァル調の屋敷で、疳の虫のようにけたたましくアラームが鳴る。

 蒸気オルガンの音色は、部屋の主たるアーシェリカ・ロゼッティが目を覚ますには充分すぎる音量だった。

 彼女は僅かに声を発して身動きすると、ゆっくりと、煌めく翡翠の瞳を垂れた黒髪の隙間から覗かせる。

 今朝のロンドンはひどく冷え込んでいた。

 蒸気機関の発展により、煤と熱に囚われたこの街は、蒸気に揺蕩う華の大帝都。なんて、仰々しく云われているが、実際は空を覆う煤と排煙のせいで、いつも真冬みたいに冷え込んでいる。

 今日だってそう。とても寒い。

 アーシェはぶるりと身震いして縮こまり、麻にくるまりながら、隣に寝るシェーンに抱き着いた。

 肌触りの良い厚手の寝間着と、シェーンの髪の匂いが心地良くて、ついつい二度寝してしまいそうになるけれど、今日はアカデミーの日だ。寝てしまったら遅刻してしまう。

 ほう。小さな溜め息を漏らしてから、彼女を起こさないよう慎重にベッドから抜け出して、大きく伸びをする。

 怪我をしていた左肩は、ずいぶんと良くなった。動かす時はまだかすかに痛みはあるし、どこか突っ張るような感覚はあるけれど、日常生活を送る分には問題ない。

 身体を拭き終えると、テーブルの上に畳まれた服を手に取る。

 新品と見違うほど綺麗に洗濯された服たち。高級感の漂う上質なシルクのシャツと丈夫なズボン、鹿革の丈夫なブーツ、それに仕立ての良いウールのコートは、着るだけで実に気分が良くなる。清々しい朝の空気も相まって、なんだか生まれ変わった気分だ。同時に扉がノックされて、老執事の声が響いてきた。

「おはようございます。食事の準備が整っておりますので、着替え終わりましたらダイニングへお越しください」

「ああ、いつもありがとう」

 シェーンの身体を揺すり起こすと、彼女は緩慢な動作でベッドから這い出てきた。寝起きの彼女は老人みたいにノロノロしている。待っていたら日が暮れてしまいそうなので、メードに任せることにした。

 身支度を整えて廊下に出ると、朝からメードやランドリーのスタッフたちが忙しなく動き回っている。

 メルとアルの姿もあった。彼女たちともそこそこ長い付き合いになるが、アーシェは二人が少し苦手だ。シェーンのお気に入りというのはわかるが、ボディタッチが多くて扱いに困ってしまう。

 食堂に入ると、テーブルの上には二人分の朝食が用意されていた。

 食事はいつものフルブレック・ファストで、ベイステッド・エッグと厚切りのベーコン、それにイングリッシュ・マフィンとハーブティーが付いている。今日はルイボスティーのようだ。

 席に着くと若いメードが、ナプキンをかけてお茶を注いでくれた。上品な匂いが鼻孔をくすぐり、食欲を刺激する。彼女が一礼して下がると、アーシェはさっそくナイフとフォークを手に取った。

 ベイステッド・エッグを食んでいると、黄色のドレスに着替えたシェーンが寝惚け眼でやって来て、緩慢な動作で席に着いた。

「おはよう、シェーン」

「ふぁ……おはよう、アーシェ」

 塩味の効いた厚切りベーコンに、フォークを突き刺しながら、そういえばと思い出したみたいにシェーンは云う。

「傷の具合はどう?」

「良くなったと思うよ。もう動かしても問題ないくらいかな」

「無理はダメだからね。貴女ったら、ちょっと目を離したらとんでもない今年で霞んだから」

「わかってるよ、シェーン」

「本当に?」

「もちろん。あたしが嘘吐いたことなんてあるかい」

「たくさんあるわよ。教えて欲しい?」

「え……、あ、あはは。遠慮しておく」

「ふふ、もう。口でわたしに勝とうなんて早いわよ」 

 どうにもシェーンには勝てそうにない。降参だと肩を竦めた。

 朝食を終えたら、勉強道具を入れた鞄と共にリンス家所有のガーニーへ乗り込む。二十分弱、アカデミーまで快適な旅。

 遠くで狼の遠吠えにも似た汽笛が聞こえる。帝都たるロンドンの中心、シティ・オブ・ロンドンのメインストリートは今日も人で溢れていた。特にアカデミー付近は学生たちで埋め尽くされており、それぞれが談笑したり、タイムズ紙を読んだりしながら門をくぐっていた。正門前で降りたアーシェたちも、彼らに続いて教室等へ入っていく。

 シェーンとは教室が別だから、ここで別れることになる。選んでいる科目が違うから仕方のないことだけれど、少しだけ寂しく感じた。シェーンも同じ気持ちなのか、ほんのちょっと眉尻が下がっていた。

「それじゃあ、また後で」

「ええ。またね、アーシェ」

 にこやかに言葉を交わして、別々の教室へ。今日はフランス史の授業だから、二階の第七教室だ。

   


 おおよそ一週間前から始まった新しい日常は、ひどく心地の良いモノだった。

 ホワイトチャペルに居た頃は、もっと孤独で質素な朝だったのに、こんな温もりを知ってしまった以上は戻れそうにない。

 まあ戻りたいと云ってもシェーンが許してくれないだろうが、ともかく。アーシェにとっては充実した毎日を過ごしていた。

 アーサーを殺してから、すでにひと月が経っている。

 あの日、命がけの追いかけっこに興じたあの夜、追い付いたブラッドに軽い応急処置を受けた後、組織の息がかかった病院に担ぎ込まれ、カリスと一緒に手当てを受けた。

 幸いにもカリスに怪我はなく、極度の疲労による昏睡と判断され、一週間もしないうちに退院していった。

 しかしアーシェの方は、右鎖骨の骨折と、左腕の脱臼、左手の熱傷、それに大小さまざまな擦り傷と、結構な重傷のまま一週間近くも昏睡してしまい、やっと目覚めた。

 最初に見たのはシェーンの顔だった。彼女は一日も欠かさずに見舞いに来ては、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれていたようで、目覚めた直後は声が枯れるくらい泣いて、なかなかに手が付けられない状態だった。

 彼女は常に傍にいた。アカデミーはどうしたのかと訊けば「アーシェがいないアカデミーなんて行く意味ない」とまで云い出す始末だ。

 こんな自分のために落第してはあまりにも悲しいので、なんとか説得しようとしたけれど、聞き耳を持たないで退院まで文字通り付きっ切りの看病だった。

 けがの治療と並行して、人狼の治療も行われた。治療と云っても大したことはなくて、狼草を煎じた薬湯を飲むだけだ。

 狼草はチベットの限られた地域に自生する薬草で、後天的に人狼となってしまった者たちを人に戻すための唯一の手段だ。

 食事毎にこの薬湯を飲むわけだが、これが存外に不味い。良薬口に苦しとはどこの国の言葉だったか、まさにその言葉通りの味だったのは苦い思い出だ。

 組織との関係はまだ続いていて、今まで以上に密な関係になっている。

 デュオロンへインは彼女を組織に迎え入れたからもう仲間として扱っていたし、アーシェもあんなことがあった手前、全てを忘れて日常に戻るなんてできそうになかった。 

 まだ仮ではあるけれど組織の一員になったアーシェの任務は、情報を集めること。今だロンドンには多くの怪異が存在し、霧の夜を闊歩している。それらのウワサや目撃情報を集めてほうこくすることが、アーシェに組織に課せられた任務だ。

 カリスとは入院中に会うことがなかったが、クラブで再会した時にぎこちないながらもお互いの無事を喜んだ。

 彼女はやはり、イーリングで狼に変身するアーサーを目撃していたようで、誰にも話すことが出来ず怯えていたらしい。

 アーシェに受けた暴行の記憶は、まだ暗く影を落としてる。きっとどれだけ時が経っても、傷が癒えることはない。

「そういえば、カリス。あの持っていた手紙はなんだったんだい?」

「あれは、ヤードに……電報を送ろうと思って……」

「人狼のことを云ったって、取り合ってくれないだろうに」

「でもその時は、さ、最善だと……」

「まあ、ある意味最善ではあったけどね」

「助けて、くれて……あの時は、ありがとう」

 クラブの部屋で話していると、やはり言葉の端々に硬さが目立つけれど、自分なりに折り合いをつけてなんとかアーシェと元の関係に戻ろうとしていた。カリス自身は、アーサーを良き友人以上に思っていたから、唯一になってしまった友人を失いたくなと思っているのだろう。

 アーシェも気持ちは同じだ。カリスは大切な友人で、失いたくない存在である。完全に元の関係に戻れるのはいつになるかわからないが、いつかは戻れると二人は信じている。

 


 シェーンと一緒に屋敷に帰ると、何やらメードたちが騒がしい。またぞろシェーンが何か企んだのだろうと見れば、やっぱり彼女は悪い顔でほくそ笑んでいた。

「今度は何をしでかしたんだい、シェーン」

「変な云い方しないで。楽しいことを思いついたから、朝にちょっとね」

「はあ……使用人を困らせたらだめじゃないか」

「大丈夫よ。そんな心配しなくても、困らせたりしてないわ」

「胡乱な言葉だなあ」

「もう、そんなこと云わないでよ。ほら、行きましょう。楽しことが待ってるわよ」

「楽しいこと?」

 何やら嬉しそうなシェーンに手を引かれてダンスホールに入ると、まるでパーティーでも開かれるんじゃあないかと思うほどきれいな飾り付けがされている。

 天井から吊るされた機関シャンデリアは普段以上に煌びやかで、白いテーブルグロスの敷かれた長机には、氷で冷やされたシャンパンと料理が並んでいる。

 呆気に取られていると、シェーンが悪戯っ子の笑みを浮かべていた。

「あのドレス、着たかったでしょう?」

 買ってくれた純白のドレスを最高の舞台で着せてあげようと、彼女はこんなパーティーを準備していたようだ。

「さあアーシェ、着替えてきて。わたしも着替えてくるから」

 彼女が手を叩くと、アルとメルに両腕を抱えられて逃げ道を塞がれた。こういう時、シェーンには何を云っても無駄である。

 アーシェは二人に引きずられながら、やれやれと溜め息を吐いて、成り行きに身を任せることにした。

 アルとメルの手際にはまったく舌を巻く。不慣れなアーシェにドレスを着せると、髪を丁寧に結い、薄く化粧を施して、よく見賀れた白のヒールを履かせる。十分も経たずにアーシェはお姫様と見違う美しい姿に変身していた。

 姿見で自分の姿を見た時、彼女はこれが本当に自分なのかと疑った。いつも男装ばかりしていたから、こんなにも女性らしい姿は新鮮に映る。なんだか生まれ変わったみたいだった。

 ホールに戻ると、シェーンがすでに着替えて待っていた。

 どうやらアーシェのドレスに合わせて選んだらしい。黒を基調にした胸元の開いたドレスと黒い長手袋が彼女の白く美しい肌を際立たさせて、薄く紅を引いた唇はその艶やかさを強調している。もしアーシェが男であったのなら、一目で惚れていたくらいだ。

「ふふっ、見違えるほど綺麗ね」

「君ほどじゃないさ」

「ううん、貴女の方が綺麗よ。惚れ直しちゃったわ」

 優しく抱きしめられて、アーシェは自分の鼓動が聞こえてやしないかと心配してしまう。こんなにも鼓動をうるさく思ったのは、生まれて初めてだった。

「すごくドキドキしてる……」

「そりゃあ、ね。君の姿を見たら、誰だってこうなるさ」

「あはっ、相変わらず上手ね」

 そっと口づけをして、シェーンが手を取る。

 蒸気式ジュークボックスが起動して、ジャズのスタンダード・ナンバーが流れると、二人だけのダンスパーティーがゆっくりと始まった。

「わ、わっ……こ、これでいいのかい?」

「そう、その調子よ。ゆっくりでいいからね」

 右。左。右。左。

 リードに従ってステップを踏む。

 良家の娘である彼女にはダンスの心得があり、足を踏まないよう必至なアーシェをなんなく操った。二人のダンスは不格好だけれど楽しげだ。

「ねえ、アーシェ。好きよ、とっても」

「あたしもだよ、シェーン」

 睦言を紡いで、笑い合う。

 機関シャンデリアの明かりが、二人を優しく包み込んでいた。

 

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蒸気人狼黙示録 四十九院暁美 @lchicken

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