第六話 変貌の酸鼻・2
アーシェが目を覚ました時、まずハーブの香りが鼻をくすぐった。シェーンが好きなラベンダーの香りだった。
視界には綺麗な刺繍の施された天蓋と、真っ白な天井が広がっていて、全身を清潔なシーツとリネンで包まれていた。
シェーンの別荘だと気づいたのはすぐのことである。
どうやら拾われたらしい。
アーシェはゆっくりと上体を起こすと、彼女の姿を探したが、部屋には自分以外誰も居ないようだった。
なんだか長い夢を見ていた気がする。
アーシェは自分の身体が、自分のモノではないような気がして、どうにも現実感がないフワフワとした気持ちだった。今がまだ人狼に遇う前の朝で、シェーンたちよりも遅く起きただけ。そんなように思えた。
ベッドから降りて化粧台の横にある姿見に自身を映すと”翡翠色の瞳”をした自分がいる。現実を突きつけられるのはあまりにも早い。衣服をすべて脱がされているから、胸の傷がよく見えた。心無しか前よりも薄くなっている気がしなくもなかった。
肩を竦めて、溜め息を吐く。
シェーンに何と云い訳すればいいだろう。道端で倒れていたところを見つかったのだから、相当の心配をかけてしまったに違いない。アーシェは少しだけ申し訳ない気持ちになった。
ふと視界の端に、真っ白なドレスが映った。人狼に襲われる前に、彼女が店で買ってくれたドレスだ。どうやらこの別荘に届いていたらしい。
機関シャンデリアの明かりを受けてとてもきらきらと輝くそれは、戻らない日常の証に思えた。このドレスを着ることはないだろうと思えた。
「アーシェ!」
「いっ!?」
ほとんど悲鳴に近い声に驚いて見れば、目を真っ赤に充血させたシェーンが、胸に飛び込んできた。
いきなりのことだったから、アーシェはたたらを踏んでそのままベッドに倒れ込んでしまった。けれどシェーンはそんなこと気にもせずに、胸 中で涙目になりながら叫んだ。
「アーシェのばか、何してるのよ!」
「ご、ごめん」
「なんで何も云ってくれなかったの!? なんで何も云ってくれないのよ! 自分ばっか抱え込んで、それで倒れたら意味ないじゃない!」
「……ごめん」
「ごめんじゃない! 謝るくらいなら何があったのか話して!」
「わ、わかったよ。わかったから、あんまり耳元で大声を出さないで……」
結局シェーンに押し切られる形で、アーシェはことの顛末を話した。
一切の隠し立てはしなかった。
シェーンに対する信頼を裏切りたくなかったし、アーシェ自身、誰かに打ち明けることを望んでいたから。
「……本当に?」
「ほ、本当だよ。嫌な話をして、ごめんね」
「ううん。……わたしこそ、無理やり話をさせてごめんなさい。それにしても、よ。どうしてそんなに大事なことを黙っていたの!」
「これ以上、その、巻き込むのはどうかと思って」
「そんなの今さらよ。わたしは貴女の為なら、火の中にだって飛び込めるんだから」
「……あはは、頼もしいや」
一度キスをしてから起き上がる。
アーシェはなんとなく、晴れやかな気持ちになった。化粧台に畳んであった服を着てベッドに腰かけると、アーシェは改めて自分自身の話をすることにした。
「ねえ、シェーン。話さなきゃいけないことは山ほどあるけれど、その前に、あたしの話を聞いてくれるかい?」
アーシェは自分の過去を誰かに話したことがなかった。浮浪児だった頃は生きるのに精いっぱいで仲間なんて作らなかったし、育ててくれたランドルフなどの大人には訊かれたこともない。
アカデミーに入る前も、入った後ですら訊かれることはなかった。だから話している間は常に緊張した。軽蔑されるかもしれない、縁を切られるかもしれない。ほら話だと相手にもされないんじゃないかと、かなりビクビクした。
全てを話し終えると、シェーンは何も云わなかった。云えなかった、と表現した方が正しいか。
彼女は驚いたような悲しんでいるような、苦しそうな表情をしていた。言葉を選んでいるようでもあった。アーシェが意を決して話してくれた過去に対して、同情や哀れみでは返さずに誠意を以って接したいとしていた。
幾度か歯噛みして、云うべきを探して。
「頑張ったのね」やっと絞り出した一言だった。
アーシェは救われた気がした。自分は報われたのだろうという実感があった。ここまで少しも休まずに走り続けて、ゴールで受け止めてもらったのだ。
なんだか初めて、やっと自分の身体になった気がした。
「君が、あたしを好きになってくれてよかった」
「ふふ、これからもずっと好きよ」
わすかに睦言を囁き合ってから、すぐに真面目な空気に戻る。
話しは終わっていない。
人狼のことだったり、よくわからない組織のことだったり、とにかくいろいろとを話さなければならない事件が多々あった。シェーンが声を上げたのは、アーシェが組織について話した時だった。
「組織って、いったいなんなのかしら」
「さてね、もしかしたら政府の秘密部隊かもしれない。人狼みたいなおっかない化け物を、夜な夜な狩るために設置されてるとか」
「なんだかダイムノベルみたいな話だわ。でも、変ね。ヒントも何もなしに、もう一人見つけてこいだなんて」
「確かに。どうして彼は、何も云ってくれなかったんだろう」
「デュオロンへインって人は、きっと人狼の居場所に心当たりがあるのよ。でも、それをあえてアーシェに見つけてほしい……」
「あたしは狼をおびき寄せる餌にされているのかもね。そうじゃないとなると……アカデミーの内部に、何かあるとか? けれど、あそこはそんな大掛かりな実験施設なんてないぞ。先生も政府が直々に選んだ碩学ばかりだ。変な気を起こす奴らはいないはず。となると、あたしに近い生徒になるのか」
「アカデミーに通う人たちは、ほとんどが良家の子供よ。あんな狼になるかしら」
「ゼロじゃあないだろうね。でも、そうか……アカデミーの生徒か」
アカデミーの生徒で、アーシェリカ・ロゼッティに近しい人物。思い当たるのは二人、シェーン・リンスとアルトリウス・ヴィーラントだ。
ではまず、シェーンはどうか。
あの人狼に襲われた夜に一人無傷でその場を脱していることを疑ったが、考えてみれば、人狼を殺した時にあそこまで思いつめたりするものか。
そも。彼女が人狼ならば今頃アーシェは胃袋でぐずぐずに溶けているころだ。つじつまが合わない。
アルトリウスはどうだろう。
アーシェに好意を抱いている彼が、アーシェを襲うのか。
たとえあの晩に襲っていなかったとしても、別の夜に出会った彼はいたって普通だった。人狼は夜になると変身すると云うが、その兆しは微塵も――別の意味で狼にはなりそうだったが――感じられなかった。
「範囲を少し広げてみよう」
卒業生も含めてみると、カリスが浮上する。
何事かを隠し続けた彼女は、いったい何を恐れていたのか。何を知ってしまったがゆえに、恐怖に怯えているのか。
考えていた時、ふと思い浮かんだものがある。
何故、あの場面でアーサーが来たのか。彼を伴ってカリスの家に行った記憶がない。家に行くとなった時に、彼はアーシェの言葉を袖にしていたし、デートに誘おうともしなかった。
それに、たとえ彼がカリスの家を元から知っていたとしても、あのタイミングで来るのは些か間が良すぎるだろう。
どうも引っかかりを覚える。
「ねえ、シェーン。アルトリウス・ヴィーラントを知っているかい」
「へ? 何よ急に」
「あたしと同じクラブに入っている男だよ。あの男の家がどんなんか、知ってる?」
「知ってるけど、急にどうしたの……」
「少し、引っかかってね。良家の繋がりで、君は家のことに詳しいだろう。だから訊いたのさ」
アーシェの言葉になるほどと手を打ったシェーンは、ヴィーラント家現当主から、うんざりするほど自慢話を聞かされたことを前置きしてから、話し始めた。
不動産関係で富を築いたヴィーラント家は、元をたどればフランスのジェヴォーダン地方に根を張る貴族であったが、ある時を境にこちらへ移った。そのある時というのが、ジェヴォーダンの獸と呼ばれる何かが暴れていた時期である。獸は人や家畜を食い荒らし、討伐されるまで地域を荒廃させてしまった。事態を重く見たヴィーラント家は、すぐに家の衛兵から選りすぐりの猛者を選び、討伐へと向かわせ、見事にジェヴォーダンの獸を打ち取ったのだという。多くの報酬を国から貰ったヴィーラント家は、そのままロンドンへ栄転してきたとのことだ。
「ジェヴォーダンの獸、ね。フランス近代史に名前が載っていたのを見たよ」
「わたし、フランスは取ってないからわからないのだけれど、それにはなんて書いてあったの」
「”ルー・ガルー”、人狼ってさ」
シェーンが息をのんだ。
アーシェは低く喉を鳴らした。
アルトリウス・ヴィーラントには、何かしら重大なものが隠されているに違いない。まだ断定はできないが、彼が人狼である可能性も芽生えた。ここからは彼に的を絞って考えていくことになるだろう。
「彼を問いただすの?」
「いや、アーサーに訊いたって、素直に答えるわけがない。カリスを探そう、彼女が何か知っているはずなんだ」
「でも、そのカリスって人は……」
「大丈夫、きっとなんとかなるよ」
シェーンの心配した声を遮って、アーシェは立ち上がった。
随分と時間が経ってしまったから、彼女がどこに逃げてしまったのか見当もつかないけれど、探しに行かなければ始まらない。彼女が事件解決のカギを握っているのだから。
「よし、じゃあ行くよ」
「今度は置いて行かないでよね」
「来るなって云ってもきかないんだろう」
「当たり前じゃない。アーシェの為なら、どこまでも付いて行くんだから」
「まったく、強い子だなあ」
「お互い様」
軽口を云い合いながら、二人は部屋を出た。夜が更け始めた頃であった。
夜のシティは昼と比べていっそうの活気がある。
機関街灯の明りは霧の中でもよく見えるし、機関掲示板のトロリィに輝く色とりどりの文字も、夜に映えて楽しませてくれる。
街娼や立ちんぼも活発に客引きをしている。そんな喧騒を尻目に、降霊術クラブへと向かう。カリスの逃げ込む場所なんてここくらいしかアーシェは思いつかなかったし、実際、カリスはここにいたらしい。
らしい、というのはつまり、見つからなかったということだ。
確かにここで何かをしていた痕跡がある。
乱雑に積まれていた本は崩れて床に散乱しているし、椅子も倒れたまま直されていない。ペンとインク壜が出しっぱなしの所を見るに、何かを書いていたのだとわかったが、それだけだ。
「何を書いていたんだ?」
「手紙、かしら」
机を指先でなぞる。ぬくもりが微かにだが残っていた。
ここを離れてから時間は経っていない。手紙でも書いていたのだとしたら、行き先は郵便局だろうか。
電報の原文という可能性もある。あそこは二十四時間やっている。シティの内部なら、追いかければまだ間に合うはずだ。二人は後を追った。
人ごみをかき分けて進んでいく中で、不意にアーシェの頭の中に違和感めいた何かが鎌首をもたげた。
それは奥歯にものが挟まったみたいな、目に見えるほどのモノではないのだけれど、けれど確実に何かがおかしいという確信があった。大事なことを見落としている。頭の冷静な部分が警鐘を鳴らした。
「アーシェ、どうしたの?」
「少し、少しだけ引っかかるんだ」
わき道に逸れて、裏路地で立ち止まる。考える時間が欲しかった。
アーシェが疑問に思ったのは、カリスはどうして人狼を知っているのか。あの変人からして知っていてもおかしくはないのだが、よく考えれば、彼女はどうやって人狼がこのロンドンに実在すると知ったのだろう。
人狼なんて空想上の生き物だと笑い飛ばすのが普通だ。なまじ普通でなかったとしてもまさか根拠もなしに人狼の実在を信じるわけがない。彼女は変人の類ではあるけれど、腐ってもアカデミー卒業生、しかも悪魔召喚なんて罰当たりなことまでしている人間だ。今さら人狼の実在を信じて怖がるだろうか。
「カリスは人狼をどこで知ったんだ?」
「狼男を、前の夜に見たとか?」
「前って、いつのさ。少なくとも、切り裂きジャックの再来が最後に事件を起こしてた夜は……、切り裂きジャックの再来?」
はたと思い出す。ホワイトチャペルで警官に話を聞いた時、彼は切り裂きジャックとの手口とは違うと云っていた。そして被害者は男性のホームレスだ。ランドルフはイーリングで犬が出たと云っていた。お喋りな仲間が一人喰われたと。
切り裂きジャックの再来は模倣犯だ。切り裂きジャックのように、ホワイトチャペルで女ばかりを狙う。切り裂いて、バラバラにして、テムズ川にその死体を投げ捨てる。出版社に死体の写真を送り付けてまで、自分の存在を誇示する異常者だ。己が信じる殺人の美学に則って行動している陶酔者だ。
対して人狼は、範囲はロンドン全域で、ホームレス狙い。テムズ川に死体を晒したりはしない。死体の写真を新聞社に送ったりもしない。死体を半端に食い散らかして放置しているのは、野犬の仕業だと思わせたいから。見つからないようにある程度の注意を払って、人間を食い殺している捕食者だ。
何もかもが違う。
ホワイトチャペルで人狼に襲われたことで、再来の反抗すべてが人狼の仕業だと思っていた。
だが、切り裂きジャックの再来と人狼は、まったく別の犯人なのかもしれない。アーシェはゾッとしない気持ちになって来た。
「どういうことなの?」
「人狼は切り裂きジャックの再来とは、また別の奴だということさ。自分が人狼になったとして、考えてもみなよ。目立ちたいと思うかい?」
「……、思わないわ。だって、騒がれたら騒がれただけ足が付きやすくなるもの」
「そうだろう。何せあの人狼狩りの組織があるんだ、極力見つかりたくないに決まってる」
「確かにそうかもしれないわ……でも待って。そのことが、どう関係があるのよ」
「アーサーが近くにいるかもしれない」
模倣犯と人狼が別となれば、行動範囲が爆発的に広がる。模倣犯はホワイトチャペル内だけに留まっているが、人狼はロンドンの全域だ。人であふれるシティですらも安全とは云い難い。
ランドルフの言葉を信じるなら、おそらくはイーリングで人狼を目撃したであろうカリスが、もし一人になろうものならば、その瞬間に彼女は喰われてしまうだろう。そうなれば情報は何も得られないままだ。
「早く見つけないとっ」
シェーンの手を取ると走り始めた。
行先はとりあえず郵便局だ。
シティの中心からほど近い場所にある郵便局は、夜ということもあって人が少ない。表通りには人がまばらにいるくらいで、郵便局は静まり返っていた。人狼が現れる時、辺りから人がいなくなる。
ならばまだ、人狼はここにいないのだろう。
郵便局に入ると、しんと静まり返っていた。受付に人はいるものの、カリスらしき人影は見当たらない。
受付に訊いてみると、それらしき人物が電報を送ったそうだ。内容はさすがに教えてもらえなかったが、入れ違いになったのはわかった。
「カリス……、どこへ行ったんだ」
焦燥感ばかりが積もっていく。こうしている間にも、人狼は彼女に迫っているというに、何もできていない。
とにかく動かねば。次に彼女が向かうのは、はたしてどこか。
「いったん、クラブに戻りましょう」
シェーンの意見に頷いて郵便局を出る。
その時にちょうど、アーシェの通信機が鳴った。彼女の通信機の番号を知っている人間はそう多くないから、誰がかけてきたかは想像がつく。
「デュオロンへインか?」
『いかにも』
はたして電話の主は彼だった。
『そろそろ人狼に心当たりが着いた頃だろう。誰かわかったか』
「ずいぶんなタイミングじゃないか」
『君たちの動きは、ある程度観測している。アーシェリカ・ロゼッティ、不安定だったようだが今は落ち着いている。シェーン・リンスが精神の安定を促しているようだな』
「そこまで知ってるなら、あたしたちが今、急いでいるのも知ってるか」
『シェーン・リンスと一緒にカリス・ゴールドスタインを追っているのだろう。も知っているとも。彼女の動向も、我々は把握している』
動向を知っていながら何もしていないということは、組織はカリスを保護するつもりは微塵もないということだ。
餌として泳がせているのかわからないが、とにかくも薄情な奴らである。
「彼女がどこに行ったか知っているのか」
『教える前に、ひとく聞かせてもらおう。すでに人狼の正体を察しているならば、その名を答えてもらいたい』
「……アルトリウス・ヴィーラント」
『正解だ』
何でもない風に、彼は肯定する。
『彼の家はジェヴォーダンの獸の正体であり、多くの人狼を輩出してきた家だ。人を喰らい、時に人を狼へと変貌させる呪われた血筋そのもの。本来ならば根絶やしにするべきなのだが、ヴィーラントの血筋すべてが人狼になるわけではないゆえ、選別が必要だった』
「その選別にあたしを使ったのか」
『然り。アルトリウス・ヴィーラントが君を好いていたの知っていたので、使わせてもらった』
嫌な奴らだ。
アーシェは舌打ちしたい気持ちを抑え込んだ。臆面もなく餌として利用していたなどと云われれば、誰だって良い気分はしない。合理を求めて道理を弁えていないのも癪に障った。
しかし、今は彼らだけが頼りだ。
「役に立てたなら良かったよ。それで、カリスの居場所は」
『クラブに戻っている。アルトリウス・ヴィーラントも、彼女を追ってクラブへ向かっているだろう』
「ああ、ありがとう。ついでに手助けも欲しいんだけど」
『ブラッドが近くにいる。彼を向かわせよう』
「あの男か……」
『粗暴な男だが、実力はある』
「カリスに怪我がないことを祈るよ」
電話を切って、すぐにクラブへと向かう。
組織の人間がいるのは心強いが、完全には信用できない。人狼を斃している場面を見てないから、アーシェは彼らを信じることができないでいる。シェーンも同じ気持ちのようで、どこか嫌な顔をしていた。
「本当に、大丈夫なのかしら」
「さあね。そこは彼らの実力次第だ」
クラブのあるビルディングに近付くにつれ、辺りから人の姿が消えていく。ビルディングに着くと人が完全に消えて、血腥さが通りを満たしていた。
人狼が現れたのだ。
シェーンが唾を飲む。
アーシェは冷や汗を拭った。
恐いという気持ちはあるが、それ以上に、カリスを心配する気持ちの方が大きかった。
ビルディングの窓には明かりが燈っていない。まだ外にいるようだ。懐から拳銃を抜いて、シェーンの傍を離れないように歩みを進める。ビルの入り口付近に来た時、裏の路地から聞こえてきたのは怒声と衝撃音だった。
「シェーンはここにいて」
「でも……」
「あたしは大丈夫だよ。君がここにいてくれるだけで、充分すぎるくらいさ」
心配そうなシェーンに微笑みで返す。彼女が近くにいるだけで、気持ちは随分と楽なるものだ。
アーシェは、戦々恐々としつつも、陰の滴る裏路地へと足を踏み入れた。暗黒が音を飲み込んでいる。断続的に響く戦闘の音は、街灯の明かりもなく、誰もいない闇色の世界では、くぐもった音として反響していた。
機関ランプの明りが欲しいと思いつつ、銃を構えて路地の奥へ。ちょうど中ほどまで進んだところ、開けた場所に出ると、不意に戦闘の音が止んだ。
直後、目の前に何かが落ちてきた。
鈍い音を立てて地面にたたきつけられたそれは、おそおらくは成人男性の腕であった。
わずかに悲鳴が口から洩れた。
おそるおそる腕に近付くと、今度はさらに巨大な何かが落ちてきた。
人間。ブラッドと呼ばれていた男だった。
傷だらけで右腕のない彼は、少しだけ痛がる素振りを見せた後、すぐに立ち上がって自分の腕を拾って付け直す。どうやら義手であったらしい。
「クソ、舐めやがって……っと、オマエか。あぶねえから退いてな」
毒づいてからアーシェに気付き、左手のナイフを構える。
続いて、人狼が下りてきた。
腕には気を失ってぐったりしているカリスを抱えており、人質にしているのがすぐにわかった。
「カリス!」
アーシェが叫んで、銃の照準を人狼に合わせる。
対して人狼は低く唸ってから、ひどく下卑た笑みを浮かべた。
「アーシェ、来ると思っていたよ」
「アーサーなんだろう、カリスを離すんだ」
「嫌だね」
「化けもんが、ふざけんじゃあねえぞ」
カリスが人質にされているから、ブラッドは攻めあぐねているらしかった。アーシェはそれを察して、なんとかカリスを助け出そうと対話を持ちかけた。
「アーサー、君はどうしたいんだい」
「そうだね、ひとまずはそこの男に死んでもらいたいかな」
とぼけた口調でアーサーは云う。ブラッドは不愉快を隠さずに舌打ちをするが、対応をアーシェに任せて口出しはしなかった。
「ねえアーサー。君は人狼みたいだけれど、まだ話し合いの余地はあると思うんだ。少なくとも殺したり殺されたりはしなくて済むんじゃないか」
「ここに至ってはもう話し合っても無駄だ」
「そんなことない。わかりあえるはずだ、そうだろう」
「どうしてそう思う」
「君はあたしを、好きだからだ」
少しの沈黙。
理性があるのならと声を上げたが、その選択は間違っていなかった。
好いた女に云われたのも大きいだろう、彼はアーシェの言葉に耳を傾けていた。
「あたしは君と争いたくないんだよ。君と、カリスと、三人でいつもみたいにクラブで……今までのような日常を送りたい」
「ああ、わかるとも。君との日々は実に楽しい……、君を食べてしまいたいと何度思ったことか!」
「あたしを仲間にしたいなら、まずはカリスを離すんだ。そんなことをしていたら、おちおち話もできやしないだろ」
「それは嫌だね。こいつを手放したらすぐに、そこの男が殺しに来る」
アーサーを刺戟してはいけない。意思を籠めてブラッドを見やれば、彼はやれやれと溜め息を吐いて背後の闇に消えていった。
「へえ、あっさりと消えるんだな」
「彼はもういない。これでいいかな」
「あとは君が銃を下ろしてくれれば、ね」
少しだけ迷ってから、銃を下ろす。
満足げに頷いたアーサーは人の姿に戻ると、カリスを抱えたままではあるけれど、アーシェのすぐ近くまで寄って来た。
これで一応は話をする場が整った。あとはアーシェがいかにして、彼の腕からカリスを解放するかにかかっている。
「ねえアーサー、どうしてこんなことをするんだ」
「どうして? おかしなことを訊くな、アーシェ。俺はやりたいからやってるんだ。喰いたいから喰う、殺したいから殺す。そこらの浮浪者程度ならいくら喰っても問題にはならないし、ロンドンも綺麗になる。一石二鳥だ」
「切り裂きジャックの再来は、君の仕業ではないのか」
訊かれて、アーサーは鼻で笑った。
「あんなこと、俺がするわけないだろう。そもそも娼婦の肉は雑味がひどくて食えたもんじゃあない。肉の柔らかさは素晴らしいと思うが」
「人肉の味についてはよくわからないけれど、君があの連続殺人鬼じゃないと知れて、少しホッとしたよ」
わざとらしく胸を撫で下ろせば、アーサーは不気味に笑った。
「それにしてもアーサー、どうしてカリスを追いかけていた。彼女は人狼と動かかわりがある」
「こいつはイーリングで食事をしてた俺を見ていたんだ。目撃者が生きていたら、何かと不都合だろう?」
「それは、そうかもしれないけれど……」
「君がこいつの家にいた時は、随分と焦ったよ。けれどすぐに杞憂だと気づいた」
「人狼に、なりかけていたから?」
「そうさ! 君を好きになった日から、ずっと君を人狼にしたいと思っていた! 食べてしまいたいとも思っていたけれど、そうしたら君に二度と会えなくなってしまう。それに結婚するなら”同じ方”が良いからね」
「あの夜、あたしたちを襲ったのは君だったのか」
「まさかシェーン・リンスと一緒にいるとは予想してなかったよ。あの男が乱入してきたからあの場は逃げたが、本当ならじっくりと君が人狼になっていくところを見たかった……」
「あたしを食事に誘ったのも?」
「人狼になってるかどうか、確かめたくてね。そこらの浮浪者で実験した時は、きちんと人狼になってたけれど、やっぱり不安でしかたがなかったんだ」
アーシェが殺したあの人狼は、どうやら彼が実験と称して人狼にした浮浪者らしい。なんとひどい行いをするものか、胸中でアーサーに対する嫌悪が膨れ上がっていくのを感じた。
「そうか、あたしがあんなに乱暴になってしまったのは、人狼になりかけていたからか。ああ、納得した」
「とはいえ、ちょっとばかし変化が激しくて驚いたよ、アーシェ。でも人をゴミとしか見てない君の目は最高だった」
「そ、そうかな……」
「君は意外と気性が荒いんだね。いや、ますます俺の好みだと思ったよ」
自分に酔ってるみたいな話し方でアーサーは笑う。訊けばどんどん答えが出てくるのが、胸が悪くなってくる。
友人がここまでの外道であったとは知りたくはなかった。アルトリウス・ヴィーラントが人狼であることはわかっていたけれど、それでもどこかで信じていたから話し合いを持ちかけたのだ。
「ねえアーサー、そろそろカリスを離してくれないか」
「どうしてだ」
「君がカリスをどう思っているのかわからないけれど、あたしはカリスを友人として大切に思っている。だから、傷つけて欲しくない」
「こんなのを友人だなんて、君は優しい人間だな?」
「もちろんアーサーだって大切な存在だよ」
これ以上は話し合ったって無意味だとアーシェは思い始めている。どうあっても彼はカリスを離す気はない。
彼女を離せばその時点でブラッドが来るのだと理解していたから、きっとアーシェにどれだけ頼まれたって手放したりはしないのだろう。
だから、アーシェは。
「ねえ、アーサー。あたしはね……」
「ん?」
「君のことが嫌いなんだ」
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