第五話 変貌の酸鼻

 狼憑きを治すには、いくつかの薬草を煎じ詰めて薬とする必要があるが、出来上がるまでにはおおよそ二日を要する。それまでに狼の一匹を狩ってほしいとは、デュオロンへインの言葉。

 だが、情報もなしに見つけろと云われても、困ってしまうのがアーシェだ。

「どうやって見つけろってのさ……」

 朝靄の中、行きつけのカフェーで新聞を眺めながら呟く。

 新聞にはホワイトチャペルで殺した人狼の詳細な身元が載っていた。

 元は有名な商社に勤めていたが、接待用の資金を横領したとしてヤードに捕まっている。同時に商社もクビになり、自棄を起こしたのか、なけなしの財産も賭博に使い込み、浮浪者へ身を落としたそうだ。そうして最期には人狼となって殺されたのだから、同情はできないが憐れに思う。 

 問題はこの男の素性ではなく、この男を人狼にした者の存在だ。

 目的も思想も不明だが、如何なる理由があろうと、人を化け物に変えるのは悪辣極まる。自分に関係がないのであれば、なあなあで過ごして煎湯を貰うだけと考えていたが、討伐しなければ人狼は増え続け、切り裂きジャックの再来事件も終わらないとなれば、ヤードから向けられた疑いの目も晴らせない。

 放っておけば回り回って自分に責が返ってくるのだから、まったく度し難い。

 夜道も歩けないことになることだけは、なんとしても避ければならない。

 ぬるくなった紅茶を飲み乾して、新聞を閉じる。

 しかし手がかりがない以上は、昼を忍んで夜を待つのが最善だ。狩るにしても、はたして人狼はどこに出るのか。情報を集めるにしても、そう簡単に尻尾が掴めるほど、相手が無警戒なはずがないのだ。

 もちろん、だからと座している気はない。

 幸いにもデュオロンへインは、武器は頼めば支給してくれるという。必要ならば人も寄越してくれるとも云っているのだから、甘えておくのが得策だろうけれど、アーシェはあてにしない。素性も何もわからない相手を、どうして信用できようか。どうして背中を預けられようか。

 結局のところ、信じられるのは自分ひとりだけ。

 世界はそういう風にできると彼女は知っている。

 シェーンのこともある。早く彼女を安心させなければ、平和な日常に戻ることはできないのだ。 

 そこまで考えて、アーシェはふと思い出した。

 シェーンは人狼に襲われた夜、傷のひとつもなかった。

 きっとデュオロンへインの部下らが護ってくれたのだろうことは想像に難くないが、それなら何故、シェーンは彼らの存在を話してくれなかったのだろうか。

 はたと頭を振る。

 半ば恋人とさえ思っている友人が、目の前で化け物に喰われかけたのだから、詳細を憶えていないのは当然のこと。我ながら馬鹿なことを考えたものだと、アーシェは大きく溜め息を吐いた。

 とにかく、情報を集めながら夜を待つことになる。

 昼にことが起こらない以上、今は準備を整える時間だ。

 やらなければいけないこと、決めなければならないことは多い。だらだらと過ごしている暇はない。

 会計を済ませて外に出れば、アーシェの憂いた顔は、感情の見出せない冷たいものになっていた。

 アカデミーには変わらないシェーンの姿がある。今日はフリルをふんだんに使った淡い赤色のドレスを着ている。アーシェはすぐにでも話しかけようかとも思ったが、何故だか口が開かなかった。

「シェーン、今、いいかな」

 絞り出した声は、ひどくか細くて、シェーンが聞き取れたとは思えないほど。それでも彼女は、健気にも答えてくれた。

「アーシェ、どうしたの?」

「話を、したいんだ」

 彼女は努めて日頃と同じ様子だった。

 あんなことがあったのに、気丈に振る舞っていた。

「話……」

「屋上で待ってるよ」

 何かを察して目を見開いた彼女に、無理やり笑いかけて、アーシェはその場を後にした。

 アカデミーの屋上には、蒸気を学校中に運ぶための錆びついた配管が、所狭しと張り巡らされているから、外だというのにとても温かい。聞かれたくない話をするにはうってつけの場所だ。

 アーシェは屋上に着くと、霧に煙るロンドンの街を見下ろして、ネガティブな感情を吐き出すために溜め息を吐く。

 自分でもわからないくらいに胸中が荒波立って、頭がどうにかなりそうだった。カフェーでの嫌な考えが、きっと尾を引いているのだろう。そう思い込んで、感情を押さえつける。

 シェーンが来る時には、もう心は落ち着いていた。

「ねえ、アーシェ。話って何……」

 屋上の入り口にたったシェーンが問う。

「わかってるだろ。人狼のことさ」

 振り返らずに、アーシェは答える。シェーンが僅かに身動ぎしたのを感じた。

「ええ、そうね……、そうよね」

 悲しげに呟いた後、シェーンは「あの人は、どうなったの……狼は」

「さあね。身元は判明したらしいけど」

 にべもなく云えば、沈黙が二人の間を通り抜ける。

 重く圧し掛かる空気に潰されないように、アーシェは歯を食いしばった。

「シェーンは、あたしが襲われた後のこと、憶えてる?」

「……話したく、ない」

 風が吹いた。

 冷たい風だった。

「話してほしいんだ。辛いかもしれないけれど」

 再び沈黙がよぎる。

 それから数分、数時間だろうか。

 とにかく、長い時間が経った気がする。

 震えた声が、静かに響いた。

「貴女が、引き裂かれて……、噛みつかれたの。わたし、何もできなくて……」

 言葉に詰まりながら、嗚咽を堪えながら、シェーンは続けた。

「でも、その時に……、人が来たの。とても大きな人……きっとヤードの人だったわ。その人が、狼に体当たりをして、助けてくれたの」

「大きな、人……?」

 彼女の言葉で思い出されるのは、デュオロンへインの云っていた部下の存在だ。なるほど、彼の言葉は本当だったらしい。

 ヤードの人、と呼ばれているところを見るに、警官に紛れてあの地区に居たのだろう。

「それから……わたし、記憶があやふやで……、きっと失神したんだわ。その、ごめんなさい」

「ううん、ありがとうシェーン」

 振り向いて見れば、シェーンは涙を目にいっぱい溜めながら、歯を食いしばっている。アーシェはひどい自責の念に駆られて、彼女の顔を見なくて済むように抱きしめた。

「アーシェ……どこにも、いかないわよね?」

 涙で胸元が濡れるのを感じながら、シェーンの問いに頷く。

「……行かないよ。キミがいる限り」

 きっとこういう時、顔を見て云うのが一番なのだろうけれど、今のアーシェにはできなくて、シェーンの望む言葉を吐き出すしかできなくて。

 腹の底に黒い滓が積もるのを感じた。

 それは疑念。

 懐疑の心。

 カフェーでの馬鹿な考えが、澱みとして残っている。

 常に片隅で冷静な思考を繰り返す自分が、全てを疑えとむやみやたらに警鐘を鳴らすのだ。落ち着いた生活を送って来たというに、浮浪児の頃に戻ったみたいな感覚がアーシェの中に蘇った。

「約束よ?」

「うん、約束」

 背を優しく撫でて、シェーンの震える肩を落ち着かせる。

 優しげな囁きに反して、アーシェの表情は冷え切っていた。

 


 夕方のロンドンは活気に満ち満ちているが、その裏には頽廃の気配が這っている。大通りから外れて裏路地に足を踏み入れる。

 澱んだ空気が漂う狭い通路には、幾人かの浮浪者が座り込み、歯車やブリキの缶などのガラクタ売りをしていたり、物乞いをしていた。

 もちろんアーシェは彼らを無視して奥へと進む。彼らもまた情報を持っていたりもするが、金に見合わないものばかりで役には立たないことを、アーシェは既に学んでる。

「ランドルフさん」

 路地の奥にある四つ辻で呼びかけて見れば、右の通路から聞きなれた鼻歌が響く。視線を向ければ、カラカラカラカラ、ガラクタを乗せた台車と共に現れたのはボロを纏った髭の老人、すなわち、探し人たるランドルフであった。

「やあ、アーシェちゃん。久しぶりじゃあないか」

 しわがれた声の彼は、アーシェの姿を見止めると変に笑った。

 ランドルフはこの界隈で知らぬ者がいないほどの情報屋であり、ヤードすら機密裏に彼を頼っているとウワサされている。この浮浪者がいったいどうやって情報を仕入れているのかは不明だが、信頼に値する人物であることは確からしい。

 浮浪児であった時分によく遊んでもらった記憶から、そのことをよく理解していたアーシェは、こと情報戦においては彼を頼ることが正解だと考えた。

「少し、訊きたいことがあるんだ」

「訊きたいこと? はて、アカデミー主席のアーシェちゃんが、この老害に訊きたいこととは」

 茶化した云い方で、好々爺然とした彼は笑う。

 アーシェは無視して本題を切り出した。

「人狼」

 瞬間、彼の顔が変わる。

 仮面を付け替えたような急変、老人にあるまじき殺気の漲る変化だ。 

「どこで知った……」

 低い声を潜めた。咎めるような、突き放すような、凍えるほどの冷たさで。これはきっと恐れからくるものだとアーシェは予想した。

 はたしてそれは当たっていたのだろう、彼の顔色は悪くなっていく。口に出すことすら憚られるのか、口にできない事情があるのか。

 どちらにしろこの状態では聞きだすのに苦労するに違いない。

「話す気はないのかい」

「悪いがの。口の軽い仲間が一人、喰われておるんだ。こんな老いぼれでも、命は惜しいのでな。……、イーリングの方で犬が出た。それくらいしか知らん」

 ランドルフは視線を辺りに彷徨わせて、わずかに唸り、それきり口を閉じて話さなくなった。

 やはり人狼の居場所を聞き出すのは難しい。せめて何か手がかりでもと思ったアーシェはひどく苛立ってしまう。抑えきれぬ失望と憤怒が全身を襲った。

 とはいえ、この短いやり取りの中で、わかったこともある。

 人狼の秘密を探るのは危うい行いだ。命に係わる行いだ。

 マフィアの話でならよくあるが、人狼となれば話は大きく変わってくる。そも存在自体が幻想だというに、まるで存在を認めるこの反応、裏には想像もつかない何かがいるとさえ邪推できてしまう。

 あるいは、これこそランドルフの伝えたい事実なのか。

 とにかく。

 元から尋常ではなかったこの事件は、かなり根深いところに差しているのだろう。国家まではいかずとも、何かしらの巨大な組織が行っていると考えつくのは容易い。

「なるほど、なら訊かずにおくよ」

「それがいい、ああ、それがいい」

 しきりにランドルフは頷く。いよいよもって恐ろしくなってきたのだろう、唇が少し青ざめている。

 アーシェは彼に、少なくない情報料を払ってから、その場を去った。

 次なる目的は、人狼の居そうな場所に当りを付けることだ。

 路地から大通りに向かう歩みを止めず、胸のポケットから携帯機関通信機を取り出して、カチカチとダイヤルを回す。親愛なる知人、カリスに意見を聞くために。

 呼び出し音が五回なった後、彼女は応答した。

「……、ぃ……」

 ひどく掠れた声がした。まるでひどい風邪でもひいたみたいだ。

 アーシェは何か病気でもしたのかと思いながら、彼女に問う。

「ああ、カリス。少しいいかな、狼男について訊きたいんだけれど」

 瞬間。

 通信機からけたたましい音が響いた。

 思わず足を止め、耳から離してしまう。

 不思議な反応をするものだ、そう考えたのも束の間、はたとアーシェは通信機に向かって「カリス! 今君の家に行く、逃げずに待っているんだ……っ!」

 叫んですぐさま通信を切って走り出した。

 あの反応は、間違いなく何かを知っている。

 アーサーに誘われた時、話だと数日はカリスの姿を見ていないと云っていた。それだけなら偶然と片付けられたが、今しがたの通信機越しの反応は決定的だ。

 どういう関係なのか、どこまで知っているかもわからないが、直接会って問いただすだけの価値はある。

 カリスの住居はロンドン西部、アウターロンドンのを構成する地区のひとつであるイーリングだ。主に極東の人々が多く在住し、住居区画のはずれには舶来品を並べた露店があり、彼女はそこで怪しい品々を買い溜めているらしい。

 ホワイトチャペルからは少々距離があり、地下鉄で行ってもおおよそニ十分はかかる。それまでにカリスが逃げるかもしれない。まさしく時間との勝負だった。

 サウス・イーリング駅で降りて、住居区へ向かう。

 商業区ではロンドンでは見ない文字――おそらくは日本帝国の文字――が並び、露店が見慣れない品々と共に軒を連ねている。

 もしかしたら、家から逃げ出したカリスが紛れているかもしれない。アーシェはわずかに目を凝らしながら道を急いだが、幸いといえば良いのか、それらしい影は見当たらなかった。

 住居区に着くと、背の低い建物の中でひと際おおきなものが見えた。二十階建て、各部屋に小型蒸気機関の完備された、それなりに高級なアパートメント。そこの四階にカリスの家がある。

 備えられた蒸気エレベーターでは遅い。階段を飛ぶように上り、四階の角部屋の前に立つと、乱れた息もそのままにドアを叩いた。

「カリス、いるんだろう! 開けるんだ……はやくっ!」

 返事はない。自身の荒い息遣いだけが響いている。

 あわや逃げられたか。

 舌打ちをして、乱暴にノブを回す。

 はたしてあっけないほど簡単に開いた。

 室内は思いのほか片付いていた。

 怪しげな伝承や魔術の本が山積みになってはいるものの、生活スペースは充分すぎるほどに空けられており、埃もたまっていない。逃げたにしては少々綺麗すぎた。

 ダイニングの奥には寝室に続く扉がある。もしいるならば彼女はここに隠れているのだろう。

 歯噛みしながら寝室へ踏み入る。

 ドアを乱暴に開け放つと同時に、近くにあった本の山が崩れて、微かな悲鳴をかき消した。

「……カリス、話してもらおうか。何を知っているんだい、君は」

 カリスは、おそらくは部屋着であろう真っ黒いセーターとスカートのまま、ベッドの上で膝を抱えて縮こまって震えていた。

 いつにも増して顔色は悪く、もはや病人のそれだ。

 視線を迷わせる彼女の肩を掴み、じっと見つめる。

「黙っていたらわからないだろう。今のあたしは短気なんだ、知ってることは教えてもらうよ。是が非でもね」

 睨みつつも顔を寄せれば、カリスは息を詰まらせて目を逸らす。話したくないのだろうが、アーシェには無意味だ。

「もう一度忠告するが、今のあたしは短気なんだ。黙らず、口を開いて。知ってることは全部吐いてもらうよ」

「っ……わ、わたし……」

 迷う素振りを見せた後、カリスは口を閉ざした。

 それほどまでに話すのが恐ろしいのか。

「ふざけるなよっ、お前!」

 切実な現実、アーシェにはどうしても情報が必要だった。

 カリスの首を掴み上げて、抵抗する間もなくベッドから引き摺り下ろし、床板に叩き付ける。

 苦しげに呻いた彼女に、額が触れあうほど顔を寄せて、焦りと怒号を浴びせた。

「下手に出てたら何もしないと思ったのか!? 忠告したはずだぞ、それを無視したのはお前だ! カリス・ゴールドスタイン!」

 殺意を真正面からぶつけられたカリスは、ひどく怯えて涙を流す。またそれが憤怒を刺戟する。

 自らこの状況を招いておきながら、さも当然のように被害者ぶるその態度が、記憶に残る母を思い起こさせ、まったくアーシェの逆鱗に触れるのだ。

「最初から話せば良かったろうが……、最初から素直に従っていればこうならずに済んだんだ! 今さら後悔しても遅いんだよ、ダメなんだよ!」

 手に力が籠る。

 殺しはしない程度に。

 歯噛みして、カリスの喉許を両手で持ち上げ、壁際に吊り上げる。拍子にいくつかの本の山が崩れて埃を舞い上げた。

 カリスは同年代の女性と比べても軽かったが、それにしても、アーシェの力はおおよそ淑女の持つ膂力ではない。

 アーシェは淑女などと上品な人間ではなく、その本質は身ひとつでスラムを生き抜いた浮浪児、それもとびきりの問題児である。

 そこらの女性と比較するのは馬鹿々々しいことだが、それにしたって人一人を持ち上げるのは並大抵のことではない。

「さあ、吐いてもらおうか。話す気があるなら下ろしてやる……、”俺”だって悪魔じゃあないんだからな」

 口調が変わった。

 声もずいぶんと低くなり、男と聞こえるような、粗暴なものへ。

 アーシェは自身が昔の自分……いや、もしかしたら何か別のモノだろうか。得体の知れないものが、自身の中で目覚めつつあることを、頭の隅で自覚した。

 人狼を殺した頃から、じょじょに心の底の檻を破ろうとしているそれを、必死に抑え込もうとしていた。

 にもかかわらず。

 かつての荒々しい部分が、完全に表に出てきてしまったのは、カリスの態度がトリガーになったゆえ。

 しかし。

 しかしだ。

 自分でもこの激情にはどこか違和感を覚える。

 まるで、腹の底から無理やり押し上げられて、感情を吐露させられているような。そんな息苦しい感覚だ。

「死にたくないだろ……誰だって死ぬのは嫌だからな。話してくれ、カリス」

 苦悶と恐怖の入り混じった表情を浮かべて、必至に素足の踵で壁を叩くカリスに、アーシェはぞっとする優しさで囁く。

 懇願めいた言葉は、その実、脅し。今お前を殺しても良いのだ、と。本当は殺す気なんて微塵もない。けれど今のカリスに、この心の内がわかるものか。

「ぅ……っ……!」

 はたしてカリスは、かすかにではあるが、確かに頷いた。

 彼女を下ろすと、その場にへたり込んで、両手で喉を抑えながらひどく咳き込んでしまう。

 歯は噛み合わず、見開かれた瞳は涙に濡れて、顔はいつも以上に蒼白で、はっきりと恐怖の感情が見て取れる。白かったはずの喉許にはくっきりと手の痕が、身に起こった恐怖の証左として刻まれていた。

 アーシェが一歩踏み出すと、可哀想なことに、彼女は怯え切って這う這う部屋の角へ逃げ出す。

 アーシェがスカートの裾を踏んづけてそれを咎めれば、彼女は無様にも転んで、わずかもがいてからこちらを見上げた。

「俺が怖いのか……馬鹿だヤツだよ君は、さっさと話していれば、必要以上の恐怖を刻まれなかったってのに」

 凄惨の笑みを張り付けて、アーシェは云う。下手に出ても口を割らなかったのだから当然の帰結、むしろ慈悲を見せただけ感謝してほしいとさえ思っている。

 弱者は強者に陵辱される。

 それが”今のアーシェリカ・ロゼッティ”の本質だった。

「いつまでそうしてるんだよ。離してやったんだ、キリキリ吐け」

 蔑みすら感じない冷たい問いかけに、カリスは小さな悲鳴で答えた。

「気が短いって云わなかったか? 次は殴ってもいいんだ」

「や、やだ……、やめて……いや……!」

「いや、じゃあないんだよ。さっさと教えてもらわなきゃ」

「なんで……こんな、ぅ、うぅ……」

「話さなかったお前が招いた結果だっての、俺に責任転換されてもなあ」

 もはや正常な受け答えもできないほど、カリスは完全に折れて立ち直れなくなっていた。

 ここに至ってようやくやりすぎたらしいと理解したアーシェは、困ったそぶりで肩を竦め、殴れば元に戻るか、などと物騒な考えを抱いた。

 ちょうどその時、家のドアーが乱暴に開かれて、同時にほとんど悲鳴に近い男の声が響いた。

「なんだ……? どうしたんだ、カリス!」

 聞きなれた声だ。気付いた直後、寝室に飛び込んできたのは、アーサーだった。

 なぜ彼がここに。

 訝しげに片眉を上げるアーシェだったが、彼の姿を見止めたカリスの絶叫で意識を目下に戻した。

「ひっ、た、助けて! 助けて! あ、殺される!」

「なんだって……どういうことだい、カリス」

 カリスの悲鳴に険しい表情を浮かべたアーサーは、アーシェを油断なく睨みながら問う。だが、彼の双眸には戸惑いの色が浮かんでいた。

 対して、アーシェは悪びれず「そういうことになるかな」となんてことはないふうに事実を告げる。

「何が、どうなってるんだ? 君は……?」

「訊きたいことがあったのさ。けれど”コイツ”は口を割らなかった。だから、ちょっとね」

「助けて……っ、お願い……アーサー!」

「うるさいな、少し黙れ」

 喚くカリスを睨んで黙らせると、いよいよアーサーはカリスの言葉を信じた様子で身構える。同時にまだ、アーシェの変貌を信じ切れていない様子でもあったが。

「アーシェ……本当に、アーシェなのかい」

「そう、そうだろう。他に何に見えるんだい」

「けど。けど、君の瞳は……”琥珀色”だ」

 時が止まる。

 静けさが世界を支配して、凍らせた。

 アーシェは彼の発した言葉に耳を疑い、そして急速に、頭の片隅にあった冷静な部分が活性化していくのを感じた。

 残念ながらこの部屋に鏡はないためわからないが、もし彼の言葉が本当ならば、今のアーシェリカ・ロゼッティは、そう。

 ”獸になりかけていた”。

 自覚した途端に全身が粟立ち、吐き気と嫌悪が腹の底から湧き上がってくる。たたらを踏んで後退り、我知らず両手で顔を覆った。

「ち、違う……、あたしは、あたしは……」

「アーシェ!」

「ああ、なんてことを……カリス……ごめんよ、カリス……」

「……っ」

 嗚咽を漏らし、許しを乞いながら膝をついたところで、アーサーが駆け寄って肩を抱く。ようやく解放されたカリスは外へと飛び出していった。

 取り返しのつかない事態になった。あれだけの暴力にさらされたカリスは、もう立ち直るのは難しいだろう。立ち直れたとしても、友人にあれほどまで痛めつけられた記憶は心象に深い影を落とし、恐怖の感情は一生消えない。それがアーシェには苦しくて、哀しくてたまらなかった。

 これがシェーンであったのなら、彼女はきっと、この場で舌を噛み切った後に窓から飛び降りて死んでいただろうほどに懺悔した。

 しかし。

 しかしである。

 アーシェの片隅で、冷静な部分が囁いていた。彼女の内に眠るいっとう悪辣かつ残酷な、浮浪児であった頃の思考が、醜悪な獸めいて嘯いていた。

 これは仮初の懺悔でしかない。悪いのは口を割らなかったカリスで、自分は何も悪くないのだ、と。

「アーシェ、どうしたんだ……何があったんだい」

 アーシェに寄り添って、アーサーが問うた。いつもの剣呑さを隠した彼は、正しく慈悲深い神父であった。

「何か事情があるんだろう、途方もない事情が。だってそうだ、君が理由もなしにこんなことをするはずがない。俺の知っているアーシェリカ・ロゼッティは、もっとも貴い人間だから」

 なだめすかした言葉は、あまりも空しくて、アーシェには響かない。彼はきっと心から思っているのだろうが、それでも届くはずもない。

 足元のおぼつかないまま立ち上がる。

 カリスが何を知っていようが、ここに至ってはもう聞きだせないのだから、長居は無用。それに、派手に騒いだせいで近隣の住人がヤードを呼んでいるだろうから、早々に出て行かねばまた面倒なことになる。

「待て、待つんだアーシェ!」

 アーサーの手を振り解いて、アーシェは駆けだした。

 走った。 

 ひたすらに走った。

 幾人も突き飛ばしながら、ガーニーに轢かれそうになりながら、走って、走って、とにかく走った。

 そうして気が付いた時、虚空とも現世ともつかない心地で倒れていた。

 見知らぬ場所だった。

 ロンドンのいずこかであるのは確かだけれど、肌に感じるのは冷たい石畳ではなく、湿った土ばかり。

 周りも深い霧に覆われていて何も見えず、ロンドンに自然が残る場所なんて数えるほどしかないのに、まったく見当もつかなかった。

 アーシェは自暴自棄になって目を閉じた。

 しばらくそうしていると、誰かの声が辺りに響いた。怒声と悲鳴。かつての遠い記憶にあるそれは、父親と母親のもの。母が打たれているのだ、父が虐げているのだ。幼き日の日常だ。

 霧はゆっくりと薄くなり、古い記憶をアーシェに見せる。

 古ぼけた民家。

 荒れた部屋。

 乱れたベッド。

 泣きながら許しを請う女と、残虐に嗤って腕を振り下ろす男。

 アーシェは思い出した。

 自分は元より獸であったこと。

 アーシェの父は、寒村の村長をしていた。蒸気機関の発達によって僻地となり、街と隔絶された森の中で、ただ滅びるのを待つだけの村を、暴力で纏め上げていた。男、村に唯一ある鉱山の所有者だった父は、村人を奴隷として採掘場で休みなく働かせ、女は囲いとして邸宅に足枷を付けたまま押し込めて、反抗の余力を残さないまでに痛めつけていた。

 そんな陰惨とした村で、アーシェは生まれた。

 村にはアーシェと同じ境遇の子供が何人もいた。

 同じ父を持ちながら違う母の腹から生まれた子供たちだ。彼らは教育も受けないまま育ち、十になる頃にはそれぞれ男は鉱山へ、女は足枷をはめられる。

 動物でも飼うみたいな感覚で行われる選別は、正しく”牧場”と表現しても差支えないものだった。アーシェは幼いながらも村の異常性に気付いていた。アーシェだけではない。子供たち全員が気付いていた。

 彼らには何かをする勇気は微塵もなく、きっと母と同じようになるのだと諦めていた。事実そうであった。

 九つになった頃。アーシェは父に筆舌し難い行いを受けた。何もしていないというに、彼女だけが父に目を付けられ、十にも満たないまま暴虐を受けたのだ。虐げられながらも、アーシェはずっと考えていた。自分だけがなぜ、こんな目に和なければならないのか、そもそもなぜ、自分はこのような仕打ちを受けているのか。 

 答えはすぐに見つかった。

 ふと視線を移すと、ドアの隙間から数人の子供たちが、下卑た笑みを浮かべてこちらを眺めていた。なんてことはない、彼女たちはアーシェが気に喰わなかったから、適当な罪を出っちあげて晒したのだ。

 弱者は更なる弱者を作り、嬲ることでストレスを緩和させるという。その嬲る対象に選ばれたのがアーシェだったというだけの話である。

 それを幼心に悟った瞬間、アーシェの中に獸が住み着いた。

 狡猾で執念深い、炎のような獸が。

 この日を境にアーシェは怖ろしいほど詳密に計画を立て、実行に移すため恥辱に耐える日々を送ることになる。父に媚び、仕事を覚え、道具を揃えた。自分を笑った子供たちの顔を、少しの漏れもなく記憶して、どのような行動をしているのかを調べ上げた。

 長く伏して準備をした計画は、面白いほど上手くいった。直前に鉱山で崩落事故があったのも助けになった。嗤った奴らを豚小屋に呼びだして、何日もかけて仕掛けていたトラバサミを踏ませ、足の腱をナイフで切り裂いた後、一人ずつブタの糞を口に詰め込んで窒息死させる。泣き叫ぼうにも豚小屋は村のはずれにあり、しかも浮足立った村に悲鳴が届くことはない。

 最後の一人を殺すと、アーシェは馬を盗んで村を脱した。

 十になる直前のことだった。

 獸から生まれたゆえに、アーシェリカ・ロゼッティもまた獸。牧場で飼われる家畜の一匹でしかない。逃げ出したとて、人にはなれないのだ。

 アーシェは無感情に思う。どこで間違えたのか。それはきっと殺すと決めた時だろう。

 大人しく震えていれば良かった。いつ来るかもわからない未知の恐怖に怯えて何もせずに過ごしていれば、今頃は少なくともこんな目にあううことはなかったに違いない。なまじっかな計画で復讐をして、自己満足のために取り返しのつかない状態になってしまった。獸は獸として、檻の中で過ごしていれば良かったのだ。

 もはやどうとでもなればいい。四肢を投げ出して、諦観と共に意識を手放した。

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