第四話 死中の酔生・2


 


 夜も更けた頃、アーシェの部屋には二つの影があった。

 ひとつはアーシェで、もうひとつは小太りの警官だった。彼はアーシェの家を訪ねてくるなり、玄関先で様々なことを聞いてきた。友人はいないのかとか、昨夜は何処にいたかとか、まるで犯人と決めつけたみたいな云い分だった。

 無理もない、アーシェは白ける。ホワイトチャペルなんて小汚い場所に淑女と鳴らした少女が一緒にいたのだから、それは目立つし、誰彼構わず噂するというもの。ヤードには昼間に会った警官が漏らしたに違いない。

「それで」警官は安物の葉巻を咥え直して、「君の職業は」

「学生です。こんなですが、王立アカデミーに通っています」

 ほう、と警官が驚いた。疑念も抱いたと見える。

 こんな奴がアカデミーに通っているとは思ってもいなかったのだろう。けれど本当に通っているとも思ってはいない。口からの出任せだと断じている様子だった。

 それを知っていながらアーシェは朗々と話した。

「あたしは元浮浪児ですが、頭は良いのですよ」

「云うかね、そんなことを」

 驚愕冷めやらぬ警官が眉を顰める。

「お疑いの様子でしたから」

 肩を竦めて悪びれず答えた。

「卑しい身の上でとそしられましょうが、アカデミーは浮浪者や街娼であろうと非才ならばその手を差し出してくれます。老いも若きも、身分も関係なく、才あらばその慧眼を以って拾うのです。智に貴(あて)なく……、これはおためごかしの言葉ではない。事実、あたしは学年一位の成績ですから」

 強かな弁舌は信用を生む。警官はわずか信用し始めていた様子だ。

「お望みでしたら証拠も見せますよ。アカデミーのノートを、ね」

 畳みかけるように、彼を部屋に上がるように促した。

 それからたっぷりと時間が経て、やっと警官は帰り支度を始めた。

 将来有望の碩学が人を殺すものか懇々と話した甲斐あってか、ある程度のところまで疑いが晴れたのだ。

「協力、感謝する」

「いえいえ」

「ところで、最後に一つ訊きたいのだが、このあたりで犬を見かけたかね」

「犬ですか。見たことありませんね」

「そうか、ならば良い。くれぐれも、気を付けてな」

「お役に立てたのなら幸いです」

 乱れた制服を整えた警官は失礼とも態度で心にもない礼を述べる。慣れたものでアーシェは気にした風もない。疑われるのはわかっていたから、それ用の対策もかねて色々と考えてあった。結果は上々だ。

 警官の後姿を見送り、一安心すると眠くなってきた。

 ひとつ大きなあくびをしてから、アーシェはシャワーを浴びるために洗面所に向かう。ふと鏡を見れば、そこにはアカデミーに入る前の自分がいる。暗く澱んだ瞳をした自分がいる。今の自分とそっくりだ。

 疲れている。とてつもなく。

 決めつけて、さっさと服を脱ぎ捨ててシャワールームに入った。

 裸になれば嫌でも巨大な噛み痕と爪痕が目に付く。女性の身体にはあるまじきもの。触れば傷跡特有のざらざらとした感触が指先を刺戟し、ことさらに不愉快だった。

「それにしても」

 改めて考えれば不思議な傷だった。

 この傷というのは、致命で塞がりようのないのに、どうしてか痕だけ残して他は綺麗さっぱり治っている。あの人狼、尋常ならざる者より受けた傷は、未知なる超常の力が宿るとでも云うか。

 わからないが、もしそうならば、一生消えることはないのかもしれない。嫌な考えがよぎって、アーシェは歯噛みしてしまう。肌を打つ水滴に煩わしさを感じて、アーシェはわずかに身動ぎした。

 シャワールームから出て身体を拭き、寝間着に着替えた途端に眠気が襲ってきた。疲れがどっと押し寄せてきたようだ。

 ネグリジェも纏わぬまま、気怠げに、乱れたままのベッドに寝転がり、睡魔に身を任せて瞳を閉じる。

 数秒も断たぬ間に、微かな寝息だけが部屋を満たした。

    


 アカデミーが終ってから数刻、クラブに顔を出すと、珍しくアーサーだけが居た。この時間だといつもならカリスが来ているのに、今日に限っては奇妙である。彼に訊いても「数日来ていない」と興味なさそうに首を振るばかりで、不安を隠せないアーシェは眉を顰めてしまう。

「まあ、そんな日もあるさ」

 無関心を隠さない彼は新聞から目を離さない。

 もっともな意見だ。カリスだってアカデミーの卒業生で碩学として働いているのだから、たまたま仕事が忙しくて来れなかったのかもわからないだろう。

 先日の事件で過敏になっているのか。

 アーシェは感情を隠すみたいに眉間を揉んだ。

「事件はどうなったかな」

 話題を移すと彼はやっと顔を上げた。

「どっちの事件だい?」 

「どっちもかな」

「ふむ……アラン・タイムズによれば、どちらも進展なしと報じているね。切り裂きジャックの再来はまだ何もないし、ホワイトチャペルの発砲事件は浮浪者の身元確認が難航しているそうだ」

「切り裂きジャックの再来は、また現れるかな」

「昨日の今日で現れるのが殺人鬼の再来なんて、勘弁してほしいけれど」

 状況は芳しくない。

 アーシェは歯噛みしたくなった。浮浪者なのだから当然だが、しかし、身元確認の難航はもどかしく思う。座して待つほどもどかしいことはない。

 世論と同じくヤードを無能と断じてしまえば楽だが、あれらが出す情報を頼みにしている身の上でそれは傲慢だ。増上慢である。

「ヤードには、ぜひとも頑張ってもらいたいね」

 苛立ちを顔に出さずに云えば、彼は頷いて新聞を閉じた。

「ところで」不意に彼は、思い出したみたいな声で「今夜よければ食事でもどうかな」

 話題が唐突に移った。

 不意のデートの誘いに、アーシェは心底溜め息を吐きたくなってしまう。

 受けるのは正直気が進まない。さすがに断ったらへそを曲げるほど彼も狭量ではないだろうが、アーシェは一度この手の話で厄介ごとに巻き込まれているから、どうしても一瞬考えてしまう。

 とはいえ無下に断る理由もないし、こうして誘われるのは悪い気はしないのも事実で。

 ちょっとした優越感とか、そんなものちゃちなものが彼女の心に魔を指した。

「しようがない。今回はキミに花を持たせてあげよう」

「本当かい? 良し、良し……店を知ってるんだ、アーシェが気に入りそうな」

「へえ、それは楽しみだ」

 心にもないことを云って笑う。

 余裕ぶった態度で返せば、彼もまた余裕を見せた。

 それから間髪入れずに、彼にエスコートされながら外へ出た。案内されたのはシティの一等地に立つ高級オーベルジュのだった。鋭い目つきで、顎髭を蓄えた夜間ドアマンに軽く会釈して、中へ。それからアーサーの背を追いかけていくと、落ち着いた雰囲気のいかにもなフランス料理のレストランで、まったく彼に下心が透けていた。

 強引な男だ。アーシェは思いながらも、まだ悪い気のしていない自分に自嘲する。笑顔を崩さず席について、おためごかしに言葉を投げる。

「ずいぶん洒落たところだね」

「だろう? ここは俺の行きつけだから、きっと気に入ってくれると思ったんだ」

「これで料理がおいしかったら、あたしの行きつけにもなってしまうかな」

「味は保証するよ」

 得意げなアーサーに対して、アーシェは見えないように肩を竦めた。

 こんなにも格式高いレストラン、いくら彼が金持ちの息子とは云え行きつけとはいささか無理がある。シェーンほどの大金持ちならば少しも疑わないのだが。

「ふふ、そういうことなら、期待しようかな」

 しかしこの場で指摘するのは無粋だろう。

 男が見栄を張っているのをわざわざ水を差すほど、アーシェは考えなしではない。

「裏切らないよ、ここの料理はね」

 彼は満足げに頷いてウェイターを呼ぶと、来る前からすでに決めていたのだろう、実に余裕ぶった態度でいそいそと料理を頼んだ。

 しばらくしてワゴンで運ばれてきたのは、プロヴァンスワインと、前菜のプロシュット包みのイチジクが乗ったカナッペと、口当たりの良いあっさりしたもの。スープは牛肉のコンソメスープ、魚料理はシー・ブリームのムニエル、ソルベにはレモンのシャーベットが出され、肉料理はフォアグラのステーキで、デザートには木苺のミルフィユだった。

「うん、期待以上」

 アーシェはナプキンで口を拭い、はたして美味であったと頷く。

 比較的にシンプルで素材の味を活かす料理の多いコースで、ワインも料理を引き立てる良い味だ。

「キミの誘いを断る理由がなくなってしまいそうだ」

「気に入ってくれたみたいで何よりだ。また食べに来よう、今度はもう少し味付けが濃いコースを頼みたいからね」

 アーサーは眼鏡を指先でついと上げ、得意になった。

 さしずめ、心中で計画が順調に運んでいると、密かにほくそ笑んでいるに違いないが、アーシェはもう大人しくしている気はない。

「さて、今日はありがとうアーサー。もう帰るとするよ」

「帰る……? 最近の夜道は何かと物騒だ、明日はアカデミーも休みなんだし、泊って行かないのかい。部屋を取ってあるんだ」

 唐突な言葉に狼狽える彼を尻目に、アーシェは立ち上がると、人差し指を唇に当ててウィンクした。

「悪いけれどね、アーサー。イイ女はそう簡単に靡かないものなのさ」

 それを聞いて、アーサーは見惚れたみたいにぽかんとした。

 平時なら自信過剰とも取れる発言が、彼への殺し文句としては完璧なのだと、アーシェは正しく理解しているのだ。そして当然、身の振り方も。 

「だけど、ふふっ、キミのエスコートは良かったよ」

「そ、そうかな……それじゃあ、家まで送るよ」

「本当かい?」

「……最後まできちんとエスコートするのが、紳士だろ?」

「さすがだね、アルトリウス」

 アーシェの言葉に気を良くしたアーサーは、並び立って、オーベルジュから出る支度を始めた。袖にされたのに機嫌が良いのは、恋は盲目などとよく云ったものであるが、アーシェが彼の機嫌を損なわないようにしているよるところが大きい。日頃あしらっているおかげか、随分と手慣れたものだ。

 外に出るなり、肌を裂く冷たい風が吹き抜けていく。

 夜のシティの活気もなりをひそめて薄暗く、繁栄の裏に隠れた闇が霧の隙間から見える。

 ホワイトチャペルに比べれば少ないが、浮浪者は夜食を求めてごみを漁り、立ちんぼなどが機関街灯の下で右往左往して仕事を探す。街娼はかじかんだ手をすり合わせながら男を呼んでいる。

 夜のロンドンの空気に負けず劣らず、寒々しい光景だ。

「夜は、一段と冷えるね」

「ああ、早く帰ろう」

 吐く息の白さに震えた二人は、あれらを尻目に足早にガーニー乗り場へ、二等ガーニーを拾ってホワイトチャペルへ向かう。

 アパートメントの前でガーニーを降りると、陰鬱としたホワイトチャペルが現した。見慣れたホワイトチャペルだが、警官があちこちに配置されていて、今はひどく恐ろしい。

「思うんだけれど」ガーニーにしばらく待っているよう告げたアーサーが、生ごみのすえた臭いに苦い顔をして辺りを見回し、

「どうしてここに住んでいるんだい。アカデミーの学生なら、シティに下宿をいくらでも借りられるだろうに」

「資金がないからね……金もないまま離れるのは、どうにも気が引けてさ。まあ、卒業したらベーカー街にでも移るさ」

 今のアーシェは苦学生だ。日々の生活も何かと金がかかるし、アカデミーの学費だって頭が痛くなるほどで、とてもじゃないが他の場所に移ることができない。

 切実な現実があった。

「前に云ったけれど、下宿先なら紹介できる。口利きして宿泊料を無くすことだってできるから、いつでも……」

「キミの手を煩わす気はないよ。でも、本当にどうしようもなくなったら、頼らせてもらおうかな」

 曖昧に肩を竦めながらもホールへ入り、傾斜が急で煤けた階段を上って部屋の前に着くと、彼のあちこちへ彷徨う視線を気にしながら鍵を開けた。

「ありがとう、アーサー。今日は楽しかったよ」

「それは、うん、よかった」

 落ち着かないのは女性の部屋に来たからなのか。まだ部屋の前だというのに初心な反応をするものだから、アーシェはからかうつもりで、耳元でそっと囁く。

「また機会があったら、よろしくね……期待してる」

「も、もちろん! 次はもっと良い店に連れていくよ!」

「……おやすみ、アーサー」

 効果はてきめんのようで、見たことないくらいに気炎を吐く彼をくすくすと笑って、部屋へと入った。

 半日以上も空けていた部屋は、夜を煮詰めたみたいに暗く、そして冷え切っている。外よりもマシではあったが、はやく放熱器を点けないと凍えてしまう。

 消してしまったランプに火を入れようと、ポケットからマッチ箱を取り出して、一本灯す。微かな明かりで照らされた部屋は、今朝とは違って、何故だかひどく散らかっていた。人が侵入した痕跡があった。

 わずか、息が止まる。

 アーシェは事件以来、常に懐に忍ばせていた拳銃を構えて、物音のひとつも聞き逃さないと、注意深く耳を澄ませて身構える。

 強盗の類が入るのはままあることだ。数週間前だって部屋が荒らされていて、少なくない数のアクセサリーが持ち出されていたし、いくらか現金もなくなっていた。あの時は泣き寝入りしたが、今回はそうはいかない。

 人の気配は部屋の奥、ちょうどベッドの横当たり。

 あそこには小さいながらも窓があるから、きっとそこから侵入したのだろう。油断なく銃を構えたまま、すり足でベッドへ。あと一歩のところまで迫ると、マッチの頼りない灯が揺らめいて、ベッドに腰かけた男の姿を暴いた。

「人の家で何をしている」

 低い声で問いかけ、銃口をぴったりと眉間に向ける。

 男は、羽を休める大烏みたいに、前屈みでいる。ボロボロになった黒いコートと纏い、手拭で頭を覆っている。

 目と鼻だけを露出させているから、表情も、何を考えているのもかわからない。ただ、手に持っている大きなナイフから察するに、抵抗する気があるのは確かだ。

「そんなおもちゃで脅しかい」

 低く、唸るような声が、男から発せられた。短い言葉、その中に訛りがある。アメリカ大陸、それも北部の訛りだ。

「おもちゃだと思うか」

 安全装置をわざとらしく外して云えば、男はくつくつと喉を鳴らして立ち上がる。

 荒事には慣れているらしい、余裕を持った動きだ。

「俺にとってはおもちゃだ」

「何を……」

「この距離。銃爪を引くよりも早く、俺はお前の喉を刺せるぞ」

 マッチの明かりが反射して、ナイフが黒々と光った。

 脅しではない、確固たる自信を持っているゆえの力強さが、この男にはある。

「金でも盗りに来たか」

 アーシェが訊くと、男は変わらずくつくつと笑って「盗みに来たわけじゃあねえんだが、まあ、似たようなものか」

 はぐらかした答えだ。アーシェは舌打ちを堪えた。

「別にお前を襲おうとか、考えちゃないぜ。けど場合によっちゃあ、手荒いことになる」

 男はそう云って、ナイフを手の中でもてあそぶ。

 細長い身体だが、動きには澱みがない。よく手入れされたブリキの人形を思わせる滑らかさで、筋肉量はそれなり以上だとわかる。跳びかかられたら、アーシェでは勝ち目はない。

「動くなっ」

 短くなったマッチが、指先を焦がそうとするのを感じながら、アーシェは歯を剥き出しに銃爪に指をかけた。

 けれど男は、少しも臆さずに整然と距離を詰めて、銃を持つ手を払いのけると、そのまま節くれだった大きな手でアーシェの口を塞いで、ベッドに引き倒した。

 はずみで落としたマッチ棒が踏み消されて、ついに部屋は暗黒が支配した。

 一瞬の出来事に、アーシェはわずか茫然としてしまう。

 それからゆっくりと、眼前にナイフの切っ先が突きだされる。肉切り包丁を思わせる分厚くて恐ろしげな刃と、峰を走る真鍮が、闇の中でもはっきりと見える。

「俺はお前を殺すなと云われてるんだが、だからと丁重に扱う気はない。あんまり抵抗するなら、大人しくさせてから連れていくこともできるんだぜ」

「ぐくっ」

「傷物になりたくなきゃ、今は従うのが賢明だろうよ……」

 口ぶりからして、誰かに依頼されて来たらしい。

 いったい誰がこんなことを。

 声に出そうとするも、口を押さえつけられているせいで、くぐもった呻きしか出せない。

「気が強いってのも考えモンだ。売女なら売女らしく、黙って着飾ってりゃいい」

 声色からして呆れた様子の男に、アーシェは目の前が真っ赤になるほど激高した。売女と罵られて黙っていられるはずがない、出来るならば今すぐに大声を上げて、この男に考えられる限りの罵詈雑言を投げつけてやりたいくらいだ。だが、目の前でゆらゆらと踊るナイフが、それを許してくれない。

「とにかく、付いて来てもらう。話はそれからだ」

 男に促され、アーシェは銃を手放して立ち上がった。

 背中に切っ先を押しあてられたまま部屋を出て、いつの間に現れたのか、真っ黒なガーニーに押し込められた。

 ガーニーは、アーシェと男を乗せてしばらく走った。

 ホワイトチャペルを抜けて、郊外の小さな寒村にある馬小屋近く。今はもう使われていないのか、廃屋と云っても差支えない家の庭まで、一度も止まることなく走り続けた。

「降りろ」

 云われて素直に降りると、目の前にぽつねんと建つ家が、嫌でも目につく。

 家は、おおよそ十年は経っているだろうか、窓は全て割れて、剥き出しの壁板は穴だらけ。おまけに天井の一部は崩落している。一目で人の手がほとんど入っていないとわかるほどボロボロで、軒先に吊るされた機関ランプが、かろうじて住処の痕跡を残すのみ。

 屋内はさらにひどく荒れていた。置いてある家具は入念なほどに毀れ、床板は所々が腐り落ちて、迂闊に進もうものなら抜けてしまうだろうほど。

「こんなところに連れてきて、どうするつもりだ」

「別に取って食ったりはしねえよ」

 訊いても小馬鹿にした返事ばかりで要領を得ない。

 悪漢の類ではないようだが、しかし、人攫いをしている時点で危険な組織であることは間違いだろう。

 組織。

 そう、組織だ。 

 後ろでナイフを構える男の口ぶりから、アーシェは小さくない組織があるだと悟った。アメリカ訛りからして、人種を問わない構成なのか、またはアメリカに本拠地を置く組織か。犯罪シンジケートの可能性もある。

「ま、悪いようにしねえだろうよ」

「信用ならないな」

「俺に云われても困るんだがね」 

 歩調を緩めず部屋の奥へ、暗闇の階(きざはし)を下りていく。

 天井から吊るされた蝋燭に導かれ、降りた先には銀の燭台が煌めく長机があった。

 長机には多くの武器があった。

 手前から順に、銀のナイフ、小さな木槌、鉄枷、鉄杭、そしてリボルバー式の拳銃と銀の弾丸、そして。

「連れてきたぜ」

「ありがとう、ブラッド。報酬はいつも通り、上で受け取ってくれたまえ」

 壮年の男性らしき声がした。

 長机の一番奥に座す者、燭台に照らし出されたその姿は、ダークグリーンのスーツを着た白髪交じりの男で。どうやら彼が親玉らしい。

 そして”ブラッド”と呼ばれた背後の男は、どこか呆れた溜め息を吐いてから、場を辞した。

「申し訳ない。手が足りなくてな、粗暴な者しかいなかった」

「粗暴? ここの人間は、無暗に家を荒らして、ナイフを突きつけて脅すのが、粗暴の範囲内だと?」

「それに関しては陳謝しよう。だが、まずは落ち着いてくれたまえ」

 声を荒げれば、男は落ち着いた声色で語り掛ける。

 全て予想通りとでも云いたげな態度が、殊更にアーシェを苛つかせた。しかし、落ち着かなければ話が進まないことも事実、今は素直に従った方が良い。

 片手で顔を覆い、わずか深呼吸してから、「わかった、落ち着こう……」

「結構。では、さっそくだが話をさせてもらう」

「ろくでもない話じゃないことを祈るよ」

「その点は安心してほしい」

 反撃の嫌味に対しても余裕の態度を崩さない男は、席を立って、客人を相手するように恭しく一礼すると、最初に自己紹介をした。

「私(わたくし)の名は、デュオロンヘイン。植物学者であり、”狼憑き”の研究をしている」

 ”狼憑き”。

 アーシェは訝しげに片眉を上げる。

 思い出されるのはあの夜に刻まれた爪痕と、恐怖の記憶たちだ。おそらく”狼憑き”とは人狼の事を指しているのだろう。あれらが原因で、この怪しい男の前に引きずり出されたのか。

 ならば、はたして。

「勘違いしてもらいたいのだが」考えを見透かしたみたいに、デュオロンへイン、「先の一件は我々の差し金ではない」

 胡乱な話だとアーシェは鼻を鳴らす。

 素性もわからぬ男の言葉を、どうして信用できようか。それに、彼は確かに今”我々”と口にした。複数人が関わっているのならば、内部にいくつかの派閥だってあるに違いないのだから、額面通りに受け取るのはまったく愚行だ。

「なら、あたしはどうしてここに連れてこられた?」

 続きを促すと、デュオロンへインは「狼憑きに襲われた際に、君たちを助けたからだ」

「助けた……、どうしてその言葉を信用出来る」

「君の傷を塞いだ」

 胸に手をやる。

 唐突によぎった気味の悪い予感に、アーシェはわずか青ざめた。

「本来ならば死んでいた君と、君の友人を救った。特にアーシェリカ・ロゼッティ、君の傷は致命的であり、普通ならば助かる見込みもなかったが、我々には普通ではない技術がある。まだ息があったゆえ簡易ながら処置を施し、家に送り届けた」

「だから……何だって云うんだ」

「しかしそこで見落としがあった。アーシェリカ・ロゼッティ、君は狼に噛まれ狼憑きになっていたのだ。爪で裂かれただけと思っていたが、どうやら部下が確認を怠っていたようでな」

 噛み痕がじくりと痛み、忌々しくも存在を訴える。

 混乱と警鐘で荒れ狂う脳内で、ゆっくりと、デュオロンへインの話を反芻しながら、にわかには信じられないと首を振った。

「狼憑き、だって……あたしが……」

 彼の話が本当ならば、アーシェはあの時に殺した人狼と、同じ運命をたどることになるかもしれない。理性を失って、人を喰らう獸となり、昼夜を問わず苦しむことになる……。まともじゃない、いくらなんでも受け入れがたい話だ。

 けれど。なのに。

 気味の悪い予感は確信となって、心中に押し寄せてくるのは、何故か。

「馬鹿なっ、何を根拠に……そもそも、狼憑きだって……そんなオカルトも鼻で笑うような話を、信じろだなんて……」

 否定する。ひどく弱々しい口調で。

 対してデュオロンへインは無情であった。

「ならば何故、話を大人しく聞いていた。狼憑き、この未知の言葉を聞いて何故、疑問を口にしなかった」

「それはっ、いきなりのことで」

「君は狼憑きと聞き、あの夜を思い出した。だから何も云わず、続きを促した。違うかね」

 違う。云いかけて、グッと言葉を飲み込む。

 これ以上の反論は無意味だと悟り、荒れ狂う心を無理やりにでも押さえつけるのは簡単なことではなかったが、無為に時間を使うよりは良いと考えて。

 アーシェは自分が、頭の隅で冷静さを保っている事実に、死にたくなるくらいに嫌気がさした。今この時だけは、自分の聡明さを呪った。

「……ああ、云う通りだよ。くそっ」

 悪態混じりに認めて、続けろと睨む。

 デュオロンへインはわずかに沈黙してから、考えの読めない表情で云う。

「狼憑きを見過ごす我々ではない。が、だからとまだ人の身を保つ君を、獸のように狩るのも憚られる」

 そこで言葉を区切ると、アーシェの表情を一瞥してから、満を持してといった態でこう提案した。

「そこでだ、アーシェリカ・ロゼッティ。君を一時的に我々の傘下に加えることにした」

 傘下に加える。

 云い方からして、おおよそ徴兵めいた雰囲気であり、断ることはできなさそうだ。しかし、云われるまま得体の知れない組織に入ってやるアーシェではない。拒否権がないとしても、だ。

 デュオロンへインもそれはわかっているのだろう。

「もちろん、無償ではない。初めに、君の狼憑きを治すと約束しよう」

「……治せるの?」

「治せるとも。特殊な素材が必要だが、幸いにも在庫がある」

 驚愕を持って訊けば、当然とばかりに答えが返ってくる。

 確固たる視線からして、噓ではないらしい。それならば、協力するに値するだろう。唯一気になるのが、狼憑きを治すために必要となる特殊な素材……、ずいぶんときな臭いことだが、今この場で詮索したとて無意味だ。

「対価は」

「我々の狼狩りに協力してもらう。すでに一匹を狩り殺しているのだ、そう難しいことでもあるまい」

 彼の言葉にアーシェはわずか苛立つ。

 事も無げに云うが、あの時自分がどれほどの恐怖と戦っていたのか、きっとこの男はわかっていないのだ。

 まあ、指摘したとて状況が変わるわけではないので、アーシェは口を開かなかったが。

「もちろん、約束は違えん。もし違えたのならば、この首を刎ねるがよろしい」

 頷いて、彼は右手を差し出す。

「……、わかった。信頼はできない、でも、信用はできるように努力する」

 アーシェは、その手を握った。

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