第2話 霧中の怪異・2

小さく溜め息を吐いて、すっかり冷めてしまったアールグレイの紅茶を飲み乾す。

 行きつけの小さなカフェーで、アーシェは今日の集まりで書き写したノートを見ていた。

 ノートを写し終わるなりさっさと彼女の家を出たのを、彼女は少し後悔していた。思い出すのは、やはりアーサーの好ましくない態度と、カリスの関係である。もう少しフォローを入れるべきだったかもしれない。

 確かにカリスはいわゆる変人の類だ。

 しかしどのような人柄であれ、カリスは立派な女性だ。そして、女性には紳士的に接するべき、というのが英國紳士の基本である。

 しかし、アーサーはカリスを毛嫌いしている。

 その頭脳の明晰さを認めてはいるものの、彼女の性格や風貌が気に入らない。加えて、アーシェと仲が良いというのもそれを加速させていた。

 彼はアーシェに、もっと相応しい友人を持ってほしいと思っていて、だからあそこまで露骨な態度で接していた。

 小さい男だ、だからアーシェは彼をいまいち好きになれない。

 再び小さな溜め息をひとつ吐くと同時に、カフェーのドアーが開いて見目美しい一人の少女が入ってきた。

 美麗なレースの施された、黄色の華やかなドレスに身を包んだ背の低い少女は、彼女がよく知る人だった。

 見違うはずもない。

 あの綺麗なブロンドの髪を持つのは、親友以外に一人としていない。

「シェーン!」

 驚いて声を上げると少女もびっくりして、

「あら、アーシェじゃない。どうしたの、こんなところで」

「それはこっちのセリフだよ。君こそどうしたんだい、今日は知り合いの所へ出掛けるって云ったじゃないか」

 訊けば、シェーンは露骨に憂鬱を含んだ顔で、

「口を開けば自慢話ばっかりなんだもの。つまんないからこっそり抜け出してきちゃった」

 シェーン・リンスは、ロンドンでは名の知れた貴族の一人娘だ。けれど、彼女自身はそのことを誇る気もなければ、むしろ嫌っている節がある。

 生粋のロンドンっ子でありながら、新大陸の三文雑誌ダイム・ノベルを好む彼女は、格式ばった家が枷に思えてしかたないのだろう。

「ははっ。それはまた君らしいね、シェーン」

 穏やかに笑ってアーシェが座り直すと、シェーンもアーシェの向かいに座り、愛用の煤除け傘をテーブルに立てかけた。

シェーンとの会話はとても楽しい。

 彼女は博識にして気品にも溢れているけれど、いつだって自分の言葉で物事を表現する。

 粗暴で感情を隠そうともしないけれど、決して自分を偽らない在り方は、アーシェも憧れるほど美しくて格好良い。

「ホントに無理。汚い欲望が透けて見えるんですもの、気付かないとでも思ってるのかしら、あのマヌケ。ああ、やだ。厭だわ、醜い男の妄想の糧になるなんて」

「まあ、君は同性から見ても美しいからね。男たちがそういう目で見るのは、しかたのないことだよ」

「男って生き物はホント救いようがないわね。滅びれば良いのに……そうだ。アーシェ、アーシェはどう? 同性から見ても、わたしは美しいんでしょう? なら、貴女から見たら、どんな風なの?」

「話す姿は年頃の女の子らしくて可愛いし、家柄を決して驕らず凛としている姿も素敵で、正直に云えば憧れる。良い女だよ、君は。あたしが男だったらほっとかないなって思う。それこそ、怪人のように君を攫っていただろうね」

「あら、そうなの? ふふっ、貴女に攫わられるなら悪くないわね……」

 お互いに笑い合って、アーシェは新しく頼んだローズヒップの紅茶に口をつける。天井から吊るされた機関ランプの明かりが、シェーンの碧い瞳を輝かせた。真剣さの中に愉悦の混じった目だ。

 シェーンにはそちらの気があった。

 何度もさりげないアプローチは受けてきたし、一度だけだけれど、大胆な夜の誘いまでしてきたことだってある。

 でもアーシェはそちらの世界に興味がないので、誘いは全部袖に振っていた。”同性愛は非生産的”なんて馬鹿なことを云うつもりはない。

 ただ、恋愛そのものに興味がないだけで。

「まったく諦めが悪いんだから」 

「そっちこそ、一回くらい良いじゃない。痛くなんかしないから」

「そう云われてもね、あたしは愛とか恋とか、そういうのには興味ないし」

「もうっ、アーシェのいけず」

 むくれた彼女は、アップルティーで唇を濡らしてから、これ見よがしに溜め息を吐く。

 いつもそう。

 誘いを断るとこうして露骨にふくれっ面をする。

 ここがシェーン・リンスの一番可愛いところだ。

「そう膨れないでよ。ほら、前向きに考えると良い。あたしに興味を持たせればって。逆転の発想ってやつだね」

「……貴女が興味を持つとは思えないのだけれど」

「どうかな? 案外、強引に押し通せばいけるかもしれないよ? 何せあたしは押しに弱いタイプだから。……なーんてね」

「へぇ……?」

 にやりと意地悪く笑ったシェーンを見て、アーシェはもしかして失言だったかなと嫌な予感を覚える。

 そしてその予感は、案の定と云うべきか、現実のものとなって彼女に降りかかった。

「実はね、アーシェ」とシェーン。「わたし、帰りたくないの」

「またわざとらしい誘い文句だね」

「あら、本当よ。今日は親戚連中の家に泊まるって、お父様が云ったんですもの。あんな奴らの家で眠るなんて、何をされるかわかったものじゃないわ」

 ここで彼女は席を移ってアーシェの隣に座り、ゆっくりと妖艶な動作でしなだれかかった。

 香水の匂やかが鼻腔をなでる。

 吸い付くような白い肌は機関ランプの明かりを受けて煌めき、頬は上気してその妖艶さを強調していた。

「やめなよ、はしたないんだから」

 女性でも倒錯してしまいそうな色香に当てられて、顔が熱くなるのを感じたアーシェは、逃げようと身体を仰け反らせる。

 対してシェーンはアーシェの片腕を抱いて、

「貴女だけよ、こんなことをするのは。それに、人目なんて気にならないわ。ここにはわたしと、貴女と、カウンターの奥にいる素敵なおじ様だけですもの」

「まさか、ここは君の家の?」

「どうかしらね?」

「……と、とにかく。とにかく無理だよ、シェーン。ホワイトチャペルに君を連れて行くわけにはいかない。あそこは悪漢の巣窟なんだ」

「大丈夫よ、テムズのほとりに別荘があるの。そこへ行きましょう?」

「べ、別荘って……」

 ますます腕に力を込めて、シェーンは見つめてくる。

 アーシェはほとほと困り果てて、前髪を指先でもてあそんだ。

 強気な笑みを湛えた彼女の顔から視線を逸らし、はさてどうしたものかと考えてみる。

 自身の不用意な発言が招いたこととはいえ、まさかここまでのことをしてくるとは思ってもみなかった。そもそも、この店が彼女の息がかかった場所であることが予想の外だ。

「大丈夫。貴女の嫌がることはしないわ、優しくしてあげる。だから……、ね?」

 小鳥のさえずりが耳をくすぐる。

 アーシェは自分の迂闊さを呪う。

 あれよあれよの間にがっちりと腕を掴まれ、席を立てないように塞がれてしまった。

 ここに至っては、もう逃げることはできないだろう。シェーンの情熱を甘く見ていた。

 しかし、これは蒔いてしまった種なのだから、責任を持って最後まで面倒見るのが筋というものだ。甚だ不本意だけれど。

 心中で長々と弁解していみるけれど、本当に嫌ならばとっくの昔に絶交しているはずなわけで。

 結局のところ。

 見目美しい彼女に誘われるのは、アーシェも満更ではないのである。

「ハァ……わかった。わかったよ、シェーン。あたしの負けだよ」

 降参だと片手を上げて首を振れば、シェーンは悪戯娘いたずらむすめの笑みを浮かべて、アーシェの頬に口づけをする。

「ふふっ、やっと選んでくれたわね。それじゃあ、さっそく行きましょう?」

「まあ、待ってよ。まだ紅茶を全部飲んでないんだ」

 熱くなった顔をシェーンから背ける。

 気が付けば、アーサーとカリスのことなんて頭から抜け落ちていた。もしかしたら、忘れたかったのかもしれない。

 カフェーを出て一級ガーニーを探している間も、シェーンはアーシェから離れることはなかった。

 腕に抱き着いて頬擦りしたり鼻歌を歌ったり、恋人とのデートを楽しむみたいに上機嫌なままだった。

 ガーニーを捉まえてからはもっと上機嫌になって、膝の上に座ってこようとまでしたのだから、彼女の浮かれっぷりというのがわかる。当のアーシェにとっては堪ったものではないが、しかし、いやな気分ではなかった。

「さあ、シェーン。お手をどうぞ」

「ありがとう、アーシェ」

 ガーニーが止まると、アーシェは努めて紳士的な態度でシェーンに右手を差し出すと、彼女は穏やかに微笑んだ。

 いつもの光景であった。

 リンス家が所有するこの別荘、ウェストミンスターはテムズのほとりに建つゴシック・リヴァイヴァル様式の屋敷は、元々はフランスの中流貴族が使っていたのだけれど、悲しいことにはその貴族が没落してしまい、売りに出されていたのをリンス家が買い取って現在は別荘として使っている。

 小規模ながらも美しい庭園や、美麗な装飾の施された内装は、フランス貴族が使っていた確かな証拠と云えよう。

 屋敷に入ると、使用人たちが恭しい態度で出迎えてくれた。

 急な来訪にもかかわらず、随分と用意が良いと思って訊けば、シェーンに云われて結構前から準備していたそうだ。

 すでに夕食の準備ができていて、バスルームもすでに使えるようにしてあるというのだから、アーシェは呆れてしまう。

 まったく随分な根回しぶりだ。

 シェーンの本気が窺い知れる。

 案内に従って食堂に入ると、テーブルにはいかにも高級そうな料理たちが並んでいた。牛肉のプディングに、鴨肉のグリル、蒸し牡蠣。フルーツの盛り合わせなんかもある。

 どれも一日二日でおいそれと用意できる品ではない。

 結構前から、使用人の彼らはそう云っていたけれど、シェーンはいつから計画を立てていたのだろうか。

「君はつくづく恐ろしいことをするね。背筋が凍っちゃいそうだ」

「さて、何のことかしら?」 

 テーブルに並ぶ料理を前にして苦笑すると、シェーンはとぼけたように肩を竦めた。

 ナイフで鴨肉のプティングを切り取り、口に運ぶ。肉の旨味を最大限に引き出す繊細な調理と味付けに、アーシェは思わず声を上げた。

 さすが良家に仕える料理人と云ったところか。食べ慣れた焦げ臭い鶏肉のグリルとは大違いだ。

 ワインも良い。アーシェはワインについてよく知らないけれど、この白く透明なワインの良さは一口でわかる。とても上質なものだ。決して庶民には手が届かないほどに。

「あら、ワインの減りが早いわね。アーシェ」

「うん。こういうのはあまり飲まないから、なんだか新鮮でね。つい」

「フフッ、貴女ならきっと気に入ると思ったわ」

「はははは……あれ……少し、酔ってきたかな」

 片手で赤くなった顔を押えて、アーシェは長く息を吐き出す。

 酒にはそれなりに強い方だと思っていたけれど、どうやら今回は相性が悪かったらしい。随分と酔いが回る。

「大丈夫?」

「ああ。ああ、うん。大丈夫。ワインはこれくらいにしておくよ」

「それが良いわ。飲み過ぎで倒れてしまったら、たいへんだもの」

「あたしとしては、もう倒れてしまいたいけれどね……」

「ダメよ、そしたら我慢できなくなっちゃうわ」

 空けたワイングラスを置くと、アーシェは力なく笑った。

 食事を終えると、今度は入浴。

 更衣室でメードに服を脱がされ、下着を脱がされ、少しふらつきながらもバスルームに入る。

 人に服を脱がされるというのは、なんとも愉快でありながら奇妙な体験であった。

 リンス家の別荘でも小さいほうだというバスルームは、はたしてこれをバスルームと形容しても良いものか。下流の庶民であるアーシェにしてみればプールと見違うほどに広かった。

 目測でもおおよそ五メートルはあろうかという浴槽があり、満たす湯には薔薇の花弁が美しく浮かんでいる。

 もちろん湯は底が見えるくらいに透明で、壁側にある合金製のシャワーヘッドにも水垢ひとつ見当たらない。

 清掃の手間を考えれば、手放して称賛できるほどにここは手入れが行き届いていた。

 二人に続いて入ってきたのは四人のメードで、彼女らは袖のなく、スカートも短い服を着ており、それぞれが持っている籠の中には石鹸やタオルが収められている。

 アーシェが疑問に思って問いかけると、シェーンは「洗ってもらうのよ」なんて云うのだから驚きである。

「前から思っていたけれど、やっぱり君はお嬢様なんだね」

「何よ、いきなり」

 シャワーヘッドの前に座ると、二人のメードがアーシェに付いた。アル、メルという少女で、アルはそばかすが特徴的な茶髪の子、メルはアーモンド形の目が可愛らしい赤毛の子だ。どちらも真っ白なエプロンドレスを身に着けていて、幼さに似合わぬ聡明な印象を与える。

「それでは、お身体を洗わせていただきます」

「何かありましたら、どうぞ遠慮なくお申し付けください」

「えと……よ、よろしくお願いします?」

 一礼する二人に、アーシェは勝手がわからず引きつった笑みで答えた。

 人に身体を洗わせるのは怖いものではあったが、同時に中々に愉快で得難い体験であった。

 二人は分担して彼女を洗いながら、適度なマッサージを施してくれたのだが、これがまた非常に心地良い。

 少女の手のひらの暖かさと、ちょうど良い力加減で全身の筋肉を揉み解されていく感覚は、まさに至福の一言だ。

 髪の洗い方も非常に丁寧で、ケア用のハーブとはちみつを混ぜて作られた香油も良い匂い。

 終わってみれば、頭の先からつま先まで、いつもの数十倍はスッキリした感覚がある。

 ただ。

 どうやらこの二人もシェーンと同じく、そちらの気があるようで。

「髪、さらさら……」

「ずっと触っていたいです」

「そ、そうかな」

「お肌も、綺麗ですね」

「すべすべで……羨ましいです」

「へ? あ、ちょ、くすぐった……、ぅひゃん!?」 

 必要以上に髪や身体を弄られたのは、ちょっとだけ不満であった。

 アルとメルが全身を洗い終えると、アーシェはやっと湯船に浸かることができた。シェーンも湯に入ると、二人は並んでほうと長い息を吐く。

 薔薇の花弁が浮かぶ湯には、どうやら香油が混ぜられているらしく、しっとりとした花の香りが肌に馴染んで気持ちが良い。

 全身の疲れが湯に溶けていくようだ。アルコールでふわふわとした頭が、さらにふわふわしてしまう。

「うぅ……ン、君のメードも、なんだね」

「何が?」

「ほら、その……ええと、そう。君と同じってこと」

 一礼してからバスルームを出て行った双子を見送りながら、微妙に呂律の回っていない舌足らずな言葉で云えば、シェーンはクスクスと笑って、柔らかくて肌触りの良いすべすべとした肌を密着させる。

 眼前に妖しく光る碧い瞳が迫ると、アーシェは僅かに後ろへ頭を引いた。

「あの子たちで練習したのよ」

「キスの練習とか?」

「ファーストキスはまだ。でも、いろんなことは練習したわね」 

「へ、へぇ……は、ははは……」

「ふふっ、安心して。初めては貴女に上げるって、決めてるんだから」

 そう囁いた彼女の唇が迫ってきた時、アーシェは諦観にも似た感情を抱いた。 

 数時間後、アーシェはシェーンの寝室で目を覚ました。シェーンと抱き合ったまま、アルとメルに挟まれたまま、裸でベッドに寝ていた。

 昨晩に焚かれた香木の甘ったるい臭いが、脳を覚醒させていく。

 彼女には四度も求められた。彼女の寝室の入り口で一回、長椅子の上で一回、ベッドで二回だ。

 どこかのタイミングでメルとアルも加わったような気もするが、いかんせん、記憶がイマイチはっきりしない。憶えているのは、とにかくシェーンに情熱的に求められたということだけであった。おかげで全身汗でべとべと、シーツだってびしょびしょだ。

 上体を起こして、前髪を指先でもてあそぶ。

 時刻は既に昼のようで、耳を澄ますとビッグ・ベンの鐘の音が聞こえた。

 アルコールのせいだろうか、ひどく頭が痛い。アーシェは呻きながら目頭を指先で押さえる。

 昨日のワインは非常に美味ではあったけれど、もう二度と飲みたくはないなと思う。飲むのならジンが良い。前にアーサーが酔った勢いで、ジンを健康飲料で割ったという妙なものを飲んだことがあるけれど、あれは実に美味しいものだった。確か名前は、そう。”ジン・トニック”だとかなんとか。

 彼女たちを起こさないよう慎重にベッドから抜け出して、丁寧に畳んであるタオルを一枚手に取って、汗やらなにやらでべたつく身体を拭う。

 鏡を見れば、身体の至る所にキスマークがあり、まったく昨日はとんでもない夜だったのだなと改めて思った。まったくこんなことはもうこりごりだ、アーシェは肩を大きく落とした。

 身体を拭き終えると、テーブルの上に放置された服を手に取る。

 新品と見違うほど綺麗に選択された服は、着るだけで実に気分が良くなるもので、アーシェはちょっとだけ格好つけた様子で襟を正した。同時に扉がノックされて、昨日にも聞いた老執事の声が響いてきた。

「おはようございます。昼食のご用意ができましたが、いかがいたしますか」

「んぅ……いまいくわあ」

 彼の声で目を覚ましたらしいシェーンは、目元を擦りながら身体を起こすと寝惚けて間延びした声で答えた。

「おはよう、シェーン」

「くぁあ……あふぅ……おはよう、アーシェ」

 緩慢な動作でシェーンがベッドを抜け出すと、釣られるようにしてアルとメルも目を覚ました。

 身体を拭いてメード服に素早く着替えたアルとメルに手助けされて、シェーンもまた身支度を整えると、全員で部屋を出て食堂へ向かう。

 廊下に出ると、朝からメードやランドリーのスタッフたちが忙しなく動き回っていた。別荘とはいえそれなりの数の使用人が生活しているのだから、洗濯物の量も相当なのだろう。

 各部屋の掃除や、シーツの取り換えだってしなければならない。使用人とは実に大変な仕事なのである。

 部屋を汚してゴメンナサイ。

 彼らに対し、アーシェは心中で謝罪した。

 食堂に入ると、テーブルの上には二人分の朝食が用意されていた。

 食事は見慣れたフルブレック・ファストで、ベイステッド・エッグと厚切りのベーコン、それにマフィンと紅茶が付いている。アルとメルが一礼して下がると、二人は席に着いてまずは紅茶を飲み、それから食事を始めた。

「フゥ……紅茶のおかわりを貰えるかな。どうも、アルコールが抜けてなくてね」

「ブラッディ・メアリーは飲まないの?」

「迎え酒は好きじゃないんだ」

 肩を竦めて、アーシェは注がれた紅茶を少しだけ口に含む。

 英國では二日酔いの迎え酒として、ブラッディ・メアリーというウォッカをトマトジュースで割ったカクテルを呑むけれど、そもそもアーシェはトマトが嫌いだから飲んだりはしない。

 苦手なのだ。

 あの赤々とした色の食べ物は、どこか血液のようで。昔からどうにも好かない。

「午後はどうするの? どこか出かけるかい?」

「シティでお買い物ね。貴女、女の子らしい服持ってないでしょう?」

「着る必要がないからね」

「だめよ、そんなんじゃ。可愛いんだからオシャレしないと、わたしも楽しめないわ」

「楽しむって、いったい何をさ……」

「昨日みたいに、ってことよ」

 呆れた顔で問えば、シェーンは悪戯娘の顔をしてウィンクした。

 彼女がこうしてあざといことをすると、文句のひとつも云えなくなってしまう。自分の魅力を熟知して、前面に押し出してくる。ずるい女だ。抜け目のない女だ。だから嫌いになれない。

 アーシェは彼女のそういう部分も含めて――もちろん、かけがえのない親友として――好きだった。

「ハァ、お手柔らかに頼んだよ」

「まかせて、とびっきり可愛くしてあげるからっ」

 朝食を終えて、シェーンが外出用の服に着替えると、リンス家が所有する高級ガーニーに乗って二人は、シティの商業エリアへと向かった。

 シティでも随一の活気を誇るこのエリアは、一本の大きな通りを中心にたくさんの店が並んでいて見ているだけでも随分と楽しい。

 政府指定の商業エリアともなれば、その規模はメインストリートと比べても数倍は違う。

 向こうは生活に必要な消耗品や食糧なんかを扱う店が多いけれど、商業エリアは主に娯施設、とりわけ有名なカフェーやレストラン、国内外を問わず高級ブランドのアンテナショップが多く入っていて、夜になればパブやプールバーなんかも開き始める。

 観光向けの施設が多いからロンドンで遊ぶとなれば大抵の人々はここへ来るだろう。

「さて。まずはどんな服を買うんだい、シェーン」

「ドレスね。贔屓にしてる服屋さんがあるから、そこで貴女のドレスを買いましょう」

「あまり派手なのはやめてよ?」

 腕を組んで通りを歩く。傍から見れば、二人は何の変哲もない――というには少しくっつきすぎな気もするが――カップルだ。

 シェーンが贔屓にしている服屋は、通りの最奥、アーシェみたいな貧乏人はまず立ち入ることのない富裕層向けのエリアにある。

 店の中には煌びやかな宝石で飾られたドレスや、見惚れるほど美しいデザインのアクセサリーなんかが並んでいて、迂闊に触ったりもできない。

 小市民のアーシェはここにいること自体が窮屈に思えてきて、気を逸らすように前髪をいじくった。

「さ、どれがいい?」

「どれが良いって、云われても……あたしにはわからないよ」

 訊かれて、アーシェは小さく肩を竦めた。

 生まれてこの方、ドレスなんて着たことすらないから、良し悪しなんて判断できるはずもない。

 ただ……。

「ああ、でも。この白いドレスは、綺麗だね」

 ちらと横目で、人形に着せられたドレスを見る。

 白を基調として、青いリボンとサファイアの飾りで綺麗に装飾されたそのドレスは、とても美しくて、アーシェは太陽を見るみたいに目を細めた。

「あら、そのドレスが良いの?」

 シェーンの問いに数瞬遅れて、「うん。着るのなら、このドレスが良いな」

「ふぅん……なるほど、なるほど。アーシェはこういうのが好きなのね」

「かもしれないね。一度でいいから、お姫様になってみたいと思ってたんだ」

「もう、可愛いこと云うじゃないっ。ダーリンったら!」

「だ、だーりん……?」

 ご機嫌にシェーンは近くの店員を呼び止める。

「そこの貴方! ええ、そう貴方よ。このドレスを頂戴。……いつも通りカードでね。あとでウェストミンスターの別荘に送っておいて」

「なんか、ごめんね。催促しちゃったみたいで」

 申し訳なさで謝ると、シェーンはやれやれと首を振った。

「なに謝ってるのよ。最初に云ったじゃない、貴女のドレスを買うって。……これはね、アーシェ。わたしからの気持ちなの。だからどうか、断らないでね」

 これはプレゼント、愛しい君に送る自分の愛なのだと。そう云われては、アーシェも口を噤んでしまう。気持ちの良い笑みを浮かべる彼女が、そこらの男よりよほど男らしく見えた。

「……そうだね。ありがとう、シェーン」

「ふふっ、どういたしまして。次の夜も、また一緒に楽しみましょう」

「そ、そうだね。うん、楽しもうか……あ、あはははっ……」

 

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