蒸気人狼黙示録

四十九院暁美

第1話 霧中の怪異

 英國はホワイトチャペルのうらぶれた路地に建つ、古ぼけたアパートメントの一室で、疳の蟲のようにアラームが鳴る。

 けたたましい蒸気スチームオルガンの音色は、部屋の主たるアーシェリカ・ロゼッティが目を覚ますには充分すぎる音量だった。

 彼女は僅かに声を発して身動きすると、ゆっくりと、煌めく翡翠の瞳を垂れた黒髪の隙間から覗かせる。

 今朝のロンドンはひどく冷え込んでいた。

 蒸気機関の発展により、煤と熱に囚われたこの街は、蒸気に揺蕩う華の大帝都。なんて、仰々しく云われているが、実際は空を覆う煤と排煙のせいで、いつも真冬みたいに冷え込んでいる。

 今日だってそう。とても寒い。

 アーシェはぶるりと身震いして縮こまり、リネンにくるまりながら毛織物フランネルに包まれた湯たんぽに、そっと足を乗せる。既に温かさの大半が失われていて、氷に足を乗せたみたいだった。

 冷たさに眠気が吹っ飛ぶ。こうなっては、起きる他にない。

 ほう。小さな溜め息を漏らしてベッドからのそりと起き上がると、朝の冷えた空気が彼女の四肢をさらりと撫で上げた。

 厚手の寝間着ネグリジェをものともしない寒さに、またひとつ身震いしてから、氷みたいに冷え切ったスリッパをはいて床板を踏みしめる。

 手に息を吐きかけ温めながら、水を入れたケトルを乗せて蒸気放熱器スチーム・ストーブのバルブを回すと、古ぼけた鉄の塊が、ガンガンボコボコ、騒ぎながら部屋の空気を徐々に温めて、数分の内にはアーシェの身体を安らかな熱で包んでくれた。

 マッチを擦り、天井から吊るされた古い機関エンジンランプに火を入れている間に、放熱器が役目を終えたのを見届けた彼女は、横に掛けてあったミトンを手にはめて、熱くなったケトルを慎重な手つきで持ち上げるとキッチンへ向かい、モーニング・ティーの準備を始めた。

 ポットに茶葉を入れて、鼻歌まじりにお湯を注ぎ、葉が開くまで少し待つ。

 紅茶の葉が開くのは九十五度以上だってことは、英國淑女ならみんな知ってる。だからアーシェも、紅茶の淹れ方も完璧だ。出来上がった紅茶を飲んでみれば、はたして、いつもと変わらぬ美味しい紅茶だった。

 フフン、得意げに鼻を鳴らしてテーブルのバスケットから、パンをひとつ手に取る。楕円の形をした可愛らしいパン、イングリッシュ・マフィンは紅茶との相性がバツグンに良い。特にフランクリンの店のマフィンは、アールグレイの茶葉によく合う。地下鉄の駅前に軒を構えるあの店は、今ではすっかりアーシェのお気に入りだ。あそこはいつもクロワッサンをひとつサービスしてくれるから。

 もぐもぐとマフィンを咀嚼しながら、今日の予定を思い出してみる。

 通っている王立のアカデミーは休み。

 親友のシェーン・リンスは知り合いのところへ出掛けるらしいし、アーシェにも予定があった。

 紅茶を飲み乾してほうと息を吐いたアーシェは、立ちあがって伸びをすると、準備のためにバスルームへと向かう。女性は朝の準備に時間を変えるのが常だけれど、アーシェもまた例外ではない。

 彼女は女性だからと人から侮られないために男装をする。

 かの女王陛下と、唯一女性で”機関博士号”を持つレディ・エイダが女性の社会進出を促す動きを見せたことで、手に職を持つ淑女たちは徐々にその数を増やしてはいるけれど、悲しいことには、いまだに女性を軽視する目は多い。

 そんな中にあって、男性として見られるというのはとても大きいこと。活かさない手はないだろう。強かに、そして抜け目はなく。しかしだからと云って、淑女として身だしなみには気を遣わない、なんてことは絶対にない。彼女はれっきとした女性であり、自分の性別に対して、それなりの誇りと吟味を持っているのだから。

 スリッパを脱いで洗面所に敷かれた安っぽいマットの上に立ち、緩慢な動作で白いネグリジェを脱いで、大量生産されている合成絹で作られた黒のストッキングを脱ぎ捨てて、下着と一緒に部屋の隅に置かれた籠に放り投げる。

 シャワーブースに入り、冷えた空気に震えつつもカーテンを閉め、キュッ、機関浄水器を通して綺麗にろ過され温められた水が降り注ぎ、冷えた身体を温めてくれる。

 至福のひと時。身体中から眠気や朝の倦怠感が抜けていく。

 今や鳥の影すらなくなった機関都市ロンドンにおいては、入浴ほど大切な行為はないだろう。機関から吐き出された排煙よって澱んだ大気には、大量の煤や塵が舞っていて、ちょっと外を出歩くだけでも服や髪が汚れてしまう。

 そんな状態のまま過ごしていれば、どうなるかは語るに及ばず。かのナイチンゲール女史も、入浴によって身体を清潔を保つことが、まず第一の健康であると述べている。流行り病に罹らぬため、こまめな入浴のが重要だ。目を覚ます刺戟になる。

「ン……ふぅ」

 溜め息。

 安らいだ声色の。

 蛇口を締めて温水を止めると、冷えた空気が肌を撫でた。

 せっかく温まった身体が冷えてしまわぬうちに、アーシェは洗面所の棚に常備してあるバスタオルで全身から水滴を拭き取る。

 質の良い陶磁器のように白い肌に、それなりに起伏のある女性らしい身体は自慢ではあるが、男装をするには邪魔な代物だ。女性を女性たらしめる部分ではあるけれど、この胸の膨らみを隠すのに少し苦労するので、ちょっとだけ複雑である。

 バスルームから出てクローゼットを開き、アンダーシャツを着てから黒色の丈夫なズボンを穿く。ズローズはズボンが膨らむからよろしくない。

 真新しい白いシャツに袖を通し、それに黒のベストとリボンタイ、灰色の草臥くたびれたロングコートを着て、全身鏡で確認してみれば、彼女はその顔立ちも相まってはたから見ると男性のよう。

 最後に横髪の片方を三つ編みに結び、コートとお揃いのハットを被り、うんと頷けば準備完了だ。

 さても、一日が始まる。



                   ◇



 一九〇八年、英國。

 今や蒸気王を讃えられる数学者チャールズ・バベッジが作りし階差機関ディファレンス・エンジンによって、蒸気機関は恐ろしいまでの急激な発展を遂げ、かの偉大なりし女王陛下の御膝元たるロンドンは、今や世界の中心と云っても差支えないほどになっていた。 

 黄金の夜明け。

 煌々と輝けむ二十世紀と、人々に謳われし時代である。

 蒸気機関という英知の導入によって、英國は栄華を極めたけれど、テムズは黒く澱み、排煙の量もいっそう酷くなって、街の老人たちが幼き日には雲の切れ間からほんのちょっとだけ見れたと語る空も、今ではすっかり分厚い灰色で。古きロンドンの街並みは、霧と煤とで汚れてしまっていた。

 老人たちは悲しげにそのことを嘆くけれど、若者たちは微塵も気にしたりはしていないし、政府の急進派たちも環境破壊のことには口を噤んでいる。多分、この街はこれからもっと汚れることになるのだろう。

 そんなロンドンのシティエリアの一角に、アーシェは愛用の鞄と一緒に、革靴を鳴らして地下鉄の駅のホームに降り立った。

 短く切られたくせっ毛な髪を指先で少しいじると、愛用の白いハットを被って目的地に向け歩み始める。

 軋みを上げる機関と狼の遠吠えにも似た汽笛が響く、帝都たるロンドンの中心、ここシティ・オブ・ロンドンのメインストリートは、休日ということもあってか、歩くのにも少し苦労するほど人と物で溢れていた。

 シティ――ゴシック・リヴァイヴァル様式の古きを模したアパートメントや、乳白色のモダンなビルヂングが建ち並ぶ摩天楼。

 ロンドン塔を中心として発展したこのウエストエンドは、今世の蒸気機関文明を象徴たる光景である。

 シティ・エリアと云えば、おそらく人々はここか、煌びやかなセント・ポール大聖堂、あるいは――シティの中にないのだけれど――ビックベンを思い浮かべるに違いない。どれも煤で汚れているが、まだまだ観光名所としては現役だ。

 道路には蒸気ガーニーがシューシューポポポと煙を吐き出しながら道路を行き交い、路面汽車はガタゴトとのんびり走っていて、その中に度々混じる馬車が時代の流れとノスタルジィを感じさせた。

 いつもと変わらぬロンドン。

 頽廃的だけれど、とても煌びやかで。浪漫に満ちた匂いがする。アーシェの大好きな街だ。

 鼻歌まじりにテクテク歩いていると、不意にミューディーズの看板が目に入った。あそこは大型の貸本屋で、専用のカードと少しの料金を支払えば本を貸してくれる、

 紳士淑女、学徒に碩学せきがく――あらゆる学問を収めた大学者や知識人に対して使われる一種の称号のようなもの――の卵たちが集う、とても素敵な知識の園だ。

 看板で、そういえば。と思い出す。

 先週に借りた本をまだ返していなかった。貸出期間は、確かそう、今日の午後まで。

 最近は忙しかったから、すっかり忘れていた。いけない、いけない。

 アーシェはハットを片手で押さえると、急ぎ足で貸本屋に足を踏み入れる。貸出期間を過ぎると延滞料金が発生してしまう。

 ほんの少しのお金だけれど、貧乏人の彼女とってはけっこうな痛手になってしまうのだ。

 曇りガラスの扉を開けて店に入ると、マーブル模様の大きな部屋に所狭しと並ぶ本棚が出迎えてくれた。

 棚に入っているのは学術の本で、学校で使う教科書の類なんかがずらりと、アルファベット順に並んでいた。

 アーシェはそれらを横目で見つつも奥へと進み、彼女は鞄から一冊の本を取り出して、返却カウンターに置く。

 本のタイトルは”シャーロック・ホームズと切り裂きジャック”。シャーロック・ホームズの助手たるワトスン氏が書く、シャーロック・ホームズの活躍を描いたノンフィクション小説、名探偵ホームズシリーズの最新刊。二年前に彼の推理によって見事に逮捕された、あの切り裂きジャックの事件を書き記した本だ。

「すみません、本の返却に来たのですが」

「畏まりました、少々お待ちください」

 女性店員は本を受け取ると、落書きや破損がないか検査機械に掛けて調べるため、本と共に店の奥へと消える。

 遅くとも一分弱で終わる作業だけれど、待つのはやっぱり退屈だ。

 手持ち無沙汰になんとなく前髪を指先でいじっていると、学生らしい少女たちが、遠巻きにこちらを見ていることに気が付いた。

 推理小説が並べられた本棚の陰からこちらを窺う三人の少女は、ひそひそと何事かを話しているようで、耳を澄ましてみると、どうやらアーシェの容姿が気になるご様子。微笑んで軽く会釈してやれば、彼女たちはにわかに色めき立って、会釈を返してくれた。

 アーシェの顔は、服装をなしにしても、中性的で可愛らしいよりも格好良いと例えた方が良い顔立ちをしている。年頃のお嬢さん《レディ》たちが注目するもの、仕方のないくらいに。

「お待たせいたしました」

 可愛らしい少女たちを眺めていると、検査を終えたらしい店員が戻ってきて、

「本に問題はありませんでしたから、通常料金での支払いとなります」

 云われて、アーシェは革の財布から銅貨を一枚と専用のメンバーズカードを取り出し、鈍色のトレイに置く。

 ガチャン。ピピッ。カウンターに設置された読み取り機に、メンバーズカードを差し込みレヴァーを下げると、ランプが緑色に光って機械音声が認証完了と告げる。

 清算が終わり、吐き出されたカードを受け取ると、アーシェは礼を云って――もちろん、小さな淑女たちも挨拶をして――貸本屋を後にした。

 表通りから少し歩いて、とあるオフィス・ビルヂングの一室。

 様々な本が乱雑に積まれた小さなこの部屋は、科学の発展した現代においてはいささか眉唾な”降霊術”を研究するクラブがあった。

 かつてソロモンが使役したと謳われる七十二柱や、それに準ずる超自然的な存在を人の次元まで呼びだす術のことだ。

 オカルトというのはいつの時代も奇異な人物の関心を引くものである。

「おはよう」

 煤けたドアーをくぐって、はたと見えた人影に挨拶をする。

「んん、おはよう」

 返ってきたのは咳混じりの掠れた声だった。

 茶髪の人影は名をアルトリウス・ヴィーラント、アーシェと同じアカデミーに通う少年だ。

 仕立ての良いシャツとズボンに革のジャケットと、フォーマルな出で立ちではあるのだが、纏う雰囲気はどこかそぐわない剣呑さがある。

 デスクに行儀悪く腰かける丸眼鏡の彼は、読んでいた分厚い本を閉じて、含みのある笑みを浮かべながら訊いた。

「本、読み終えたかい?」 

「面白かったよ。キミが教えてくれる本はいつも面白くて素晴らしいよ。おかげでフランス近代史のノートがスカスカだ」

「それはよかった。ノートを貸す口実が出来たからね」

「ついでに面白い本でも教えてよ」

「講義中に読まないと、約束してくれるなら」

「善処するよ、アーサー」

 手近な椅子を引っ張り寄せてデスクを挟むとノートとペン、それに真新しいインク壜を鞄から取り出して、二人は歴史学の復習を始める。

 通常のアカデミーならばともかく、王立アカデミーでは落第することはすなわち退学と同義であり、最も恥ずべき行いだ。

 卒業までの学費も、王立ゆえの潤沢な支援があるとはいえ、一般市民がおいそれと払える額ではない。

 軽口を云い合っているが、必死だった。 

「しかし」アーサーは教科書を開きつつ「アーシェが単位を落とすとは思えないけれど」

「あたしだって万能じゃないんだ」

 肩を竦めて答えれば、彼はまだ湿っていないペン先でノートの端を突きながら云う。

「学年一位の成績で、よくもまあ」

「相応の努力はしてるつもりだけれど」

「ああ……いや、いや違うんだ。嫌味じゃあなくてね、純粋に事実を云ったまでさ」

 今度はペンを指先でクルクルと遊びながら、

「思うに、キミは天才肌なんだ。俺なんかよりよっぽど頭が良い。そんな君が落第するなんて、あり得ないだろ。事実、君は学年一位の座に君臨しているじゃないか。このままいけば首席で卒業できる。普通じゃできないことだよ」

「買い被りすぎだよ、アーサー。努力家なだけさ」

 わずか熱っぽく語る彼を否定して、アーシェはノートを写し続けた。

 アルトリウス・ヴィーラントという少年は、彼女に対して恋慕の情を抱いているらしかったが、本人たる彼女にとっては鬱陶しい以上の感想が出ない。

 碩学としては優秀の一言だが、どうにもよろしくない。

 アーシェは学費を稼ぐために働いているが、客としても友人としても、独占欲の強い男というのはまったく相手したくない。 

「だとしても、すごいことだろう。君は”恵まれている”」 

 ”恵まれている”。云われて、アーシェの心中は荒波だった。

 変わらずペラペラと喋る彼を面倒に思っていると、部屋のドアーが開いていかにも根暗といった風貌の女性が、黒魔術の本を抱えて入って来た。

 黒いぼさぼさの髪で目元は見えないが、顔色の悪さからして目元の隈は深いだろう。纏った黒いローブから覗く、骨と見違う細さの腕と、よく磨かれた大理石みたいな白さの肌が、不健康さを助長していた。

「やあ、カリス。また夜更かしかい?」

「夜もわからない街で、夜更かしなんてあるのか……な?」 

 暗い笑いを漏らした彼女は、カリス・ゴールドスタイン。

 齢二十の女であり、アカデミーの卒業生にしてこのクラブの創立者でもある。

「確かに空は雲で覆われているけど、昼夜もわからないほどじゃあないさ」

「フフ、そうでも、ない……暗闇に満たされた世界に、光など……フフフ」

「変な人だよ、相変わらず」

 アーサーの呟きに、同じ穴の狢、なんて言葉がよぎるのも無理はない。

 こんな得体の知れぬクラブに所属している時点で、どこかしら常人とは違うだろう。無論、アーシェも変人の一人だ。

「で、今日は何をするんだ。また胡散臭い魔法の詠唱か? 降霊術も大事さ。でもこっちはまだアカデミー生なんだ、さっさと勉強を教えてくれよ」

「アーサー! ごめんよ、カリス」

「気にして、ない……」

 彼は舌打ちを堪える顔だ。アーシェとの会話を邪魔されてご立腹のようだが、この態度は紳士として失格である。対してカリスはさして気にした風もなく、根暗に笑った。

「それで、今日はどうするんだい?」

 アーシェが問えば、彼女は「これを、今日は使う……」手に持った分厚い本を掲げる。

 ボロボロの革表紙には古代文字――おおよそ千年前に使われていた文字であり、外宇宙からもたらされたと云われている――が掘られていて、相当に古い品であることがわかった。

 彼女は時々、怪しげな骨董市からこのような本を度々持ってきては、このクラブで召喚術を試しているのだが、いまだかつて成功した試しはない。

 当たり前のことである。

 ゆえにアーシェとアーサーにとってこのクラブは、彼女の奇特な趣味に付き合う代わりに勉強を教えてもらう場所でしかなかった。

「古代文字か。歴史の勉強をしていたところだから丁度いい」

「この書には、あ、悪魔の召喚方法が、書かれてる。名前は、ロノウェ。ソロモン七十二柱に名を連ねる大伯爵で、弁論や言語に関する知識を与えてくれる」

「随分と俺達向けな悪魔だな」

 胡乱げに片眉を上げる彼に対して、アーシェは肩を竦めて続きを促す。

 カリスはニヤニヤと笑いながら、

「方陣は、これ」

 ロノウェの召喚陣が書かれたページを開いてデスクに乗せた。

 奇妙な文様が書かれたページには、ミミズがのたうち回ったみたいな文字で、悪魔ロノウェに関する委細が書かれていた。

「悪魔が先生なんてちょっと贅沢かな。あたしにはカリスがちょうどいい」

「く、くく口説かないで……っ!?」

「早く話を進めてくれ」

 不機嫌な様子の彼をに促されて話もほどほどに切り上げると、三人はさっそく魔方陣を床に描いて召喚を試みることにした。

 チョークで床に魔方陣を描き、ランプの中で香木の破片を燃やし煙を立たせる。この煙を介して悪魔が現界するのだ。

 なお、今まで成功したことはない。

「それじゃあ、さっさと始めようか。ロノゲ……だっけ、まあいい。そいつを召喚しよう」

「ロノウェ。間違えるのは、不敬」

「悪魔に不敬もクソもあるものか。存在そのものが不敬だろうに」

「まあまあ、そんなことより早く始めよう。時は有限だ」

 頭を振ってアーシェは先んじて方陣へ。

 続けて二人もどこか空気の悪いまま中へ入ると、カリスが咳ばらいをひとつしてから詠唱を始めた。

 呪文は「エロイム・エッサエム、我は求め訴えたり」。

 大奥義書たるゴアティエに書かれたその呪文は、本来ならば卵を産んだことのない黒い雌鶏を二つに引き裂かなければならないが、そんなものがこのロンドンで手に入るはずもない。

「エロイム・エッサエム、我は求め訴えたり。偉大なる魔を統べる伯爵よ、その御身を我らの前に見せ給え!」

 直後、わずかに風が吹く。

 それだけだった

「……反応、なし」カリスの呟きが空しく響いた。

 肩を落とす彼女に対して、茶番だな、とでも云いたげに鼻を鳴らしたアーサーは、さっさとデスクに戻っていく。

 薄情といえば薄情だが、アーシェも心中で溜め息をついているから人のことは云えない。

「次があるよ、カリス」

「……もう、百回は、聞いた……」

「そ、そういえば」

 気落ちするカリスを慰めるために、アーシェはふと話題を変える。

 最近ロンドンを騒がせる奇妙な事件のことだ。

「”切り裂きジャックの再来”は知ってるかい?」

「ああ、あの妙な話か」

 アーサーの言葉に頷いてから、アーシェは続ける。

「無気味な話さ、またぞろ娼婦が切り裂かれてテムズ川に晒されている。ご丁寧に、各新聞社に死体の写真まで送られて来たらしい。しかも被害地域はホワイトチャペル、どこまでも切り裂きジャックの真似をしている」

「模倣犯、って……こと?」

「まったく趣味の悪い奴が現れたものだよ。最近になってまた、ロンドンを縄張りにする野犬の群れも現れたそうじゃないか。ホームレス数人が食われて死んでいると聞く。アーシェが借りているアパートメントはホワイトチャペルだろう、大丈夫なのかい」

「そんなことあったかな? でも、ウチの辺りでは犬なんて見かけないよ」

 椅子に腰かけてノートを見る。まだ五分の一も書き写せていない。

 歴史学の講義は明後日だが、今日中に終えなければ、彼のことだ。また面倒なことになるだろう。

 それにこのままカリスと一緒にしては、また険悪な空気になってしまいそうである。

 そこでアーシェは、二人を少し離すことにした。

「カリス、君の家に行ってもいいかい。君のノートも合わせて写したいんだ」

「い、いいけど……」

「よし、決まりだ。アーサーはどうするんだい」

「遠慮する。そのノートはこんど返してくれればいいから」

「そうかい? なら、施錠を頼むよ。それじゃあね」

 付いてこようともしなければ、デートのお誘いすらしてこなかったアーサーを意外に思いながらも、アーシェはカリスの後に続いてそっと部屋を後にした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る