起きてよ、まーくん。

へろ。

起きてよ、まーくん。

 マーくんの部屋へと続く扉の前で、一人盆にのせた昼食を持ち佇む母。


「まーくん。ねぇまーくん扉を開けてよ。お昼ご飯持ってきたわよー」


声で扉が響くことなく、静寂は動かない。


「ねぇまーくん。ねえったら。寝ているの?ねぇまーくんねえったら」


「寝てるよッ」


「起きてるじゃない」


「寝てたんだよ。その声で起きたのッ」


「ご飯よーまーくん。出てらっしゃーい」


「そこ置いといてよ。後で食うから」


「そこ置いといてって。お母さんはあなたの召使いじゃないのよ」


「でも俺を生んだ。育てる義務があるはずだ」


「でもまーくん、もう今年で38歳じゃない。育てるもなにも育ちきって老化すら始まっているでしょ」


「まだ38歳だ。人生の折り返し地点にも立っていない」


「スタート地点にも立てていないでしょう」


「俺のなにを見てきたら、そんなことが言えるんだッ」


「なにも見えてこないから、こんなことしか言えないのよ。ほらいいから扉を開けて。今日お母さんスーパーに買い物に行ったとき、良い物を見つけたの」


 ガチャリ。と、内側から解錠する音が聞こえ、扉が開かれる。


「なに良い物って?どうせ菓子パンとかだろ?」


「そんなものじゃないわよ。ほら中に入れて」


 母は扉の前にいるまーくんを押しのけ、部屋へと入る。

乱雑にものが置かれた部屋の真ん中に設置されたコタツに入り、母は卓上に冊子を置いた。


「おいタウンワークって書いてあるんだけど」


「もうちゃんと働けとは言わないから、せめてアルバイトくらいしましょうよ。気分転換だと思って、ね?」


「えー、やだよー。」


「でもまーくん、あなた毎日パソコンに向かってカタカタやって、アイドルのブログやツイッターを眺めているだけじゃない」


「違うッ。アイドルじゃないッ。声優だッ。二度と間違えるな」


「なにが違うのかお母さんには全然分からないけど、とにかく可愛らしい女の子を眺めているだけでしょ?」


「眺めているんじゃない、監視しているんだ。悪い虫がついていないかな」


「あなた以上の悪い虫がどこにいるっていうの?もうそんな無駄なことはやめて、ほらお母さんと一緒にタウンワーク見ましょうよ」


「勝手に一人で見てろよ」


 まーくんがコタツでご飯を食べる傍ら、お母さんはタウンワークをめくる。


「ほら、まーくん。ここなんてどう?この居酒屋さん。アットホームな職場です。って書いてあるわよ」


「もうアットホームな人間関係が構築されている場所に、余所者が入る隙間ってあるんでしょうかね?」


「それは――」


「大体さー。普通やめる?そんなアットホームな職場」


「やめるでしょう、普通に。バイト先の先輩との間に子供が出来ちゃった後輩ちゃんとか」


「アットホーム通り越してファミリーになってんじゃんかよッ」


「お母さんとお父さんはそんな感じだったけれど」


「えぇ……やめろよー。息子にそういう生々しい話すんのー」


「あっ、ここはどう? このお洒落なカフェテリア。初心者大歓迎って書いてあるわよ」


「処女って意味だよ、それ」


「はい?」


「だから、生娘みたいなタイプの、まだ世間とか禄に知らない、地方出身で都会に憧れて上京してきた大学生を歓迎してるってこと」


「あのレオンパルスのCMに出てくる広瀬ずずみたいな?」


「そう。あのレオンパルスのCMに出てくる、よく分かんねーバスケ部の先輩に淡い恋心抱いている広瀬ズズみたいな奴を求めてんの」


「でもまーくんだって負けてないでしょ?」


「なに言ってんだ?どこをとっても勝ち目がねーよ」


「まーくんだって、世間とか禄に知らないし、よく分からない年下の声優に恋心抱いてるし、それに童貞さんじゃない」


「比べるまでもなく詰んでるよね? それ。もういいから、それ持ってさっさと出てけよ」


「でもぉ……」


「なんだよ? なにかまだ言いたいことあんの?」


「実はね……お父さん、重い病気に掛かってしまって、もうお仕事出来なくなるかもしれないの」


「は?え、なに?ガンとか?」


「長年のデスクワークが祟ってね、お父さん……痔になってしまったの」


「なんだ痔かよー。」


 マーくんが冗談でも訊いたかのように一笑すれば、母は凄い剣幕で怒り出す。


「大変なことなのよッ。お父さんが働けなくなったら、私たちだって路頭に迷うんだからねッ」


「いや、そんな――だって痔だろ? ただの。塗ってあげればいいじゃんボラギノール的なやつ」


「無理よ」


「なにが無理なんだよ?」


「なにもかも無理よ」


「じゃあ自分で塗らせろよ」


「お父さん怖いっていうのよ」


「じゃあ塗ってあげるしかないんじゃない?」


「無理よ」


「だからなにが無理なんだよ?」


「だってもうお父さんとお母さんずっとしてないわけッ。セックスレスなのずっと。なんでセックスレスの夫の肛門にボラギノールが塗れると思うわけ? 無理よ。どんなテンションで挑めばいいのかすら分からない」


「えぇ――子供の前でセックスレスの話とかやめろよ。気持ち悪い」


「子供じゃないでしょッ」


「……」


「あんたが塗りなさい。」


「はぁ?」


「少しは親孝行しなさいよッ」


「親父のアナルにボラギノール塗ってあげる親孝行なんて訊いたことねーよッ」


「働きもしないで、タダ飯喰わせてやってんだから、それくらいやんなさいよッ」


「ニートの代償が親父のアナルにボラギノール塗ってあげるってなんだよッ。意味分かんねーよッ」


「選びなさい」


「は?」


「働くか、ボラギノールか」


マーくんは数秒、黙った後、答えた。


「俺、働くよ」


 母は苦虫を噛み潰したような顔でマーくんの一大決心を聞いていた。


「ねぇマーくん。お母さんは別に中にちゅーっと注入しろとまでは言ってないのよ、外にさっと塗ればいいの」


「いや……働くよ、俺」


「今さら?」


「今更とか言うなよ。俺、実はやりたい仕事もあるし」 


「なに?」


「……バーテンダー」


「いやあんた童貞卒業したいだけでしょ。まずなれないし、マーくんの年だともうオーナーとかでもおかしくないから」


「……だって塗りたくねーもん」


「いいから大人しく塗ってあげなさいよッ」


「もう普通に頻尿内科連れてけよ」


「むりよ。お父さんは、マーくん以上にビビりなんだからね」


「親父そんなビビりなの?」


「夜、一人でおしっこ行けないくらいビビりなんだから」


「もう精神科連れてけよ……」


「夜、一人でおしっこにも行けない大人がッ精神科なんかに行けるわけないじゃないッ」

「いやもぅ……それ、どうしようもないじゃん……」


「だから塗っておあげなさいって」


「……一回……一回だけだからな……」


「一回で完治するわけないでしょうに……」


「えーやだよー本当にー。聞いたことねーよ、無職の息子が親父のアナルに毎日ボラギノール塗るとかさー」


「労働を――」


「えっ?なに?」


「労働を舐めないでちょうだいッ」


「いやだから……親父のアナルに毎日息子がボラギノール塗る労働なんて無いっつってんだよッ。医者でもねーんだから」


「あなたをお医者さんにしとけば……」


「どこに親父のアナルにボラギノール塗らせる為に息子を医者にする親がいんだよッ。もういいから、出てけよッ」


「う、うぅう」


 母は泣きながら立ち上がり、扉の方へと、そしてドアノブに手を掛けた、その時だった。


「明日から一週間だけだぞ」


「えっ?」


「一週間、親父のアナルにボラギノール塗って治らなかったら、俺が医者に連れてくかんな」


「まーくん……。」


「ほら、もうさっさと出てけよ。」


「お母さんのも、お願いできない?」


「お前もかよッ」

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起きてよ、まーくん。 へろ。 @herookaherosuke

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