第286話 「赤表紙本ver.2」
そうしてついに帰郷の日。
フラメル邸からすこし歩いたところ。
枯れ草の混じった秋の草原に、大樹海からの湿った風が吹き抜ける。
そのややくすんだ色を背景に、大きな鏡の姿が。
「よし、『成った』」
「こちらもです、師匠さん」
大きな鏡のむこうに、黒ぐろと
あの森はフジの樹海であり、つまりは『あちらの世界』だ。
「しかし何度見ても『異世界』には見えねェな」
鏡を覗き込み、まえと同じようにつぶやくザリードゥ。
まぁ樹海はな、コケまみれだし木々も青々と元気で……と思っていたら
「なんだ!?」
「師匠、いまっ……いまなんか鉄の箱が高速でっ!! ありゃなんだ!?」
急いでトカゲ頭の横から鏡を覗きこむ。
すると木々のむこうにアスファルトの道路と、そこをときたま通過する車の姿が。
「あぁー……うん。そっか、あそこってわりと道路が通ってるからな……」
「オィ、また通った! しかもよく見りゃなかに人が閉じ込められてっぞ!!」
「安心しろ、馬車みたいなもんだ」
「ヤベェな、まれびとの世界は」
それからイリムやユーミルも興味しんしんで鏡のむこうを覗きこむ。
そう。
あの有名なフジの樹海、入ったら出られないだとか磁石が狂うだとか……あれはだいぶ誇張された話である。
国道も通っているし、だいたいどの地点からも車の音を頼りにすれば森から抜けられる。
だからこそ、最初の『帰郷』でもここを選んだのである。
「ま、じゃ誰かに見られるまえに行きますか」とカシスの元気な声。
つい、と気軽に。
つとめてふつうに。
そんな彼女にイリムが抱きつく。
「――カシスさん!!」
「イリムちゃん」
「その……これでお別れですが、でも……でも、絶対にあなたのことは忘れません」
「ええ、私もよ。イリムちゃんや、みんなとの旅は絶対に忘れない」
しばらく、本当にしばらく……ふたりは抱き合い、言葉を交わした。
そうしてお次はザリードゥ。
「寂しくなるなァ……オマエは今まで組んだ
「ハッ、ありがと。まあ、今にして思えば最後に一回ぐらい、アンタの頼み聞いてあげてもよかったかもね」
「マジか! じゃあささっとやっとくか、俺っちが本気出せば10秒かからずに……、――痛ェ、そこは蹴るなよ!?」
「バーカ」
急所を押さえるトカゲマンを押しのけ、お次はユーミルとみけ。
「……まっ、むこうでも元気でやれよ……」
「ええ、ユーミルもね」
「……カシスと、みんなとつるむのは楽しかったぜ」
「うん……うん」
このふたりは俺が会うまえから付き合いがある。
そして女の子同士。
意外にも、ユーミルの目にも涙がほんのりと。
その姉の横から、ぴょこっとみけがなにかを差し出す。
「カシスさん、コレを」
「みけちゃん?」
みけが渡したものは小さなブローチだ。
中央にダイヤモンドがあしらわれた、とても高価そうなシロモノ。
「私は、これを一生のお別れにはしたくありません。いずれ……フラメルの娘として、アルマさんの後継者として、あの『祖』を過去の者にしてみせます」
「ふうん? それってどういう……?」
にんまりと腕を組みつつ、誇らしげに笑うみけ。
首からさがる『
「私は、いずれ『賢者の石』の
「……でも、それは……」
「その時に、そのブローチは目印になります。必ず……再会しましょう」
「……みけちゃん」
最後に、同じまれびとである俺のもとに。
「あんたに会えて、よかったよ」
「そうか、俺もだ」
「あの街道の宿で、イリムちゃんとあんたと……あそこで出会ってなかったら、たぶん。きっと。……私はダメになってたと思う」
「……そんなことはないだろ。おまえはいつも強くて、」
「いえ。正直、ギリギリだったと思う。心も、いろんなものも」
「……。」
両手でしっかと手を握られる。
痛いほどに、力強く……そしてその手は震えていた。
「あんたが王都で……こんなことは間違ってる、まれびとを助けよう、って言ったとき……驚いたんだ」
「……。」
「必死に心を誤魔化して、見て見ぬ振りして……でもほんとは私も、だから……」
「カシス」
「あんたが始めて、そこからたくさんのまれびとを救うことができた。ほんとうにたくさんの人をね。……でも、アレは私も救ってくれてたんだよ」
「……。」
「ありがとうね、師匠」
「えっ」
彼女にその名で呼ばれるのは初めてだ。
そうしてぐい、と俺は体を引き寄せられた。
倒れ込むように、彼女の体と……くちびるが触れ合う。
「――。」
秒か、分か。
それからしずかに、彼女のほうから体を離した。
「へへっ、……安心して。イリムちゃんには許可とってあるから」
「その……そうか」
いたずらっぽく笑うカシス。
ふり返ると、イリムもにっこりと笑っている。
「特別にですね、親友のカシスさんですからね! 特別に師匠をお貸ししました!」
「うん、イリムちゃん。あらためてありがと」
……お貸しされちゃったのか。
そんでくちびるを犯しされちゃったのか。
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あれから仲間からヤジ飛ばされたりなんだりとまた、いつもの賑わいに。
まるで、あの旅でなんども交わした会話のように、雰囲気のように。
だが、ほんとにそろそろ時間切れだろう。
カシスがすっ、表情を引き締める。
「最後に、師匠。あなたの名前とむこうでの住所を教えて。これが最後の連絡になるかもしれないから」
「……。」
以前のまれびと達の『帰郷』では、俺は「もうこの世界の住人だから」とそういうことはしなかった。
だが、アスタルテ達のおかげで俺は名前を取り戻し、そして同時に忘れかけていた記憶や思い出もよみがえった。
だからか、今回は彼女に託そうという気になっていた。
「頼む」
「ええ、任せて」
そして、まだイリムにしか教えていない『本名』を彼女に伝えた。
それは
「ふーん……なんか、炎系とか燃え上がれー、な感じとは無縁ね」
「だろ、名字ランキングでもたぶん上位だ」
それから俺の住んでいた家と、実家の住所も。
できれば、一番心配しているだろう両親に、俺の無事を伝えたい。
「事情は……話しても信じてもらえないだろーけど、まあいちおうな」
「なにか、証明するような物はないの? 手紙とか私物とか……」
「うーん……あるにはある」
そうして俺は、一冊の本を取り出した。
ジェレマイアの日記『赤表紙本』にならい、俺もチマチマと日記をつけていたのだ。
今までの旅路……最初にあったことから、これまでのことまで。
「筆跡とかでさ。判別できるかはわかんないけどな」
「……ふーん」
ペラペラとページをめくるカシス。
「……なんか、アレね。
「まあ、むこうの世界だと妄想小説扱いやろな」
異世界行って冒険してきました、ってか。
まあ事実なんだからしょうがないけど。
「……うん、わかった。預かっておく」
「うまく伝わればいいけどな」
息子さんは異世界でがんばってますよ!
ケモミミの彼女とよろしくやってます!
うーん、アレ?
俺もカシスも頭のおかしいヤツ扱いされそうだが……まあ彼女ならうまくやるだろう。
そうして……カシスは俺の日記、いわば『赤表紙本ver.2』をしっかりとバッグに収め、よいしょと腕をまわした。
「じゃあ、行ってくるね」
「ああ」
みなで手を振り、みなで声をかけ。
それを背に受けつつ、カシスはしっかりとした足取りで鏡をくぐった。
ぶるる……と鏡面が波打ち、静かに『転移門』全体が震えだす。
彼女の立つフジの樹海の景色も、彼女の姿自体もだんだんと見えなくなる。
その、湧き立つ
涙と、
「私の名前は黒崎さやか! これから受験もがんばるよ! 高校はムリでも大学で、夢の学生生活を満喫するよ!!
みんなみんな、みんなのおかげだよ!!! いつか……いつかまた――」
そうして、鏡は。
転移門は。
その役目を果たしたのか、みなの目の前で粉々に砕け散った。
その様子は、
昔、彼女は言っていた。
――いつか元の世界に帰って、ふつうの学生生活を送るんだ。
その願いの、最初は叶えることができた。
次の願いも、彼女ならやり遂げるだろう。
きっと、必ず、絶対に。
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