迷夢問答

桜枝 巧

迷夢問答

 双子の兄が失踪した。


 最初に気が付いたのは、その半身にして弟たる僕ではなく、僕のガールフレンドだった。


「ママに言われて、玉葱と味噌を届けに行ったのよ」

 アパートに飛び込んできた沙也加の顔は、酷く青ざめていた。

 台所脇の窓は開け放たれている。隣のアパートによって切り取られた夕暮れが見えた。

 僕は炊飯器のスイッチを入れた後、息切れしている彼女に眉をひそめた。


「バイトじゃないのか? そろそろ大学祭だの何だの、金が要る時期だろう」

「伊織兄さんからは、何も聞いてないわよ」


 彼のことは何でも知っている、と言わんばかりに彼女は口を尖らせる。プールの塩素で茶色になってしまったボブカットの髪先を、人差し指で器用に巻いた。

 実際、今の兄の状況は沙也加の方が詳しいだろう。実家が隣同士だったこともあり、二つ下の沙也加は彼を実の兄のように慕っている。


『俊希くんは一人でも生活できるでしょう? でも、伊織兄さんは、こう、時折顔を合わせないと、いつの間にか消えていそうなんだもの』

 そう話す彼女は、週末、自転車で三十分もかけて、僕と兄の家を交互に訪れるのだ。


「それに、玄関の鍵が開いたままになっていたのよ? いけない、あたし驚いて、玉葱が入った袋を落としたままにしてきちゃったわ」

「偶々だろう」

「あの、母体から神経質だけを搾り取って生まれてきたような伊織兄さんが?」

「…………」

「電話にも出ないし、LINEの既読すらつかない。これっておかしくない?」

 黙りこくった僕に、沙也加はまくしたてた。目には涙すら浮かんでいた。


(ほら、お前だって、気が付いているんだろう?)


 耳元で幻聴が走る。

 兄と決別して以来止むことのない、僕にそっくり似た彼の声だ。

 自己を見下し他者を見下す、世界全てを皮肉ったような声。


(彼女の浮気癖さ! なあ俊希、かわいい沙也加が中学時代何人の男と付き合っていたか、お前も聞いたことくらいはあるだろう? お前と付き合う前には別れたらしいが。残念だよなあ、にんげんという生き物は――)


「……そもそも、伊織は元から失踪しているようなものだろう」

 声を掻き消すように、僕はこぶしを握り締めた。




 兄が最初に「いなくなって」から、半年は経っただろう。

 一年にわたる引き籠りの末、唐突にアパートを出て行った彼のことを、僕は理解したくなかった。


 元々『顔はそっくりなのにねえ』と言われるほど、彼は半身にして、違ういきものではあった。

 奴は友人というものを持とうとしなかった。ドストエフスキーだの、ジッドだの、そういったものを好んだ。

 僕が友人と遊びに行くべく、玄関のドアノブを握るたびに、『なあ、それって《ほんとうのさいわい》なのか?』と聞いてくる始末だ。


 引き籠ったのは、告白した女にフラれただとか、そんな、しょうもない理由だったと思う。

 僕らは元々、一人暮らし用の部屋に無理矢理二人で住んでいた。それ故に、彼が己の城として選んだのは、押入れだった。

 身をかがめ、毛布をすっぽり被り、トイレと本、食事、夕方のシャワー以外、下界全てのものを拒絶した。

 食事も、僕が作ったものには一切手をつけなかった。どうやら引き籠りと言いつつも、僕が大学に行っている間に家を抜け出しているらしい。僕が帰ってくると、ゴミ箱に野菜ジュースのパックと菓子パンの袋が捨てられていた。


『お前は偉いよなあ』

 時折顔を合わせると、こけた頬で彼はゆっくりと笑った。

『生温い幸福に、足を沈めて、それでずっと生きていられるんだから』


 そして、バイトもせず、大学にも行かず、ただ暗闇に籠り続けて一年後――兄は、失踪した。






「失踪って……そりゃまあ、いきなりいなくなったって聞いたときは驚いたわよ。その後、ラーメン屋でバイトしているのを発見したときも、ね。人の内側をずっと睨んでいたような人よ? その朗らかさといったら、一瞬俊希くんと見間違えちゃったわ」


 沙也加はそう口走ってから、慌てたように「もちろん一瞬、よ。気の迷い」と取り繕った。


「そう、あの時は数週間もしない内に見つかったじゃない。住んでいるアパートだってわかっている。大学にだってまた通い始めたし――」

 彼女は途中で気が付いた、と言わんばかりに目を見開いた。あまり頭の良くないこの女子高校生には、よくある事だった。


「つまり、俊希くんは、また伊織兄さんはすぐに見つかるって、そう言いたいのね?」

「……あいつだってもう二十一だよ。放っておいたって、食べて寝ることくらいできるだろうよ」


 沙也加に駄々をこねられ、一度だけ見た兄の姿を思い出しながら、吐き捨てる。

 手を洗い、冷蔵庫から挽肉と味噌、それから豆板醤を取り出した。

 コンロでは、十分に炒められた二人分の玉葱と人参が、冷え切ったまま放置されている。


 ――街のラーメン屋で働いている兄の滑稽さと言ったら、何にも例えようがないほどだった。

 彼にとっての《さいわい》を覗き込んでいたはずの黒目は、世話しなく動き回っていた。固く閉ざされていた唇からは、容赦なく形式上の感謝の言葉が幾度も発せられた。頬は上気し、誰が見ても良い笑顔を浮かべていた。健康な一男児に見えた。

 しかし、彼がちっともそれらを楽しんでいないことは、一目でわかった。


⦅いやはや、俊希、お前が好んで居る場所というのは、難しいものだねえ⦆

 そんな幻聴すら聞こえた。

⦅これはひとつの幸福だ、認めよう。確かに私は幸せだ。やるべきことがあって、不安は全て掻き消されてしまう。《ほんとうのさいわい》なんて、どうでもよくなってしまう。お前にも、私が幸せに見えるだろう? くそくらえだ、畜生め⦆


 本人が本当にそう思っているかはともかく、兄は今日まで、ラーメン屋だの、カラオケボックスだの、色々なバイトを掛け持ちしながら、半年以上生きてきたわけだ。


 その顔に、満面の笑みを張り付けて。


 ちらり、と部屋の奥を見れば、彼が残していった大量の本が平積みされている。

 舌打ち。


「……だとすれば、今回は何が原因だったのかしら。前期の成績は良かったと聞いていたし、ついこの間はバイト仲間の家に泊まった、と話していたわ。ガールフレンドの噂なんて……」

「沙也加」


 名前を呼ぶとともに、僕はコンロに火をつけた。

 自分でも驚くくらい、冷めた声だった。

 沙也加の肩が跳ねる。

「……ごめんなさい」

 彼女は左右に視線を振った。幾度か口をさらに開きかけたが、それも不発に終わる。


 僕は黙って、挽肉をフライパンに放り込んだ。表面が温まりきっていないせいだろう、なかなか色が変わないそれを、木べらでかき回す。


 沙也加が、自身の唇を強く噛んだ。


 頼んでもいないのに、冷蔵庫から豆腐を一パック取り出す。その封を破ると水気を切り、傍にあった包丁で丁寧に切る。


 すぐ隣で、静かな呼吸音だけが聞こえる。

 僕はずっと、フライパンだけを見ていた。

 不意にそれは、鼻で笑ったような音に変わる。


「……相変わらず、手際だけは悪いのね」


 かあ、と頭に血が上るのを感じた。

 たまらず、彼女を睨みつけた。今すぐ出て行けと叫ぶつもりだった。

 しかし僕は、すぐに目をそらしてしまう。


 そこには想像以上に泣きそうな笑みをたたえた、沙也加の姿があった。


 じりじりと、フライパンが音を立て始める。肉の焼ける匂いは、寧ろ僕を苛立たせた。世界のどこにも行けなくなってしまった、そんな感傷だった。

 彼女が幼い頃からずっと誰を見てきたかなんて、幻聴に頼らずとも、わかっていたことだ。


 偽りの兄と呼び、おどけることしか出来ない彼女が、何度その代替で己を誤魔化してきたかくらい。

 それこそ本当の兄妹のように、僕だって近くに居たのだから――それくらい、わかっている。


 僕は火を止めた。

 苦し紛れに、言葉を吐く。


「なあ、沙也加。僕たち、しあわせ、だよな」


 彼女はまっすぐ僕を見て、大きく息を吸った。そうしないと今にも崩れてしまいそうだった。

 たっぷり時間を取ってから、沙也加は頷いた。


「うん、とっても」


 僕は、自転車の鍵を手に取った。

 




(しあわせの話をしよう。持論だが、この世には二つの幸福があると考えている。一つは鋭利な真実による形而上のもの、もう一つはやさしい嘘による現実的なそれだ)


 耳元で囁かれる言葉もそのままに、僕はペダルを漕いでいた。

 まずはバイト先。その途中に、兄が良く通っていたという喫茶店があるという。それから、時折訪れていたという公園――。


 沙也加の口からは、驚くほどの情報が出てきた。僕が知っているものも、知らないものもあった。

 実家の方向は沙也加に頼んだ。八時を過ぎたら僕に連絡を入れ、帰宅するように、とも。

 すでに外は夜の世界と化していた。街灯が大通りを点々と照らしている。


(私がかつて取った方法は、より楽なものだった。理想に籠り、真実だけを見据えるのだ。薄氷の上で踊るのだ! なあわかるかい、解けるはずがない問題、解なき解に挑む心地よさを! 独りになった瞬間の快楽を!)


「煩い、誰があんたの為に働いたと思ってるんだ」


 思わず口答えしてしまう。それも、すぐに風に掻き消され、はるか後方に過ぎ去っていった。

 別に構わない。

 どうせ、ただの自己問答だ。


(ああ、そうさ。我々はどう違おうと双子、ふたりでひとりなのだからね。《狭き門》も、二人で押し合いながらなんとか通るしかないのさ――だから伊織、お前は私の為に働いてくれた。それじゃダメかい?)


「ダメに決まってんだろ愚兄」

 僕の独り言に、幻聴は(手厳しいなあ)と笑った。

 ひと時も休まることはない、暗く誰よりも幸福そうな顔が、脳裏に浮かんだ。


 本棚に残された本は、大抵読み終えていた。理解できない文章も多く、どうして兄はこんなものを好んだのだろう、と不思議に思った。

 まさか、こんな空耳に利用されるとは思わなかったが。


 線路を越え、坂を登りきったところで、自転車を止める。アパートから街までは自転車でおよそ一時間。その途中にある喫茶店の窓を覗き込む。

 だが、まだ灯りこそあれ、マスターらしき人がいるだけだった。一応尋ねてみたものの、今日は来ていないという。

 悪態をついてから、再び自転車にまたがった。


「……そもそも、門も何も、あんたは僕を連れて行ってくれなかったじゃないか」

(おや、私は伊織が私を置いていったものだと思っていたよ)

「は?」

 思わず声に出してしまう。顔が赤くなった。

 幻聴は、本当の兄のものではない。ただの妄想、僕の一人芝居、或いは願望――だ。

 それくらいはわかっている。過剰な反応を見せてしまった僕は、何よりも愚かだった。


(そう自分を責めるんじゃない、俊希。お前の大好きな、幸せに満ち溢れた虚無だろう?)

 双子の兄の姿を模した誰かが、優しくこちらを包み込もうとする。

 僕は思い切りペダルを踏んだ。冷たい夜風が頬を掠めていく。幻影がかき消える。


(わかりやすい例を挙げよう。俊希、『かみさま』というものはね、世界を楽に生きる為のツールなんだよ。私たちはわからないことが恐ろしい。だから、目上の存在に決めてもらうんだ。後は、その決まり通り必死にやっていればいい。責任は、居るかどうかも知らない誰かが取ってくれる)


「『解のない問題』を解くことは快楽じゃなかったか?」

(そこは視点の違いだよ)


 公園にたどり着く。点滅する街灯の下で、小さなブランコがひとつ、かすかに揺れている。

 僕は再び走り出した。


(さて、ここでの『かみさま』というのは酷く曖昧でね、何でもいいんだ。見たこともない存在でも、社会でも、恋人でも、友人でも、親でも、兄でも、妹でも、自分でも構わない。ともかく、《ほんとうのさいわい》を規定してくれる存在が居れば、それでこの世界は成り立つんだ)


「兄、ねえ」

 バイト仲間の家、夜遅くまで営業している書店、ファミレス。どこにも兄の姿はなかった。

 兄の存在そのものが僕にとっての妄想だったんじゃないかとすら、思えてくる。

 かみさま、と声に出してから、自分で噴き出した。

 ありえない。

 あのただ自堕落な兄が、毛布だけを被って引き籠っていた存在が、僕の幸福を決める存在であってたまるか。


 双子の兄は実在する。

 妄想屋で、弱くて、誰よりも幸せになりたがっている輩だ。


(そして、こいつは即効性だっていうのが有難い。なんせ、それに盲目的に従っていれば、どんな苦難があろうと、私たちはしあわせだ――)


 僕は、幻聴を遮った。

「残念ながら、そこまで僕らは馬鹿じゃない。伊織、あんたは零か一かの二択で物事を決めている」


 人が徐々に増えていく。街に近づいてきているのだ。僕は自転車から降りると、小走りで一先ずその中心へと向かう。


「『かみさま』だろうが、双子の兄だろうが、自分だろうが、なんだっていい。取り敢えず目の前の幸せは欲しいよ。そうでなければ、僕たちは簡単に押しつぶされてしまう」


 僕らの街は、商店街と繁華街、高級デパートを上手く融合させたような場所だ。

 パチンコ店の光がまぶしい。コンビニからは、けだるげな声が細々と聞こえてくる。カラオケ店の名前が入ったジャケット姿の男の誘いを断った。

 ここも誰かにとっての『かみさま』なのだろうか、とぼんやりと考えてみる。


「しかし、僕たちはきちんと、それだけでは『うまくやっていけない』ことを知っている。誰にもわからない《ほんとう》を、僕らは知りたい。理想論を語りたい。存在しないかもしれないものを追い求める幸福、それは確かに存在する」


 周囲を見渡す。

 顔の赤いスーツ姿の男たち、女子高生の群れ。

 閉店した店の前では、女性がギターをかき鳴らし何かを歌っていた。


「だから、バランスなんだよ、結局は。理想論も盲目も、真実も嘘も、どれもあまり変わらない。どう足掻いたって視点の違い、つまりは――」


 そして、僕は見つける。

 酷い有様だった。

 小さく毛布の中で丸くなっている。首筋まで伸びた髪には埃と土くれが絡まり、頬は引き籠っていた時代以上にこけていた。髭がばらばらと生えている。


「しあわせなんだ、僕たちは」


 自転車を立て掛けた僕は、数年ぶりに兄へと触れた。垢が酷く、変な臭いがした。

 沙也加にLINEで連絡を入れる。一瞬で既読がついた後、「よかった」だけが返ってきた。

 僕はそれを無言で眺めてから、スマートフォンの電源を切った。

 今は目の前の兄だけを見ていたかった。


「ともかくシャワーだな、それから食事。近くに漫喫があったか……」

 呟く僕に反応してか、小さく呻き声が上がる。

 なに、と尋ねた数秒後、掠れた言葉が聞えた。


「それ、ただの不幸じゃ、ないのか」


 久しぶりに聞いた兄の肉声に、僕はゆるく微笑んだ。そのまま彼の腕を僕の肩に乗せ、背中に担ぐ。

 成人男性にしては軽いが、確かに生きている重さだった。


 僕は歩き出す。

 背中から、小さく寝息が聞こえ出した。

「そうかもな」

 僕らは、喧騒へと溶けていく。




【参考文献】

・宮沢賢治『新編 銀河鉄道の夜』(新潮社 一九八九)

・ジッド著、山内義雄訳『狭き門』(新潮社 一九五四)

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