第9話
かぽん、と湯桶が音を鳴らす浴場――。
湯気が立ち込める中、ルカは腰まである黒髪を揺らしながら入り――ふと、振り返って眉根を寄せた。
「ステラ、入ってきなさいよ……今さら、遠慮する仲じゃないでしょう?」
「そそそそ、それはそうなんですが……こ、こんな温泉、入っていいのでしょうか……」
びくびくとしながら、ステラはゆっくりとその湯殿に足を踏み入れる。
その足に触れるのは――畳だ。なんと、風呂の洗い場に、畳が敷いてあるのだ。しかも、広々とした湯船は、高級木材で仕上げられており、湯はかけ流しである。
まるで、宮殿のような温泉に、ステラはびくびくしていると、ルカはくすりと笑って手を伸ばして、その手を握ってくれる。
「なら、一緒に入りましょう。気にしないで、代官の気配りだし」
こんな高級温泉宿に泊まれているのは、代官が手を回して手配してくれたおかげだった。労いを込めて宿を貸し切り、騎士たちを招いてくれたのだ。
「あの人、こういう気配りや根回しは得意でね。そのくせ、言い争いとか戦争とか、争いの名のつくことが苦手。平和な時代に生まれてよかったわよね、本当に」
ルカはそう言いながら、返り血でべたついた髪に触れて顔をしかめた。
「ステラ、髪を流すのを手伝ってくれる? 貴方も――素敵な白髪が、台無しよ」
「かしこまりました。まあ、私は適当に流しますので」
「だーめ、貴方も後でしっかり流してあげるから」
ルカは笑いながら木の椅子に腰を下ろす。ステラは湯を汲み上げると、その髪の毛にゆっくりと湯を掛け、そっと指を髪に絡める。
絡まらないように、ゆっくりと髪をほぐしながら返り血を流す。そうしているうちに、胸の内から実感が湧いてきて――小さくつぶやく。
「よかったです。ルカ様が、本当に無事で」
「心配をかけたわね、本当に」
「ご無事ならいいのです……ただ、天守が爆発したのは、本当にびっくりしました」
「正確には、天守の窓の外だったけどね。私も、貴方がいの一番に駆けつけてくれて、本当に安心したわ。貴方なら、来てくれると思った」
「約束、しましたからね」
髪の上を、湯が流れ落ちる。汚れを落ちるのを眺めながら、慈しむように何度も髪を梳いていく。綺麗で、しなやかで――いつも見とれてしまう、黒髪を何度も。
ルカはふふっと小さくささやき、優しい声で言う。
「信じていたわ。きっと、来てくれるって――もう少し早かったら嬉しかったけど。ちょっとだけ、寂しかったわ」
「それは……ごめんなさい」
「ふふ、冗談よ。でも、折角だから――」
くるり、とルカは振り返ってステラの方を向き直る。そして、その首に手を回して、ゆっくりと抱きしめた――まるで、ルカに全身を包まれているような感覚に、ステラは思わず固まってしまう。
「る、ルカ様……?」
「ステラ成分を、しっかり補給しておくわ。寂しさを、感じないように」
「なん、ですか、それは……」
「ほら、ステラも。ぎゅってして」
ルカに優しく促され、困惑しながらも――ステラはルカの背に手を回す。そうして、抱きしめると――じんわりと、温もりが胸の中から広がっていく。
とくん、とくん、と鼓動が聞こえるのは、どちらの胸からだろう。
それに耳を傾けていると、不思議と落ち着いてくる気がした。
じっくりと体温を交換するように抱きしめ合い――やがて、身体を離すと、照れくさそうにルカは小さく笑った。
「ごめんね、変なことに付き合わせちゃって」
「い、いえ……その……私も、ごちそうさまです」
「なによ、もう。ごちそうさまって」
「その、ルカ様成分、いただいちゃったな、って」
ぎこちなく二人で間近な距離で笑い合う。ルカは笑みを浮かべたまま立ち上がると、ステラの肩に手を置き、椅子に座らせる。
「それじゃ、今度は私が貴方を流す番――っていっても、髪の毛が少ないから楽そうね」
「実際、楽ですよ……ああ、でももちろん、ルカ様の髪を流すのは楽しいですよ」
「ふふっ、ありがと。じゃあ、流すわね。目、つむって」
ステラが目を閉じると、頭の上から温かい湯が流れ落ち、ルカのしなやかな指先がこそばゆく彼女の髪の毛を梳いていく。
「ふふっ、少しくすぐったいですね」
「我慢しなさい。折角の、綺麗な白い髪なんだから」
「ルカ様には適いませんよ。髪の良さも、美貌も」
「どうかしら。貴方、結構かわいいし……代官に気に入られていたじゃない」
拗ねたような口調で、ルカはステラの髪を梳いていく。それを聞きながら、ステラは苦笑いを浮かべて言葉を返す。
「前も言った通り、あまりそういう色恋沙汰には興味なくて」
「じゃあ、眼中にないの?」
「その、申し訳ないですが」
「ふーん……意外と、身持ちが固いのね」
その言葉は何故か心なしか弾んでいる気がした。優しく髪の毛が梳かれ、指先が頭皮をくすぐってきて気持ちいい。しばらく流してもらうと、ルカはぽんと肩を叩いた。
「うん、こんなものでいいでしょ。さ、温泉に浸かりましょ。いい宿を手配してくれたのだから、温泉に入らないと勿体ないし……というか、かけ流しなんて贅沢ね」
「というより、お風呂自体が贅沢なんですけどね……」
ステラは立ち上がりながら苦笑いを浮かべる。
屋敷ではいつもお風呂に入っていたが、それはカグヤが潤沢な湧き水に恵まれているからできることだ。王都の方では、風呂という概念がない。
せいぜい、井戸水で身体を流すくらいなのだ。わざわざ、大量の水を煮立てるなど、金持ちのやることなのだが――。
「私たちの屋敷のある土地――アザミも、ここも、地熱で湯を沸かしているのよ。だから、そんな贅沢ってわけじゃないの。だから、ほら、浸かりましょ」
ルカはそう言いながら、手を引いて笑う。ステラはそれに引っ張られるようにして、湯船に足を踏み入れる。そのまま、二人で並んで腰を下ろした。
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