第6話

 ざあ、ざあ、と音を立てて雨が降っている。

 それをぼんやりと眺めながら、ルカは小さくため息をついた。

(何しているんだろう――私)

 そこは、街に外れにある水路。そこに架かっている橋の真下だった。

 子供の頃に見つけた、秘密の隠れ場所であり、一人でぼんやりしたいときはよくここに来ていた。水の流れと、風の音――人の喧騒から離れたそこは、街の中でもすごく落ち着いた。

 誰も知らない、秘密基地。そこで、ルカは膝を抱えてじっとしていた。

 ざあ、ざあ、と雨が降り注ぐ――その天気は、まるでルカの心の中のようだった。

 暗くどんよりと湿っている。その鬱屈とした空を見上げ、はぁ、とため息をまたこぼす。

(本当に……馬鹿、みたい)


 ――時は少し前に遡る。


「……ルカ? 何をそんなに不機嫌にしているんだ?」

「別に。お父様には関係ないわ」

 ルカは執務室でシズマと一緒に作業をしていた。

 彼女は辺境伯としての仕事を全うしていたが、実質、正当な辺境伯はシズマである。少しずつではあるが、シズマの決済を行うべき書類が溜まっていたのだ。

 それを手際よくシズマは決済を済ませていきながら、軽く眉を寄せる。

「不機嫌にしか見えないがな……あとで、一緒に団子でも食べるか」

「結構です。それより、お父様、手を動かしてください」

(――そんな、子供みたいな機嫌取り……)

 ますます、苛立ちが増していく。ルカは多少、手荒に書類をまとめていく。それに、シズマは少しだけ苦笑いをこぼした。

「全く、手厳しいな……それはそうと、ルカ」

 さらり、と一筆書きでサインをしながら、シズマは何気ない口調で訊ねる。

「そろそろ年頃だが――誰か、気になる相手でもできたか」

 ぴたり、とルカは手を止めた。少し深呼吸をしてから、押し殺した声で言う。

「これも、お父様には関係ないことです」

「いや、これは関係あるだろう? この辺境伯の行く行くの跡取りを考えないといけないから、お前の身の振り方も聞かないと……」

「それにも、お父様は口出しをするのですか? 私の、人事権のことだけでなく」

 乾いた声でルカは視線を父に向ける。彼は少し驚いたように視線を上げた。

「――もしかして、ステラに王都へ引き抜こうとしたことを、気にしているのか」

 ルカは答えずに、机の上にある書類を乱暴にまとめる。シズマはため息をつきながら、ペンを置いて視線を上げた。

「進退を選ぶ権利は、誰にでもある。ステラに、チャンスを与えただけだぞ?」

「……それは、分かっているわよ。お父様。でも……」

 分かっている。それは、痛いくらいに分かっているのだ。

 それでも、ルカの心から抑えきれない不満が口から突いて出てきた。

「私に、一言くらい断っても……」

「すまん、ステラに直接伝えるべき事案だと思ったんだ。あの子は、とても優しいのは、ルカも知っているだろう? だから、ルカの口から伝えられれば、慮って素直に返答してくれないのでは、と思って……」

「お父様は、私を信用してくれないの?」

 違う。こんな言葉が言いたいんじゃない。

 それなのに、感情が止まらなかった。

 目の前で、困ったような顔をする父に苛立ちをぶつけることしかできない。迸る感情のままに、ルカはシズマに高ぶった声をぶつける。

「そうよね、お父様からしてみれば、私は小娘同然よね――分かっているわよ」

 感情が押し殺しきれない。ルカはシズマを睨みつけ、高ぶった感情をぶつけるように声を上げる。

「だから、私だってお父様の言うことは聞くようにしてきた。だけど、これは私自身の問題。傍に誰を置くかも、結婚をどうするかも、私の問題よ……!」

 はっきりとそう宣言した瞬間、不意にステラの顔がよぎる。

(もし……ステラが、これで私の傍からいなくなったら)

 大人しく気弱でも、微笑みながらしっかりと支えてくれる、頼もしい副官の少女。

 そんな彼女が、いなくなってしまう。

 そう考えただけで、気持ちが止まらない。ぐっと目が熱くなってきて――そのまま、勢いのままに叫んでいた。

「――お父様の、ばかっ!」


(――そのまま、屋敷を飛び出して、雨に降られて……)

 力なくルカは笑いながら、そっと膝を抱き寄せる。

 分かっている。何に関しても、シズマが正しい。

 ルカはそれに勝手に八つ当たりをしてしまっただけなのだ。

 それが、情けなくてみっともなくて笑えてくる。惨めな気分を抱えたまま、ルカは雨音に耳を澄ませる。少し弱まったが、それでも雨が地面を叩いている。

 軽くそれを見やり、ため息をつきながら頬杖をつく。

(丁度いいかな。少し、頭を冷やして――それから、お父様に謝ろう)

 今は、お父様に顔を合わせづらかった。だけど、今は心が寂しい。

 一人でいると、心の中がだんだんと冷えていくようだった。雨に濡れていないのに、だんだんと心が冷えていって寒い。

 思わず、ルカは膝を抱えたまま、自分の肩に手を回す。縮こまるようにして、目をそっと閉じると――ふと、思い浮かぶのは、一人の少女の顔。

 小柄で、気の弱そうな――子犬のような少女。だけど、いつも仕方なさそうに笑い、ずっと傍にいてくれる少女。その笑顔を思い浮かべて、小さくつぶやく。

「ステラ……」

 今、無性に彼女に会いたかった。

 できるなら、雨の中に飛び出し、そのまま駆けていきたいくらいに。

 心から、彼女の笑顔が見たい。会いたい――。


「はい、ルカ様……お待たせしました」


 その声に思わず驚き、視線を上げる。

 振り返ると、そこには仕方なさそうに微笑みを浮かべ、竹傘を手に持った一人の少女が微笑んでいる。白い髪を揺らし、彼女――ステラは小さくはにかんでいた。

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