第5話

「ねえ、お姉さま、鬼シズマはいつまで滞在しているの?」

 翌日――兵舎の裏庭。

 その日は曇天だった。厚く黒雲が立ち込め、辺りは薄暗い。今にも、雨が降り出しそうな、湿った空気だ。その中で、サンナの顔も晴れなかった。

 調練中の休憩時間――その彼女の声に、ステラは振り返った。

 彼女は汗を拭いながら、どこか迷うような目つきでステラを見つめている。その顔色はあまり冴えず、どこか浮かない顔つきだ。

(やっぱり、シズマ団長のことが怖いのかな……?)

 内心で首を傾げる。考えてみると、今日は彼女の動きに冴えがなかった。

「明日には出られるそうですよ。安心して下さい」

「……うん、そっか」

 少しだけほっとしたように表情をゆるめるサンナ。やはり、シズマを意識しているらしい。ステラはその横顔を見つめ、よし、と頷く。

「サンナ、少し手合せしましょうか。軽い感じで構わないので」

「え、お姉さま相手に剣だと、負ける気しかしないのだけど……」

「まあまあ、間合いに慣れるためにも、大事ですよ」

 ステラは安心させるようにサンナに笑いかけ、木刀を一本投げ渡す。サンナはそれを掴むと、少しだけ迷うように視線を彷徨わせる。

 だが、わずかに笑みを浮かべて、小さく頷いた。

「うん――じゃあ、姉さま、胸を借りるね」

「ええ、どうぞ。好きなところに打ち込んでください」

 ステラも木刀を引き抜き、脇流しに構える。

 サンナは先手必勝、とばかりに一気に踏み込んでくる。木刀がぶつかり合うと、少しだけ痺れたような感触が手に走った。

(――さすがに、いい打ち込みをしますね)

 だが、ルカの手合せと比べると、些か剣の振りが甘い。ステラは少し余裕を以て、木刀で打ち込みを受け止めていくと、ふと、サンナが口を開く。

「――姉さまは、北の民族について、どこまで知っているのかな」

「ん、まだウェルネスに帰属していない、遊牧民族たち、という認識です」

 ウェルネス王国の成り立ちは、無数の遊牧民族たちが連合したのが発祥だ。

 そうして数々の民族を併呑し、大国へと成長したが――ウェルネスの北には、まだ帰属を良しとしない民族がさまざまにいる。

 この街、アザミ付近にちょっかいを出してきている異民族も、その類のはずだ。

 そんなことを考えながら、ステラはサンナの打ち込みを弾き上げる。サンナは息を整えながらバックステップ。そのまま、鋭い突きと共に告げる。

「その遊牧民族の中に――リュオ民族、という一族がいるの」

「――どこかで聞いた名前ですね……」

「じゃあ、こっちの方が通りのいい名かな……北の傭兵団」

 わずかにステラは片眉を上げ、半身になってサンナの打ち込みを避ける。一歩下がって距離を取りながら、彼女は訊ねる。

「聞いたことがあります。北の民族の中でも、弓や剣に優れた一族。傭兵稼業とわずかな畜産で、生計を得ている一族であり――騎士団が警戒する民族です」

「――実は、私、そこの出身なの。姉さま」

「……なるほど、通りで」

 納得しながら打ち込みを木刀で受ける。そのまま、鍔迫り合いにもつれ込む。力を拮抗させ、力みながらサンナは口を開く。

「私、は……っ、リュオ民族の、名に恥じないように……っ、武者修行をしていて……!」

「……野盗をして、いたわけですか」

「んっ……! 騎士と渡り合えるように、そして……っ!」

 木刀をぶつけ合わせるようにして、二人はぱっと距離を取る。サンナは息を吸い込み、呼吸を整えながらはっきりと告げる。

「リュオ民族の猛者たちを討った、鬼シズマに勝てるように」

「――シズマ団長は、北の傭兵とやり合ったことが?」

「ん――そして、リュオの猛者、三人を討ち取っているの。私のお父様も、彼に討ち取られたと聞いているから」

「……なる、ほど。気持ちは察しました」

 ステラは吐息をつき、少しだけ目を眇めて訊ねる。

「仇を、取るのはオススメしませんよ? サンナ」

「分かっているって、姉さま。会った瞬間に、分かっちゃったから。この人には、絶対勝てない、って――」

 サンナは木刀を下げ、そっと自分の身体を抱きしめるようにして、目を伏せる。その顔には微かな怯えに似た感情が走っている。

「それどころか――どこまでも、大きな器を感じてしまって……どこまでの修羅場を潜り抜ければ、あそこまで大きな存在になれるのか……怖く思えるくらいに」

 サンナの気持ちは、痛いくらいよく分かる。

 ステラもまた、シズマの器の大きさには常々感じていた。威厳があるわけでもない。むしろ、団長という立場を感じさせない気さくさがある。

 それであるにも関わらず――自然と、勝てないと思える。

「本当に……すごい人ですよ。シズマ団長は」

「うん、本当に思い知らされて……途方に、暮れているの」

 サンナは肩を落とすと、力なく笑ってみせる。いつも、無邪気に笑っているサンナらしくない、陰を帯びた笑顔。それに、ステラの胸が少しだけ痛む。

 どう声をかけてみたらいいか、分からない――。

「それなら、シズマ様にお手合わせいただいたらいかがでしょうか」

 その穏やかな声は、建物の方から聞こえた。振り返ると、そこには初老の執事が少しだけ微笑みを湛えていた。ステラはわずかに眉を吊り上げる。

「リヒトさん――手合わせ、ですか?」

「ええ、シズマ様は何かとお優しい方ですから。たとえ、対等に向き合うものなら――真っ直ぐに向き合います。敵だろうと、味方だろうと」

 リヒトはそう言いながら、サンナにそっと向き合う。戦場を生き抜いてきた一人の男として、鋭い視線を彼女に向けて告げる。

「恐れに屈してはなりません。恐れは、ただの壁です。それを理解し、乗り越えた先に、真の強者になり得る――私は、そう思いますよ」

「そう、なのかな……」

「ええ、少なくとも私たちと戦ったリュオの民は、そうでしたから」

「――聞いていたのですか? リヒトさん」

 ステラが驚いて訊ねるが、リヒトは苦笑いを浮かべて首を振る。

「いえ、ですが、戦ったことがありますから。それを、よく覚えています――とても強かった。その人たちの肌のひりつくような気迫が、貴方からも感じられます」

 懐かしむように目を細める。その瞳が、微かに揺れた。

 痛みとも悲しみともつかない――揺れる感情。だが、それもつかの間、彼はすぐにサンナに視線を向け、優しく励ますように微笑みかける。

「シズマ様が王都に帰られる前に、一度立ち会ってみてはいかがでしょうか」

「――立ち、会う……鬼シズマと……」

 サンナがそれを口にした瞬間、微かに身震いした。ぎゅっと胸の前で拳を握りしめ、視線を落とす――だが、すぐに決然と顔を上げた。

「ん……私、やってみるよ。姉さま……っ!」

「はい、その意気です。サンナ」

 少しだけ元気の戻ってきたサンナにほっと一安心する。やっぱり、彼女には悩んでいる顔は、似合わない。ステラはリヒトを振り返った。

「リヒトさん、ありがとうございます――そういえば、何故、こちらに?」

「どういたしまして。ルカ様を探しに来たのですが……ステラ様、こちらにいらっしゃいませんでしたか?」

「え……いえ、見ていませんが」

 なんだか嫌な予感がする。ステラは眉を吊り上げると、リヒトは深くため息をこぼし、額に手を当てて言う。

「困りましたね。てっきり、ステラ様の場所かと思ったのですが」

「どうかしたのですか? リヒトさん」

「――実は、お恥ずかしい話なのですが」

 彼は苦々しい表情を顔いっぱいに浮かべ、押し出すように告げる。


「ルカ様とシズマ様が喧嘩されて――屋敷を、飛び出していったのです」


 え、と思わずステラが目を見開く。

 瞬間、ぽつり、と肩に何かが軽く当たった。ぽつ、ぽつと雫が空から降ってくる。視線を上げれば、分厚く雲から雨が降り始めていた。

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