第二章 北風の刃
第1話
ステラが赴任してから二週間が経つその日――。
朝早く、領館の裏庭には、二人の少女が向き合って立ち、拳を交わし合っていた。
「ふ――っ!」
ルカが拳を振り抜くと、長い黒髪が跳ねるように動く。その拳を真剣な表情で捌くステラは、小刻みに足でフットワークを刻みながら受けに徹する。
放たれる拳打。風を切る小気味いい音と、二人の息遣いが空に木魂する。
やがてルカの繰り出した一撃を、ぱしっと音を立ててステラは受け止めた。
「はい、ルカ様、ここまで、です――朝ごはんにしましょうか」
「ふぅ、もうそんな時間なのね。付き合ってくれてありがとう。ステラ」
「いえ、拳闘でついていけるのがやっとです。むしろ、剣術や弓術でお付き合いできなくて、申し訳ないです」
「ふふ、いいのよ」
ルカは傍らに置いた手拭いを拾い上げ、汗を拭う。その白い肌が上気して朱に染まっていて――ステラは少しだけどきどきしてしまう。
視線を逸らしながらステラも袖で汗を拭うと、ルカは困ったような笑顔で手拭いを差し出してくる。
「ほら、使っていいから、拭きなさい?」
「あ、でも、汚してしまいます……」
「もう汚れているからいいの。ほら」
ルカはそう言いながら、ステラの額をタオルでそっと優しく拭いてくれる。ふわっと甘酸っぱい匂いが鼻を掠め――思わず恥ずかしくなってステラは首を振る。
「ちょ、ルカ様、自分でできます、って……!」
「気にしないのっ、ほら、ほらっ」
じゃれつくようにルカは楽しそうに笑い、ステラの額の汗を拭う。その笑顔を見ていると、嫌とは言えなくなって――。
(でも、この匂い……ルカ様の……うう、いけない気分になる……)
なんで、汗なのにこんないい匂いがするのだろう、とステラが顔を赤くしていると、きょとんとルカが首を傾げた。
「あら? 意外にまだ汗をかいているのね。落ち着かないかしら?」
「――ルカ様のせいですよ」
「……え?」
「なんでもないですっ! もう大丈夫ですので、朝ごはんにしましょう!」
強引に話題を打ち切り、ステラはルカの手を引っ張る。彼女は一瞬、目を見開いたが、嬉しそうに頷いて手を握り返してくれた。
あの夜からどこか二人の間にあった遠慮はなくなっていた。
仕事の最中は主従を弁えるものの、こうして友人同士のように接することも増えてきた。それをルカは喜んでいるのか、にこにこと腕に抱きつくように甘えてくる。
「ちょ、くっつぎ過ぎですって、ルカ様!」
「あはは、真っ赤になっちゃって、かわいい、ステラ」
えいえい、と頬を突いてくるルカを少し鬱陶しくも思いながらも――。
そうやって甘えてくれるのがなんだか嬉しくて、ステラは相好を緩めるのだった。
「――ルカ様、商隊からの被害報告があがっています」
「これで三件目ね……」
朝食後、ルカの執務室で二人は書類仕事を始めていた。
部隊にはローテーションで巡回に出るように指示を出している。ルカは手元の書類に手際よく判子を押しながら、ステラの差し出した報告書に目を通す。
形のいい眉を寄せ、小さく吐息をつく。
「馬を主体とした、三十人ほどの盗賊団――北方の異民族ね」
「やはりですか。討伐部隊を出しますか?」
「……難しいところね」
少しためらい、ルカはため息をつく。引き出しから地図を取り出し、それを机の上に広げて、ペンを手に取る。
「現場は――三ケ所。いずれも、国境に近い場所で、山岳地帯」
印をつけた場所は、一見して明らかに馬を走らせるのは、難しそうだ。
だが、対する異民族は山岳での馬の扱いに慣れている。つまり――。
「地の利が、明らかに悪いわけですか」
「そういうことになるわ。それに、巡回のタイミングを避けて、通りかかった旅人や商隊を襲っている。早めに対応したいけど……」
「一筋縄では、行かないわけですか」
二人で腕を組み、少し悩む。ルカは地図を横に退けて書類に判を押す作業に戻りながら、小さくため息をこぼす。
「まあ、悩んでも仕方ないわね。ステラ、この書類をまとめてくれる? 王都の内務省に送付しないといけないから」
「はい、了解しました」
ステラはルカが判を押した書類をまとめて、封筒に入れていく。ちら、と横目で彼女を伺うと、浮かない顔でちらちらと地図を見ている。
(――やっぱり、早くどうにかしたいのかな)
「……場当たり的ですが、巡回を増やす、とかですかね?」
ステラは封筒を机に置きながら訊ねると、ルカは視線を上げて頷く。だが、それでも表情はあまり晴れない。
「それでも、抜根的な解決にならないし――それに、ここで野盗を好き放題させてしまうのはあまりよろしくないの」
「何か……治安以外に、別の理由が?」
「まあ、治安のことなんだけどね。このナカトミはあまり野盗の被害が少ないのだけど、それって要するに、お父様の威光のおかげなの」
(お父様――シズマ・ナカトミ団長……)
騎士団を束ねる、無敗伝説を持つ男。それに思い至った瞬間、なるほど、とステラは納得して頷く。
「今までは、団長を恐れて野盗が避けていたけれど、もしここで少しでも野盗の被害が拡大するようなら――」
「ええ、お父様を恐れなくなり、野盗の被害が増える可能性がある」
なるほど、とステラは頷き、眉を少しだけ寄せた。
ナカトミ辺境連隊の数は、二千。もし、野盗の被害が増えれば、手が追いつかなくなってくる――そうなれば、治安の悪化は避けられない。
ルカは憂鬱そうにため息をつく。可憐な顔には影が差してしまっている。
「何かいい策はないかしら。ステラ」
「ううん、そうですね……」
といっても、ステラは騎士であり、知恵を巡らせるのは得意ではない。
(こういうとき、お養父さんならどう言うかな……)
首を傾げ、想像力を働かせながらためらいがちに小さく口にする。
「囮――ですかね」
「ん? 囮?」
「そうです。何か野盗が目移りしそうなものを餌として配置して誘い込む――とか、どうでしょうか。たとえば、囮の兵站部隊を用意して……」
「兵站部隊だと、騎士を警戒して襲わないでしょうね。だけど、いい線ね」
ルカは一つ頷き、ぱっと陽が差したように明るい笑顔でステラに笑いかける。
「その線で行きましょう。囮作戦」
「でも、いいアイデアがあるのですか? あ、商人に協力してもらうとか……」
「民間人に協力を要請するのは、さすがに控えたいわ。それより――いいこと、思いついちゃったの」
にっこりと笑うルカが、真っ直ぐにステラを見つめてくる。
無邪気で――何か悪戯を思いついたような表情に、ステラは少しだけ引きつった笑顔を浮かべて首を傾げた。
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