第8話 さくらの知らない世界
さくらは、総務部に所属したまま、目下休職中である。
聡子やふたごちゃんの面倒をみていると、そうなるしかなかった。仕事など、できない。
ただし、あおい&皆を保育園に預けるので、会社へは行く。ほぼ毎日。
「さくらさん? おはようございます」
廊下の奥から、紺色スーツに身を包んだ壮馬が駆けてきた。
「壮馬さん! おはようございます」
「そーましゃん、おは!」
「類さんとは毎日一緒なのですが、さくらさんに会えてよかった。お久しぶりです。あおいさんも、おはようございます」
始業前の短い時間。ふたりの幼児をかかえたさくらは、エレベーターホールでかつての上司・壮馬と邂逅した。
きれいなお辞儀。壮馬は、表情が引き締まっている。秘書課で少々、揉まれただろうか。
「叶恵さんはお元気ですか」
「もちろん。毎晩、激しく求めてきます。おかげで、毎日寝不足ですよ」
ぶっ、そんなん、聞いていませんが? ああ、言いたいのか。でも、敏感なあおいもいるので、過激発言は控えてほしい。
「……お盛んそうでなによりです……」
「さかる? サカル? あー、盛ってんのか……いやいや、おっほん。その節は、ありがとうございました」
「そのせつ?」
「ええ。シバサキファニチャー海外出店の件です。あれは、時期尚早だと思っていましたので」
「かいがいしゅってん?」
そんなの、聞いていない。さくらは壮馬に詰め寄った。
「え。さくらさんは初耳でしたか。困りましたね、申し上げないほうがよかったですか。あとで、社長に叱られそうです」
「言い出しておいて、今さら引っ込めないでください」
「……詳しく書くとページ数を喰うので、今さら会社の廊下の場面で足踏みするのも、結末を早く見届けたい読者さんに失礼でしょうし、箇条書きで簡略化しますよ。では」
問い詰められた壮馬は、覚悟を決めて語りはじめた。
①類社長構想の『シバサキ海外進出』に、強力な援軍があらわれた。
②しかし、それは吉祥寺店でお得意さまだった、女性の実家からの業務提携。
③壮馬以下、周囲は反対したものの、類は乗り気。
④母・聡子色を払拭するには新事業と意気込んでいた。
⑤類はお得意さまと愛人契約を結んででも、新しいことをしたかった。
⑥ついに、約束のその夜……という場面で、さくらからの連絡があった。
⑦類は先方との約束を反故にして、京都へ向かった。
⑧で、破談。
「さくらさんからのSOSがなかったら、業務的にはうまくいったかもしれませんが、類さんは叶恵の二の舞……身体で仕事をする、『別れさせ屋』みたいな位置に堕ちていました」
身体を犠牲にしても、類は海外進出をしたかったらしい。その執念に、ぞくりとした。
「類さんは潔白ですよ。海外進出の件以外では、女性の影は、いっさいありませんでした」
「はい……恐縮です」
なんと返事をしたらよいのやら。苦笑しかない。
「それはそうと、真冬のこと、申し訳ありませんでした。行動を監視していたつもりでしたが、甘かったです」
「いいえ、壮馬さんに謝られるほどのことでは」
「実は私、真冬にさくらさんのことを聞かれ、いろいろしゃべってしまったんです。申し訳ありません。真冬の先輩としても、この通りです」
「頭、下げないでください! 終わったことです。真冬さん、もう沖縄へ行かれたんですよね」
「はい。乗り気なんだか、落胆しているのか、よく分からない顔つきで。あいつはどこでもうまくやります。その器用さが、あやういときもあるのですが。適宜、私がフォローしますので、さくらさんはご心配なく」
しばらく、会うことはないだろう。真冬は類の逆鱗に触れてしまった。しかしお互い、爆弾を持ち合わせているような状態なので、この先も冷戦は続くはず。さくらは類を信じるだけである。
「別れさせ屋が撲滅できてよかったです」
「美人秘書課もなくなりました」
類の会社改革は進んでいる。
「で、さくらさんは新企画室で復帰のようですね」
「はい。新事業部とか、名前候補はあったらしいのですが、社長直属の部署にしたいってことで」
「玲さんや、さくらさんのお父さまも所属なさると聞きました」
「身内で固めるのはよくないなって言っていたのに、具体化したら身内ばっかりでした。父が今の会社を退職してシバサキへ来たら、私も復帰予定です」
さくらは笑った。
「あ。ちょっとー、さくらさーん!」
人影が飛んできて、さくらにぎゅっとしがみついてきた。すでに皆をだっこしているので、重い。重かった。
「かなえーちゃ!」
「おはよう、あおいちゃん。今日もかわいいわね」
「うん。あおい、かわいーの。かなえーちゃも、きれいよ」
「ありがとう。毎日愛されていると、女ってきれいになれるのよ」
意味が分からなかったようで、あおいはきょとんと一時停止した。けれど、大きく頷いた。
壮馬は顔を真っ赤にしている。冷や汗も出てきたようで、しきりにハンカチで額を拭きはじめた。
「壮馬くんっては、いつまでも初々しくてこの通り。付き合いはじめて三ヶ月。楽しいけど、そろそろ落ち着いてほしい」
「す、すまない。叶恵。魅了されてしまって、つい……」
「や・だ・あ! ほんとうのこと言ったら、困るぅ」
いや、それ全然困っていないよね……むしろ、超・よろこんでいるよね……そんな叶恵はおいといて、早く保育園へふたりを届けたい気持ちに駆られてきたぞ。
瞬間最大風速でいうと、現時点ではここがいちばんのバカップルですよね? え、違う? 主人公夫婦は殿堂入り?
「あらためて。おかえりなさい、さくらさん」
「た、ただいま、です。そろそろ、離してください叶恵さん」
「ま。照れちゃって。いいわ。あおいちゃん、私と手をつないで、保育園へ行きましょう」
「うん!」
叶恵が歩き出そうとしたので、さくらは声を張り上げた。
「私、家を建てるんです! シバサキの全力を挙げて。新企画室の初仕事です」
「ああ、建築事務所をまるっと吸収したって聞いた」
「私の作った設計の原案が、さっそく企画を通って。柴崎家の新居を建てることになりました」
「さくらさん、やりましたね。おめでとうございます」
「壮馬さんは、類くんから聞いているんじゃないですか、すでに」
図星らしい。ちょっとだけ、頭を下げて謝るしぐさを見せた。
「ですが、ご本人から直接報告されるのは、格別の思いです。ましてや、さくらさんは私の元・部下。鼻が高いです。会社への早期復帰、お待ちしていますよ」
それでは、と壮馬はさくらに挨拶すると、叶恵には熱い視線を飛ばし、上階行きのエレベーターに張り切って乗った。めろめろのべたべたである。愛の力って、偉大だなとしみじみするさくら。
「じゃあ、行きましょうか。保育園」
「えいえいえい、おー!」
叶恵の合図に、あおいが呼応した。
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