終幕 はじまりの海

 その本を語り終えると、私は揺り椅子の上で一息を付いた。目の前には、もう自分では歩くことのできない女が一人、寝台で安らかな寝息を立てている。

 ――また、眠ってしまったのね。

 私の物語が詰まらなかったからだろうか、そんなことを考えて落ち込みそうになる。

 このお方に、初めてオブシディアンと名付けられたのは、いつのことだっただろう。

 その時の衝撃は今でも私の中に残っているのに、思い出そのものは曖昧で、思い出すことができない。

 私はこのお方に、オブシディアンと呼ばれたとき―そう、コレクションの一つとして認められたとき、所有される悦びというものを初めて知ったのである。

 その名を与えられてから、美の化身であるこのお方に選び抜かれたコレクションの一つだと考えるだけで、たまらない喜びが、満足感が押し寄せてきた。それまで所有するばかり、愛でるばかりであったこの私が、愛でられることに打ち震え、所有されることに、圧倒的な快感を得られるようになった。

 私は他のどの作品よりも、他の誰よりも、優秀で美しいオブシディアンであろうと心がけるようになった。それが私の生きる指針となったのだ。

 それまでの私は、コンパスは狂い、舵は壊れ、地図も失い、目的地も現在地も分からずに広大な海に漂う一枚の枯葉でしかなった。それが、あの子に名を与えられ、その所有物の一つとなったことで、全てを取り戻した、自分がいったい誰であったのかを知ったのだ。

 私のことを本当に理解してくれるのは、このお方しかいなかった。そしてまた、このお方のことを理解できるのも、この私しかいなかったのだ。

 だから全てを、貴女様のために捧げようと、そう誓ったのだ――


 そう、私は尋ねたことがある。未だ誰にも解き明かすことのできない、あの色の秘密を。

 ――どうやって、その色を出しているの、と。

 貴女様はこう答えたのだ。

 難しくはないわ。あの色はね、誰にでも出せるものなのよ。そもそも、私が生み出したものではないの。私が発見したものなのよ。だってその色は、そこら中に溢れているのですもの。そう、その色は、そこら中に溢れている。だけど、誰も気が付かなかった。今でも、誰も気が付いていないの。誰も知らなかっただけなのよ。私は、誰からも失われていたその色にね…、見向きもされなかったその色にね…、

 名前を、付けてあげたの。

 ええ、そう。名前を付けただけ、ただそれだけなのよ。嘘じゃないわ。

 名前を付けてあげたとたんに、その色は輝き始めたのよ。

 もちろん、知っているわ。その色が、そんな名で呼ばれていることは。私しか表現できない色だと、そう言われているのでしょう。

 ふふ、全く愚かなことね。あの色は、そこいら中に溢れているというのに。そのことに、誰も気づきやしない。そんな名、あの色にはちっとも相応しくない。私が付けた名を、みんなが知ることができれば、きっと気付き始めるわ。そこかしこに、その色が潜んでいることに。自分の周りにも、その色が散りばめられていることに。

 知っている? この世の中に、『汚い色』なんてものは存在しないことを。

 『人によって穢された色』が存在するだけだということを。

 私はね、その色に、名前を付けただけ。その色の名は――


 私は眠りながら、夢を見ている。

 それが夢だと、もう既に気付いている。

 もうすぐ目覚めるのだと、そんな予感がある。

 その夢は、遠い日の記憶だ。

 いつ頃のことであったのか、それは定かではない。薬物の影響で、思い出の時系列は狂っていて、断片的なものでしかない。

 思い出に共通しているのは、汚物の臭気や、男たちの汗臭さ、そこら中にこびりついた体液の香りぐらいである。

 男たちがいなくなり、あの子と二人だけになったときのことだ。名さえ付けていないあの子は、言葉というものも殆ど喋ることができなかった。

 いつも、ぼろぼろになった人魚姫の絵本を、大事そうに胸に抱え込み、読み続けていた。

 あの日、あの子はその絵本を持ってくると、一枚を指さして、こう尋ねたのだ。

 「これはなあに?」

 私がぼんやりとした頭で指の先を見た。そこには、海が描かれていた。

 「それは、海よ」

 そう言いながら、私はこの子が物心がついてから海を見せていないことに気付いた。

 この部屋に閉じ込められているこの子は、海すら知らないのだ。

 そんなことを、ふと思った。

 そしてこの子は、次に、決定的な一言を放ったのだ。

 そう、夢で繰り返して見る、あのシーンが、今日の夢でも再現されようとしている。いつ見ても鮮やかな、あの場面が。

 あの子は、こう尋ねたのだ。

 「うみってなあに?」

 その瞬間、私の体は貫かれたのだ。美の化身に。乗り移られたのだ。美の女神に。

 この子は、海を知らない。海さえも、見たことがない。どうやって伝えればいい。どうやって教えればいい。この閉ざされた部屋の中で。言葉で、絵で、旋律で、曲線で、どうすればこの子の内部に、『海』を再現させ、想像させ…いや、宇宙を、創造すればいい。

 海とはなに――

 この質問が私の中で反響し、爆発し、全身に染み渡り、沁み込んでいった。

 弛緩した体が、細胞の一つ一つが、プチプチと音をたてて躍動し始めたのが分かった。

 どろどろのヘドロのような血が、瑞々しいネクターへと入れ替わっていくのが分かった。空っぽであった私の心に、甘美な好奇心が隅々まで満たされていくのが分かった。

 色を失っていた世界が、白紙の書物になり、楽譜になり、カンヴァスになり、この私を待っていることに気付いた。

 私はこれを、夢だと気付いている。私は、そして世界は、目覚めはじめている、そう、息づいている。

 私は今日を待ちきれず、子供のようなわくわくと、恋のときめきと共に、瞳を開くのだ。

 目覚めはじめた世界に向かって、両手を広げて、朝を迎えるのだ。

 胸いっぱいに風を吸い込み、自分に、そして世界に向かって問いかけるのだ。


 ――海とはなに、と。

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人魚姫症候群―あかずのクラムシェル 八咫朗 @8ta

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