4章 ゆめとき芝居 Ⅳ 偽薬―魔女の気付け薬 ④
そして私は時々、今でも思い出す。
私が人魚だった頃を。海を知らない、水槽の人魚だった頃を。
海に身を投げ、泡へと還ることを夢見ていた頃を。
そう、私はかつて人魚だった。
魔女と契約を交わし、不自由な足で、砂浜に立った人魚だった。声を奪われ、言葉を失い、唄を忘れてしまった、哀れな人魚姫だった。
すべての物語が意味を失い、すべての色が色あせ、すべての音が空しいものに成り果てた世界に、私は棲んでいた。
その世界は、世界とは名ばかりで、閉ざされていたのだ。私という物語は、その世界に閉じ込められていたのだ。あらゆることが繋がりを失っていた。途切れていたのだ。
空には自由がなかった、大地には広がりが、海には深さが、時には奥行きがなかった。文字も、色も、音も、全てはぶつ切りになって、何も語らず、何も彩らず、何も奏でることはなかった。
それは私が、想像する意思を、喪失してしまったからだ。
文字が読めなかった幼い私は、ひたすらに部屋で母親の帰りを待ち続ける日々を送っていた。一冊の文字のない人魚姫の絵本を眺めながら、私はどこまでも虚ろだった。想像などしたことなかった。自由を、世界を、夢を、人を。憧れたことなどなかった。自由に、世界に、夢に、人に。そんなもの知らなかった。どんなにその絵本に想像を遊ばせても、私の世界はその絵本のように閉じていた。麻薬に溺れ、狂気に囚われたお母様との暮らしの中で、私の世界は閉ざされ、いつしか想像する意思は退化していった。
ただいつからか――そう、いま思えば、麻薬を克服した頃からだろう――お母様が読み続ける一冊の本だけが、私を支えてくれていた。お母様の表情と、その本に対する憧れと嫉妬が、殆ど、私の全てだった。
お母様という檻を失い、邸宅を出てからも、お母様の呪いは私を呪縛し続けた。
むしろお母様という檻を失ったことで、私は新たな世界との距離が掴めずにいた。以前は、ただお母様を待ち続ける、ただお母様のことを考え続ける、それだけで世界は完結していた。その重石が、モチーフが失われて、私は途方にくれてしまったのだ。想像する意思が欠けていた私には、あらゆることがぶつ切りで、何処に行っても、何を見ても、全てが色褪せていた。感動が無い、感慨が無い、感情が無い、実感がないのだ。まるでガラス越しのようにしかものが見えなかった。しかもそのガラスは、四方を閉ざされた水槽のようだった。何処を見ても、絵画を眺めているようなものだった。
怪我をした人を見ても、痛そうと思えなかった。飢えている子供を見ても、可哀想と思えなかった。過去の経験が圧倒的に伴わないため、実感がなかったのだ。
やがて言葉を覚え、旋律を知り、自らに名をつけてから、世界は一変した。修道院生活の中で、物語に耽溺し、旋律に心震わせ、舞台上でクラムシェルを演じることに熱を上げるようになった。
しかし、すべての過去が幻だと気付いてから、私は再び、虚無に囚われてしまったのだ。私は分からなくなっていた。なぜ旋律があれほど美しかったのか、なぜ物語があんなにも私の心を揺さぶったのか、なぜクラムシェルという名が、あんなに輝きを放っていたのか。
私はかつて人魚だった人間になり、声を、唄を、舞を忘れてしまっていた。
しかし、あの青白橡と名乗った奇妙な来訪者が、忘れていた最後の記憶を思い出させ、知らなかった真実に気付かせてくれたのだ。
お母様が私の命を守ろうとその命を捨てたという記憶。お母様がいつも私を想っていてくれていた、という真実。
狂気に形を変えていたとはいえ、私を愛していくれていたということ。
その真実にたどり着いた時、私は知ったのだ。
自分自身が白紙のカンヴァスであり、奏でられる前の五線譜であり、未だ語られない物語であることを。
私は思い出す。人魚が人間になった理由を。私が人魚だった頃の記憶を。
そう、私は人間に恋をしていたのだ。
そう。私は憧れていた、焦がれていたのだ。人に、人の強さに、弱さに、多彩な感情に、その手に、足に、儚さに、優しさに、厳しさに、人という存在の持つ無限の可能性に、人という存在の放つ、夢幻の輝きに。だから物語はあんなにも私を夢中にさせたのだ。だからあんなに、旋律は私の心を揺さぶったのだ。だからあんなに、景色は美しかったのだ。
だから私は、人間になりたかったのだ。
そう、私は人魚だった。海を知らない、水槽に飼われた人魚だった。そして狭い水槽の中で、憧れていたのだ。人間に。あの愛しい、決して思いの届くはずのない人というものに。声を失ってもいいと、二度と人魚に戻れなくなってもいいと、そう思うほどに。狂おしいほどに、恋焦がれていたのだ。
だからこそ私は、魔女の魔法薬を飲んだのだ。
そう、私は生まれ変わったのだ。かつて人魚姫だったものへと。人間へと。声を失い、言葉を失い、唄を失い、広大な海で舞い踊ることを捨て去っても、憧れの人間になるために、魔女の呪いを甘んじて受けたのだ。
その答えに辿りついた瞬間、全てが反転し、私の周囲の世界が燦然と輝きだしたのだ。味気ない白黒の閉ざされた世界が急に色づき、色めき、ただの雑音でしかなかった音楽の一音一音が輝きを取り戻し、意味の無かった一文字一文字が息吹を放ちだしたのだ。
死んでいた私の魂が、閉ざされていた心が、脈々と熱い血を通わせ、わくわくと躍動し始めたのだ。
深さ、広がり、高さ、奥行き、大きさ、そして己自身の小ささ…それらに想像を巡らせて、私はようやく自由とは何かを知った。自分が自由であることを知った。この世界で、私は自由なのだ。そう気付いた。自分とは誰であるのかを知った。いや、自分とは誰なのか知りたいと、初めて心の奥底から思ったのだ。
そう、あの水平線の彼方へも、私はいける。あの、山頂の向こうにも、私はいける。この物語の最果ての、そのまた向こうへも、私はいける。この絵画の額縁の外へも、遠近法で描かれた風景の向こう側、込められた意味や想いの奥深くへも、私はいける。過去へも未来へも、時の遠近法を駆使することで、私は旅をすることができる。私は直接、触れることができる。
絶望などしてたまるか、泡になどなってたまるか、閉ざされた物語などに、負けてたまるか。私は人魚。でも、世に無数に語られる、悲恋の人魚姫なんかじゃない。永久に幸福になれない運命などに、負けるわけにはいかない。
まだ、私の物語は終わっていない。
それは、まだ始まってもいない、題名すらない物語。これから語られる、これから始まる、これから記される、未だ何処にも存在しない物語。誰も知らない、誰も語ることのできない物語。私の知らない、私だけの物語。だから、読む前から、こんなにも、わくわくするのね。だから、まだ読んでもいないのに、こんなにも恐ろしいのね。
そう、あのぼろぼろになった人魚姫の絵本。文字もない、ストーリーも分からなかった絵本。幼い私は、絵本をいつまでも眺めながら、幾つもの物語を想像していたのだ。お母様のように、怒ったり、泣いたり、笑ったりと、感情を爆発させようと、たくさんの物語を、結末を、絵本を元にして自由自在に想像していたのだ。
だから思い出そうとすると、泣きそうな気持ちになり、怒りを覚え、胸の高鳴りも感じることができた。中身は覚えていないのに、思い出そうとすると、様々な感情が溢れてくるのだ。絵本を読みながら、期待だけを膨らませていたから、想像力だけを膨らませていたからだ。
だから、やめられなかったのだ。人魚姫の物語を集めることを。何処かに異なる結末の人魚姫があるのではないかと、妄想することを。
私は人魚姫、人に憧れ、人に恋することをやめられない、愚かな人魚姫。それでいい。私は生まれ変わったのだ。人間へ、ではない。本当の人魚姫に。私は人に焦がれて、生まれ変わった人魚姫なのだ。でも、もう海を知らない水槽の人魚ではない。
人魚を記憶を思い出した私は、海の深さも、大地の広さも、空の高さも、果てしないということを知っている。私は知らない、ということを知っている。
そして私自身が、探し続けた異なる結末の人魚姫の主人公であることを知っている。私の物語が、まだ終わっていないことも、知っている――
こうして真実を知った日、私は、私を救うために命を失ったお母様に、誓ったのだ。
私は人魚姫。人に焦がれ、人に夢を見続ける悲劇のヒロイン。
お母様、私は生きていくわ。これからも、人魚姫として――
あの青白橡と名乗った精神科医は、その後、二度と現れなかった。
後に叔母様に尋ねると、そのような精神科医など雇っていないし、来る予定もなかったはず、そう怪訝な顔をされた。
また、私の狂言だと想っているのだろう。
ただ分かったのは、その精神科医が私の病棟の庭を訪れた日、別の病棟から、一人の精神病患者が脱走した、ということだけだった。その精神病患者の病室からは、警察に捕まった精神科医が私について記したレポートの複製がぼろぼろに読み込まれた状態で発見されたという。彼がどうやってそれを手にしたのかは分からなかった。
彼が幻ではない証拠に、私に、あの一冊の白紙の書物を残していった。題名もないその書物は、彼が魔法薬、魔術書と呼んだもので、本当に、私の呪いを解いてくれた。
その書物は、今でも大切に保管している。それを開く度に、ページを捲るたびに、胸が高鳴るのだ。白紙ではあるけれど、そこには物語があるのだから。ページを捲るたびに、異なるシーンが描かれているはずなのだから。
ある日、私はそれを眺めながら思ったのだ。この私の呪いを解いた物語に、名前を付けよう、と。この書物を、私だけのものにするために。そしてまた、この書物を、呪いの解毒薬としてだけではなく、人間へと生まれ変わらせる、祝福の魔術書へと変えるために。
お母様、私があの時、空を、そして海を見たときの衝撃を、貴女は知らない。あなたはそれを表現する術を持たない。それは、私だけのもの。
それとも、それを貴女は与えたかったのですか? その感動を、私に享受させたかったのですか。あの海の青、空の青を、光を。いつか私は表現しようと思います。絵画で、詩で、唄で、物語で。
ねえ、お母様は、もう私は知っているのよ。呪いと祝福が、表裏一体であることを。
だから私は、すべての呪いを祝福に変えて、生きていくわ。
貴女が遺したこの白紙の書物を抱きしめながら、人魚姫として生きていくわ。
だから最後に、聞いて頂戴。この書物の名を。
この物語の名は、『水槽の人魚』というの。
どう? 素敵でしょ、ぴったりでしょう。
ありがとう、さようなら、名前も知らない、お母様。
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