4章  ゆめとき芝居 Ⅳ 偽薬―魔女の気付け薬 ③

 そう、私はついに思い出した。

 あの日、私が白亜邸から裸足で逃げ出した日、私がはじめて海を見た日、そして何かを抱きしめながら、何かに抱きしめられながら、崖の下へと転落していった日のことを。

 私は思い出している。一冊の本に、一人の人間に憧れ続けた日々のことを。

 お母様はいつも、その本を読んでいた。私の前でずっと読み続けていた。

 そんなお母様に、私は焦がれ続けていた。お母様は、その本を読みながら、表情を変えていた。泣いたり、笑ったり、怒ったり、その些細な違いさえも、私はすぐに見て取れた。私はそんなお母様を眺めているのが好きだった。それだけが、私の喜びだった。

 お母様が読んでいるのが、本、というものであることは知っていた。そこに何かしらの物語が記されていることも、分かっていた。だから、お母様を眺めながら、いつか自分も、その本を読めることを夢見ていた。

 それでも、お母様はけっして、その本を私に読んでくれることも、その本を読ませてくれることも、ページを見せてくれることさえも許してくれなかった。

 私はその本に憧れると同時に、嫉妬もしていた。本に、嫉妬していたのだ。お母様に、もっと私を見て欲しかった。お母様は本を読みながら、時折、私に視線を向けてくれた。しばらく私を見つめると、また再び、ページに目を落とすのだ。

 私は、もっと私の声を聴いて欲しかった、私自身に、お話をして欲しかった。

 一冊の本に焦がれ、同時に嫉妬していた私は、その募る思いを、あの日、ついに行動に移したのだ。

 私はお母様が部屋から出た後、いつも鍵を閉めることを知っていた。微かな音ですぐにわかるのだ。

 だが、その日、お母様は鍵を閉め忘れた。そのことに気付いた私は、待ち望んでいた時がついに来たことを知った。

 お母様が気付いて帰ってくる前に、こっそりと扉を開けた。初めて出る、部屋の外だった。その外に何があるのか、私は知らなかった。登りの階段を見るのも初めてだった。恐る恐る階段を登った。振り返ると、落ちていきそうな気がした。静かにドアを開くと、そこには、たくさんの本が並んでいた。書庫だった。たくさんの書物に眩暈を覚えながら、私は中に入った。でも、どうしても読みたいのは、あの本だけだった。私はあの本を探しながら、書庫を彷徨った。本という本を引っ張り出し、床に積み上げていった。そしてついに、あの本を見つけたのだ。書庫の奥に、その本は置かれていた。お母様が、そこに置いたのだろう。はやる気持ちを抑えて手を伸ばしかけたとき、足音が聞えた。それも慌てた音で、駆け寄ってくる。もう、戻る時間はない。お母様が階段を駆け下り、鍵が開いていることを確認したのか、中を覗き込んでいるのがわかる。トレイとバスルームをみれば、すぐに私がいないことが分かるはずだ。

 どうしよう、どうすればいい。私の心臓は早鐘のようだった。

 逃げなければ――この本を読むために。

 逃げながら、私は母に追ってきてもらいたかった。自分を追ってきて欲しい、見つけて欲しいと願っていたのだ。そう、かくれんぼに胸をわくわくさせる子供のように。

 私は私を見つけてもらうために本を手に取り、書庫を出た。

 背後で、部屋を探していたお母様の声が聞えた。何処なの、何処に隠れているの? きっとそんなことを言って、私を呼んでいたのだろう。急いで階段を駆け上がると、私は何処に向かっていいのか分からなくなった。とにかく、幾つも扉を開け、入っては出て、閉めていった。そして私は小さな扉の前に立った。お母様の私を探す声と、駆け足の足音が近づいてくるのがわかった。

 そして私はとうとう、その扉を、白亜邸から出る扉を開いたのだ。

 眩しい光が、流れて込んできた。裸足で外へ出た。そこには太陽に照らされる真っ青な青空と、海が広がっていた。どちらも果てしない、信じられない光景だった。私はふらふらと、その初めての光景の中へと歩みだしていった。

 そのときの衝撃を、言い表せる言葉を、私は知らない。きっと、一生かかっても辿り付くことはできないだろう。一生掛かっても、描くことはできないだろう。

 太陽は眩しかった。空は深く、高かった。海は恐ろしいほど広がっていた。

 大地はさらさらとしていた。草は柔らかかった。小石を踏むと、痛かった。逃げるのも忘れて、私は歩みを進め、崖の上に立った。本能的な恐怖を感じた。太陽と、青空、大地と海、生と死、そのすべてが交わる境界線上に、私は立っていた。恍惚として、お母様のことも、書物のことも忘れてしまっていた。

 振り返ると、そこにはお母様がいた。光が強烈で眩しく、その表情は見えない。悲鳴を上げようとした、伸ばした手を振り払って逃げようとして、私の手から書物が放り出され、崖のほうへ高く舞い上がった。慌ててそれを掴もうとして小走りで駆け寄り、手を伸ばし、その書物掴もうとしてさらに遠くへ弾き飛ばしてしまった。そのときには、バランスを失った私の体は、崖から離れようとしていた。

 私は瞬間、私は思った。お母様は、私を追ってきてくれたのかしら、それとも、この書物を取り返そうとしているだけなのかしら。

 私は初めての浮遊感に包まれていた。自分が落ちているという実感さえなかった。頭から真っ逆さまに落ちていきながら、風の強さに、失ってしまった書物の喪失感に震えた。私は、空っぽだった。その体を包み込むものがあった。お母様だった。

 お母様は私と共に落下していた。背後から私を抱きしめると、自分の体を丸め、その上半身を使って頭から抱え込んだ。

 そう、お母様は私を追って、躊躇せず、崖を飛び降りたのだ。私が岩場に叩きつけられる前に、自分の体を使って庇おうとしたのだ。

 そう、本など目もくれず、この私を、この私だけを…

 ぎゅっと抱きしめられた心地よさと懐かしさに、抱いた恐怖はかき消された。守られているのだ、そう感じて私は安堵した。驚くほど長く引き伸ばされた時間の中で、暖かい涙が溢れてきた。私は産声をあげるように大きく泣いた――。

 私は、最後の真実に辿りついた。

 お母様は、落ちていく私を助けようとして、自分も崖を飛び降りたのだ。そして私の体を庇って、その全身を海の岩場へとたたき付けたのだ。お母様は、私を守ろうとしたのだ。

 お母様は、私を愛してくれていたのだ。

 遠くで泣き声が聞えた。それは私の声だった。私が泣いているのだ。赤子のようにわんわんと、両手を目に当て、感情のままに。

 私は人魚だった、人魚姫だった。一度死んだはずの、何度でも孤独な死を繰り返すはずの。虚ろな心で死んだように生きていくはずの、水槽に囚われた人魚姫だった。

 でも私はその瞬間、輪廻の呪いから解き放たれたのだ。一冊の白紙の書物が、失われていた最後の記憶が、私を救い出してくれた。教えてくれたのだ。まだ、物語は終わっていないことを。

 泣きながら、私は思った。

 もう私は、思い切り泣いてもいいのだ。

 これは私が忘れていた、産声なのだ。

 私は今こそ、生まれ変わったのだ。人魚から人へ、そして人から人魚へと。

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