4章 ゆめとき芝居 Ⅳ 偽薬―魔女の気付け薬 ②
青白橡の言葉が、私の心を微かに、そして確かに震わせた。
「魔女の呪い…ですか。精神科医とも思えない、非科学的な言葉ですわね」
「おやおや、龍や一角獣を信じ、自分を人魚姫だと話す貴女の台詞とは思えませんね。人魚姫がそもそも人間になったのは、魔女に魔法薬を与えられたから。代償として声を、言葉を、そうして何より大切な唄を、失ってしまいましたが。
信じていないのですか。人魚姫が、その魔法薬を」
私の沈黙に、青白橡は次なる言葉を浴びせた。
「貴女が呪いをかけられ声を失った人魚姫だというのなら、私が魔女の呪いを解いて差し上げましょう。呪いを祝福に変える魔法薬で、今度は人間へと戻して差し上げましょう」
「まさか、そのようなことなど、できるはずがない」
「なぜです。人魚を信じることのできるあなたが、なぜ呪いを信じられないのですか。なぜ、呪いを解く魔法薬を信じられないというのですか。
私には分かっている。それは貴女が、閉ざされた世界に棲む人魚だからだ。貴女はご自分のお母様の愛を切望し、その身を捧げながら、なぜ、お母様の心を知ろうとしないのですか。なぜあなたのお母様が、あの白亜邸に貴女を閉じ込めていたのか、その理由を考えようとはしないのですか。貴女のお母様は、確かに魔女のような存在だった。しかしそれを狂気の一言で済ませてしまうのは、あまりに残酷だ。貴女にとっても、そして最愛のお母様にとっても。
そうなってしまったのは、貴女が興味があるのが、貴女だけだからだ。所詮、あなたはあなたでしかない。他者に、そして他者の外に広がる世界に興味が持てないのであれば、そこはあまりに狭い、閉ざされた世界だ。
そう、クラムシェル、まるで今の貴女は……
――海を知らない、水槽に飼われた人魚のようだ。
なぜ貴女のお母様は、貴女に言葉を教えずに、閉じ込めたのか。名も与えず、あなたをモチーフにして作品を作り続けたのか。それが…お分かりですか」
「そんなの分かっているわ。お母様は、私を愛していなかった。愛どころか、興味すらなかった。お母様が興味あるのは、自分の作品だけだったからよ。それだけでしょう。考えるまでもない」
青白橡は憐憫の表情を浮かべると、その表情をそのまま直裁に台詞にした。舞台上の役者のように、大仰に。私に言い放った。
「ああ、哀れな、何と哀れなクラムシェル。可哀想な、水槽の人魚姫。
あなたにはやはり、治療が必要だ。呪いを解く魔法の薬を、貴女は飲まなければならない。言葉を、歌うことを奪われた人魚姫よ。貴女は、呪いを解く魔法の呪文を、歌うように唱えなければならならない。
いいものをお渡ししましょう。貴女が声を、言葉を、唄を、紡がれる物語を取り戻し、地上で歩くことの出来ない不自由な尾びれを、優雅な舞を躍らせる二本足へと変える魔法薬。水槽に飼われた人魚である貴女を、本当の海へと解き放つ、祝福のワンド。あなたにかけられた呪いを解き、人魚から人間へと転生させる魔術書を」
大げさな仕草で青白橡が鞄から取り出したものに、私は絶句した。
それは、一冊の本だった。
あの幻の、妄想上の、この世に存在しないはずの、架空の書物だった。
絵画に描かれていたものと全く同じ書物が、私の記憶のままの書物が、そこには確かに存在していた。
ぼろぼろで、水を吸ったのか厚みが増していたが、間違いがなかった。
…そんな、嘘でしょう。
それは、お母様が私に読み聞かせてくれていた、いえそう私が思い込んでいた書物。でもそれは、絵画に描かれたもので、現実ではなかったはず。お母様は私に、物語を読み聞かせてなどくれなかったのだから。
でも青白橡の手にあるのは確かにあの書物だと、幻ではなく現実のものだったのだと、そう記憶が告げていた。
青白橡は呆然として言葉を失った私に、語り出した。
この書物は、あなたが流れ着いた海辺から遠く離れた古書店で見つけたのです。
見つけたのは、最近ことです。店の軒先に虫干ししてあったのですよ。邸宅にないのは当然だ。貴女と一緒に、海を彷徨っていたのですから。
塩水に晒されたせいか、とてもではないが、古書としての価値はない。店主に聞いたのですよ。なぜこんな本を捨てずに虫干ししているのか、と。その本が持ち込まれたのは、貴女が漂着して一週間ほどの頃だったらしいです。持ち込んだのは、地元の海岸の貝殻拾いだということでした。本はまだ湿っていて、通常なら買い取ることはないらしいが、装丁が独特で美しかったために、ただのような値段で買い上げたそうです。私がこの本を見つけたときには乾いていましたが、ごわごわに膨らんでいました。さすがに売り物にはならないだろうと私が言うと、仏頂面で言い返されましたよ。
「古書店が本をそう簡単に捨てるわけにも行かない。どんな本でも、欲しがる好事家がいるものさ。現に、あんたは興味を持ったのだろう」
実は、その店主の言ったとおりで、私が興味をもったのは、ぼろぼろであったからという以上に、この書物がオブジェとして見えたからなのですよ。変色し、かつて水を吸ってふやけて膨らみ、乾いた後もそうそう閉じることのできない書物が、何だか曰くありげな骨董品、奇妙なオブジェに見えた。そしてそれ以上に、この書物は、美しかった。だから他の本には目もくれずに手に取った。そしてこの本が、貴女が証言していた幻の書物の装丁に似ている、と思ったのです。だから事情を聞き、漂着して一週間ほどで海岸線で拾われたものであることを知り、購ったのです。お分かりですね、この装丁の色、紛れもなく、セイレンブルーの色合い。背表紙にも表紙にも題名はなく、これは装丁家が一点物として制作したものだ。そして、この色合いが出せるのは、貴女のお母様だけ。この本は、間違いなく、貴女のお母様の作品だ」
地面が揺らいだような衝撃が、私を立ち竦ませていた。踏み出すことができず、それを手に取る勇気もなく、言葉を発することさえもできなかった。鼓動は早く、全身が麻痺したかのように動けなかった。無重力状態で、自分が浮かんでいるような心地がした。
見れば見るほどその書物は、私の記憶の中の幻の書物と同じに見えた。実物を見て、忘れていた細部まで思い出したほどに似ていた。いや似ているのではない。これは間違いなく、あの書物だ、そう確信した。
「……見せて、いただけますか」
ようやくそう言うと、青白橡の手から私の手に、その書物は手渡された。
その本を眺めて、撫でてみた。
そう、私はこの書物を――
震える指で本を数枚捲って、私は強烈な眩暈を感じた。本の内容が、信じられなかった。
嘘でしょ、そんな馬鹿な、こんなはずが…無数の言葉が、発せられないまま口の中でこだました。そんな自分の声さえも、どこかと遠くの他人の声のように思えた。
私はページを捲りながら、探していた。物語を。いや、文字を。しかし何度繰り返してみても、ページを捲っても、同じだった。
どのページも、真っ白だった。何も記されていなかった。白紙だったのだ。
そんな、では、やはり、あの記憶は嘘だったというの?
私の体は重力を失ったようになっていた。足先から寒けが伝わり、地面に立っているという感覚が薄れていった。あの、崖に立って下を覗き込んだときの感覚に捕らわれていた。
でも、しかし、だって…本は、確かにこれに違いないのだ。
見紛うはずがない。数百数千冊という書物の装丁を見てきた。この本ではない、と。その私が一目見て確信するのだから、間違いはないはずなのだ。ではなぜ、白紙なのだ。お母様はこの書物を読み聞かせながら、ページを捲りながら、笑ったり、泣いたり、怒ったり、悲しんだり、喜んだりしていたというのに。
そう、それだけが、私の希望だったのに――言葉が、零れた。
「この本が、確かにこうして存在するということは、お母様は、この物語を私に読み聞かせてくれていたのではないの? 私はこの物語に、お母様と同じように、胸をときめかせていたのではなかったの? 私が心を揺さぶられた物語が、ここに記されているはずではないの? どうしてなの? お母様――」
無数の疑問が、泡のように沸き続けていた。
そう、失ってしまった過去の記憶から、ぼこぼこと音をたて、不穏な泡が浮かび上がってきていた。記憶の奥底で『何か』が息づき、自らも浮上しようと呼吸を始めていた。
お母様は、白紙の書物のページを捲りながら、私に物語を聞かせていたというの? それを読み聞かせながら、自分も笑ったり、泣いたりしていたの?
ではその物語は? お母様の創作? この世にお母様の中にしか存在しない物語だというの? ではなぜ私は覚えていないの?
お母様は、いつも、この書物を読んでいた。幾度も、幾度も、繰り返し。私の前で。読み終わっても、また最初からページを捲りなおすのだ。そして飽きることなく、表情を変えていたはずだ。
私がその物語を覚えていないのは、記憶を失ってしまったから? それとも一度、言葉を失ってしまったから。
いいえ、違う。そうじゃない。どれも、これも、違う。
口の中がからからに乾いていた。言葉を発しようとしても、ぱくぱくと言葉を飲み込むことしかできなかった。
お母様は私に何も語り聞かせてはくれなかった。でも、私の前で、お母様はこの書物を開き、読み続けていた。この白紙の書物を捲りながら、表情を変えるほどに没頭していた。物語を楽しんでいた。
それはなぜ? なぜ? なぜ?
頭の中で無数の泡沫が弾け続けていた。それでも最後の答えが出てこないのだ。出てきそうなのに、もう少しで分かりそうなのに…私はくらくらとして、悶絶した。
と、青白橡がやはり私の心の動きを見透かすように、言葉を放った。
「確かにあの御方は狂気に囚われていた。薬物の影響か、心の病のせいかは分からないが、あのお方の精神は越えてはいけない一線を越えて、常軌を逸した領域へと踏み込んでしまっていた。一つ、狂った歯車があるばかりに、常人とは全く異なるベクトルへと、貴女への想いは向かってしまった。その狂った歯車がこの書物であり、その想いの発露が、あの方の作品群、そして日記なのです。あの真っ白な部屋、この白紙の書物、そして空っぽの貴女から、すべては生み出されたのです」
そう、青白橡の言葉で、私は想像する。
真っ白な部屋で、空っぽの私の前で、白紙の書物を読み、ページを捲りながら、表情を七色に変えていたお母様。何を想い、何を想像し、何を考え、何を読んでいたのか。なぜ想い、なぜ想像し、なぜ考え、なぜ読んでいたのか。
お母様は自分の作品群を、私の部屋を出た後に制作していた。その姿を、私には決して見せてくれなかったけれど、それは間違いない。そのモチーフは、全て私だった。日記も、詩も、絵画も、すべては私を主題にして生み出されていた。私には興味などなかったはずなのに、私には無関心であったはずなのに…
「…分かりましたか、クラムシェル。なぜあなたのお母様が、貴女を屋敷に閉じ込め、言葉も、文字も、名さえ与えず、あなたをモチーフに作品を作り続け、日記を書き続けたのか。何のためにあなたのお母さまは、貴女の前で、この白紙の書物を読み続けたのか」
私の中で無数の『なぜ』が収斂していき、一つの絵画となって形を為し、答えとなって泡のように弾けた。その想像は私の全身を焦がし、凍てつかせ、震わせた。
お母様は私を前にして――
「――私の夢を、私に、夢を見ていたのね…」
青白橡は私が導き出した答えに小さく頷き、話し始めた。
「…あのお方は、貴女のことだけを考えていた。四六時中延々と、貴女のことだけを考え続けていた。想像し続けていた。夢想し続けていた。貴女との二人だけの理想の暮らし、理想の教育、健やかな成長、旅行、生活、食事…日記に綴られているような、素敵な想い出に彩られた美しい日々を、妄想し、夢に見ていた。そして妄想することに心を奪われるあまり、現実の貴女とふれあうことをやめてしまったのです」
そうなのだ。あの白紙の書物を読みながら、お母様は想像していたのだ。私との理想の一日を。美しい日々を。私との暮らしに夢を描き、それを想像し、笑ったり泣いたり、怒ったり、感動したりしていた。妄想の中で、夢の中で。未だ描かれていない、まだ始まっていない物語が始まることを、その物語を夢想することで、お母様の一日の大半は費やされていた。何にも記されていない、今から語られる真っ白な物語を前にして。
そしてその発露が結晶となり、作品となって制作されていたのだ。
また私の口から、言葉が零れ落ちた。
「お母様は、私を、想っていてくれたのですね。ずっと」
無数の泡がはじけ、たくさんの雫となって、私の瞳から零れ落ちた。
「ようやく、辿り着きましたね、クラムシェル」
涙でぼやけた青白橡が、満足げに大きく頷いたのがわかった。
「さあ、クラムシェル、あの物語の続きを、恐ろしくて封印してしまった、物語の続きを、貴女はこれから書くのです。
もう、あなたは知っているはずです。物語が終わっても、終わらないということを。ページを閉じても、物語は続いているということを。白紙のページにこそ、物語が存在するのだということを。どんな現実も、物語にすることで、輝きを放ち始めるということを。恐ろしい出来事も、悲しい出来事も、全ては乗り越えるべき困難になる。あなたという人生の物語の、脇役になる、演出になる、脚色になる、ドレスになる。
お母様が残した、この一冊の書物。貴女が胸をときめかせてやまない、この白紙の書物に、貴女は物語を書くのです。
わくわくするでしょう。
今こそ、忘れてしまったラストシーンを思い出すとき。そこから、新たな物語が、始まるのですから。あの日、貴女はついに、魔女から逃げ出そうとした。そうしてこの一冊の書物を持って、白亜邸を飛び出した。そこであなたは、はじめて海を――」
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