4章  ゆめとき芝居 Ⅳ 偽薬―魔女の気付け薬 ①

  目覚めると、再び病院でした。

 まさか二度も助かると、思ってはおりませんでした。奇跡が二度起きることなどないだろう、そう思っておりました。でも、私は生き延びてしまった。その後も何度か入水自殺をしようとしたものの、見張られていた私は結局、死ぬことが出来なかったのです。

 いや、私は死んだのです。クラムシェルという名の少女は、海に飛び込んだときに死んでしまった。そして生まれ変わったのです。

 だから私は名乗ったのです。私は人魚姫だ、と。

 そう、私は人魚だった、人魚姫だったのです…

 

 私は秘密が暴かれたことに、おかしなことに安堵していた。誰も私の真実を知らない、そんな圧迫感から解放されたからだろう。

 話を聞き終えた青白橡は、しばらく黙り込むと、一つの質問をしてきた。

 「クラムシェル、私がお伺いしたいのは、初めて漂着した日のことです。その出来事に関しては、貴女は未だに思い出せていないのですか。あの日、いったい貴女に、そして行方不明のお母様に何があったのかを」

 「ええ、私はあの日に関しては、思い出せないのです。あの白い部屋に閉じ込められていた私が、どういう経緯で頭部に怪我を負い、あの浜辺に流れ着いたのか、それは分からないのです。お母様が何処にいってしまったのかも。」

 これは嘘ではない。私はあの日のことを本当に覚えていないのだ。何があったのか思い出そうとしても、どうしても思い出せずにいるのだ。

 「世間では、色々な説が言われています。強盗、無理心中、愛人との共謀…貴女はどう、思っているのですか。あの、事故について。あの日、何が起きたとお考えですか」

 「さあ、興味もありませんし」

 「しかし、あなたの最愛のお母様が関わっているのですよ。未だ行方不明のまま」

 「行方不明? お母様は間違いなく亡くなっています。私と同じく、あの崖から落ちたのですよ。いまだに発見されないということは、生きていないということでしょう」

 「ほう、あなたもお母様はあなたと一緒に、崖から落ちた、そうお考えなのですね。そしてとうに亡くなっている、と。あなたは事故のことは覚えていないと言っている。それなのに、一緒に崖から落ちたことは、間違いないと確信している。それはなぜですか」

 そう言われ、私もふと思った。

 私はなぜ、お母様が私と一緒にあの崖から転落したと知っているのだろう。

 頭の奥底で、何かがキンキンと音を立てて響いているような気がしていた。

 そう、これは、思い込みではない。私は知っているのだ。確かにお母様は、私と一緒にあの崖から落ちた。理由は分からないけれど、それは間違いない。

 かつて私は、まだお母様は生きているはず、そんな期待をしていた。いや、きっと生きている、そう思っていたのだ。お母様のために、私は日記を書いていたのだから。それなのに、いつ、私は知ったのだろう。お母様が間違いなく死んでいることを。私はいつ、それを思い出したのだろう。なぜ私は、思い出せたのだろう。

 はっとして、私は気付いた。

 あれは、白亜邸に火を放ち、崖から身を投げた時のことだ。薬箱を抱えて、私は崖の下へと飛び降りた。そのとき、私は何かを思い出しかけた。何かを思い出そうとしたのだ。頭の中の音は鳴り止まず、次第に大きくなっていく。

 「そう、私はあの日、崖から落ちていく途中に、何かを、一瞬、何かを思い出しそうになった。いいえ、崖から飛び降りた瞬間にデジャブを覚えた。以前も、こんなことがあったはずだと、そう思って…」

 私は頭を振る。やはり、どうしても思い出すことができなかった。思い出せるのは、あの日初めて見た、鮮烈過ぎる青空と海だけだった。

 私がそう話すと、青白橡は質問を変えた。

 「では、貴女が探し続けていた、あの書物についてです。お母様が読み聞かせてくれた緑色の書物は、やはり幻だった、貴女はそうお考えですか」

 「ええ、さっきお話したとおり、私が思い出したあの情景は、お母様が描いた絵だったのです。あの書物もまた、絵の中で描かれた、架空の書物だった。どうりで、題名を覚えていないはず。だって、あの絵画で描かれた書物は、その背表紙がぼやけていて、文字が読めなかったのですもの」

 「それが描かれていた人魚の絵本は、薬箱と一緒に海の藻屑になってしまったのですね」

 「ええ。どうしてもあれを発見されるわけにはいかなかった。皆が知る理想のお母様のお姿が、一変してしまうのだから」

 「ではなぜ、あの人魚姫の絵本は、薬品の下に隠されていたのだとお思いですか。他の本は書架に所蔵されていたというのに、あの本だけが特別に隠され、しかも、取り出すのが厄介な場所にあった。あなたのお母様は、セイレンブルーシリーズで創作を再開してからは、薬物とは手を切っていた。重度の薬物障害から、奇跡的に回復していた。それなのに、薬品類が収められた薬箱は、早々見つからない場所に隠してあった。捨てられることもなく。彼女自身で描いた人魚姫の絵本とセットになって。その上、絵本の最後のページには、人魚姫とは関係のない、母娘の絵が描かれていた。そこには何か特別な意味があるのではないですか」

 青白橡の質問は、私にはさして意味があるものではなかった。私はあの日の記憶には興味がなかった。お母様はもうこの世にいない。お母様は、私に何の興味もなかった。愛などなかった。それ以外の事実は、私にとって取るに足りない瑣末なことでしかなった。私は億劫になり、突き放すように答えた。

 「もう、いいではありませんか。私はこのまま隔離され、虚ろな心を抱えたまま、死んだように生きていくのがお似合い」

 「なぜ、何度も入水自殺を?」

 「なぜ? さっきお話したとおりです。なぜなら、私は人魚姫なのです。人魚姫は海の泡となって消えていくものと決まっていますもの。ここは海から遠く、この庭から出ることもできないため叶いませんが、もし海に行くことができるならば、いいえ、ここから自由にしてくれるなら、私はまた、同じことをするでしょう」

 私は苛立ちながら答えると、心の中で呟いた。

 ――だって、それが人魚姫の運命。そう、私は魔女にそそのかされ、物語を語る言葉を失い、心震わせる唄を忘れ、不自由な肢で陸に上がった人魚。永遠に叶わぬ片恋に絶望し、海へと還って泡となっていくのが運命。何度読み返しても、誰が読み返しても、どの本も同じ結末、変わらぬ悲恋の輪廻に組み込まれた私には、溺死こそがふさわしい。既に私は、いや、私の物語は終わっているのですから。

 背を向け、立ち去ろうとする私に、青白橡ははっきりといった。

 「まだ、あなたの物語は終わってはいないのです…クラムシェル」

 その声に込められた意志の強さに、そして再び心を見透かされたことに、一度は背を向けた私はびくりとして振り返った。

 「終わっていない? 何が、終わっていないというのですか」

 「覚えていらっしゃいますか? 私がここを訪れた理由を」

 そういえば、この男はなんと言っていただろう。確か――

 「私は、貴女の呪いを解くためにここにやってきたのです」

 青白橡は再びその言葉を繰り返すと、笑みを浮かべて私を見つめた。

 「魔女である母親にかけられた呪いを解き、貴女に物語の続きを紡いでもらうために、私はここにやってきた。あのレポートを、いや、この物語を、こんな結末で終わらせるのは、あまりにもったいない。いや、詰まらなすぎる。

 クラムシェル、私はこうも言ったはずだ。

 あの物語の続きを読みたいのだ、と。

 今一度、繰り返しましょう。クラムシェル、貴女の物語は、まだ終わっていないのです」

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