4章  ゆめとき芝居 Ⅲ 人魚転生

 そう、私が本当に思い出すことができたのは、たった二つだけだった。お母様が目の前の本を読んでいる情景、そして海の風景だけだった。その他には、何も思い出せなかった。

 それなのに、医師たちによって記憶喪失なのだと繰り返し説明されるなかで、私はいつしか思い込むようになっていったのだ。

 私は記憶を忘れてしまったのだ、と。

 言葉を覚え、お母様の日記を読み、作品を眺め、物語に耽溺する中で、私の記憶は肉付けされていった。目の前で書物を読むお母様、という一枚の絵画を中心にして。繰り返し読み返すうちに、思い出せもしない記憶を、思い出したように信じ込むようになっていった。それが真実の記憶だと、本当の過去だと。

 修道院に通っている間もお母様の日記を愛読し、そこに描かれていた、愛情に包まれた日々の暮らしを、何の疑いもなく信じていた。今思えば、その頃ほど幸福な時間はなかったように思う。無邪気に、素晴らしい記憶を、描かれた過去を自らのものとすることが、できたのだから。

 しかし、それを脅かすものが記憶の奥底から浮かび上がってくるようになったのだ。不気味な泡のように、悪夢の呼気が深海から浮かび上がってくるのだ。

 最初はその正体が分からなかった。真っ白な悪夢が追いかけてくるような恐怖だけが、夢の残滓として残っているだけだった。

 だが私は、薄々気付いていたのだ。悪夢とは事故の記憶でもなければ、虐待されていた記憶でもない、悪夢の正体に。悪夢とは真実だった。気付きかけていた真実の可能性が、悪夢となって私を悩ませていたのだ。

 それは日記が嘘、母の作り事でしかない、ということ。

 私はその真相を頭から消し去るために、日記に、物語に耽溺するようになったのだ。物語に夢中になっている間は、その悪夢を振り払うことができた。その悪夢を頭の片隅に追いやり、意識化の深くに押し込め、他の物語で頭を埋め尽くすことで自分自身を騙し、気付かない振りを続けていたのだ。

 そして、人魚の物語が、悪夢を呼び覚ます鍵であることも私は気付いていた。その理由はわからなかったけれど、人魚の物語を読んだ夜は、決まって悪夢を見たからだ。それなのに、私は人魚の物語を読むことがやめられなかった。どうしてもその話の続きが、いや、違う物語が書かれているのではないか、そう思えてならなかったのだ。私が本当の真実に辿り付くまでは、なぜそんな気持ちになるのか、自分でも分からなかった。

 私が悪夢から解き放たれたのは、悪夢を封じ込めることに成功したからだ。どんなに記憶の奥底に押し留めようとしても、ぼこぼこと浮かび上がってくる悪夢。困り果てた私は、悪夢を物語への封印することにしたのだ。あの思い出すことのできない、恐ろしい真っ白な悪夢は、幼い頃にお母様が読み聞かせてくれた、恐ろしい物語なのだ、と。かつてのトラウマが、過去を思い出そうとするあまり、蘇ってくるのだと。

 あの真っ白な悪夢は、苛められ、こき使われ、叩かれ、無視されていた記憶。それらは物語の登場人物たちの記憶なのだ、そう思い込むようになったのだ。そうして、悪夢の新たな筋書きを創作することで、クラインの壷のような騙し絵を描き、見え隠れしていた真実のモチーフを覆い隠し、自分自身を騙すことに成功したのだ。

 それでも、様々な矛盾がノイズとなって私を悩ませ続けていた。辻褄の合わない事象、奇妙で納得の行かない点、疑問を感じずにはいられない事柄が、パズルの破片のようにくっきりと浮かび上がってくる。気を抜けば、私を一つの可能性に導こうとするのだ。

 そのノイズとは例えば、私が書き綴っていた日記。

 私が日記を書き連ねていると、拭い去れない疑念が浮かび上がってくるのだ。

 例えば、後付けでしかない過去。

 本当は私は、思い出せていないのではないか。後付で、日記や物語によって、思い出した様な気になっているだけなのではないか。

 そして、思い出せない名前。

 そう、私は何とか名を思い出そうとした。無数の名を反芻し、母の声で自分が呼ばれる場面を夢想した。でも、どんな名も、それが私のものだとは思えなかった。

 それは、どうしても見つけ出せない書物。

 どうしても見つからないあの書物が、私を焦らせるのだ。私を不安な気持ちにさせるのだ、あれは現実のことだったのだろうか、と。

 それは、失われてしまった、事故にあった日の記憶。

 あの日のことを思い出そうとするほどに、私は圧倒的な恐怖に駆られてしまうのだ。思い出そうとするほどに、ただあの海の青さだけが蘇るのだ。

 それは、あの、海をみた時の鮮明すぎる衝撃。

 海を眺めていると、胸がざわつくのだ。恐ろしいのに、吸い寄せられてしまうのだ。 

 無関係に思えた疑惑の欠片が、一つの絵図を描くのではないか、そんな恐れを、心の片隅で抱えていた。知っていながら、私は気付かない振りをしていた。それは決して完成してはいけないパズルだったから。存在してはならない一枚の絵画だったからだ。

 その絵画を否定するために、私は必死になってあの書物を探し出そうとした。あのたった一つ、間違いのない、偽りのないはずの想い出の書物を。

 お母様はあの書物を前に、私に色々なお話を、物語を聞かせてくれた。それは間違いないはずだった。物語は何一つ思い出せていないけれど、読み聞かせてくれたことだけは覚えている。

 なぜなら、思い出そうとするだけで、私はそのときの気持ちを蘇らせることができるから。思い出そうとするだけで、胸がときめいた。思い出せないことに、胸を焦がした。私はあの書物を手にしたお母様を前に、お母様の聞かせてくれる物語に耳を傾けながら、お母様と一緒になって笑ったり、泣いたり、喜んだり、怒ったりしていた。

 鮮明に覚えているあの一冊の書物さえ見つかれば、全ては証明されるはずだった。あの書物さえ見つかれば、あの書物に記されている物語さえ読めば、私の記憶は蘇るのではないか、そう期待していた。縋り付いていたといってもいい。あの鮮明に記憶している、たった一枚の母娘の情景に。

 でも、屋敷中をひっくり返しても、あの書物は何処にも見つからなかった。

 そしてあの日、私が邸宅に火を放ち、海へと身を投げた日。

 私が、人魚に生まれ変わった日。

 私はついに、見つけてしまったのだ。それは私が探し求めた、母がいつも読み聞かせてくれていた書物――ではない。それは見つけてはいけないものだった。私にとって、存在してはいけない、存在するはずのない書物だったのだ。

 その本は、巧妙に隠されていた。お母様の書斎、その書棚の裏側に設けられた場所に。おそらくそこはかつて、一族の初代の御方が、金庫を隠していた場所なのだろう。隠し小窓をあけた私がそこに見たのは、金庫ではなく、金属の薬箱だった。ついに見つけたと、はやる気持ちを抑えて開くと、そこに整然と収められたのは、薬瓶の数々と注射器だった。睡眠薬だけではない、そこに陳列してあのが、色々な麻薬の類であることを、私は直感した。そうお母様は、かつて麻薬に溺れていたのだ。そう自然と理解した。そして、本当に見つけてはいけないものは、薬箱の底に秘められていた。

 私を絶望の断崖へと突き落としたもの。私を人魚に生まれ変わらせた、魔女の毒薬。

 私から言葉を奪い、声を奪った、人魚だったときの記憶。

 それは一冊の書物だった。ぼろぼろに古びた、人魚姫の物語だった。

 私はこの本を知っている。そう思った。

 そっと薬瓶の下から引き出し、震える手でページを捲った。それは文字も何も記されていない、人魚姫の絵本だった。お母様が自ら描いた、人魚姫の物語、その絵画集だった。

 そして私は思い出したのだ。うんと幼い頃の記憶を。

 そう、私はその絵本を繰り返し読んでいた。その本だけを繰り返し、ずっと、いつまでも。幼い頃、その本しか、私は知らなかった。言葉もままならない幼い私に、その本だけしか、お母様は与えてはくれなかったのだ。

 ばらばらになっていた疑問のパズルが、その人魚姫の絵本を中心にして、音を立てて嵌め込まれていった。

 そうして私は、目を背けていた真実、一枚の絵画の全貌を知ったのだ。

 お母様は私を、あの真っ白な部屋に閉じ込めていたのだ。お母様はあの部屋で、文字も教えず、何も語らず、物言わぬ人形として扱っていたのだ。私は白いフレアルーだけしか服を持たなかった。屋敷に合ったドレスも、靴も、お母様のコレクションでしかなかった。私はそれらの服があることさえも知らなかった。

 いえ、それどころか、扉の向こうに外の世界があることさえも知らなかった。閉じ込められている、という認識すら、私にはなかったのだから。

 そう、あの日記は全て虚構の産物であり、お母様の芸術作品だった。お母様は、自分の作品にしか興味がなかった。私には無関心だった。私など見ていなかった。

 では、ではあの記憶は?

 あの、お母様が読み聞かせてくれた情景、はっきりと装丁まで記憶している書物を、お母様は話して聞かせてくれていたはずだった。あんなにもはっきりと、鮮明に覚えているというのに。あれが幻のはずはないのに。笑ったり、泣いたりしたことまで覚えているというのに。思い出すだけで、あんなにわくわくしてくるのに――

 その謎も、人魚姫の絵本に隠されていた。震える指でページを捲り続ける私の前に、見覚えのある書物が現れた、見たことのある情景が浮かび上がった。

 人魚姫が終わり、その次のページに、その情景は、確かに描かれていた。

 はっきりと、私の前で、一冊の書物を手に、本を読むお母様の姿が。

 そう、あの書物、私が探し求めた、鮮明に記憶していた書物は、存在しないものだったのだ。お母様の愛を求める私が想い続けたあの情景は、一枚の絵画でしかなかったのだ。

 お母様にとって私は、ただの人形でしかなかった。興味を失って箱の中にしまいこんだ、古びた人形だった。他のプレゼントボックスと同じ、一度開けてしまったら、もう興味を失ってしまいこみ、二度と開けられることはない。箱の中に閉じ込められた人形だった。

 私が探し求め、崇拝し、焦がれ続けたお母様は、永遠に叶わぬ片思いの偶像でしかなかった。どんなに求めて、想っても、振り返ってくれることはない。視線を私に向けてくれることはない。

 お母様、あなたは私を――愛してはいなかったのですね。

 そう、私自身ずっと分からなかった。なぜあんなにも人魚姫の物語に惹かれるのか。なぜ人魚姫の物語を読むたびに、悪夢を見るのか。分からなかった。悪夢を見ると分かっているのに、なぜ読まずにはいられないのか。

 悪夢を見るのは、人魚姫の物語が過去の記憶を刺激し、あの真っ白な部屋に閉じ込められていた、という真実が頭を掠めるからだ。それが白い悪夢となって、私を悩ませるのだ。そして、悪夢など見たくないと思いながらも、読まずにはいられない、新たな人魚姫に執着せずにはいられないのは、何度読んでも、あの結末に納得できないからだ。

 お母様が聞かせてくれた物語は、あんな結末ではない、そう思えて仕方がないのだ。そして、確かめずにはいられなくなるのだ。その、結末を。

 ではそれはなぜか。それも発見した絵本を見て、一瞬にして謎がとけた。

 私が発見した人魚姫の絵本には、文字がなかった。だから私は、あの物語を『見た』ことはあっても、『読んだ』ことはなかったのだ。そしてあの絵を見ながら私は、想像していたのだ。自ら、あの絵の物語を。

 繰り返し繰り返し読みながら、様々な空想を膨らませていたのだ。だから、他の人魚姫の結末に納得できなかったのだ。

 そして何より、他の人魚姫の結末に『こうではない』そう思ったのは、人魚姫の絵本の最後に、あの絵があったからだ。

 なぜ、人魚姫の最後に、お母様があの絵を描いたのかは分からないけれど、私はあの絵を見たのだ。繰り返し、繰り返し。他のページには、お母様の姿など描かれていない。唐突に、人魚姫の物語が終わった後、あの一枚は描かれている。絵画の中に封じ込められたお母様、それが、あまりに印象的だったのだろう。だから人魚姫の物語は忘れていたのに、あの情景だけは覚えていたのだ。

 それを私は勘違いした。お母様の愛情を信じたいがために、思い込んだのだ。お母様がたくさんの物語を読み聞かせてくれた記憶だ、と。大切な思い出だ、と。

 そう私は、真っ白な部屋に閉じ込められ、一冊の人魚姫の絵本だけを与えられて過ごしていた。そしてその絵本を何百回と読みながら、空想していた。妄想していた。色々な物語を。自分を主人公の人魚姫だと思い込み、絵本の中で、遊ばせていた。その書物の中だけが、私の世界だったのだ。

 そう、私は人魚姫だったのだ。 

 私は隠し小窓の中に、自らが密かに白亜邸に運び込んで綴っていた日記を仕舞い込んだ。暖炉の薪をその手に持ち、まずはその日記に火を放つと、屋敷中に火を放っていった。

 屋敷ごと、日記ごと、消し去らなければならかった。

 こんな結末は、許されない。お母様には相応しくない。

 お母様の日記で描かれたように、心優しく、美しいお姿こそが、お母様には相応しい。

 私は靴も履かずに、外に出た。太陽があり、青空が、海が広がっていた。裸足の感触が、思い出させた。そう、あの時と、あの日と同じだった。

 けして思い出せなかったあの日の記憶が、微かに蘇った気がした。

 そう、私はあの日、初めて果てしない海を、空を、光り輝く太陽を見たのだ。あまりの広さに、蒼さに、眩さに圧倒された。その日に何が起こったのかは思い出せないけれど、あのとき見た、海の美しさだけが、衝撃的に脳裏に蘇った。

 私はふらふらと断崖へと歩いていった。何かに呼ばれているような、何かに追われているような、そんな気がしていた。胸には、発見した薬箱を抱きしめている。中には様々な麻薬と、人魚姫の絵本が収められている。

 これが見つかれば、お母様の真実の姿が明らかになってしまう。それだけは避けなければならなかった。私の嘘が暴かれ、お母様の真実の姿が、世間に知れ渡ってしまう。

 私はお母様を守らなければならなかった。恋焦がれ続けたお母様を。

 私は人魚なのだから。人魚姫だったのだから。

 叶わぬ恋に身を焦がし続け、裏切られ、それでも憎むこともできないまま、その身を海に投げて泡へと成り果てる、悲劇のヒロインだったのだ。

 だとするならば、もう取るべき行動は一つしかなかった。どんなに異なる結末を望もうとも、物語の結末が変わることはない。人魚姫の物語は、この世に一つしかない。そのラストシーンが、永遠に繰り返され続けるだけなのだ。

 私が葬り去ってきた、可哀想な数多の人魚姫たちと同じように。

 私にはもう、泡となって海にとけていくことしかできなかった。

 尽きることのない片想いを、この胸に抱いたまま。

 海は、美しかった。そして、恐ろしかった。

 あの日と、同じように――

 私は跳躍した。

 そう、あの日も確か――何かを思い出しかけたと想った刹那、私の記憶は再び途絶えた。

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