4章  ゆめとき芝居 Ⅱ ゆめとき問答 ③

 白亜邸のクローゼットに収められた無数のドレス、アクセサリー、靴、衣装の数々。それらはぴかぴかに磨き上げられていた。まるで一度も使われたことがないように、新品同然に。そして陳列されていた。まるでコレクションのように飾られ、多くはラッピングされたまま、積み上げられていた。一度も箱を開けられることなく。

 そう、あれは貴女の持ち物ではなかった。母親のコレクションだった。

 あれらのコレクションのどれ一つとして、貴女は身につけたことがありませんね。

 貴女は何処にも連れて行かれることなく、あの岬で母と暮らしていた。あれらのドレスなど、着る機会はなかった。それなのに、あなたの母は厳選したコレクションのように素晴らしいドレスをオーダーメイドで仕立てさせ、購入していた。貴女の成長と共に、年齢ごとに、何着も。

 貴女はこういっています。お母さまがコーディネートしてくれたそれらのドレスを着て、素性を隠して舞踏会で踊ったり、演奏会に出かけた、と。

 ですが、そのような事実は何処にもないのです。日記に記されているだけで。

 殆どの衣装や靴は、プレゼントの箱に入ったままだった。美しくラッピングされた色とりどりの箱に入ったまま、開けられた形跡はなかった。

 その中に、貴女の靴は何十足も収められていた。玄関にはショウケースのように並べてあったが、貴女の靴は母親の物とは違い、使われた形跡がなかった。全てコレクションとして展示してあったのです。

 あの白亜邸のコレクションの全ては、あなたをモチーフとして揃えられていた。靴も、ドレスも、書物も、楽器も、絵画も。しかしあなた自身は、それを一度も享受することはなかったのですね。見たことさえも、なかった。貴女は真っ白なまま、あれらの色とりどりの品々を与えられることなく過ごしていた。

 そうあれらは、貴女のものではなかった。だから一度も使われることなく、開けられる前の箱のまま、仕舞われていた。

 なぜそのような奇妙なことになっていたのか。それは、あれらの箱は、貴女のお母様が蒐集してものだったからだ。

 開けられる前のワクワク、何が入っているのか、想像するときのワクワク、箱の中に詰まっていたのは、想い出だった。それは日記に記されたような貴女の思い出ではない、お母様の想い出だった。お母様のときめき、わくわくが、どきどきが、妄想の思い出になって箱には封じ込められ、蒐集されていたからだ。

 そう、全ては、貴女のお母様のコレクションだったのです。

 そして名もなきクラムシェル、貴女はこう、思っていますね。

 自分自身も、お母様のコレクションの一つだったのだ、と。

 それも、興味を失って捨てられた玩具だったのだろう、と。

 魂も心も、声も言葉も必要とされない、空っぽの人形でしかなかったのだ、と。


 白亜邸にあった楽器、レコード、お母様のコレクションの数々。貴女はそれを聴いたことも、楽器を習ったことも思い出している。日記に記されたように、私はそれを弾いた、そう話している。しかし、思い出したのは思い出だけで、貴女は譜面一つ読めず、楽器の構え方も知らなかった。思い出せなかった。何よりも、その旋律を知らなかった。

 その証拠に、習った記憶も想い出も思い出しているのに、旋律だけは思い出せていない。メロディがどのようなものか、実際にそれを聴くまでは、貴女は思い出せなかった。

 証言を遡れば、すぐにわかる。あなたは旋律に関しては、過去のように日記を読むだけでは思い出すことができなかった。旋律の題名を日記と照らし合わせるまでは、その旋律を「思い出した」と口にすることはなかった。

 だが、それは嘘なのです。思い出した気になっていただけなのですよ。

 貴女が、旋律を思い出せるはずがないのですよ。

 当たり前ではありませんか。日記には、旋律など書いていないのですから。

 日記を読んでも、メロディなど聞こえてこないのですから。

 貴女は言いました。旋律を忘れてしまった、歌うことも、唄い方も、奏で方も、忘れてしまった、と。忘れてしまったのではない。知らなかったのです。

 貴方はこう話しています。旋律を思い出した、その題名も、メロディーも、それに纏わる思い出も、と。思い出したのではない、日記に記された思い出を基に、題名と旋律を照らし合わせて架空の過去を作り上げただけなのです。旋律も、その題名も、思い出も、新たに白紙の五線譜に散りばめて構築したものなのです。

 貴方が本当に知っていたのは、あの子守歌だけだった。恐らくは幼児の頃に聞いた、忘れていた、あの旋律だけだったのです。

 子守歌を聴いて看護婦にコップを投げつけてから、医師達は貴女に新たに発症した破壊衝動に悩まされることになります。だが、実はそれは、破壊衝動などではなかったのです。

 そう、手にする色々なものを叩き壊していた。だがそれは、一般の破壊衝動のように、ストレスからくるものではなかった。あなたは笑顔だった。その笑顔に、狂気を感じたものもいたでしょうが、そうではない。貴女は快感だった。壊すことが、ではない。

 あれは…音を、出していたのですね。自らが、音を出せるということを、自らが、音をたてられるということが、発見だった、楽しかった、喜びだったのですね。

 そして、それぞれが全く異なる音をたてることを知ってからの貴女は、周囲にあるものを何でも、壁に、床に、叩きつけて壊すようになっている。それは、単なる快感を得るためではない。貴女は、壊しながら、探していたのですね。

 音、を――そう貴女の破壊衝動は、ものを壊していたのではない。

 音を、出していたのだ。旋律を、奏でてていたのだ。そうして貴女は、唄を、探していたのですね。幼い頃聞かされた子守唄を、もう一度、自分自身で演奏しようとしていたのですね。出せるだけの音を出して、再現しようとしていたのですね。

 白亜邸で唄うことを禁じられ、やがて忘れてしまった貴女は、自分が音を出せることを知って、奏でようとしていたのだ。

 それは例えば、真っ白な五線譜の上に、あらゆる音符を書き込むように、或いは、真っ白なカンヴァスの上に、あらゆる色をぶちまけるように、真っ白な日記の上に、新しい覚えたての文字を書き込むように。

 その行為自体が、貴女には、たまらない快感だった。だから貴女は、笑顔だったのだ。

 そう…貴女は白紙だった。貴女はどうしても名が思い出せない、そう言っていた。そして虚無感に陥ってからしばらくは、憑かれた様に一冊の人名事典を捲っていましたね。そこに記された名を舌で転がしてみては、違う、違う、これじゃない。そう繰り返しながら、無数の名で己を呼んでいた。そう証言していますね。その人名事典は、白亜邸にあったものだ。つまりは貴女のお母様のコレクション、蔵書の一つだった。その人名事典を、拝見させていただきました。古い人名事典で、ぼろぼろになっています。これは、貴女がひたすら眺めていたからではない。あなたが白亜邸でこの書物を見つけたときから、既にぼろぼろでしたね。幾度も読み返されたように。人名事典とはそうそう傷むようなものではない。読み込まれるような書物ではないはず。大好きな物語や、繰り返して読んでしまう物語でなければ、本はそうそう傷みはしない。

 この人名事典はぼろぼろでしたね。貴女が読み込む前から。そうではありませんか。

 それはなぜか、以前は分からなかったも知れない、しかし貴女は今では、その理由をお分かりなのでしょう。知りながら真実に口を閉ざしていますね。

 貴女は、名前を思い出せない、そう嘘をついていますね。

 本当は、思い出しているはずだ。

 ――貴女は、名を与えられなかったのでしょう。


 ああ、間違いがない――

 青白橡と名乗った男は、知っている。私の秘密に、お母様の真実に気付いているのだ。

 青白橡は喋り続ける。己の推理を、辿りついた真実を、誇らしげに、悲しげに、哀れむように。その言葉は私の過去を少しずつ暴いていく。私が上から塗り替えた絵画が少しずつ剥がされていくのを、私ははっきりと感じていた。

 「クラムシェル、お尋ねします。あなたは、こう言っていますね」

 ――お母様とは、よく海で遊んだ。母は私が波打ち際で戯れるのを、いつまでもじっと眺めていた。

 ――幼すぎて、初めて海を見たときの記憶は覚えていないけれど。お母様に手を引かれて、貝殻を集めたりしたことは覚えている。集めた貝殻は加工され、お母様が絵具の材料として使うことがあった。

 「ええ、そうよ…はっきりと覚えているわ」

 自分でも声に力がないのが分かる。無駄な抵抗だと分かってるけれど、虚勢を張らずにはいられなかった。

 「覚えているのではない。日記を読んで、そう思い込んでいるだけなのです。そして、今ではそのことにあなた自身も気付いているはず」

 黙り込んだ私に、青白橡は淡々と言葉を続ける。

 「あなたは様々な証言を残しています。お母様に関して。

 彼女がどれほど素晴らしい人間であったか、優しく、厳しく、慈愛に満ちた人間であったかという話を、鮮明に、詳細に、語るようになっています。日記に記されていないことまで、無数の言葉とエピソード群で肉付けしている。自分の視点で、自分の理想の母親像に纏わる話を繰り返し、人魚姫症候群にもふんだんに盛り込んでいる。

 それらのエピソード群は、貴女が他の無数の物語を読む中で生み出された架空の過去なのです。貴女はそれを意図的に行っていた。ありもしない過去を、物語から着想した妄想で肉付けすることで、存在を確かなものにしようとした。しかし、その中は空っぽなのだ。

 貴女は精神科医たちを、そして世間の人々を、ある方向へ誘導しようとしていた。貴女は、母親を守ろうとしたのですね。海を前に戯れるあなたを、微笑みながら見守る母親の姿を、絵画に描かれた母親の姿を、守ろうとしたのですね。人魚シリーズの特徴である、セイレンブルー。それは色合いだけではなく、慈愛に満ちた『母の眼差し』が表現されていることだ。絵画を見たものは、描かれた光景だけではなく、それを見詰める母の眼差しを体感することができる。貴女が守ろうとしたのは、そのセイレンブルーだ。

 貴女が守ろうとしたのは、世間での理想的な母親のイメージ、母親の名誉だ。

 真実に気付きながら、あなたが頑なに嘘をつき続けていることを考えると、私は畏敬の念を感じずにはいられない。しかも貴女は、自分の命を絶ってまで、母親を、そのセイレンブルーの美を、虚像を守ろうとしたのですね。

 それほどに、お母様を愛していたのですね。

 そして、あなたが隠そうとしている真実とは、その方向とは逆の方角にある。

 幼い頃より、ずっと海辺で優しい母と戯れていた、という嘘。母親がそのときのあなたをモチーフにして人魚シリーズを描いた、という嘘。

 実際には、そのようなことはなかった。

 そして、今、貴女は自分を人魚だという。海の記憶しかない、と。しかし貴女が人魚であるはずがないのです。なぜなら――

  貴女は……海を知らなかった」

 「海を知らなかった? どういうことでしょうか、意味が分かりかねます。それにあの日とは……」

 声が上ずっているのがわかる。鼓動が早くなっているのが分かる。

 「あなたも、もうお分かりのはずです。あの日とは、あの海難事故の日。

 貴女が何らかの原因で、崖を転落し、頭部に瀕死の外傷を負い、記憶を失って浜辺に流れ着いた、あの日のこと。

 あの日まで、貴女はずっと、あの部屋に、真っ白な何もない部屋にいた。物語を聞かされることも、音楽を習うことも、旅行に行くことも、文字を習うこともなく、ずっと、あの部屋で過ごしていた。あなたが覚えていた、最初に思い出した、たった一つの記憶、青い書物を読み続ける母。それだけが、あなたが記憶している過去の殆ど全てだった――」

 青白橡は、私の目を覗き込むと、決定的な言葉を放った。

 「――あなたはあの日、はじめて海を見たのですね」

 青白橡は喋り続けている。

 ――そう考えると、全ての説明が付くのです…。

 私はぼんやりとした頭でそれを聞いている。幾つもの台詞が、私の過去を、記憶を刺激し、嘘を暴き、真実を解き明かしていく。

 そして青白橡は、新たな疑問を私に突きつける。

 ――わからないのは、あの日、なぜ貴女が身を投げたのか、ということです。

 ――そう、貴女が白亜邸で探していた書物とは、一体なんだったのか。

 ――そして、あなたが見つけたものは、なんだったのか。

 ――一体何が、貴女を自殺へと追いたてるのか。

 ――何が貴女を人魚姫にしてしまったのか。

 ――そう、なぜ貴女はあんなにも人魚の物語に魅せられるのか。

 青白橡の声が私の頭で反響する中で、私は思い出していた。あの日、私が邸宅に火を放ち、崖から飛び降りるまでの出来事を。

 己が人間ではなかったのだと気付き、人魚へと転生するあの日までのことを。 

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