4章 ゆめとき芝居 Ⅱ ゆめとき問答 ②
修道院に入学してからも貴女を悩まし続ける白い悪夢、その正体とは何だったのか。レポートでは二つの説が唱えられています。
一つは、頭部に外傷を与えた崖から落ちた時の事故の記憶だという説。そのときの恐怖と痛みが悪夢となって蘇る、というもの。一方、もう一つ説を唱えているのは貴女の叔母です。彼女は白い悪夢を、あの白い部屋で母親から虐待を受けていた記憶だと考えています。母親が教育を施す上で、肉体的な折檻を行っていたのではないか、と。
この二つの説、これに対する貴女の反応もまた異なっている。
事故説に関しては、貴女はあの事故の日、何が起こったのか、未だに思い出せていない。だから否定も肯定もできない、そう無関心に医師に答えています。
叔母の唱えた母親による虐待説ですが、叔母がこれを確信しているのに対して、貴女は苛烈といってもいいほど強く反発しています。この説を直接問われたとき、貴女は逆上し、怒り狂い、逆に叔母による遺産目当ての殺害説を噂として流すほどでした。
これは母親を侮辱されたことに対する怒りから来るものだ。貴女の発した、
「お母様は優しかった。私のことを心から愛してくれていた。私のことだけを考えてくれていたわ。殴られたどころか、手を挙げられたこともない」
という台詞からも明らかだ。
では貴女が思う白い悪夢の正体とは何か。
貴女自身はこう答えを出していますね。
――お母様が聞かせてくれた、トラウマになるほど恐ろしい物語だ、と。
その話が何かも思い出せないというのに、あなたはそう結論付けた。叔母も精神科医も半信半疑でした。いや叔母にいたっては全く信用していなかった。その場逃れの嘘だと思っていました。だが二人は、納得せざるを得なかった。
なぜなら、その発言した日を境に、本当に貴女から悪夢が消え去ったからだ。
悪夢に悩まされることはなくなり、健やかな日々に戻ることができたからだ。
悪夢とは、母親による虐待の記憶でも、凄惨な海難事故の秘密でもなく、幼少期の、母親が聞かせてくれた恐ろしい物語への恐怖、一種のトラウマ体験として、貴女は片付けた。
果たして、それは真実だったのか。私は、そうは思わない。
確かに貴女の悪夢は消え去った。だがそれは、貴女が封印に成功したからだ。
貴女は自分が導き出した都合のいい答えを、真実だと思い込むことに成功したのだ。
貴女は悪夢を封印する前の時点で、半ば悪夢の正体に気付きかけている。気付きかけていながら、それを見てみぬ振りを決め込もうとしている。しかし、そのことが、あなたの精神に強い負荷をかけていた。気付き始めた真実に、自分を騙しきることができないでいた。心のバランスを崩し、このままでは精神が崩壊してしまいかねないと怯えていた。だから何とか自分自身で悪夢を封印しようとしたのだ。
そうして辿り着いたのが、あの答えだった。自分の中の葛藤に折り合いをつけ、気付いてしまった矛盾を理論的に説明するための、苦肉の答え。それで自分を納得させようとしたのだ。自分自身気付かぬ形で、己を騙し通そうとした。
今では、貴女は気付いているのでしょう。白い悪夢とは、何だったのか。悪夢の正体に気付いたからこそ、真実の記憶に辿りついたからこそ、あなたはあのような行動に出た。海への入水自殺を繰り返すようになり、そして自らを人魚だと名乗るようになった。
貴女は悪夢を見始めた当初、このように語っている。
「悪夢は真っ白なものだ」
そう、黒ではない。悪夢は真っ白なものだと証言しているのです。なぜ白いのか。そこに私は疑問を抱いたのです。
今の貴女はもう、私の言葉の意味がお分かりのはずだ。
ただ、私にもまだはっきりと分からない点が幾つかある。一つは、一体いつ貴女が悪夢の正体に気付いたのか、という点だ。
貴女は、半ば悪夢の正体に、自分の過去の秘密にうすうす気付いていたのでしょう。だが、そこからわざと目をそらそうとしていた。物語への耽溺も、悪夢は母の語った物語への恐怖だという思い込みも、目をそらすための理由付けのようなものだった、そう私は考えています。真実から目をそらすために、貴女は悪夢に別の理由付けをして自身を納得させ、悪夢を封印したのです。そう、お母様が話してくれた物語へのトラウマだ、と。
そしてまた、虚言症の源にあったのは、嘘を真実へ変換しようという想いですね。周囲へと嘘を付き、それが信じられることで、虚構が次元を超え、現実へと反映されることを、貴女は虚言症によって実験していた。嘘を現実へと転換させることで、お母様の日記を現実のものだと思い込もうとしていたのでしょう。
恐らくですが、悪夢を見始めた頃から、予感としては頭をよぎっていたかもしれない。その予感を振り払うために、その可能性から目を逸らすために、貴女は新たな現実を描き出さなければならなかった。そうでなければ、目覚め始めた悪夢に押しつぶされてしまいそうだった。
そうして描き上げたもう一つの筋書きが、母親の読み聞かせによるトラウマ、という架空のストーリーだったのです。
だからこの頃から、貴女の虚言症は、より過激に、陰惨に、淫靡になっていたのです。貴女は思い出した過去の断片を、物語に閉じ込めるようになっていたのです。
貴女は悪夢を一度は封印することに成功した。修道院での日々を謳歌するようになった。
だが時を経て、そのストーリーは綻び始める。
貴女は虚無感に囚われ、万事に関して無気力、無関心になっていった。そのことを、あらゆるものが色を失い始めた、そう表現しています。
私にもその引き金が何かは分かりません。だが、原因に関しては推測することができる。
貴女が虚無に囚われたのは、悪夢を…いや、真実を抑え込むことができなくなったからですね。悪夢の正体に、真相に気付いてしまったから、ですね。
答えていただかなくても結構。今、答えは既に、貴女の中に存在するのですから。
そう、当時、貴女の中で芽生えたのは、限りなく確かな疑惑だといってもいい。
母の語った恐ろしい物語だと思い込んでいた悪夢、じつはそれが全く異なる正体をしていることに、そのおぼろげな輪郭、その形に、貴女自身が気付き始めたのです。目を背けてはいられないほどの存在感を、貴女は感じ取っていたのです。
貴女はこの頃、こう証言しています。
「日記を書く気力も失せてしまったわ」
あれほど執着していた日記に対するこの台詞から、私は考えます。虚無に囚われる切っ掛けとなったのは、貴女がつけていた日記ではないか、と。貴女はずっと日記をつけていた。それをその時期にやめてしまっています。世界が色褪せてしまったから、日記をやめた。付ける気力がなくなった。そう話しています。
だが、それは逆だったのではないですか。
悪夢から解き放たれてから、貴女は毎日、欠かすことなく日記をつけていました。母に捧げるために、いつか帰ってくる母のための日記。そしてまた、いつかまた過去を忘れてしまうかもしれない己自身を、未来の読者として想定した日記の内容は、日々の暮らしを美化した架空のものだったのです。
その日記自体が、貴女に真実を気付かせる切っ掛けとなったのです。
日記を書いていて、貴女の中で、一つの疑念が生まれた。
その疑念とは、このようなものだ。
「お母様も自分と同じように、日々を美化して記していたのではないか」
そう、貴女はお母様が記していた日記そのものに、疑念を抱いてしまった。
――あそこに記されていることは、果たして本当のことなのだろうか。
その疑念を抱いたあなたは、日記を書くことをやめてしまった。日記を書けなくなってしまった。なぜなら、書けば書くほどに、虚しくなっていくからだ。
書けば書くほどに、薄ら寒い思いに駆られるからだ。
この当時、貴女はこう証言している。
「全ての物語が、言葉が、文字が、旋律が、色あせて無意味なものになってしまった。世界が、輝きを失くしてしまった」
貴女は気づいてしまったのだ。
――あの日記は、虚構の物語なのではないか、と。
最初から、母親の日記に書かれたことなど、すべてが作り事だった。全部、貴女のお母様が妄想の中で作り上げた絵空事、架空の物語だったことに。
貴女は文字が読めなかった。だから、自分で書物を読むことができなかった。お母様が読み聞かせてくれる物語に耳を傾けることしかできなかった。
しかし貴女は、お母様が聞かせてくれた物語を一つも覚えていない。思い出すことができなかった。思い出した振りをしていた。思い出したと思い込んでいた。
貴女のお母様は――物語を読み聞かせてくれたことなど、ないのでしょう。
真っ白な悪夢の正体……それは虐待された過去でも、事故の記憶でも、お母様の物語へのトラウマでもない。
それはあなたが白紙である、という真実だ――
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