4章  ゆめとき芝居 Ⅱ ゆめとき問答 ①

 青白橡の言葉に、私は魅入られたかのように耳を傾けている。彼の声が、言葉が、私の感情の海に漣をたてるのだ。もしかして、この人は知っているのではないか。私の秘密、私が隠し通している嘘を。気付いているのではないか、誰も気付くことなかった真実に。

 「ご存知ですか? 名もなきクラムシェル。名のない病は存在しないのと同義だ、ということを。この世には数多の病があり、名を与えられている。しかし多くの病が、原因不明のまま名も与えられず、未だ病だと認められていない。そんな無名の病の行き着く先は、狂人、狂言、嘘つきというレッテルだ。

 己の病に自ら名を付けた貴女は、こう話していますね。

 ――人魚姫症候群という名を自らに与えたとき、私は快感を得たのだ。名を失ってしまった自分にとって、その病こそが、自分を自分たらしめている自我、アイデンティティなのだから、と。

 医師たちはそれを認めようとはしなかった。治療法も分からず、その病の病因を突き止めることもできなかった。愚かなことです。病名もない病を、治療することができるはずもないのです。たとえそれが、この世に存在しない、架空の病であっても、名を与えさえすれば、その原因を突き止め、治療することが可能であるというのに。そのことに彼らは気付きもしない。自分達の現実の範疇で、幻想を幻想だからと否定して、認めようとすらしない。

 病名とはいわば、物語の題名のようなものなのです。

 題名などなくとも、確かに物語は存在しているはずだ、だが、その題名がなければ、物語として認められることはない。たとえその名が単なる記号のようなものであったとしても、その記号自体には、何の意味もないのだとしても。

 世に流布された、『人魚姫症候群』という題名の物語…それはいまや世界に蔓延し、世の女性達を感染させている。共感した女性達を中心に、新たな罹患者を出し続けている。彼女達は皆、その物語に、病に陶酔してしまった人々だ。特定の治療法はなく、それぞれがそれぞれの環境の中で、周囲の助けを借りて克服するしかない、奇妙な架空の病です。

 名もなきクラムシェル、貴女はその原種だ。嘘偽りなく、貴女が感染源だ。

 貴女に纏わるレポートを渡された私は、『人魚姫症候群』と読み比べてみました。二つは全く異なる物語だ。私は幾つもの疑問を持った。様々な矛盾、辻褄の合わない箇所、相反する事実があった。そして気付いたのです。レポートの中で、貴女が途中から意図的に嘘をついていることに。その嘘で美麗な絵画を描き、それを世間に知らしめようとしていることに。美しく描かれた絵画の背後に、ある真実を隠そうとしていることを。そう、絵画の上に全く違う絵画を重ねて描くように」

 青白橡は再び言葉を切って視線を私へと注いだ。私はその目を逸らすことができずに、身動きも取れずにいた。

 「名もなきクラムシェル、貴女はとうに真実に気付いているはずだ。だが、あえて嘘をつき続けていますね、そしてその嘘を、信じ込もうとしてる」

 「私が嘘を? どんな嘘をついているというのですか。私が、何に気付いていると…」

 「あの人魚姫症候群という物語は…クラムシェル、貴女が書いたものですね。

 あの物語は、それまでに記した日記と、貴女が密かに蒐集していた、貴女自身に関する記事、報道等をもとに仕立て直した貴女の創作物だ。そして元となった日記は――そこには、貴女が綴った日記だけではなく、数多の記事がスクラップされていたのでしょう――燃やして、しまったのですね。白亜亭と共に。オリジナルを消し去ることによって、あの架空の物語を真実にするために。それはまるで、貴女のお母さまと同じようだ。無数の失敗作、習作はすべて燃やし尽くし、完成品である物語だけを日記として仕立て直していた、貴女のお母様と、同じ行為です。

 その物語を、記者に連絡を取って渡したのですね。その理由も、分かっています。

 あれは、貴女が母の名誉を守るため、母への想いを、憧れ、理想を貫くために記した、仮初の記憶。壮大な片思いの記録だ。世間に対して、全ての嘘を真実へと変えてしまうための架空の物語だ。

 そして貴女が名付けた人魚姫症候群という病…その病因は、魔女にかけられた呪いだ。

 ――魔女とは…貴女の最愛のお母様だ」

 青白橡の言葉は、遠雷のように私の耳に響いた。何処か遥か彼方から、しかしはっきりと私の心を貫いたのだ。 

 「私はその呪いを解くためにやってきたのです」

 青白橡は、ゆっくりと諭すように語りかけてきた。

 「それでは、一つずつ、貴女の嘘を暴いていって差し上げましょう」 


 まずは、最初の嘘だ。貴女は脳障害によって、殆どの記憶を失い、更にそれに伴って言語分野の能力も失っていた。文字を読めず、書けず、こちらの言葉も理解できず、当然、喋ることもできない状態だった。

 医師たちはそれを一時的な記憶喪失なのか、或いは脳の損傷によって言語領域を傷つけられたものなのか判断できずにいた。

 右往左往した治療法のカルテを読んでみると、医師たちが言語を『思い出させよう』という方針から、『もう一度覚えなおさせよう』という方へ方針転換しているのが分かります。

 貴女はしばらくすると、言葉を思い出し、少しずつ喋り始めた、とある。だが喋ること、聞くことに関しては回復は早かったが、文字の読み書きにはかなり時間がかかり、覚え直すための訓練を必要とした、とある。

 ここで一つの疑念が浮かぶ。言葉を話すことにはそれほど時間が掛からなかったのに、なぜ文字の読み書きには時間がかかったのか、というものだ。失っていた記憶を取り戻したというのなら、喋ること、聴くことと、文字の読み書きは殆ど同時に回復するはずだ。

 結局、言葉も文字も取り戻した後で、彼らはこう結論付けている。記憶障害と言語喪失症の両方の症状を合わさった、未知なる脳領域の機能障害だ、と。

 が、真実は違う。この奇妙な点は、そんなありきたりの病名で片付けるには早急に過ぎる。そして答えは別段難しいものではない。いたってシンプルな解答だ。

 文字を忘れたのではない。

 貴女は事故に遭う前から、そもそも、文字を読むことができなかったのです。

 貴女は文字を、教わらなかったのです。


 さて次に重要な点は、貴女が最初に思い出したという記憶だ。

 真っ白な部屋で、お母様が椅子に腰掛け書物を読み聞かせてくれている、というシーン。

 貴女は最初、こう証言しています。

 「ママはいつも、わたしのまえで、ここにすわっていたわ。そう、ほんをひらいていた。あおいほんを。それをいつもよんでいた」

 そう。お母様が読み聞かせてくれた、とは、この時点では言っていないのです。それが、時間と共に少しずつ変わっていくのです。

 「お母様が青い本を読んでいるのをみていた」から、「お母様が青い本を読んでくれた」となり、さらに、「お母様が書庫にある色々な本を読み聞かせてくれた」となる。そして、「大きくなってからは、自分でたくさんの本を読むようになった」そう、変化していく。

 だが、その証言の時点では貴女はまだ物語を思い出してはいないのです。日記の内容に関しても、全く覚えていない。そんな貴女が、自分の名をクラムシェルと定めてから、初めて読む物語の数々に、没頭するようになる。そして母親の日記も、物語と同じように繰り返し読むようになる。

 「お母様がこの物語を話してくれたことがあった、日記に書かれていた出来事が、確かにあった。この物語を確かに以前、自分も読んだことがあった」

 貴女がこう話し、本格的に過去を思い出すようになるのは、人魚姫との邂逅を経て、悪夢に魘されるようになってからだ。このことから考えると、記憶が蘇り始めたのは、白い悪夢が引き金になったからだと、誰だって思い込んでしまう。

 だが、そんなはずがないのです。なぜなら、先に話したように、貴女は文字を読むことができなかったのだから。だから、貴女が、自分自身でたくさんの物語を読むようになった、ということは起こりえない。その過去を思い出したというのは、錯覚に過ぎない。

 そう、貴女は、記憶を思い出してなどいなかったのです。自分自身、思い出した、そう思い込んでいただけなのです。

 この点に関しては、人魚姫だと名乗りだしてから、貴女自身がそう話しています。無論、医師たちがそれを否定していますし、注目さえしていない。人魚姫だという妄想と同じ類のものだと、一緒くたにして考えているからです。

 だが、この二つは全く違う。

 実は、この医師の混同は、頭の良い貴女が意図して行ったことだ。

 貴女は自分は人魚姫であり、クラムシェルではないという妄想を事あるごとに口にし、その上で、過去の記憶を「自分のものではない」「思い込みだ」そう説明している。

 さらに、貴女はこう話している。

 「本物のクラムシェルは、海で死んでしまったわ。だから、私が覚えているはずがないのよ。彼女とお母様との過去を。私が覚えているのは、人魚であった頃の、海の記憶だけ」

 これはカモフラージュだ。貴女が自分を人魚姫だとしきりに口にするようになったのは、ある真相を隠すための、嘘なのです。

 人魚姫というあからさまな嘘に、真実を紛れ込ませることで、その両方を『妄想』だと医師達に思い込ませたのです。そして、妄想で真相を覆い隠そうとした。

 日記の過去は自分の物ではなく、そう思い込んでいただけだ、というのは、妄想ではなく、真実なのですね。

 そうして覆い隠そうとした真相とは、貴女が日記に書かれていた過去など一切経験しておらず、母親から何一つ教わっていなかったという事実です。

 

 こうなってしまったのには、医師による勘違いも影響しているのです。

 文字も読めず、記憶自体を失っていた貴女に、彼らは何とか説明しようとしたのです。

 あなたは、記憶喪失なのだ、と。すべての記憶を、頭部の怪我によって失ってしまったのだ、と。日記に書かれているような素晴らしい日々を、あなたは過ごしてきたのだ、と。

 そう繰り返される中で、過去を思い出す前から、貴女は彼らの言うことを信じ、思い込んでしまったのです。

 私は過去を忘れてしまったのだ、と。

 貴女は記憶喪失だという思い込みの元に、母親の日記や物語を下書きとして、過去を思い出していくことになる。確かに、貴女は記憶を失ってはいたのです。だが、本当は、貴女は思い出してなどいないのです。物語のことも、日記に記されていたことも。思い出したと、思い込んでいただけなのです。

 そうなった理由は、もう一つある。白い悪夢です。

 貴女が記憶を思い出すようになったのは、白い悪夢を振り払うため、白い悪夢を、塗り替えるためだ。白い悪夢は引き金ではなく、標的であったのでしょう。

 お母様が聞かせてくれたお話し、自分が大好きだった物語、繰り返し読み返した書物、お母様の日記に記された想い出の数々、自分が思い出した想い出の数々…それらに没頭し、それが現実だと思い込むことで、白い悪夢を、偽りの記憶で描きなおそうとしたのです。そうして、目覚めかけていた白い悪夢を封じ込めようとした。

 その当時は、あなた自身も気付いてはいらっしゃらなかったでしょう。無自覚に自分を騙していたのでしょう。思い出した、そう、本心から信じていたでしょう。それほどに、白い悪夢はあなたにとって不都合なものだった。

 では、そこまでして消し去りたかった白い悪夢とは何か。

 そこにこそ、真実はある。今では全てに気付いている貴女が、ひた隠しにする、暴かれてはならない秘密がある。

 ――貴女は白い悪夢に関して、大きな嘘をついていますね。

 私達を欺き、そればかりか自分自身をも騙しきるための巧妙な嘘を。

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