4章  ゆめとき芝居 Ⅰ 禁じられた色

 私がその男と出会ったのは、病室を出て庭園を歩いている早朝のことだった。

 私と医師以外誰も立ち入ることの許されない箱庭を、朝のその時間に散歩をするのが私の日課だった。朝靄がその先にある有刺鉄線を隠してくれるような気がするからだ。

 主治医兼庭師を務めていた医師が辞めてから、美しかった庭は少しずつ荒れ、既に廃園になっていた。でも私は、その少しずつ荒れ果てていく様を眺めるのを気に入っていた。病室を訪れるのは小間使いや給仕人だけで、彼女達も私の監視役として雇われた者達だ。

 そんな来客の絶えて久しい廃園で、僅かな気配、空気の揺らぎを感じたのだ。そくりそくりと足音も聞こえ、近づいてくるのが分かった。私は耳を澄ませ、音のする方角の靄へと目を凝らした。

 現れたのは、白衣を纏った老人であった。頬は病的に痩せこけ、黄色い肌は日に焼けていた。後ろに束ねた黒髪が、年齢に比して滑らかで艶のある美しさを放っていた。白衣もシャツも真新しく、卸し立ての様に真っ白だった。一目で東洋系であることが分かった。

 あなたは誰?

 そう問いかけようとすると、老人は微笑みを浮かべて話しかけてきた。

 「あなたが人魚姫症候群の感染源、囚われの人魚姫、ですね」

 戸惑う私に、老人は自分を医師だと説明した。

 「…という訳で、前任の主治医が都警に捕まったため、貴女の後見人であるセレスタイン様に依頼された、新任の精神科医です。最初に病室を訪れたのですが不在でございましたので、この庭園にいるだろうと考え、病室の出入り口からこっそり忍び込んだのです」

 「しかし、そのような話は、誰からも聞いておりませんが」

 「でしょうな。実は私が赴任するのは、一週間後の予定なのですよ。資料の読み込みに時間を与えられたものですから。ところが、重要な資料は殆ど読み終えてしまったのに、まだ時間があった。そして私は、資料を読み込んでから一週間も待つことができなかったのです。どうしても早々に貴女にお会いしてみたくなったのです」

 「まあ、それはいったいなぜ」

 「依頼を受ける際に資料と共に一冊のレポートをお預かりしまして。ええ、前任の担当医が資料を基に纏めたものですよ。実に上手く纏まっておりまして、大分手間が省けました。それを資料と併せて読んでみて、どうしても気になることがあったのです。そのことを考えるといてもたってもいられなくなりましてね。一日でも早く貴女とお会いしたい、会ってお尋ねしたい、そう思うと、夜も眠れなかっとほどです」

 「それではまるで、あなたが精神病患者のようですね」

 「いや、物語の続きが気になって寝付けなくなる少年のようなものです」

 老人は寂しそうに笑うと、視線をじっと私に向けた。その黄色く濁った瞳は、どこか哀れみを感じさせる弱々しいものだった。いや、哀れまれているのは私かもしれない。そんなことを考えると、久方ぶりに胸がざわざわとするのを感じた。

 次の言葉を待ったが、老人は沈黙を保っていた。まるで観察するかのように、じっと私の様子を窺っていた。その眼差しが、私に沈黙を破らせた。

 「…そう、ですか。しかし私が知っていることは全て、お医者様にお話ししてしまいました。もう話し尽くして、資料やカルテ以上のことは何もお話できないと思うのです。それに、お医者様が何人代わっても、同じような質問と説明を繰り返すばかりでこちらが飽きてしまったのです。先の知れた物語を何度も読むことほど、退屈なことはありませんでしょう。

 それに、彼らは結局、私を治療することはできませんでした。その病の原因どころか病名さえ突き止められず、その名を私自身が付けたほどです。彼らは私の名を思い出させようと、薬物療法から催眠術まで使用しましたが、何も成果は上げられなかった。

 ――全く退屈な方々ばかりで、皆様の名さえ、もう忘れてしまいました」

 「そういえば、まだ、私の名を名乗っておりませんでしたね」

 「結構ですよ。あなたも他の方々と同じ、どうせ忘れてしまうのですから」

 「そんなことはありませんよ。私の名は少々変わっておりましてね。一度聞いたら忘れられない、そんな名なのです」

 忘れられない名――その言葉が、私の弛緩した好奇心を刺激した。

 老人はどこか楽しそうに、私を見ながら微笑んでいる。私がその名を聞き返すのを待っているのが分かった。

 「忘れられない? へえ、どのような名なのですか」

 「それでは、お教えして差し上げましょう」

 老人は演技染みた仕草と言葉でもったいぶると、こう答えた。

  ――私の名は、アオシラツルバミ、というのです。

 「なん――ですって?」

 発音ははっきりと聞えたが、その奇妙な語感の名に私は聞き返さずにはいられなかった。そして僅かにだが、久しぶりに心を動かされていた。

 老人はくすくすと笑いながら、もう一度、ゆっくりと、一音一音を言い聞かせるかのように、自分の名、アオシラツルバミを繰り返した。

 「嘘、でしょう。私の興味を惹くための。そんな奇妙な名など聞いたことがありません」

 「そうでしょう。自己紹介をするときなど、決まって誰もがおなじような台詞を口にしますな。あなたも同じで、少々興ざめですな。クラムシェルなどという妙な名をご自分に付けるほどですから、共感していただけると期待していたのですが。もちろん、嘘などではございません」

 「クラムシェルが奇妙な名だとは思いませんよ。由来がありますもの」

 「でしたら私も同じです」

 そういうと、老人は私の名の由来を聞くでもなく、自分の名の理由を話すでもなく、再び沈黙に入った。私は仕方なく、自分から話しかけた。

 「確かに、一度聞けば、耳に残ってしまう名ですね」

 いつもならば沈黙に耐えるのは医師のはずであった。退屈な問いに、決まりきった答え、無関心を示すことで、大抵の医師は言葉の接ぎ穂を失っていくのだ。それがこの男には会話のペースを握られていることに、私は気付いた。私は老人に反論せざるを得ない気持ちになっていた。

 「しかし、耳には残りますが、すぐに忘れてしまうのではありませんか」

 「それが違うのですよ。私の名を教えると、誰もがその名を、上手く発音できるか、イントネーションがあっているのか、確認しながら、口にしてみるのです。頭の中でそうすることもありましたが、殆どみなさん、私に何度か訂正を受けながら、その名を実際に声に出して反復なさいます。おかげで、初対面なのに、印象に残って、忘れられなくなるのですよ」

 「確かに、不思議な音の組み合わせは、まるで遠い異国の、別の世界の言語のようです」

 「流石ですな。実は、実際にそうなのですよ。私が東洋系であることはお気づきでしょう。私の名は、遠い昔に滅びた、東の故国の言語、その言葉なのですよ。今となっては、その言語を喋れるものは少なくなってしまいましたが、私の母はその血の流れを汲んでいるのです。ほら、この珍しい色合いの黒髪は、その名残なのです」

 そして再びの沈黙。私はペースを握られまいと、沈黙によって対抗した。口にしかけた質問を、幾度も呑み込んで、男の言葉を待った。

 しばしの沈黙の後、私の意思が伝わったのか――或いは、心の内を覗き込んだのか、アオシロツルバミと名乗った医師は、苦笑してこう言ったのだ。

 「どう、ですか?」

 「どう? 何がどう、だというのです?」

 即座に私は返した。

 「気になりませんか」

 「何が、ですか?」

 「気になるでしょう、気になるはずだ」

 「だから、何がでしょうか。言っている意味が…」

 「先ほどから、あなたの頭の中で、一つの疑問がぐるぐると回っているでしょう。それを私に聞きたくて、仕方がないのでしょう」

 私の言葉をわざとらしく遮って発せられた老人の質問。荒げようとしていた声を、私は飲み込んだ。

 ――見透かされている、そう感じた。

 なお動揺を隠そうとする私に、老人は私の心の内を、はっきりと言葉にして告げたのだ。

 「いったい誰が、どのような意図で、私にその名を付けたのか、気になって仕方がないのではありませんか」

 その…通りです――私のそのような言葉を必要としないほど、老人が確信を持ってその台詞を突きつけたのが分かった。老人は畳み掛けるように言葉を続ける。

 「よろしい、ではお教えしましょう。あまりじらしても、こちらが退屈してしまう。貴女のお考えどおりですよ。私の名は、私の母親がつけたもの。私のことを思って、他の誰もつけないであろう名を、世界に唯一つの名を探し出し、与えてくれたのです。

 私の母は、私を孕むずっと前から子に付ける名を考えていたのだといいます。多くの名を考えたそうですが、これ、と思えるものがなかった。実際に妊娠し、臨月になってからも、姓名判断を駆使し、また占い師達に大金を積んで、名の候補を幾つも揃えていたのです。しかし、どうしても、名を決めることができなかった、自分で考え付くものも気に入らず、また他人が考えたものから選ぶこともできなかった。

 何と私は、生まれてからも半年以上、名がなかったほどです。

 ええ、分かりますよ。おっしゃりたいことは、母は常軌を逸している。彼女は不思議な人でしてね、私が半年以上名なしでいたことについて後に尋ねると、あっけらかんとして言いましたよ。

 ――名を考えることそのものが、楽しかったのよ。

 そう、母は夢想家だったのです。それは私達一族の血に共通する因子なのかもしれませんが。我が一族は、己のルーツや根源といったものを非常に大切だと考える血筋なのです。故国を失ってより土地を持たず、移民として流れ流れて散らばった歴史を持つ私達一族は、亡国の血族という血脈の流れで、自分たちを捉えるところがあります。そのせいでしょう。

 私達の一族はみな夢想家であり、空想好きが多い。母も一族の常で、私を孕んでいる間は、一族の友人達が持ってきた分厚い人名事典などを積み上げて、それらを読んでは微笑んでいたそうです。どの名を付けようかとワクワクしながら、まるで、物語を読むように。

 最後は、遠い地に住む一族の最長老の所まで私を連れて旅をし、実際に赤子であった私を見せたそうです。母は長老との会話でもその名を決められなかった。長老の与えようとした名を、それではない、そう言って拒んだ。

 しかし母は、その地で一冊の書物に出会った。滅びた故国の言語を伝えるぼろぼろの辞書でございます。その分厚い書物の膨大な言葉から、母はこの奇怪な名を選び、与えてくれたのですよ」

 老人は懐から筆と紙を出し、そこに書き始めた。自身の名、アオシラツルバミという言葉を、別の言語の文字で。その手は震えていて、書くことに苦労しているように思えた。青白橡――何とか書き上げられたものは、文字というより複雑な絵のように見えた。ちっとも美しくはなかった。私の美的感覚から言えば、醜いといって差支えのないものだった。

 それを私に見せると、青白橡は再び私の目をじっと見つめた。言葉を促しているのだ。抗っても意味はない、そう感じた。彼は私の疑問を見透かしている。私の口からするりと言葉が零れ落ちた。

 「滅びた国の言語の名……ということは、言葉そのものに、私の知らない何か特別な意味や想いが、込められているのでしょうね」

 青白橡は私の問い満足したのか、にやりと笑みを歪めた。

 「そうなのですよ。この名、この言葉は、滅びた国の言語では色の名であったのです。その色は天然には産出しない、希少で高価なものでした。だから高貴な人間、神聖なる職のものだけが、神事や祭事のときだけ身に着けて使うことのできる神聖な色だった。だが、私の名の意味は、そういったものではない。込められたのは、そのような想いではない。

 母が話してくれたのは、その国では古来、市井のものたちには、この色を使うことが法によって禁じられていた、ということでした」

 「禁じた? 色を、ですか?」

 「そうなのですよ。今では俄かには信じられないでしょう。色を禁じる、などということを。嘘ではございません。かつて、国中にお触れが出ていたのです。この色を使ってはいけない、と。その色は、高貴で神聖な人々――民を統治する執政職や神職の人々によって独占されていたのです。ですが一部の市井の者達が、失政に抵抗するとき、理不尽な仕打ちに反抗するとき、この色のものを身につけたり、身に纏ったりして、自らの意思を示しました。やがてそれは市井の人々の風潮となって広まっていったのです。私の名は、そこから来ているのだそうです。

 禁じられた色、そして反逆の色。そのような意味があるのです。まあ私の一族は、古来より言われなき差別を受けてきましたので、それに屈せぬように、という想いが込められているのです。

 意味を知らぬ人々からすれば、ただの珍妙な名。幼い頃はからかわれたり、苛められることもありましたが、今では誇りを持っております。この名から広がる世界が、かつて確かに存在した。こことは全く異なる歴史、文化、言葉に彩られた世界が。もう滅びた国のことではありますが、母や一族の人々が語り聞かせてくれたその国へと思いを馳せることが、私を思慮深くし、心根を鍛え、苦難や危機から幾度も救ってくれた。名とは大変、不思議なものですね」

 青白橡の話に、私は聞き入っていた。すべての物語が色褪せ、意味という意味を失ってしまったはずだった。青白橡の話は、そんな私の興味を刺激し、呼び覚ましたのだ。

 青白橡は、遠くへと彷徨わせていた視線を私に戻した。

 「名もなきクラムシェル」

 そう呼びかけると再び私の瞳を覗き込んだ。

 名もなきクラムシェル――そんな言われ方をするのは初めてだった。

 私がクラムシェルという名を否定してからも、周囲の人々はその名で私を呼ぶことをやめなかった。他の名などなかったし、本当の名を思い出すこともできなかったからである。

 その言葉の奇妙な響き、意味合いに、私は頭で反芻した。

 青白橡は言葉を続けた。

 「貴女は、あのレポートを読みましたか」

 あのレポート、それが前任の医師が叔母様に依頼されて纏めた、私に関する物語のようなカルテである、ということはすぐに分かった。その医師は、レポートに記された物語で、舞台療法という治療を私に試みようとしたのだ。

 私は頷いた。

 「どのように、感じられました」

 「どのように、といわれても…よく纏まっている、ぐらいしか」

 そうなのだ。あのレポートは、実によく纏められていた。私に関して、漂着してからこの病棟に閉じ込められるまでが、色々な証言を交えながら、分かりやすく丹念に綴られていた。私はそのレポートを医師によって音読させられ、演じるように言われたのである。しかし、よく纏まっている、というだけで、物語として私に何かを響かせるということは全くなかった。医師は私に音読させながら、様々な質問を挟み、首を捻りながらそれをメモしては、後でレポートに書き加え、物語に、演技に、舞台に反映させていった。治療は結局不調に終わり、何の進展も生むことはなかった。

 「面白くは、なかったですか?」

 「ええ、ちっとも。退屈で仕方がありませんでしたわ」

 嘘ではない。物語という物語は、私にとって既に意味を失っているのだから。

 「最後まで読み終えたときは、どのような感想を抱かれましたか」

 「感想? 別段何も思いませんでした。ただ意味を失ってしまった文字を一文字ずつ読んでいくだけでしたし、そもそもあのレポートは、私がここに閉じ込められるまでを描いた物語。当の私について記されたもので、初めて読むような見知らぬ物語ではございません。それに、まさに今、ここでつまらない日々を過ごしているのですから、物語が面白いはずがありません」

 「そうですか。私とは、違いますな。名もなきクラムシェル」

 「どう…違うというのです。あなたはどうお感じになられたのですか」

 「私はね、あのレポートを非常に面白く、興味深く読みましたよ。そして読み終えた後、切実に感じたのです。

 続きが読みたい、と。

 名もなきクラムシェル…貴女はあの物語の主人公だ。私は――

 私は、どうしても、その続きが読みたくなったのですよ。あのまま終わらせてしまうには、あまりに惜しい物語だったのでね」

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