3章  色のない世界 Ⅴ 蔓延する物語

 クラムシェルが隔離病棟に閉じ込められ自らその病に人魚姫症候群と名付けてから一年が過ぎた頃、ゴシップ系の出版社より一冊の本が出版された。

 そのタイトルを『人魚姫症候群』という。作者名はなかった。

 この出版社はかねてから財閥の醜聞、悲劇のネタとしてクラムシェルの周辺を嗅ぎ回っていた版元で、様々なゴシップ本を多数出して顰蹙を買っていた。しかしこの人魚姫症候群という書物は、かつてのような二束三文の眉唾物のゴシップに留まらなかった。世間を揺るがす衝撃的なものであった。

 それは海難事故に遭い、記憶喪失になった財閥の少女を主人公にした物語であった。登場人物や固有名詞などはほぼ全てが仮名であり、或いは元の名をもじったものであったが、関係者が読めばそれが誰であるのかすぐにわかるようになっていた。

 財閥の陰謀からその身を守るため母によって隠し育てられていた少女が、遺産相続に巻き込まれて事故に遭い、母を奪われ、記憶を失い、精神を病んでいく様子が関係者による多数の証言を織り込みながら具体的に描き出されていた。

 病院、修道院、財閥、芸術各界の関係者達の証言は、ゴシップとは思えぬほど詳細で信憑性の高いものが多く、内部から情報が流出したのは明らかであった。修道院の会報、噂話、教師の日報、医師のカルテ、カウンセリングでの会話、財閥の血族や芸術評論家の裏話、企業体の数々の疑惑までが網羅され、内部事情に精通したものでしか知りえない財閥の内幕も暴かれていた。ゴシップなどに留まらない、化学薬品の人体実験、副作用隠匿、軍事産業との提携などなど財閥の悪行を暴き出す告発書でもあったのである。

 作中で財閥の後継者として引き取られて教育を受けるようになった少女は、叔母夫婦によって洗脳され自由を奪われて操られるうちに、いつしか精神を病み様々な症状に悩まされるという筋書きであった。

 主人公の少女はまるでモルモットのように様々な薬や治療法を試され、次々と新たな病名を与えられた。薬漬けにされ、薬なしでは生きていけない精神病患者にされた。しかし誰も少女の病の原因、その正体を掴むことはできず、やがて自殺未遂を繰り返すようになっていく。

 だがそれらは全て叔母を首謀者とする財閥による陰謀だと、この書物では暴露されているのだ。少女は遺産相続の陰謀によって、芸術家として隠遁生活を送っていた母ともども殺されかけた。少女だけが奇跡に助かるが、真実が明るみに出ることを恐れた叔母夫婦と財閥関係者によって精神病患者のレッテルを貼られ、閉鎖病棟に閉じ込められている、というのである。

 そこに至るまでの顛末が、無数の証言や抜粋された資料を交えながら詳細に記されているのである。

 人魚姫症候群とは、無数の医師や関係者から、

 「あなたは狂っている」

 そういわれ続けた少女が、様々な病名で呼ばれるうちに自ら自身の病に付けた名、架空の病名であった。

 この書物の中での少女は徹底して悲劇のヒロインとして描かれている。周囲から精神病患者扱いされ、数多の奇妙な症状から誰も自分を理解してくれない、分かってくれないという孤独、苦しみ、哀しみ、葛藤が描かれていた。そしてその少女の心の支えとなっているのが、行方不明となった母親の存在と、彼女が残した日記や芸術作品であった。

 登場人物の誰もが、己のエゴや勝手な妄想を少女に押し付ける様が克明に描かれているのに対し、少女の母親は美しい母親像の理想として描き出されていた。

 一方、財閥の後継者であり、少女の後見人である叔母夫婦に関しては、少女を二度も殺そうとした挙句、閉鎖病棟に監禁した人物である、というショッキングな内容であった。

 かつてその母親の日記の一部が刊行されて評価を得ていたこともあり、この書物は大きな話題になり、瞬く間にベストセラーとなった。財閥は無論、法的措置に出たものの、出版差し止めの判決が出る前に大量に売りさばかれ、判決後に店頭から回収された後も、海賊版が世界中に流通するようになった。

 これが単なるゴシップに留まらなかったのは、その内容の濃密さもさることながら、読者である女性達の心を打ったからである。購入者の八割は女性であり、その評判は口伝えではあったが熱狂的であり、誘爆的に広がっていったのである。

 いや、広まっていったというよりも、感染していった、蔓延していったといった方が近いであろう。この書物を読んだ女性達の中から、「自分も『人魚姫症候群』だ」、そう口にする人々が次々と出てきたのである。

 先にも書いたが、人魚姫症候群とは公式の病名ではない。そのような病は存在しない。そのため病因も、治療法もない。

 にも拘らず、人魚姫症候群だと名乗る患者は各地で増え続けていったのだ。先の書物を読んだ者たちが口伝えに感染していくようにして。

 事態を看過できなくなった精神医学界は、

 「そんな病は存在しない。物語を読み、それに感化されたされたものの妄想でしかない」

 そう記した報告書を公式の見解として発表し、嘘の病、詐病に騙されてはいけない、そう公表して沈静化を図ろうとした。しかし、これは病に対処する医師にしか信じられず、病の蔓延を防ぐことには、何の効果もなかった。

 物語を読んだ女性の中から、人魚姫症候群に『感染』する者達は確実に増えていくのである。それまでは何の病にも罹っていなかった健常者が、物語を読み、気付くのである。

 わたしは人魚姫症候群なのだ、わたしも人魚姫症候群だったのだ、と。

 彼女たちの言い方は様々であるが、内容はほぼ似通っている。分かりやすく言い換えるならば、こんな所である。

 「自分は他の人とは違うと感じていたが、この病に罹っていたのね。ずっと感じ続けた違和感の、その正体は、この病だったのよ」

 彼女達は、自らが人魚姫症候群であることを自覚すると、そのことを周囲に話し、一様に安心するのだという。また、それまで自分は病気だなどと思っておらず、周囲とも上手くやっていた女性達の中にも、この物語を読んでから人魚姫症候群に罹ってしまう者達も、多く現れ出していた。

 ここまで記したように、彼女たちの病因、感染源はこの書物、物語そのものであり、一般的な感染病と呼べるものでないことは明らかである。ある精神科医によれば「これは、もともと特定の精神性、精神世界、精神的な因子を持つものが、この書物を読むことによって発露する精神状態の一種」であり、また別の精神科医の表現では「新たな趣味に目覚め、その思考回路が形成されたような作用に近い」とされ、「料理や編み物、読書や散歩など、人によって趣味は様々であり、他人の趣味や、その面白さの思考過程にはそうそう己の理解が及ばないものも多い。何が切っ掛けでその趣味に目覚めたのかも、千差万別であろう。この人魚姫症候群という病は、実は病などではなく、趣味の発露と同じ精神構造だ」

 そう説明しているのである。またそれを補足する形で、別の医師はこう述べている。

 「物語によって思考の道筋が引かれていく中で、その道筋はある種の思考回路として組み込まれてしまう。それを行うことは、自分が自分だと実感することができる快感を覚える行為であり、それに伴う困難や苦痛も含め、高度な快感へと変換される。病というよりは、嗜好性と指向性の高い、暗示に近いものである」

 架空の病名は海賊版の書物と共に世界中に拡散していき、各地で新たな患者へと蔓延していった。存在しない病を簡単に治療できるはずもなく、患者数は増加の一途を辿った。その病に罹患し、自分もまた人魚姫症候群だと悟った女性達は、病棟に閉じ込められた少女に同情し、痛烈に財閥を非難した。やがて自称人魚姫症候群の女性達は繋がりあうようになり、各地で小さなコミュニティを形成するようになった。そのコミュニティは『ネレイデスの髪』という総称を名乗った頃から一種の社会運動となって活発化し、やがて病の原種である少女を、森の奥深くの病院から救い出す活動を始めるようになった。

 無論、コミュニティの下地となったのが『白亜邸倶楽部』であることは言うまでもない。

 では、罹患した女性達は一体どのような病歴を辿ったのか。多くは、少女のように症状を悪化させていくものものが多かった。妄想症や虚言症など多様な症状を経て、世界が色あせ、あらゆるものへの興味を失ってしまうのである。やがて生きる気力を失い、ついには海へ投身自殺を行うものも出て来たのである。

 この蔓延した人魚姫症候群に関しては、各地で様々な悲劇を生み出している。

 例えば、ある独裁国家では、独裁者の愛人達が立て続けに罹患し、命を絶ってしまったため、発禁書として指定された。また、夫達の間では、人魚姫症候群の物語が廻ってきたら、妻や娘が感染する前に、燃やしてしまえ、そう言われるほどに認知されていった。これらはほんの一部であるが、事件がセンセーショナルにマスコミ取り上げられるほどに、海賊版の書物は売れ続け、広まっていくという悪循環であった。

 持ち込まれた書物を中心に、人魚姫症候群は人の手と噂を媒介して広まっていった。罹患者は増え続け、『ネレイデスの髪』の支部が各地で産声を上げていった。

 精神医学会は火消しに躍起になっていたが、ひっきりになしに訪れる、或いは近親者に連れてこられる自称『人魚姫症候群』に手を焼いていた。

 学会としては病だと認めてはいないが、ともかくも治療を行わなければ、患者や親族は納得しないのだ。

 医師達は訪れた患者たちの症状を分析し、自分の行った対処法、与えた薬品、その効果などレポートにまとめ、各々で学会へと提出し、集約させた。

 各地で四苦八苦して治療に当たった医師達は、それぞれ一定の成果を挙げており、完治するものも多く現れていた。そういった女性達は、まるで憑き物が落ちたように回復しているのである。

 一方で泡のように浮かび上がる数々の症状に悩まされ、長く付き合っていくことになる患者も多く、悪化させて入水自殺によって命を落とす患者も増えていた。

 虚無感や自殺願望を抱くまでの悪化を防ぐため、情報を集約した精神医学会が医師達に出した報告書がある。

 そこに記されているのは、「まず、『人魚姫症候群』であることを認めてやらなければならない」というものであった。「この病には周囲の理解が必要であり、まずは近親者が患者を認めてやることから始めなければならない」というのである。様々な完治の例が紹介された後、報告書は結論としてこう纏めている。

 「――以上のように、この病を認めてやることによって初めて、個々によってアプローチの異なる精神的な治療が可能になるのだ」

 つまり存在しない病に、精神医学会が敗北した形になったわけである。

 財閥は内部告発の犯人を捜そうと手を尽くし、結局、隔離病棟に移ってから新たにクラムシェルを担当をしていた精神科医が、金に目が眩んで少女に関する資料や自らのレポートをゴシップ系の出版者に売り渡したのだとされた。当人は決して認めなかったが、出版者から巨額の金が医師の口座に振り込まれていることが判明し、逮捕に至った。この医師はそれまで無名であり、むしろ学会では異端とされ冷や飯を食っていた雇われ学者であったが、この事件によってその名を学会にも世間にも轟かせることになった。

 他の医師達は逮捕された医師を軽蔑し、大金に目が眩み、また悪名であれその名を知らしめることが目的の、愉快犯に近いものであったのではないか、そう分析している。

 医師本人は最後まで陰謀説を唱え、自らの潔白を主張していたが、それは黙殺された。結局、獄中で精神を狂わせ、送り込まれた刑務所病院で自殺したとされるが、真実は定かではない。その刑務所病院が財閥の所有のもので、権力者達の管轄下にあることは有名であったため、後暗い噂が流れたものの、もはや真実は分からなかったのである。

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