3章  色のない世界 Ⅳ 狂気の造形

 二人の女が対峙している。一人は、セレスタイン、そしてもう一人は、世間的には行方知れずとなっていたオブシディアン――ハリである。

 ハリは分厚いレポートを手にしながら、セレスタインに話しかけている。

 「――人魚姫症候群に関するレポート、読ませていただきました。

 ええ、貴女が依頼した精神科医は優秀だったようですね。過去の資料を基にして、とてもよく纏められていたと感じました。またクラムシェルがこの医師や貴女を信頼していることが、よく分かりました。恐らくは、劇作家でもあるこの医師が提唱する、舞台療法という斬新な治療法が、あの子の心に響いたからかもしれません。

 調べて、頂けましたか。先日お話ししたように。あの方の旅行記録を。日記によれば、あの方は娘を連れてときおり世界を旅してまわっている。二人して変装し、お忍びで、と」

 「ええ、ハリ様のおっしゃった通りでした。姉様は、素性がばれぬように偽名を使い、変装までして、世界を旅していらっしゃいました。財閥の所有する各地の別荘を、時折訪れていました。私もそのことは、疑いもしませんでした。ですが…ハリ様に言われて調べてみると、驚くべきことが分かったのです。ええ、ハリ様はお気づきなのでしょう。だから、私に調査を依頼したのでしょうから。

 幾つもの偽名を使い、パスポートを偽造しているため、旅の記録を遡ることは中々に困難でした。財閥の諜報部でなければ、無理だったでしょう。

 結果は、ハリ様の、予想通りでした…」

 そう繰り返して言い淀むセレスタインの心の内を見透かして、ハリは語り掛けた。

 「あの方は、クラムシェルを連れてなど、いなかったのですね」

 「ええ、姉様は白亜邸に暮らしながら、巧み変装しながらお忍びで世界を巡り、各地に点在するアトリエに立ち寄っていました。演奏会や絵画展、舞台、景勝地なども見て回っていたことが分かっています。日記の通りです。ですが、それにはあの子を同行させていなかったのです。日記では、あの子のために、あの子の教育のために、そう記されているのに。そして、あの子も、思い出した、そう証言しているのに。真実は違ったのです。あの子は、その場にはいなかったのです。

 恐らくあの子は、姉様が旅行している間、一人で白亜邸に取り残されていたのでしょう。そして、姉様が帰ってくるのを待ち続けていたのでしょう。

 あの子が当時、海以外の風景を、その景色を覚えていなかったのは、当然なのです。あの子は恐らく、あの岬以外の何処にも連れていかれていないのだから。あの子は、白亜邸と岬のある浜辺、そしてそこから眺める海しか知らなかったのです。

 しかし、しかしです。私には分からないのです。あの子は、クラムシェルは思い出している。姉様が旅行先で見た景色を、実際に、はっきりと思い出して、口にしています。日記に記されている以上に鮮明に。はっきりと自分で見たかのように。ではその記憶は、一体何なのでしょう。考えれば考えるほどに、分からなくなってくる。何が真実で、何が幻なのか。

 ハリ様、私に旅行記録の調査を依頼した貴女様なら、その理由がお分かりのはず。教えていただけませんでしょうか」

 困り果てた顔で問いかけるセレスタインに、ハリはほっと溜息を吐いて語りだす。

 「ええ、分かっております。いや、可能性は感じておりましたが、確証は持っていなかった。ですが、このレポートを読んで、私もようやく、その答えに辿り着いたのです。

 私もかつては日記を信じ、こう考えておりました。あの方は、私すら欺いて秘かに産み落としたクラムシェルに、白亜邸で芸術家としてのエリート教育を施していたのだろう、と。貴女はレポートに記されているように、あの方の虐待を疑っていますね。完璧主義者であるあの方に、暴力などの虐待を受けていたのだろう、と。

 それは間違ってはいない。しかしあの方の狂気は、更に恐ろしい形をしていたのです。

 あの方は、各地のアトリエに滞在し、そこで絵画作品を仕上げると、それを持って岬の白亜邸に帰ってきた。そして浜辺で母親の帰りを待つクラムシェルに、その作品を見せてあげていたのでしょう。

 そう、あの子が思い出したと言い張っている記憶とは、あの方の描いた絵画によるもの。そして母との旅行の思い出とは、語り聞かされた架空の日記を、自らの想像力で肉付けしたものなのです。

 あの方は、自らが認めた作品だけを選び抜き、クラムシェルに与えていた。絵画だけでなく、靴も、衣服も、食べ物も、音楽も、骨董も、書物も、己のコレクションだけで、あの子の周囲を飾り立てていた。

 あの外部と遮断された岬の海岸で、自らが選んだもの以外には、あの子に触れさせようとはしなかった、見せようとも、聞かせようともしなかった。世間の喧騒も、醜い造形も、穢された色も。あの子が見て、触れることができるのは、この岬と海、そしてあの方が与えた白亜邸に収蔵された一級品のコレクションだけだった。

 そうして、あの方の考える、美しい世界を構築していた。

 私も当初は、あの方がクラムシェルを、他のコレクションと同じように思っていたのだと考えておりました。ええ、セレスタイン、貴女もレポートで証言している。自分が姉様の所有物、コレクションの一つでしかなかった、と。私も、こう考えておりました。あの方にとって娘とは、美しいドールハウスの人形の一体、或いはよくできたマネキン、着せ替え人形の一つだったのであろう、と。

 しかし、そうではないと気付いたのです。

 ええ、レポートにあった、貴女が聞いた、あの台詞。

 『――この子を、私の生涯の傑作にしてみせる』

 この台詞と、あの方がクラムシェルを置き去りにして世界中を旅していた可能性に思い至ったとき、強烈な違和感が私を刺激しました。それは恐怖といっていい、想像した瞬間に全身に鳥肌が立ったほどの、狂気の可能性。あの方は、世界中にアトリエで作品を仕上げ、それ持ち帰っていた。しかし、その作品の一つとして、この世には残されていない。あの方が世に出し、現存しているのは、セイレンブルーのシリーズだけ。日記に記されているような他の作品の一切は、その一つとて白亜邸には残されていなかった。

 警察の方々はこの点を重視して、最後まで強盗説に拘っておりましたが、見当違い。

 先の台詞の意味するところを、しばらくは私も勘違いしておりました。あの方の狂気を、甘く見ていた。でも、その違和感と向き合い、その正体に気付いたとき、狂気の輪郭が朧気ながら見えてきたのです。

 クラムシェルはあの方にとって、自分の所有物、コレクションの一つというだけではなかった。母親として何より大切な…いや、芸術家として何物にも代えがたい存在だった。

 あの方は、クラムシェルを母親として芸術家に育てようとしていたのではない。

 言葉の通り、あの子を自分の作品だと思っていたのです。

 そして芸術家としての狂気に囚われ、母としての、人としての一線を踏み越えていた。

 お分かりになりませんか? 私の言っている意味が」

 セレスタインは己の想像の及ばぬ答えに怯んだ。ハリは更に畳みかけた。

 「セイレンはあの浜辺から何処へもあの子を連れて行っていなかった。そして、自らが描いた絵画だけを持ち帰って見せていた。誰とも会わせることなく、自分以外の他者から言葉を、お話を語り聞かせることを拒み、自ら選んだ物語だけを語り聞かせていた。自らが選んだ書物だけを与えていた。靴も、服も、食べ物も、その全てを、あの方の美意識に適ったものだけで埋め尽くしていた。それ以外のものは一切遮断していた。

 絵画が残されていないのは、盗まれたからではない。なぜなら、絵画は、燃やされてしまっていたのですから。あの方がクラムシェルにひとしきり眺めさせた上で、この世から存在ごと消し去っていた。なぜなら、真の美とはこの世に二つとあってはならないから。同じものがあった時点で、それは両方とも贋作になってしまうから。だから、クラムシェルの記憶にだけ残し、自ら描いた絵画は燃やしてしまっていた。そう。クラムシェルの内側にだけ唯一無二の美として残すために、消し去っていたのです。そうあの方は…」

 そして、一息つくと、澱を吐き出すように、こう漏らした。

 「あの子の中に、もう一つの宇宙を創造しようとしていたのです」

 ハリは、その言葉の意味をセレスタインが理解しようとし、何とか噛み砕き、噛みしめようとするだけの時間を与え、再び語りだした。

「――おお、何と恐ろしい、おぞましいことか。

 あの方は、彼女自身の手によって、言葉によって、旋律によって、思想によって、描かれ、奏でられ、語られ、象られる、もう一つの宇宙を――それを、あの子の内部に創造しようとしていたのです。

 あの方が描いたあの人魚の青が、あの子が海を眺める眼差しが、私に気付かせてくれた。やはりあの方は、芸術家として別次元の存在であったのでしょう。

 あの岬の断崖に一人取り残されたあの子は、あの浜辺からの光景、海しか知らなかった。そして一方で、己の内に母の手によって構築されていく景色を、物語を、宇宙を想い続けていた。果てしない海を、その向こうに思いを馳せながら、自由を夢見ていた。世界を、夢に見ていたのでしょう。

 あの方はその様子を絵画に描き、物語に投影させ、詩に表現し、旋律に乗せたのです。その狂気を孕んだ想いが、あの方にしか表現できない、セイレンブルーと称される眼差しになり、色彩になり、韻律となり、叙情となって、作品群には表現されているのです。

 あの方の狂気を思うと、私は寒気をとめることができません。そして、あの子が不憫でならないのです。

 だってそうでしょう。日記に記されてあったのは、あの方の都合の良いように美化された世界。記憶を失ったあの子は、その日記を信じているのです。日記には、旅先で共に風景を見て心を振るわせたことが記されている。しかし真実は違う。あの方は自らが心を震わせた風景を絵画に描き、それをあの子に見せていただけなのです。

 あの子の悪夢とは、折檻を受けていた記憶だけではない。あの岬に取り残され、海だけを眺めながらいつまでも母親を待ち続けた記憶。一度記憶を失ったあの子は、その暗黒の記憶を封じるために、繰り返しあの日記を読み、過去を塗りこめようとしたのです。素晴らしい絵画、風景、旋律、物語、それらは本当のことでしょう。それらは全て、あの方によって与えられたもの。しかし、あの子自身の自由は許さず、認めず、自分の作品として徹底的に管理された日々を送っていた記憶が、絵空事の日記とは異なる、恐ろしい悪夢として蘇ってあの子を悩ませていたのです。

 それでも、いじましいあの子は、記憶を失った後、日記に描かれた素晴らしい母親像を崇拝し、信じ込もうとしていた。虐待の記憶、置き去りにされていた記憶など虚構だと、悪夢だと封じ込め、日記を何度も反芻することで、理想の母親像を再構築していた。

 あの子は、母親を愛しているのです。それほど、狂おしいほどに。

 あの岬で、あの子は赤子の頃から、母親だけを世界として生きてきた。その母親を否定することなどできなかった。

 私は思うのです。あの子が、己のことを人魚姫だと思いこんだ理由は、母親への屈折した愛情ゆえ、ではないか、と。

 あの子は、虐待の記憶も、日記が虚構であることも、思い出しているはず。それなのに、それを隠している。母親を愛するあまり、母親を否定することができないがゆえに。そしてその事実を虚構の物語へと転換し、封じ込めようとしていたのです。それが、虚言症や妄想症となって発露していたのです。

 あの子が最初に記憶を失った出来事とは、間違いなくあの方による無理心中でしょう。そのこともあの子は既に知っているのでしょう。

 入水自殺を繰り返そうとする、あの子の台詞、

 『海へと呼ばれるような気がするの。波音を聞いてると、いても立ってもいられないの』

 これは、母親だけが命を失い、自分が生き残ってしまったことを悔いてのもの。だから、海へ誘われるような気がするのでしょう。呼んでいるのは、海ではない、あの子を呪縛し続ける母親なのです。

 あの子が白亜邸に火を放ち、その体を断崖へと投げ出したあの日。

 恐らくあの子は思い出したのでしょう。

 母親に無理やり手を引かれ、あの断崖へと連れて行かれたシーンを。

 そして知ったのです。悪夢が、屋敷で実際に起こった現実だったのだと。

 そして、衝動に駆られたのではないでしょうか。

 悪夢そのものである白亜邸の全てをこの世から消し去ってしまわなければ、と。

 母親が、自らの前で美しい絵画を燃やしてしまったように。その美を、その存在を、自分だけのものにするために。

 白亜邸に火を放ったあの子は、愛する母親の後を、自らも追おうとしたのです。日記に記された母親を真実だと思い込んだまま、命を絶とうとしたのです。

 あの子は、自らの母親への愛情が、永遠に叶わない片思いだと理解しているはずです。それを知りながら、自らの思い描いた理想の母親像を求め、共に命を絶とうとした母親に添い遂げようとしているのです。

 そう、永遠に叶うことのない、片思い。それこそが人魚姫のテーマであり、あの方がクラムシェルをモチーフにして描き続けた人魚の青の主題。世にセイレンブルーとして名高い、あの方にしか表現できない、美の根源なのです。

 だからあの子は、再び命が助かったとき、思い込むようになったのです。自ら思い込むように仕向けたのです。

 私は、人魚姫なのだ、と…」

 ――セレスタイン、私は貴女にお願いしたいのです。

 あの子は今、一日中ベッドで虚ろな視線を彷徨わせている。時折、微笑を浮かべ、目を閉じて反芻するように想いを嚙み締めている。あれは母親の日記を、思い出を思い返しているのです。偽りの美化された過去を、味わっているのでしょう。

 確かに監視していなければ、病院を抜け出し、海へと向かってその身を投げてしまおうとする。このままでは閉鎖病棟から出すことはできない。ですが、それで構わないのです。

 なぜなら、閉鎖病棟にいる間は、あまやかな夢を見つづけることができるのですから。日記に記された過去を反芻しながら、理想の母親との素晴らしい日々を味わい続けることができる。真実を告げることが、あの子にとって絶望以外のなにものでもないならば、それを思い出させることも、教えてあげることも、するべきではない。

 貴女にお願いしたいのは、治療ではないのです。この閉鎖病棟を、あの子にとっての安らかな楽園として欲しいのです。海から遠ざけ、醒めない夢を見続けさせるための。それが、あの子にとって幸福なのではないでしょうか。

 己を人魚姫だと思い込んだあの子の幸せは、海に還すことではない。封じ込めた真実を突きつけることではない。母を恋焦がれる夢を見続けさせることではないでしょうか――。

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