3章  色のない世界 Ⅲ 人魚姫症候群

 私はあの日も、あの子に付き添って白亜邸を訪れていました。あの子が部屋をひっくり返した後から、それを片付けていくのです。積み上げられた本を書棚に並べなおし、ぶちまけられた小物を引き出しにしまい、衣服を畳んでクローゼットに詰め、ばらばらになった靴を揃えなおしては仕舞い込んでいきました。あの子は子どものように、玩具を散らかすようにして部屋中を探し回っていたのです。これだけ探しても見つからないのなら、この屋敷にはあるはずがない。私は当にそう思っておりました。

 あの子は一つの部屋をひっくり返して探すことに満足すると、また別の部屋に移動していきました。私はあの子去った後の部屋に残り、あの子が別の部屋を散らかしていく音を聞きながら、片付けるのです。最初の頃は、あの子は探すことに満足しているように考えていましたが、繰り返すうちに、実は探すのではなく、散らかすのが目的ではないかと錯覚するほどでした。だって、一度探し飽きて片付けた部屋を、一巡りするとまた散らかし始めるのですから。その床が足の踏み場もないほどになって初めて、あの子は満足げにその部屋を後にするのです。

 ええ、その日も、いつものように黙々と片付けていました。ふと片付けの手を休めると、一切の物音が聴こえないことに気付きました。さっきまでは、あの子ががさごそと隣の部屋を引っ掻き回す音がしていたのに、それが途絶えているのです。疲れきって休んでいるのか、それとも別の部屋に移動したのかと、大して気にすることなく、また片づけを再開しました。

 しばらくして、焦げ臭いことに気が付いたのです。驚いて耳を澄ますと、ぱちぱちと微かに音が聴こえてきました。慌てて音と匂いのする方角を辿りました。階段を降りると、既に書庫は燃え盛っていました。中にはもう熱気で近づけないほどで、火は書物という書物を飲み込んで、とても消せそうにはありませんでした。

 私は、あの子を探そうとしました。書庫の奥に向かって大声で名を呼びましたが、何の返答もありませんでした。必死に煙を掻い潜って中を覗き込んでも、その姿は見当たらなかった。既に書庫にはいないようでした。

 とにかくあの子を見つけようと、幾つか部屋を駆け回ってみて、驚きました。部屋のそこかしこで火の手が上がっていて、手のつけようがなかったのです。私も早く逃げなければ、煙と炎に巻き込まれてしまいます。

 あの子の名を呼びながら走り続け、部屋という部屋を確認していきました。でもあの子はどこにもいなかった。屋敷からは、人の気配そのものが感じられなかった。

 途中で玄関を横切ったときに、あの子の靴が綺麗に揃えてあるのが見えました。外には出ていないのだ、そう判断して、もう一度屋敷の中に戻りました。

 私は焦りながら部屋を巡り、煙に咳き込みながら周囲を見回していると、部屋の窓から外が見えました。何と、屋敷の裏口から外へと続く道に、あの子の後姿が見えたのです。

 そう、裏口は岬に続いています。あの子は岬に向かって歩いていくのです。まるで夢遊病患者のようにふらふらと、地に足が着いていないようでした。

 嫌な予感がしました。

 窓を開け、体を乗り出すと、大声であの子を呼びました。声は届いていたはずですが、振り返りもしなかった。慌てて廊下に駆け出して、裏口に走りました。外に飛び出て、裸足のまま、岬へと走りました。

 あの子は既に岬の先端、断崖の際に立っていました。そして、じっと海を眺めていました。覗き込んでいるのではありません。後姿だけしか見えませんでしたが、その姿は、遠い海の向こうを眺めているようでした。

 ええ、表情は見えませんでした。しかし後姿は、怖がっているようには見えなかった。まっすぐと背筋は伸ばしたまま、断崖の淵に立っているのです。それは、姉様のあの絵画に描かれた背中そのものでした。

 ただ違うのは、その時、あの子が何かを両手で持っているようように見えたのです。ええ。確かに、胸の前で、何かを隠すように抱きしめているのが見えました。

 ええ、後姿だけしか見えていませんので、それが何かは分かりませんけれど、錯覚ではないと思います。

 知っています。あの子が、何も持っていなかった――そう話しているのは。でも確かに、私にはそのように見えたのです。

 異様な雰囲気に息を呑み、声をかけようとしたまさにその刹那でした、あの子はゆっくりと視界から消えました。何かを胸に抱いたまま、断崖から身を投げたのです。

 気が付いたときには、座り込んで、悲鳴を上げていました。恐ろしくて、断崖に近づくことができなかった。屋敷の正面に停められた車の運転手が、車体の手入れをしているときに、私の悲鳴に気付き、裏庭まで走ってきました。彼が傍らで、私の名を呼び、体を揺さぶるまで、私は腰を抜かし、へたり込んで震えていたのです。そこで、私の意識はふっつりと途切れています。

 ええ、わかりません。なぜあの子が崖から飛び降りてしまったのか。あの子が何を胸に抱えていたのかも。その表情も、胸に抱えていた物も、私には見えなかったのですから。

 まさか、あなた方はこの私を疑っていらっしゃるのですか。私が屋敷に火を放ち、遺産の継承権を我が物とするために。あの子を突き落とした…とでも。警察がゴシップ紙の噂を信じるなんて、御冗談でしょう。

 そんな馬鹿な。私は炎が燃え盛るまさにその中を、必死にあの子を探し出そうとしていたのですよ。服は焦げ、火傷もしております。一歩間違えば、私の命も危なかった。それなのに、火を放ったあの子は、私に何も告げず、一人で外に逃げていたのです。

 ええ、間違いありません。あの火は、幾つもの部屋で、同時に放たれていたあの子が放ってまわったものに違いありません。恐らく暖炉の火と、そこにくべられていた薪を使ったのでしょう。

 なぜあの子があのようなことをしたのか、私には分かりません。しかし、白亜邸は全焼してしまった。だとするなら、きっとそれが目的だったのです。何のためかは分かりませんが。あの子は屋敷を燃やしてしまいたかったのです。

 或いは――燃やそうとしたのは、屋敷ではなく、私、であったのかもしれません。あの子は、私を殺そうとしたのかも、そして罪から逃れるため、自ら命を絶とうとしたのかも。

 恨まれるようなことなど、しておりません。私はあの子に愛情と情熱を持って接しておりました。その気持ちに偽りなどない。しかしあの子は私に心を開いてはくれなかった。何か、大きな秘密を抱えているような、そんな思いがずっとしておりました。

 私が考える、あの子が私を殺そうとする動機、ですか。

 もしもあの子に動機があるとするならば、あなた方と同様に、下らない噂話を信じたからではないでしょうか。ご存知でしょう。ゴシップ紙で私は、姉殺しの濡れ衣を被せられました。今ではその娘までを殺そうとしたと疑われているようですが。

 もしクラムシェルが私に恨みを持つとするならば、それぐらいしか思いつきません。最愛の母親を殺したのは叔母である私だと、そう思っていたのかもしれません。

 ですが、これも推測でしかありません。あの子が私を殺そうとしたかどうかも、私には正直分からないのです。正直なところ、あの子が私を殺そうとするなど、とても信じられないのです。クラムシェルは不思議な子でしたし、精神のバランスを崩しておりました。いったいなぜ、あのようなことをしたのか。本当に分からないのです――。

 セレスタインの証言はまだ続くが、ここまでにしておく。

 白亜邸炎上事件の顛末について記しておこう。

 悲鳴を聞いて駆け付けた運転手によって警察が呼ばれ、セレスタインは病院へと連れて行かれた。捜索船も出されが、崖下の岩場には何も見つからなかったが、その崖の高さ、岩場の険しさから、到底生きているとは思われなかった。二度も奇跡は起こらないだろう。そう考えられていた。地元の漁師達が加わった数隻の捜索船は、当初から死体の捜索のために駆り出されたものであった。

 しかし、クラムシェルは生きていたのだ。潮が満ちていて、岩場が沈んでいたせいなのか、たまたま岩場のないスポットに落ちたからなのか、翌朝に漁師によって、殆ど無傷で発見されたのだ。それも、最初に記憶喪失で発見された浜辺とほど近い場所に流れ着いていたのである。

 全身を強打し、打撲は体中にみられたものの、致命的な外傷はおろか、骨折一つしていなかった。二度目の奇跡が起こったのである。

 発見時から素性が判明していたため、搬送されたのは、研究所であった。今回は昏睡状態に陥ることはなく、目覚めたのは半日後のことである。

 駆け付けたフォルスネイムは、目を醒ましたクラムシェルに尋ねた。

 「大丈夫ですか、クラムシェル様。貴女は自分が誰か、お分かりですか」

 クラムシェルは、ぼんやりとした表情でこう口にした。

 「ええ、分かるわ、はっきりと」

 表情を変えぬまま、ぽろぽろと涙だけを流した。そしてこう言い放った。 

 

「――私は、そんな名じゃない。私は…人魚、人魚姫なのよ」


 クラムシェルが己を人魚姫だと初めて名乗ったのは、この時である。

 それだけではない。彼女は思い込んでいたのだ。自分はクラムシェルなどという人間ではない、と。

 自らを人魚姫であると名乗った少女。見た目は紛れもなくクラムシェルに違いない彼女の言い分は、医師たちの理解の範疇を越えた内容であった。

 自分はセイレンの娘などではない。全くの別人である。そう語り出したのである。

 かつて私は記憶を失って浜辺に打ち上げられ、セイレンの娘として財閥の一族に引き入れられたが、じつはセイレンの娘などではなかった。浜辺に打ち上げられる前、自分は人魚だった。魔女の薬を飲み、人魚から人間に生まれ変わることができた。しかし薬の副作用で記憶も言葉も失ってしまい、その状態で浜辺に辿りついた。だから、そもそもセイレンという女の娘ではない、そう告白したのである。

 これは完全に強度の妄想症の発露であって、一度は克服したはずの心の病、その症状がぶり返したものと医師は判断した。そしてクラムシェルを諭したのだ。説明しながら、馬鹿馬鹿しいとさえ感じながら、こう説明した。

 あなた様はお母様と瓜二つの容姿であり、しかも以前、一度は失ってしまった記憶の殆どを思い出されている。それなのに、今になって自分は別人であるなど、ありえない話である、と。

 しかしクラムシェルはその正論を意に介することなく、医師にとってあまりにも無理やりな論理で反論している。

 「あの記憶はただの思い込みよ。言葉を覚える中で私は、あの日記を読んだ。その日記の内容を、自分のものだと思い込んだのよ。あの時は、文字や言葉も、忘れてしまっていたのではなかった。最初から知らなかったのよ。だって、私は人魚なんですもの」

 そんなクラムシェルが語った、海に飛び降りた理由は、このようなものであった。

 「人魚姫の結末は、海へ還り泡となって消えてしまうこと。そう決まっているわ。だから私もそうしたのよ」

 呆れ果て、或いは頭を抱える医師たちを尻目に、クラムシェルのこの思い込みは解けることはなかった。そればかりではない。これ以降も何度も病院を抜け出し、二度は入水自殺を試みている。

 一度目は、抜け出したことに気付いた関係者に通報され、近隣の海岸を捜索した警察官によって海に入っていったところを発見され、間一髪で連れ戻されている。また二度目は、厳重な監視を掻い潜って病院を抜け出して海岸行きのバスに飛び乗ったものの、すぐに気付かれ、停留所を降りたところで待ち構えてきた警察官に保護されている。その際は暴れて逃げ出そうとしたが、すぐに諦めて抵抗をやめている。

 そのときのクラムシェルの台詞である。

 「離して、私は海に還らなければならないのよ。それが人魚姫の運命なの。逃れることのできない永遠の結末なのよ」

 人魚を名乗るようになってから、様々な質問がクラムシェルに対して行われているが、中でも不可解な二つの点に注目したい。

 まず、白亜邸で、なぜ火をつけたのか、という問いに対し、クラムシェルは、そんなことはしてしていない、そう頑なに否定しているのである。そんなはずはないと医師が言っても、自分ではない、自分は知らない、その一点張りであった。

 そしてもう一つ、セレスタインが見たという、「胸に抱きかかえていた何か」についても、そんなものは持っていなかった。叔母さまの思い込み、見間違えよ。そう繰り返すばかりであった。

 火をつけたのがクラムシェルではないという証言は、捜査官たちの疑いの目をセレスタインと運転手にさせた。クラムシェルを屋敷ごと亡き者にしようとしたのではないか、という筋書きである。

 その疑惑によって、セレスタインの証言の「胸に抱きかかえていた何か」に関しても、捜査を攪乱しようとする彼女自身の嘘ではないかと捜査の矛先を向けられている。

 恐らくそれが、クラムシェルの描いた筋書きであったのではないか、私にはそう思えるのだ。白亜邸に火を付けたのことを否認することで、捜査官たちの目を叔母に向けさせたと推察される。そしてクラムシェルが火を付けた本当の理由は、白亜邸を燃やすこと自体が目的だったと考えられる。

 度重なる脱走、入水自殺未遂を経て、クラムシェルは再び別の病院へと移送されている。そこも財閥が運営管理する病院ではあったが、海岸線から遠くはなれた内陸地であった。世俗から隔絶された深い森の中にあったその病院は、得体のしれない疾患を抱えている(と判断された)者たちが送り込まれる研究所であった。そこには数多くの精神病患者がいたが、それぞれ特異な環境で治療という名の実験を受けていた。

 クラムシェルはその病院の隔離病棟に閉じ込められ、新たな十数人の精神科医による診察、診断、精神鑑定、カウンセリングを繰り返された。

 そうして、様々な病の可能性が探られた。しかし、財閥によって選抜された精神科医たちは幾つもの異なる説を唱え、診断を下し、鑑定結果を出している。医者によって症状の原因は異なり、全員がかつてない病だとしながら、それぞれで新しい病名を披露している。


 セレスタインもフォルスネイムも、まるで茶番劇だとその精神科医達の鑑定結果に憤慨した。精神科医たちは、自分の主張する精神分析の手法にクラムシェルお嬢様を無理やり当て嵌め、自分勝手でご都合主義の物語を空想で作り上げただけ、そうとしか思えなかった。妄想症なのは彼ら精神科医も同じではないか、そう二人には思えたのである。

 そして二人のその思いには、私も同調せざるを得ない。当時の精神科医たちのカルテを読んでいると、下らない二流どころの物語ばかりで、全く辟易せざるを得ない。

 医師たちはこの段階になっても、クラムシェルに新たな病名を付けることもできなかったのである。

 では、この奇妙な症状群に、「人魚姫症候群」という名を付けたのは、いったい誰であったのか。世に口伝えに広まり、また文字を、言葉を媒介して蔓延することになる「人魚姫症候群」という病名は、誰が名付けたものなのか。

 それもまた、クラムシェル当人であった。

 人魚姫症候群という病名は、感染源、その原種であるクラムシェル自身が命名したものであったのだ。まるで我が子に、いえ、自分自身に新たな名を付けるように、クラムシェルが胸をときめかせたであろうことは想像に難くない。

 名もなき病に自ら名を与えたことを、クラムシェルはこう話している。 

 「お医者様たちが、みんな一人ひとり、異なる病名を私に告げるのよ。まるで私に新しい名を付けるみたいに。でも、わたしがどんな名を舌の上で転がしても自分のものではないと確信するように、どんな病名も、それが私の病の名だと思えなかった。

 そもそも、それらの病名は、私がお医者様にお願いして考えてもらった名ではあるのよ。そうよ。私が皆様にお願いしたの。私を病だといってこんな場所に押し込めているのなら、その病名を教えて欲しい、と。病名が分からないのなら、病気ではないのだから、ここから出して下さらない、と。

 考えてみて下さい。病名が分からないというのは、自分の名が定かでないというのと同じくらい、不安になるものなのです。だって、病名が分からないなら、治療のしようがないのだからだから。首を捻りながら診察するお医者様達に、私は自分の病名をしつこいくらいのお聞きしたのです。

 お医者様たちは何とか自分なりの推理をして、原因を当て嵌めて新しい病名を捻り出していました。だから私に与えられた間違った病名の数々は、半ば私が催促して生み出されたものなのです。

 でも、どんな病名も、正しくはなかった。

 ええ分かります。だって自分の病名ですもの。診断結果を聞いても、それが正しくないことが、はっきりと分かるのです。何ていうのかしら、どの病名も…しっくりこなかった。ありきたりだったり、とってつけたようであったり、陳腐だったり、出来合いの造語でしかなかった。ちっとも――美しくなかった。素敵ではなかった。

 そう、一言でいえば、私にはふさわしくなかった。

 ――そうなのでしょうか。こんなことを考えるのは、おかしいでしょうか。

 でも、こんな所に閉じ込められた名前もない私には、この病こそが、私を形作っているものになる。この病こそが私自身だと言っていいぐらいに。だって、この世に私しか罹っていない病なのだもの。素敵な病名でなければ、恥ずかしくって名乗る気にもなれないわ。

 だからといって病名が分からないままでは、何だか据わりが悪くて不安でしょう。私のことが人々に語られるときに不便でしょう。第一、新しいお医者様が着任される度に同じ話をして、また新しい妙な病名を付けられることに、私はうんざりしているのです。

 だから、聞いて頂戴。私、自分で名付けることにしたのよ。

 ええ、私の罹っているまだ名前のない病に、自分で名を付けることにしたの。色々な名を考えてみたわ。とても楽しかった。そして思いついたのよ。これしかない、という名を。閃いた瞬間に確信したわ。これこそが私の病名だと。雨雲が晴れたように、すっきりした気持ちになった。いえ、それ以上ね。私は泣き出したいほどに、感動したのだもの。

 嬉しくて、何度も口ずさんでみた。その病名で、自分が呼ばれることを思い浮かべてみた。うっとりとしたわ。これこそが私の病名だと、ぞくぞくしたわ。

 単純にすっきりしたとか、安心した、といったものではないのよ。強烈な快感だったのよ。だって、私という人間の自我は、この病名の上に立っているのだから。

 不思議でしょう。自分の名は、どんな名を想像しても、当て嵌めてみても、相応しいと思えなかった。それなのにこの病名は、迷うことなく天啓のように閃いたのよ。

 聞いて下さいますか。いいえ、聞いていただきたいのです。他のみんなにも、世界中の人たちにも、この病の名を伝えたい、広めたいのです。それはね…

 ――人魚姫症候群、というの。

 これが私の病名よ。世界にたった一つだけ、たった一人だけの病の名。どう、私にふさわしい、素敵な名でしょう?」

 これ以後クラムシェルは、自分の病を人魚姫症候群と呼び、医師達にもそう呼ぶように話をしている。無論、これは医師が正式につけたものでも、公式に認められたものでもなかった。だがいつしか医師達も、この名を病の俗称として使うようになった。いわば、風邪のような症状名として、内内でこの名を認めたのである。

 こうしてクラムシェルは、入水自殺願望を持つ精神病患者として、財閥が運営する森の奥の閉鎖病棟に閉じ込められることになった。財閥の血族に列なるものとして、その待遇は何不自由のないものであるものの、病院から出ることも、許された人間以外との他者との接触も許されなかった。その箱庭のような世界で、自らの名を失ったまま、人魚姫症候群の患者として、そしてまた、己を人魚姫だと信じ、暮らすことになったのである。

 なぜクラムシェルが己を人魚姫だと思い込み、海への入水自殺願望を抱くようになったのか。これに関しては、フォルスネイムだけでなく、多くの医師によって多様な見解が示されている。だが、どれもこれも、焦点のずれたものばかりで、クラムシェルの言葉を借りるならば、「しっくりとこない」「ふさわしくない」ものであり、特記するには値しない。

 ただこの頃の医師の記録にはこう記されている。

 「クラムシェル様は病棟に閉じ込められた当初は、脱走の機会を窺っているようだった。自分に人魚姫症候群の名を付けた頃からは、閉じ込められていることを苦にする風もなく、日がな一日、ぼんやりとして毎日を過ごすようになった。あらゆるものに対しての興味を失い、色あせた灰色の世界に閉じこもるようになった。いかなる物語も、音楽も、絵画も、クラムシェルの心を動かすことはなかった。無気力、無感動、虚無感がクラムシェルを支配していった。ただ、時折、海に還りたいと、そう無表情で呟くことがあった。

 やがて虚ろな眼差しからは光が消え去り、生きていこうという意志すら感じられなくなっていった。彼女が持つ願いは、唯一つ。海へとその身を投げ、人魚姫として泡になり、その物語を全うしようという思いだけであった。だが、厳重な監視下に置かれ、逃げられないことを知ってからは、そんな素振りも見せなくなった」

 そうしてクラムシェルは、その心と体をゆっくりと弛緩させながら、確実に弱っていったのである。

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