2章  ふたつ名 Ⅵ 夢の水先 ②

 以上がクラムシェルが語った、悪夢の真相であり、正体である。といってもそれは輪郭だけであり、ではセイレンの語った物語がどのようなものであったのか、それは明らかされておらず、またクラムシェルも思い出してはいない。その必要もないと話している。

 これが正しいとするならば、医師の推測もセレスタインの推理も的外れであったということだ。クラムシェルの話を聞いた二人だが、直ぐに納得したわけではなかった。二人もまた、輪郭だけでその内実がいまだ見えない「セイレンによって語られた物語」に、釈然としない思いを抱き、半信半疑であった。

 しかし、そんな二人の疑念をよそに、この発言を境にして、クラムシェルが悪夢から悩まされることは、本当になくなったのである。

 悪夢から解き放たれたことで、不眠症に悩まれることもなくなり、睡眠薬に頼る必要もなくなった。妄想や虚言症も落ち着き、それまでの陰鬱な日々が嘘のように、以前のように快活に修道院生活を送ることができるまでに回復した。

 不安定であった情緒も持ち直し、精神のバランスを取り戻したことから、医師もセレスタインも、互いに蟠りを抱えながらも、ひとまずは安心することになったのである。

 落ち着いた日々を取り戻したクラムシェルを眺めながら、二人が気になっていたことが一つあった。悪夢から解き放たれた後、クラムシェルにはある衝動的な奇癖が復活していたのである。

 それは、人魚姫の物語の蒐集癖である。絵本や物語に関わらず、各地各国の人魚姫の書籍を、思い出したかのように買い求めるのだ。以前のように、時には同じ本を繰り返して買い求めることもあれば、数冊を纏めて買い揃えることもあった。気分によっては、店頭にあるものをごっそりと買ってくるのである。

 以前と変わらず奇妙なのは、贖った書物の処遇である。クラムシェルは一度読み終えた人魚姫の物語を、やはり燃やしてしまうのである。いや、燃やさずにはいられない、そういうのである。

 その不可解な行動に関しては、医師が本人に言及している。

 「どうして人魚姫の物語に執着し続けるのですか。それも蒐集するのではない。読み終えた端から、以前のように燃やしてしまう。今でも、捨てるのではなく、燃やさずにはいらない。そこにはどのような意味があるのですか」

 今一度記しておくが、悪夢を克服する前、クラムシェルは人魚姫の物語を燃やさずにはいられない理由について、こう証言している。

 「自分自身でも分からないのだけれど、燃やしてしまわなければ安心できなかった、燃やしてしまわなければ、不安になってしまうのよ」

 それが、悪夢克服後はこう変化している。

 ――だって、可哀想なのですもの。

 この答えに、医師は、「可哀想? 何が、ですか」と聞き返している。

 以下は、医師に語ったクラムシェルの証言である。

 …決まっているでしょう。人魚のことに。

 私はね、人魚姫を、悲しい運命から救ってあげているのよ。一匹、一匹。

 捨てられただけでは、或いは本を図書館や書店の本棚に戻してしまっただけでは、終わらない。その物語を誰かが買ったり、或いは借りたり拾ったりしてしまえば、また人の手を渡っていく。新たな所有者がその書物を読み続ける限り、人魚はあの物語の中に閉じ込められたまま、永遠に同じ物語を繰り返さなければならないじゃない。その度に、人に焦がれ、声を失い、恋に破れ、裏切られ、復讐することもできず、自ら命を落とすことになる。延々と同じ悲劇を繰り返さなければならない…。

 そんなの、可哀想でしょう。

 例えば、その本を誰にも読まれない場所に仕舞い込んだとしても、閉じ込めた物語の中で、人魚が救われることはない。いつかきっと、誰かがその本を手に取ることになる。繰り返される運命を知りながらも、人魚は待ち続けなければならない。

 それならば、燃やしてあげたほうがいい。

 いいえ、燃やしてあげなければならないのよ。人魚姫の苦しみや哀しみを知っている、この私の手で。そうすれば、人魚は解き放たれて、自由になれるでしょう。物語という輪廻の苦しみから。繰り返される、悲劇の運命から。

 

 この奇妙な発言に関しては、医師もセレスタインも、それぞれの見解を持っている。しかしどちらからも、クラムシェルを咎める、という行為が取られることはなかった。かつて日記を禁じたことによって、悪夢が頻発し始めたということがあったため、うかつなことができなかった。悪夢が消え去り、睡眠薬を手放して安らかな眠りが得られるようになったことで、よしとせねばならなかったのである。

 体力を取り戻したクラムシェルは、修道院での日々を以前のように楽しむようになった。

 かつては展翅様と呼ばれていたクラムシェルは、悪夢によって精神のバランスを崩してより、魔女の娘と呼ばれるようになっていた。そのクラムシェルが、再び修道院での権威を復活させるまでには、そう時間はかからなかった。そして、最上級生である三年次に上がった頃には、新たな二つ名を冠するようになる。

 ――人魚姫。

 こう呼ばれるに至った経緯はさほど複雑ではない。母親が残した芸術作品にちなみ、自然発生的に、そう呼ばれるようになったのである。

 セイレンブルーの人魚と呼ばれた母親、その作品群は、全てクラムシェルをモチーフにしたものであり、その印象的な青は、他の誰にも出せない、真似のできない色合いである。化学者である母親が特別な化学薬品と秘密の素材で生み出したとされる、彼女が生み出した、彼女だけしか表現できない、存在しない青。人魚の青。それが、娘であるクラムシェルのイメージと重なったのである。


 やがてクラムシェルは修道院で見事なまでの復権を遂げると、かつて纏っていた夢見がちで地に足の着かなかった頃の羽衣を脱ぎ捨て、新たな翅を生やした。その翅は、極彩色の想像力を伸びやかに広げたものであった。魔女の娘と呼ばれ、妄想症、虚言症に振り回されていた頃の毒を含んだ呪いの言葉を解くと、魔法の言祝ぎへと紡ぎなおし、軽やかに歌い上げるようになった。

 以後のクラムシェルのエピソードには事欠かないが、ここでは長くなるため割愛する。

 クラムシェルは、様々な人格、キャラクタ、役柄を演じわけ、修道院のカリスマとして君臨するようになったのだ。かつての誰からも愛されるマスコットのような存在から、修道院とその他の生徒たちを支配するような立場へと変貌した。クラムシェルは慕われ、敬われ、愛され、また恐れられるようになっていった。

 三年も半ばを過ぎると、そのカリスマ性は揺るぎないものになっていた。学業成績はトップクラス、芸術的な才能も開花し、母の再来だとまで言われるようになった。精神的な不安定さも見えなくなっていたため、周囲もヴィヴァリウム修道院を卒業後は上級のグラステラ教義院へと進学し、やがては財界や学会へと羽ばたくことを確信していたのである。

 この頃の診察記録や、セレスタインと医師の証言からも、やはりクラムシェルの完全復活が高らかに歌われ、その後の成長と非凡ならざる面を賞賛する記述が多い。人魚姫の作品を蒐集しては燃やすという奇癖は消えることはなかったが、それ以外に不安をもたらすような言動は見られなかった。精神的にも非常に安定しており、自分、というものを完全に取り戻していることが分かる。かつ自分を客観的に見ながら、思い描いた役柄で自在に立ち振る舞うことができる、舞台女優のような精神力を身につけた、そう絶賛されている。

 だが、私には気になることが一つある。

 それは、この頃のあの子が、日記をどうしていたのか、という点である。

 かつては寝不足になるまでに詳細につけていたという日記。悪夢が頻発してからは、日記を書くことに興味を失い、やめたことになっている。

 では、悪夢から解き放たれた後、クラムシェルは日記を再び書くようになったのか、或いはやめたままであったのか。そしてまた、かつて記していた日記には何が書かれ、何処にいってしまったのか。

 かつて日記を書く行為は、クラムシェルにとっていつか帰ってくる母親のための行動であり、また、再び全てを忘れてしまうかもしれないという強迫観念からくる衝動であった。

 日記に興味を失って以降、その件に関して、セレスタインと医師の記録では、触れられている箇所はない。

 だが、信頼に足るオブシディアンや使用人からの密告で、幾つかの事実が判明している。

 まず、日記は間違いなく書き続けられていた、ということ。

 なぜなら、クラムシェルが新たな日記を数回にわたって購入していることが確認されているからである。

 日記のタイプは、領収書の記載からすると、全て同じ種類のものである。

 私は同じものを取り寄せてみたのだが、日付ごとにページが分けられたものではなく、殆ど無地に近い。日記というよりも、薄いノートといった体裁のものであった。

 ノートの枚数と日記を買い足す頻度から逆算すると、クラムシェルは、一日にかなりの分量を記していたものと考えられる。それも日を追うごとに、日記を買い足すペースは上がっているのが、購入履歴からは分かる。だが、更に領収書の日付を追ってみると、今度は逆に、ペースががくりと落ちていくのである。つまり、日記を書く分量がどんどん減っている、ということである。

 そして三年次の半ば、日記の購入履歴の最終日から程なくして、再びクラムシェルの精神状態は大きく変化し、また新しい症状に悩まされることになる。それはセレスタイン、フォルスネイムの両者の記録からも如実に分かっている。しかし、愚かなことにこの二人は、クラムシェルの日記には着目していない。

 再び奇妙な症状に陥ったクラムシェルがあの悲劇を起こすのは、日記を最後に購入したと思われる日から、四ヵ月後のことである。事件の四カ月前に、それまではペースを落としつつも買い足していたのが、ピタリと止んでしまっている。日記を書かなくなった、そう判断して間違いないであろう。

 以上のことから、クラムシェルの精神状態と日記とは密接な関係にあることは、明らかである。では、その日記には何が記されていたのか…あの子は日記に何を記していたのか。日記が失われてしまった今となっては、それはもはや当人にしか分からないことである。

 さて、物語はこれからいよいよ佳境に入っていく。

 次に綴られるのは、クラムシェルが再び精神のバランスを崩し、白亜邸へと火を放って断崖から投身自殺を図るまでの顛末である。

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